ゲシュタルトセラピーと「キレる私をやめたい」について

ゲシュタルトセラピーは自分の気づいていない内面と対話するためにはいいと思う。
でも、今現在、自分を否定されていて、その反応が正常に出ている人には向かない。
たとえば犯罪や暴力を感じているとき。そのときは、楽にならずに、逃げたほうがいい。

岡田法悦さんのゲシュタルトセラピーは、常に「否定」から入って、自分の境界をゆるくさせられる感じがした。
ワークをやると、あとから答え合わせをさせられ、「それは違いますね」「過去ですね」みたいなことを指摘されるので、委縮してしまう。
安全でも安心でもない場所なのだ。

キレる私をやめたい、を読むと、普通に「いやだ」「逃げたい」「むかつく」と思うようなことを「タカちゃん」に言われている。
全然いい夫じゃない。
子育て中の女性に、子育てを任せているのに「散らかっているな」というのは、「女だから散らかすな」と言っているのであって、決して言われた側の女性が「女性役割を勝手に受け取ってむかついた」話じゃない。
田房永子さんは「自分が散らかっているという現実の指摘に、自分のヴァーチャル眼鏡をかけて反応した」という話にしているけど、全然いい話じゃない。

最終話でも「いい話」にしているけどタカちゃんの言っているセリフがひどかった。
キレなくなって聞いたことについても「キレているときは獣みたいだった」というコメントはひどすぎる。
幼児を見ていたら、穏やかではいられない。
自分が何かしているときに、幼児にまとわりつかれたらそれはむかつくだろうに「普通のお母さんだったらにこっとする」という田房さんの意見は、息苦しい。
そう思わないとやっていられない、ということが、伝わってきて、つらい。

「タカちゃん」のセリフややっていることを抜き出してみると、ただただ、永子さんを否定しているだけだ。
全然協力的じゃない。
「養ってもらっているんだからちゃんとしないと」みたいなセリフも出てきているけど家庭を二人で運営していて、家事育児の負担が片方によっているとき家にいるフリーランスの稼ぎが少ないから、という理由で自分を恥ずかしいと思う理由は一つもない。
人にやとわれている人と、自分でゼロから稼ぐ人とは、お金の価値が違う。大変さも違う種類だ。

岡田さんのゲシュタルトセラピーは、人を否定して、自己の境界線や今まで培ってきた価値観を壊して、そこに侵入してくるものだったと感じた。
言葉はすでに抽象的なもので、過去に起きたものを伝える機能があるのに、それを無視して、「現在のことを伝える言葉」だけは「正解」になるみたいなのはおかしい。

わたしも、話している最中にさえぎられて「それは違うと思う」と言われたことが何度かあった。
殺したいけど殺せない、という相手がいるという話をしたとき「殺せない……?うーん」みたいに言われたのだ。
でも、心の中ではなんぼでも殺せても、現実的に殺せない。そして、今も現在嫌がらせを受けていて、犯罪の脅威があるのに、犯罪者と同じ思考になって、「相手の言葉をしゃべってください」と言われても、わたしに何の考えもないから「わかりません」という風にしかならない。

危害を受けたときに、感じたことを、発散させて、紛らわせるセラピーは恐ろしい。
逃げられなくなる。
キレるのが当たり前のことがある場合。

「永子ちゃん」は、「お母さんといるとき逃げられなかった」というのと同じことを「タカちゃん」に対してしている。
「キレるようなことを言われる→逃げることじゃない以外のことで対応する→キレないようになる」というためにセラピーを使ったら、現在じゃなくて、過去に原因を求めることになる。
でも、今困っているのだ。

お医者さんに聞いても「病気じゃない」と言われて帰される場面があった。
「病気ですか」と聞かれたら医者は「病気じゃない」という風にしか答えられない。
「こういうことで困っている」ことがあったら、その原因から逃げるしかないと、わたしは思う。
病気のせいにしたり、セラピーを受けたりすることで「困っていること」を解消するのではなくて、今感じていることを大事にしたら「この人といるとキレるから離れよう」になるんじゃないかと思う。


岡田法悦さんと田房永子さんのゲシュタルトセラピーに行った感想

こちらは、ネガティブな感想になります。

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わたしは、田房さんのファンです。
そして、百武さんのゲシュタルトセラピーに行ったことがあります。
だから、このイベントを楽しみにして行きました。

