知りたいと言いながら、本当は聞きたくない人

年金について、二回溶けていなかったら、いまもっと変わっていたのではないかというツイートをしたところ、データを出してほしいとの旨伝えられた。
のでそれに関する単語を教えたら、めんどくさいので、教えてくれと言われた。

面倒だというのは、失礼だと思うと答えた。

おぼろげにしか覚えていないが、九十年代、箱モノを立てることに「お金が余っている」と判断した国のせいで、大金が流出した。
それは、その後回収されていない。
また、今年に入ってからも、日経平均を上げるために、年金を使っている。

この人は、知りたかったわけじゃなかったんだと思う。
なんだか、嫌な気持ちになった。

「あなたがおっしゃったのだから」というが、知らないことがあって、知りたいことがあれば、ヒントを与えてもらっただけでも御の字だと思うのだが。
作業コストを見知らぬ他人に押し付けても平気な人がいるんだなと思った。

データ出せ厨は、データ出したら、黙るんだな。見るのがめんどくさいとか言って。
データを見る力がないのかもしれない。調べる力も。読み取る力も。
だから、話がかみ合わないといってブロックするんだろうか。

失礼さだけが残った事件だった。

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結婚と少子化は関係ない

toianna.hatenablog.com

そもそも、少子化問題は十年後に解決される。
それは、高齢者のボリュームゾーンがお亡くなりになるためだ。
それ以降の人口を見てみると、まっすぐな筒形になっているので、高齢化問題は解決される。

ただし、そもそも、少子化は悪いことなのだろうか。
昔、人口爆発と言われて、人間が多すぎる弊害があったため、国家規模で、家族計画を推進した。
その同時期、女性の避妊・中絶に関する権利の表明がなされた。ウーマンリブの恩恵だ。

その後も、フェミニズムによって、少子化と、未婚化は関係がなく、婚外子を差別することに少子化の問題があるとされている。

婚外子差別がなくなったら、結婚と子供の出生の高い相関はなくなる。

日本では、結婚していない男女の子供がほとんど中絶される。
実際には、海外の事例を見ると、未婚でも生めるように整備したフランスなどでは、出産率が改善している。
フランスでは婚外子が半数を占める。

わたしは、少子化に問題があると思っていない。
なぜなら、子供を産むかどうかは、当事者問題であって、国のために生むというのは本末転倒だからだ。
国は市民の幸せを手伝うために存在している。

だから、少子化改善のために女性が存在していると考えるは間違いなのだ。子供は、税収を上げるために存在するわけじゃないし、女は、子供を産む機械ではない。一人の人格を持ち、人生の幸福を追求する一人の市民なのだ。

対して30代はもう少し悠長である。社会から「一人前」と認められたいけれど、それ以上に遊べなくなったり、妥協してまで相手を選びたくない。

人生の伴侶を選ぶのに慎重になってなりすぎることはない。不安なのは当然である。自分たちの親の世代を見ていると、幸せそうな夫婦のロールモデルが少ないことに気づく。
愚痴ばかりいう母親、家庭に無関心な父親に育てられたら、結婚に夢を持つのも難しい。

結婚に夢を持てるのは、幸せな家庭に育ったか、夢のようなホームドラマを見て感化されたのか、それ以外なのか、よく知らないが、母親の愚痴を聞かされ、仕事をせよ、自立せよ、しかし、かわいい女性であれと引き裂かれて生きてきた女性たちに、こんな言葉しかかけられないのか。

女性の仕事環境が届かないのは、また別の問題で、環境が悪いから、結婚すべき、という思想は間違っていて、本来なら、女性も男性と同じ賃金で働ける環境を整備し、そのうえで、どうしても結婚したいならできる状況を用意するべきだ。

その状況が整備されていない以上、結婚した後、何か問題があって離婚したくなっても、自立できる可能性がなければ、離婚をあきらめざるを得ない。
嫌いな相手、別れたい相手と、金銭的な問題で別れることができないのは、地獄だ。
いまだに寿退社という言葉が存在していて、死語ではない以上、このへんを心配するのは当然だ。

日本の社会は、実際のところ、女性のパート労働に依存している。
結婚して、寿退社をした後の女性たちは、基本的に、パート労働に就く。そして、そのあと、正社員に戻れることは限りなく不可能だ。

そのことを実地で感じている三十歳女性が、結婚に慎重になるのは当然だ。

30代以上の女性はなぜか、結婚すると自由な時間が失われると感じている。対して20代女性は「子供がいるならまだしも、結婚しただけじゃ自由な時間が減らないでしょ」と感想を言ってくれる。

確かに私も結婚して1年半ほど経ったが、自由な時間はむしろ増えた。結婚前は週に2回彼氏とデートしていたが、今は2週間に1度。その間友達と遊びに行ったり、ビジネスワークショップへ参加できる。「今日は仕事に集中したいから、帰ったら洗濯機回しておいて」と、家事負担も軽減した。