ネガティブな感想を言いたかったから参加したわけじゃないです。

でも、正直に言って、このイベントは失敗だったと思います。

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イベントに参加してから、キレる私をやめたいを読み直しました。
そして「タカちゃん」のセリフを六帖さんに言ってもらいました。

すると、ものすごく腹が立ちました。

「この部屋散らかってる」
「うるせー」

って言われたらむかつきます。近所のAちゃんも遊びに来ていたのですが、「もし六帖さんが本当にそれ言ったら、c71ちゃんもう家出してうちにきていい!っていうね」「そうだね。もう捨てるね」「僕も嫌だ……」という結果になりました。

田房さんは理不尽に切れていたわけじゃなくて、本当にむかつくことを言われていたから切れていたんでは……。

つまり、夫婦の関係にくちをつっこむのはよくないことですが本を読みこんだ結果、不当なことをされているのは田房さんではないかと思いました。
また、警察を呼んだ下りのところでは、暴力を振るわれているのは田房さんだと思います。腕をつかまれるのは暴力です。
勝手に、模様替えをしたり、片付けをしないで、「どこどこにカラーボックスがあるのはおかしい」と言って来たり、片付けをした田房さんをほめないのはおかしいです。
六帖さんなら、出しっぱなしにしているカラーボックスがあったら片付けてくれるし、稼いだ額をわたしが言ったら「それ恥ずかしい」とは言わずに「すごいねー」と言ってくれます。
それが当たり前です。

子育てを手伝っているとか、家事を手伝っているとか、夫にそういう描写が全くないのが気になります。そして、追い詰められる気持ちになったのでは。

ゲシュタルトセラピーでは、気持ちが楽になるかもしれないけど、本質的な解決にならないと思います。

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岡田さんのセラピーですが、ワークの途中で「?カルトっぽいな」と思う場面がいくつかありました。

「目に見えるものを書いてください」
というので、書くのですが
「これは、見えたものじゃないですね。考えですね」と言って「色」について、否定するのです。
「色は黒っぽいかもしれない、でも完全な黒じゃない」という風に、判断が入るものは間違っているというのです。
だから「優しそうな顔」というのも、判断が入っているから見えているものじゃない、というのです。

でも、そうしたら、名詞というのは抽象概念だから駄目じゃないかと思ったのですが、名詞はよいらしい…。
えらく主観的じゃないかなと思いました。

今、見えることにフォーカスしてくださいと言って書いているのに、色や形や素材については「確かめられないから想像」「考え」と言われたり、「動詞で表せるものは、本当にそうなのかわからない」と言われたりします。

そして、どんどんダメ出しをしていくスタイルです。

だから、セラピーなのに気が重くなりました。人は、正解しないと苦しくなります。
名詞がいいのがなぜなのか謎です。名詞も確かめられないでしょう?眼鏡に見えても眼鏡じゃないかもしれない。
膝に見えても膝の範囲はわからない。足が見えても、脚なのか、足なのか、範囲選択できない。

色が禁止されましたが、色のほうが客観的です。
それは、光の差分が取れ、測定できる要素だからです。

「お昼ご飯食べたいものを考えて理由をつけて話してください」
……。

「理由をつけたら、それは考えなんですね。今にフォーカスしていない。だから、過去なんです。過去について検索して、考えていることになるんです」

そうなのかなあ……。
でも、それを言ったら、五感すべては、遅延を伴って肉体につながって、それから音速の速さで脳内を駆け巡るものだから、五感で感じたものすべては、過去のものになるんじゃないかな。そして、考えは過去、感じていることは現在というけど、厳密な意味で言うと、感じていることも過去のことになるのでは……。

「インチキじゃないですよ」
と岡田さんが言ったので、だいぶ雲行きが怪しいな、と思いました。

「インチキ」だといわれる方がわたしは安心します。「インチキじゃない」と言ってくる人はたいていインチキだと思います。

ヒプノセラピーも受けたり、レイキヒーリングも受けたりしますが「楽しい範囲」でと思っています。
温泉と同じですね。
医者は信頼しています。温泉やマッサージで本当に病気が治るとは思っていませんが、気持ちがいいので行きます。
上記二つも、面白い、楽しい、なんだかリラックスするというところにお金を払います。