これは、幸運だったね、としか言いようがないが、実際に今の男性の多くが家事をするかというと、疑問だ。
そして、これは、題名と矛盾していると思うのだけど、少子化防止のために結婚を勧めている題名に読めるが、「子供ができたら、自由な時間が減る」と読める。
結婚が、最終的に子供を育てる、生む、という点に着地するならば、やはり、自由な時間は減るのだ。
自分の人生を追求するのは素晴らしいことだ。子供のために生きる人生じゃない。
人生の幸福追求を心に抱いている人をわたしは尊敬する。

日本の男性は、家事をしない。
内閣府のデータにも表れている。

夫の協力 – 少子化対策 – 内閣府
これによると、男性の家事育児の協力時間で、二児が生まれるかどうかの比率が変わってくるようだ。
しかし、着目すべきは、結婚した男性の一日当たりの家事時間が、一時間弱だということだ。

(育児時間を除くと三十分くらいだ)

私 「なぜ家事は女性が負担しなきゃいけないんでしょう? 完全折半にするための努力は、できないと感じている?」

努力!なぜ、女性側が努力しなくてはならないのだろう。このインタビューをされた人が、実際に存在するのかは疑問だが、インタビューした女性が、考えているように「男性は基本的に家事をしない」と感じていることを追認しているのではないのか。
どうして、家事について、努力して、家事分担をしてほしいと頼むのは、女性なのか?それだけで、女性の負担は大きい。
大人を教育することは子供を教育することよりも大変である。

完全折半するための努力を、なぜ、男性ではなく、女性にさせるのだろう。

「完全折半にするための努力はできないと感じている?」それは間違っている。実際に、努力しないのは、男性なのだ。男性が、家事には協力も努力もできないと感じているから、女性が、自由な時間が減ると危惧しているのだ。
因果が逆転している。

ヒアリングからは20代に比べて、30代女性のほうがよりジェンダーに縛られていることがわかる。

ジェンダー規範に縛られるということは、「結婚しないと女として負け組」という価値観だ。
家事を男性がしないという問題は、現実問題であって、どんなに女性が努力しても、相手を動かすことはできない。
馬を水飲み場に連れて行っても、馬に水を飲ませることができないことを三十代女性は知っている。

二十代女性はそこを楽天的に考えているのだろう。

婚活サイトを利用しても、紹介されるのでは同世代ではなく、ほとんどが年上の男性だろう。
仮に三十代女性がジェンダー規範に縛られているとしたら、年上の男性がジェンダー規範に縛られていない、ちゃんと家事折半の交渉に応じてくれる(これも、当然のことをどうして交渉しないのかいけないのか謎なのだが)、という考えは夢見がちに過ぎない。

結婚をすれば、子供が生まれる、結婚をすれば、勝ち組になる、そういう視点こそががジェンダー規範に縛られている。

先輩の背中を見て我先にと焦る20代女子と「いい人」を待ち続ける30代。もし20代がこれから既婚率を上げていくのだとすれば、もしかすると非婚・少子化問題は10年後、1975~85年生まれ特有の現象として語られる日がくるのかもしれない。

なぜ、既婚率を上げたいのか。既婚率を国が上げたいのは、税収を増やして、労働人口を増やして、戸籍で管理しやすくするためだ。
どうして、市民がそれに協力しないといけないのか。
子供はかわいい。かわいいが育てられない場合もある。生まれない場合もある。その人たちにも配慮するのがダイバーシティなのだし、結婚して子供を産むことが正しいと言いたげな論調、こそ、最大のジェンダー規範に縛られている発言だ。

p-shirokuma.hatenadiary.com

わたしはトレンディドラマを見たことがないが、若者気分でいたとして、何が悪いのだろう。

壮年に向かうロールモデルとして、結婚というフェーズは必ずしも必要なのかどうか。
そこのところを全く考えておらず、結婚することで大人になるという旧来の考えに縛られているのは、シロクマ氏のほうに見える。

趣味に費やす若い時代とはすばらしいことじゃないだろうか。
自分の好きなことを見つけ、それに没頭することが人生じゃないのか。それが若者気分だとしたら、中年、老人になっても、自分の核を知らずにそのまま死ぬだろう。

 この、「あと5年遊びたい」「結婚を遅らせて自由な時間を楽しみたい」、実際、私が二十代だった頃には巷に蔓延していた気分だった。今にして思えば、なんと贅沢で、浅はかな気分だったのだろう!

なぜ、この考えが浅はかなのだろう。人生は自分のものだ。できるだけ楽しく暮らすことが、人生の第一目標だ。憲法にも、幸福追求権は書かれている。

必ずしも、結婚したら、大人になる、若者気分から抜けるわけではないのに、シロクマ氏は、その点を深く考えていないようだ。

 1970年代生まれは、まあわかる。だが実際には、それより更に若い世代も「いつまでも若者」的な価値観に束縛されていた。そういえば、『東京タラレバ娘』の主人公・倫子は33歳という設定だが、2014年にスタートした漫画で33歳ということは、だいたい1981年生まれである。バブル崩壊時に10歳、就職氷河期の厳しかった時期に18歳の倫子が、あのような20世紀臭い価値観に囚われているのは、興味深い、しかしリアルな設定である。