ベシー占いというのをわたしはやっていますが「当たります」「信頼できます」とは一言も書いていなくて「インチキでも受けてみたいなー」くらいで受けてほしいと思っています。「ベシー」の自己紹介は「宇宙の妖精」なので、そこを乗り越えられる人にだけ、お客さんとして来てほしいわけです。だから、なんだったら「インチキ」ですよ、くらいは言ってもいい気持ちでいます。というか、言いたい。信じなくていい。
わたしも信じていない。怪しい。
信じてないけど面白いと思う人だけでいいです。

その後、実際のグループワークに移ったのですが、「ファシリテーター」としてこの人どうかな、と思いました。
ファシリテーターというのは、ゲシュタルトセラピーで、相手の感情や動作を引き出す人なんですけど、なんだかいう文句が通り一遍で、「あ、これ田房さんも漫画で言われたセリフと同じだ」と思いました。
そして、やりすぎでした。
わたしは、感情を爆発させすぎて手にけがをしました。セラピーでけがをするのって本末転倒だし間違っている。
もっと殴って、と言われたから(わたしが誰かばれてしまいますね)もっと殴ったんですが、トランス状態というか、催眠状態に入っていて、言葉通りに動きたいんですよねどうしても。あれは泊めるべきだったと思う。最初から、「こういうことで殺したい人がいる」というのでテーマのあるワークをしたわけだし。感情を出しすぎないようにコントロールするのは、岡田さんの役なのに。それができていないのは、おかしいと思います。

わたしは、殺したい相手の椅子に座ったのですが、言いたいことも考えていることも何も浮かびませんでした。
だから「何もわかりません」と言って椅子をまた移ったのですが、それも当然で、自分以外の人になって、話すのは、「自分の願望」「自分の言ってほしいことを話してほしい」というのが、ある時だと思うのです。
わたしの殺したい相手の一人は犯罪者だったので「願望」がないのです。だから、相手に言わせたいことは何もないのです。

自分の言ってほしいことを過去の人に言わせたい分にはいいと思います。
最初に「この人に、本当は、こういうとを言ってほしかった」と思っているなら。
でも、そうじゃないことには向かないセラピーだったと思います。
ほかの団体だとどうかは、わかりません。
でも、トランス状態に(いわば勝手に)したうえで、感情を吐き出させて、クライアントにけがをさせるっておかしいと思います。
催眠療法は、最初に「催眠状態にします」という宣言があってそれを了承して始まるのですが、ゲシュタルトセラピーは催眠状態にするのにあたって何も一言もないのが怖いと思いました。

また、チェックインはありましたが、チェックアウトがありませんでした。
これは怖いなーと思いました。
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岡田さんは終了後、12800円の本を売っていました。
田房さんは先に帰りました。
グループワークも一人当たりの時間が一時間と長すぎました。
田房さんは角川の人に昼休みを削ってサイン会をさせられていました。
嫌でした。

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帰ってから、岡田さんと田房さんの対談を読んだのですが「嫌いな上司がいる」という話に「過去嫌に思った人を投影している」「言われたことを違う風に解釈している」という風に言っているのですね。
でも、嫌いな上司なんてやまほどいて、屑みたいな人間が上司のことって山ほどあるじゃないですか。
そこを、過去の出来事のせいにしてしまうと、現在の問題を具体的に解決できないと思うのですね。
(過去のせいにしていないという風に言われるかもしれないけど)

ゲシュタルトセラピーの結果、いらいらやキレるのが収まると、本当は「退職」した方がよかったのに、現状維持をしてしまう可能性があります。本当は転職するのが一番良いかもしれないのに、ゲシュタルトセラピーでガス抜きができてしまうと、現状の追認に働いてしまう危険性があります。
でも、人間は生きているから、今起きていることに普通は反応する。
岡田さんのゲシュタルトセラピーは「今」の動作に注目して「過去」あった抑え込んでいる心にアプローチするものだと思うのですが、それだと、「今、危険にあっているから怒っていること」を「過去の出来事のせい」だから、自分の心にアプローチする、という行動をとらせてしまい、現実の改善をしないで済まさせるようになってしまいます。
セラピーの意図していることが逆転しています。
意図していることは生きやすくすることなのに。

わたしは夫にキレるなら、夫を交換したらいいと思うし、ママ友が気に入らないなら、関わらなければいいと思います。
それでなにがわるいのでしょう。
キレる原因を作ったほうが悪い。そう思います。キレていい。キレていいです。

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躁うつ病と自閉症と人格

頭から言葉が零れ落ちてしまいそうだから急いで書く。

躁うつ病も、自閉症も、思考や行動に影響を与える病気だ。
でも、善き人になろうとすること、それを心がけることが、病気への対処法だと思う。

躁状態になって、失言する人は、もともとそういう人だ。
気が大きくなって、普段思っていることが出てしまっているのだ。
だから、不断から、相手の事情を鑑みて、発言する習慣をつけていれば、躁状態になっても、相手の事情を考えて物事を言うだろう。
そうしたら、大きなトラブルにならない。
躁状態と一言に行っても、いろいろな躁状態がある。
わたしはうつ状態よりも躁状態のほうが苦しい。
衝動を抑えなくてはならないから。

焦るとき、行動したいとき、運動したいとき、アディクションに走るとき、さまざまな症状が出る。
楽しい気持ちになる人もいるだろうけれど、わたしは、自分を抑えるほうに力を使うので、躁状態のほうが苦しい。
今回の躁状態は、覚醒の度合いが非常に高いだけだ。

その前の鬱の波は、覚醒度が低く、寝たきりだった。

躁うつ病は波なので、躁状態の時と、うつ状態の時とは鏡合わせだ。
うつ状態の逆の状態が、躁状態になる。躁状態の時にしたことの反映がうつ状態に出る。

躁状態の時行動したら、うつ状態の時には何もできなくなるし、躁状態の時に、落ち着こうと努力していたら、鬱も軽く済む。

うつ状態も、自分の心の在り方を反映する。
自分のことをひたすらに考えている人間だと、うつ状態の時考えるのは自分のことだけだ。
だから、わたしは普段から、人の役に立つことを考えていたい。
それは、自分のためのことだ。病気に対する工夫だ。

生徒さんのことや身近な人を幸せにしたいと願いながら暮らしていると、うつ状態が襲ってきたときに、自分のことばかりを考えて落ち込むという状態は避けられる。人のことを考えられる。当たり前のことだけど、そのほうがずっと楽だ。
自分がどれだけだめなのか考え続けているよりも、どうしたら、人をより幸せにできるのか考えながら力不足に落ち込んでいるほうがよっぽど幸せだ。

そういう工夫で、鬱にも対応することができる。

人のことを考えることが、躁状態と鬱状態の波を、トラブルなく乗り切り、さざ波に変えてくれるのだと思う。
トラブルが起きたこと自体が、自分を動揺させる。人間関係も壊す。

壊していい人間関係と、壊してはいけない人間関係がある。
差別する人からは逃げてよいけれど、思いやりのある人を断ち切ってしまうと孤独になる。
孤独は毒だ。

もちろん、無邪気に踏み潰してくるやつにはどんな手を使っても、乱暴な言葉を使っても抗う。

ただ、それとは別のことを言いたい。

トラブルや失言、人とうまくやれなさを、躁うつ病のせいにする人がいるけれど、躁うつ病はただの渦だ。
渦の中に巻き込まれていたら、確かに、してはいけないことをしてしまうかもしれないけれど、心構えとして、渦を観察する気持ちを持ち、そこに、「渦があるな」と思うだけでも、ずいぶん渦に巻き込まれなくて済む。
渦の観察者になれる。観察者になると、何をしたら、工夫できるのかわかる。

そこに苦しみがある、病気がある、悩みがある、迷いがある、疑問があると自覚するだけで、苦しみは、自分の外になる。
自分の苦しみが当事者としての苦しみから、ただ、そこに苦しみがあるなと、観察する視点をおてるのだ。
そうすると、苦しみは生々しさを失い、遠ざかる。

わたしは、自閉症だから、人の気持ちを読むことはできない。そういう概念がない。読めるのか半信半疑だ。

でも、相手の属性を記憶して、それに合わせて、会話することはできる。
そうしたら。相手の踏み込まれたくない領域が分かるから、相手を嫌な思いにさせることが少なくて済む。
そういう工夫ができる。記憶して、対応する。その繰り返しで学ぶことができる。

どちらも、直すことのできない病気だけれど、自分が善き人間でありたいと願い、それを地道に何十年でも続けていけば、きっと、わたしの症状も和らぐ工夫ができると思う。

人のためにすることが、自分の病気を柔らかくすることの役に立つのだ。
周りの人にも、自分にも優しい解決方法だ。
これは、今日思いついたことだ。

ずっと主治医には自分の病気を観察して文章を書くことが、必ず人の役に立つといって、進めてきてくれた。
その成果が、今日出たと思う。

今日の話は、とても大切な話だ。


躁状態とバッグの作成。授業での差別の話

昨日までは、一日中寝ていたのに、今日は、午前三時までしか眠れなかった。
しかも、短時間で目が覚めることを繰り返した。

その代わり、革細工のバッグを作った。
うまくは作れなかったけれど、久しぶりに手を動かせたので楽しかった。

躁状態でも、あまり言動は変わらないのだけど、睡眠時間と行動力と焦りに出る。
人への接し方はほとんど変わらない。

薬でコントロールしているから。
薬はとても助かる。補助になる。

生活になくてはならないものだ。
それを依存という人もいるだろうけれど、エレベーターやエスカレータを使う人を依存しているというだろうか?
眼鏡をかける人を依存しているというだろうか?

それと同じように薬のことを考えている。

薬を飲めなかったら、バッグも作れなかったし、働くこともできない。
それは、社会的な損失だ。

昨日は情緒不安定になった。
こういうことはあまりないので、ホルモンバランスが狂っているのかなあと思った。

わたしのポリアモリー的な部分は相変わらずだ。
愛があふれていて、人のことを好きになるのが容易なのだ。
人に興味がある。

今回も六帖さんの気持ちを最優先に考えながら、一番いい方法を見つけられたらいいなと思う。

生活を一緒にしている人の気持ちが一番大事だから、誰が一番好きということじゃなくて、大事にしたい。家族だから。

今日は、中一の学校をボイコットしている子に、右翼と左翼の話をした。
家父長制と天皇制はつながっていて、天皇を父として、男性が家の中で一番偉いとする考え方で、儒教から来ているものだと。

差別は、制度化されたいじめだということも話した。
女性の賃金が半分だから、生活のために、嫌な人とでも結婚しないといけないことは、世の中に女性がいじめられているのと同じだということも話した。

差別のことが分かっていると差別してしまったときに謝ることができるということも話した。世の中に組み込まれている以上、絶対に差別をしないとは言い切れない。
だから、差別を指摘された後の態度が大切なのだという話もした。

いじめと同じだから、いじめられたほうは悪くない。いじめられたら不幸になる。
不幸になるけれど、考えるから、いじめたほうよりも賢くなる。
だから、差別されている人のほうが物を考えているという話をした。
わたしはもちろん、左翼だ。
右翼になっても、いいことが何もないから。被差別側なのに、右翼になってもメリットが何もない。
右翼とはナショナリズム。家父長制。わたしはおんなだから。

日本は、いまだに東北大震災の人たちを仮設住宅に住まわせている。
それは、東北を日本だと思っていないからだ。
日本は首都圏だけを日本だと思っている。
だから、熊本も、鳥取も、震災の復興が進まない。
それも差別だ。

それを話したら、完ぺきに理解していた。あの生徒さんは、日本にとどめておくには、惜しいと思った。

世の中に疑問を持つことが賢さの尺度だとしたら、世の中に適応している人は幼い。
疑問を持たないから適応できているのだから。

多くのOSN(おっさん)が、自分の生活の面倒も見れず、子供っぽいのは、疑問を持たなくても生きていけるからである。


妊娠しているかもしれないししてないかもしれない

生理が遅れている。
妊娠しているかもしれないし、してないかもしれない。
まだわからない。

からだに力が入らないし、気持ち悪いし、吐き気はするし、熱はあるし、起きていられない。
ずっと寝てばかりいる。
妊娠していたらいいなーと思うけどしてないかもしれない。

こんな残酷な世界に子供を呼ぶのはかわいそうだという意見もあるだろうけど、わたしは生みたい。
これはこちらの事情なので子供は気の毒だが耐えてもらうしかない。
わたしも耐えるしかない。

子供が生まれたら不自由なことばかりになるのも知っているけれど、面白そうなので生みたい。

六帖さんは、OSN(おっさん)が育児放棄や家事放棄をするという話を聞かせると、とてもびっくりする。
わたしが見てきた世界と六帖さんが見てきた世界は違うのだ。

六帖さんで、嫌がる人をホテルに連れ込むという設定で肩を抱いて引っ張るという実験をした。
嫌がる様子が体全身で伝わってきた。
今までわたしを襲ってきた人やホテルに連れ込もうとしてきた人や、体に障ってきた人は、これを感じていたのだと思って、愕然とした。
みんな、嫌がっているのを分かったうえで、腕を引っ張ったり肩に手を回したり抱き着いてきたりしたんだなと思った。
ショックだった。相手の気持ちがどうでもいい人は存在する。
言わなくてもわかる嫌がり方をしても、嫌だといわれても無視できる人は存在する。

わたしが観測してきたのは、主に男性が私にしてきた嫌なことが多かった。
六帖さんはそういう経験が少ないから、話すとびっくりする。

びっくりして、そんなのいやだ、という六帖さんはいい人だと思う。
六帖さんは初めからわたしを理解し、世話をしたいといって家に来た。
それを今でも実践している。
だから、わたしも安心している。

六帖さんは具合の悪いわたしをみて「家事しかできない、ごめん」と言った。
「僕は具合悪いの、何もできない……」と言っていた。

こういうやさしさっていいなあと思う。
わたしは六帖さんのことを尊敬しているし、六帖さんはわたしのことを天才で優しい人間だと尊敬してくれている。
こういう家を作れるなら子供産みたいなあと思う。
にぎやかになっていろいろトラブルもあるだろうけれど、妊娠していたらいいなと思う。
妊娠していても流産も死産もあるから、うまくいかない可能性はたくさんあるけれど、それでも、そうなったらいいなあと思う。


男でも家事をする人はいるのだ

六帖さんは、全部の家事をする。

洗濯して、料理三食作って、洗い物をして、風呂掃除して、ごみを出す。
ごみを出すのも、ごみ袋買って、ごみ集めて、分別して、ごみの日を把握して、出す。
わたしが言うこともないし、指示も出さなくても、全部やる。
冷蔵庫の中身も全部把握して、悪くなりそうなものを漬物にしたりシチューにしたりする。
簡単だよ、と言ってやる。
簡単じゃないよ、と思う。

最近私は具合が悪くて、寝たきりになっている。
マッサージをしてもらうこともある。

わたしは、強い人みたいに思われることが多いけど、体が弱くて、頭脳労働しかできない。
六帖さんは家事をしたうえで、働いて、わたしの世話をしてくれる。

フェミニストはもてないと思っている人もいるだろうけど、わたしの歴代の恋人は全員家事ができた。
あまりやらない人は出て行ってもらった。家事をしない人や、男尊女卑の人はそもそもわたしに近づかない。
わたしを好きになるということは、わたしに価値を見出すということで、わたしが何をするか、何ができるかという部分に、家事や「女性らしさ」が含まれていない。

わたしの創造性や、面白さ、ユニークさに価値を置いてくれる人ばかりだったから、わたしは、女性らしさを求められていなかった。
化粧もしないし、おしゃれもしないけど、それでいいと思っている人しか近づいてこない。
そういうのは、楽だったなあと思う。

六帖さんは、最近物理と音楽に興味があるからそういうことに付き合う。
宇宙の成り立ちや物理法則、その応用、数式の意味について話す。
わたしはそういう話ができる。
イメージするものを話すと、とても喜ぶ。

六帖さんはOSN(おっさん)物質について悩んでいる。
おっさん物質は、有害なのだ。揮発する。おっさんのにおいは、ラットやウサギに注射すると、半数が死ぬほどの猛毒だ。
OSNは存在するだけで有害だ。
また、OSN文化にも六帖さんはなじめない。
OSNでは、性犯罪自慢、セクハラ自慢、アルハラ、モラハラがあるので、OSNと付き合うことは六帖さんには不可能だ。

世界は、OSN文化で成り立っている。女性文化は、なくてはならないものなのに、影の存在になっている。

六帖さんは年を取って、仕事がなくなっても、家事や、地域のつながりで、さみしくならないだろう。
普段通っている八百屋さんと安い野菜について話したり、おまけをもらったりすることに喜びを見出せるから、生きる力は強い。
(毛根は弱い)

OSN文化は、自分の体を省みない。いつまでも丈夫で、動くと進行したうえで、働いている。だから、OSNの寿命は短い。

六帖さんを家事ばかりやらされてかわいそうだという人もいるだろう。
しかし、本人は、そういうことができて楽しいと述べている。


今が大事

大人になろうと決意したときが人生の始まり。

子供時代を嘆いている間は、子供。

過去のことに目を向けている間は、今を生きていない。
過去を悔やむだけ悔やみきったら、今を見つめないと、その十年後も、子供のままだ。
そうして、苦しい。

今、今を積み重ねることで、人生の楽しさが分かる。
大人になることは、苦しいことじゃなく、苦しいことから逃げることだ。
苦しいことを逃げれば、楽しいことがやってくる。自分で判断したことだったら、失敗も楽しい。
次に生かせると思えれば、それは、今を生きているということ。
過去の失敗を悔やむということは、過去を生きているということ。
過去を生きていても、時間は過ぎる。それは、人生を無駄にしているということ。

大人になるのは難しい。
年を取れば大人になるわけじゃない。
過去のことを整理して、もう、今には怒っていないことだという割り切りをして、かつ、それを糧にすることができれば、大人になれる。


塾は息抜きの場所

塾は息抜きの場所だと思っています。
学校でも家でも息苦しい、それが子供です。
望まれて、こういう子になってほしいと思われて、がんじがらめになって、自由がない。

塾講師は他人だから、親でも先生でもない、上下関係がない。

だから、ほめるということが大事です。

ほめると、元気が出ます。塾の時間は一時間化に時間だから、塾に来ない時間をどんなふうに使えるかが勝負になります。
そのためには、やる気を引き出して、勝手に成長してもらって、自分の力で成績を上げるということが基本です。
わたしたちは、その手伝いをするだけだということを肝に銘じて、傲慢にならないようにしないといけません。

教えるということは、傲慢になることが容易です。相手の知らないところや、相手の弱いところが分かるので、傲慢になることはたやすいです。

しかし、それでは、生徒はおびえるだけです。世界に居場所がないと、思い込んでしまいます。

だから、せめて、塾は息抜きになって、自己肯定間をあげる場にするべきだと思います。

また、塾講師にとっても「人をほめる声」を自分の声だとしても、耳で聞くことは、自分自身の自己肯定間をあげます。
けなしていたり、欠点を追求していると、その声が耳に入ります。だから、自分を低く考えてしまうようになります。

塾講師は、元気で、図々しく、言うことは言い、場の空気をだれないようにコントロールすることが第一で、そうして、生徒をリラックスさせることに努めるべきです。

勉強に興味が持てるように、勉強に関する雑談をして、それをきっかけに、世界の秘密を知りたいという好奇心を引き出すこともできますし、先生が好きだから、点を挙げてほめてほしいというのも原動力になります。
やる気を引き出すためには、どんな手段を取ってもいいと思っています。

子供は褒められる機会が少ないです。
できないことばかりを言われて、「こうなれ」という像を押し付けられ、それに慣れない自分を恥じています。
いつも、自分はダメだと思っています。

そうではなく、できるんだ、これはできる、そういうことを伝えて、得意なことから延ばす、というのが、初回の授業では特に必要です。

学校をボイコットしている生徒には、自分で考えて、意思表示ができて、えらい、と言えます。
成績が悪い子には、学校が居づらいだろうに、通い続けていることが偉いといいます。

授業が分かるようになれば、苦痛の時間も面白くなるので、そういう方向にもっていくのが、塾講師として大事なスキルだと思います。

だから、ほめない教師はダメです。
ほめないでダメ出しをしていれば、「厳しい先生」という評判になって、クレームは来ません。
でも、どれだけできるようになったのか話す先生には、生徒が甘えるので、クレームがきます。
クレームを恐れることも、恐れないことも、こちらが決められます。

精一杯やるのはもちろんですが、生徒に寄り添う、生徒の気持ちを考える、生徒の進度に合わせた話をする、理解しやすくする、という工夫は常にしなくてはならないでしょう。


雲が晴れた

友人と仲直りした。
謝ってもらって、わかってもらった。

セクシャリティをを尊重し、相手を思いやることが大事だということ、自分の中の子供をほめて、慰めていくことが大事だとわかってくれた。

分岐点があって、暗黒面に浸って、こんなに不幸だと嘆く人生も選べるし、逆に、良い面を見ることを決意することもできる。

良い面を見ることは、とても厳しい道だ。人を恨むのをやめるということだからだ。
自分に起きたことを受け入れて、自分の選択に責任を持つこと。

それが大人になるということだ。

子供のままだと、いつまでも、誰かのせいにしながら生き、満足するということがない。
だから、いつも不満をもって、口元もだらしなく、落ち込んでいく。

そうした人生を歩みたいのか、そうではなく、自分自身で、どういう生き方を選びたいのか、決めなくてはならない。

つらいことがあっても物事の良い面を見るのはきついことだ。
自己憐憫に落ち込んで、いつも誰かを待っているのは何もしなくてもいいから楽だ。
そして、誰かの善意を吸い込み続けることになる。
誰かが手を差し出しても、当たり前のように感謝もせず、ただ、人の心を吸い込んでいくだけ。
だから、人は疲れ果てて、どんどん、離れて行ってしまう。

良い面を見るということは、能動的なことだ。物事の解釈を変えて、過去に終わりを告げることだ。
今にフォーカスして、今幸せなのだ、ということを発見していかなくてはならない。

それには、責任が伴う。自分自身を生きるには、責任を自分でもつ、選択の結果をすべて自分で受け入れる、人のせいにしないということだ。

人のせいにするのは楽だ。自分を悪者にしなくていいから。

自分と向き合うのは自分の心を見ることだから、苦しい。でも、必ず見方が現れる。

短期的な損得ではなく、長期的な自分のためになることを選択し続けていけば、魅力が出てきて、人が集まる。
人が集まれば相談もできる、頼ることもできる。

一方的に誰かの善意を搾取するのではなくて、助けのやり取りを交換できるようになる。

友人の雲が晴れて、よかった。
また、いざこざがあるかもしれない。でも、それもいつか、解決されるだろう。


マイラブリーハズバンドにイライラするといわれても

マイラブリーハズバンドの六帖さんは毎食ご飯を作ってくれる。

なのに、友人は、「いらいらする」とわたしに言ってくる。
わたしに言われても困る。
最近、イライラしたセリフは「餃子焼いても大丈夫?」だったそうだ。
六帖さんは友人のおなかの調子が悪いから、聞いただけだ。
「おどおどしている」「人の顔色を窺っている」と感じて、いらついたそうだ。
自分の調子が悪い時に、六帖さんにイラつくというのは本人もわかっているみたいなんだけど、六帖さんは何も悪くないのに、それを配偶者であるわたしに言われても困る。

そうね、六帖さんにも悪いところはあるかもしれないねと返し続けてきたけれど、限界だ。
わたしは六帖さんを愛している。悪く言われることも許せない。

いらいらするのは自分の問題だ。六帖さんはあのとき、おどおどもしていなかったし、顔色も窺っていなかった。
気を使っている人を見ると、いらいらするらしいのだけど、それは自分の投影だ。
それよりも、他人に失礼なことを言って、その自覚がないことのほうが問題だ。

いらいらするのはともかく、人に失礼なことを言うと、世間を狭くする。
わたしも優しくできなくなる。
できる限りのことをしてきたつもりだ。
でも、失礼で返されたら、愛が枯渇する。

また、復活するときも来るかもしれないけれど、今は無理だ。

わたしに対しても、六帖さんに対しても、ありがとうを言わなくなった。
三食作ってもらっている相手に、いらつくならもうだめだと思う。
わたしは、散歩に連れ出したり、病院を探したり、六帖さんに付き添うように頼んだり、いろいろしてきた。

仕事も探した。

仕事が気に入らなかったら、自分で探せばいい。
わたしは、良かれと思って仕事を見つけて紹介したけれど、会わないと思うのなら、しなくてもいいんだ。
大人なんだから。

わたしが、「してあげた」ということがうざいなら、受け入れないで自分でやればいい。

以前にも、ほかの人に「してあげた」としつこいといわれたことがあるけれど、全部断ることだってできたはずだ、と思う。
実際そういう人もたくさんいる。
距離を保つために、わたしのしたことをあえて、受け入れないでおくね、という人もいて、そういう人とは長く続いている。

善意で動いて、それがうまく書ない場合なんてあるのは、百も承知だ。
でも、受け入れることを選んだのは自分じゃないか。

自分で自分のことを選べない人のことは助けられない。

マイラブリーハズバンドにいらいらするんだったら、わたしは、もういやだ。
六帖さんは天使のように優しい人だ。
その優しさにいらつくのだったら、わたしはかかわれない。