二十世紀的な価値観にとらわれているのは、シロクマ氏のほうだ。少子化を改善するため、つまり、国家に寄与することが素晴らしいという価値観は二十世紀に死んだはずだ。

結婚は遊びではないし、若者時代の終わりを象徴するように(当時の段階では)みえてしまう。トレンディでありたいならできるだけ結婚を遅らせるのが得策、と考える人が増えるのは当然だし*2

結婚は確かに遊びではない。家庭という形の中に縛られた挙句、殺されてしまう女性は後を絶たない。
若者時代の終わりどころか、相手を間違うと、人生の終了になる結婚を簡単に選べるわけもない。家庭という密室の中で、ふるわれる暴力から逃げることは、並大抵のことではない。女性たちはそのことを、知っているが、シロクマ氏は知っているのか、知らないのか。

トレンディでありたいから、結婚を遅らせる、という人は、寡聞ながら知らない。
みんな、自分の好きな勉強をすること、手に職をつけること、友達と遊ぶこと、おしゃれを楽しむことなど、人生を楽しむことを優先してきただけに見える。

わたしからみると、「大人になるため」に結婚することこそ、人生が何たるかわかっていないと思う。結婚は大人になるためにするものではない。
繰り返すが、国家問題を解決するために結婚し、子供を産む、というのは歪んだ価値観だ。それこそ、古い。

(だいたいトレンディって言葉が……)
トレンディでありたいから、結婚を遅らせる女性なんて見たことがない。そもそもトレンディという言葉を使っている人を見たことが初めてだ。

ジェンダーのロールモデルから自由になれないのは、結婚をするべきと焦らせるほうではないのか。結婚しないと、当たり前の成長を遂げているとみなさないまなざしではないのか。

年齢による社会的に期待されるロールモデルを実行することから自由になれない過去の亡霊を引きずりながら、三十代「女性」だけをたたく男尊女卑な姿勢は、もうすたれるべきだろう。

c71.hatenablog.com


結婚できる、できない、って言い方

結婚できる、できない、って言い方が嫌いだ。
結婚するために、とか、結婚したいあなたに、というのはまだわかるのだけど、結婚できない人がこれだけいる、とか、結婚できないのーとかいう言い方が嫌だ。

どうして嫌なのかというと、結婚しなくてもいいだろうと思っているからだ。みんなが結婚したいと思っていると常識のように考えるのは間違っていると思う。

この前トップエントリで、大卒の女性が増えたから結婚できていない、妥協するべき、と書いてあった。
自分の人生を生きるための勉強を明らめ、一生を共にする伴侶を妥協するなんて、あらゆる意味で失礼だ。

一番良いのは、自分で生きる力を持っていて、それでもなお、人と一緒に暮らしたいと思うときに、力を合わせたい相手と出会うことだ。

出会うのは難しいけれど、ネットで自分の意思を発信していたらそれに共感してくれる人が現れるかもしれない。たぶん、現れる。

一人で生きることはすがすがしいことだ。その反面、緊張と共に生きることでもある。

正直に言って、いろいろな媒体で、「夫がこんなにもできない」という、例えば、洗濯機に洋服を入れないだとか、料理をしないだとか、インフルエンザでも家事をさせるとか、そういうひどい話を聞くにつけて、どうして、わざわざそんな男と結婚しないといけないのか、恋愛じゃダメなのか、と思う。男を教育する。そういう表現もある。どうして、大の大人を教育しないといけないのか。恨まれてまで。

生活能力がある人は、サイコパスの可能性が低いと感じている。
稼ぐだけの男は、サイコパスの場合があるから怖い。
年収や目に見えることだけで、伴侶を決めることには危険がいっぱいだ。
一緒にいるとき、感情を乱されないか、自由を曲げられないか、それを観察しないといけない。
観察していると、伴侶にしたいと思える人がそれほど多いとは思えないと気づく。

わたしには凸凹があるから、相手にも完璧は求めないけれど、意識として、家庭を運営するという心持がある人じゃないと嫌だ。わたしのことをわかって、生かしてくれない人は嫌だ。

恋愛は甘く、恋に落ちた時には相手の悪いところは見えていても、良い風に解釈してしまう。でも、生活は別だ。一緒にいて、いらいらする相手とはいたくない。

本当はみんなそう思っているんじゃないのか?寂しさはネット経由の友人で埋められる。あらかじめ家族がいる場合もあると思う。寂しさは動くための、人を探すための原動力になる。そのさみしさでもって、人と出会うことができる。寂しさは大事だ。

結婚できる、できない、結婚まだな人、いい年なんだから、と言われたことがある。
不愉快だったので、人間関係を切った。わたしは人にどうこう言われたくない。わたしの中に押し入ってほしくない。

わたしと結婚できると思った人は、急に手を抜いたり、悪い甘え方をして来たり、高をくくってきたりする。なだめたら、大丈夫だと思っている。全然大丈夫じゃないから、わかれる。

結婚なんて、ただの紙だ。別れるときにすごく苦労するから、多少の理不尽を我慢することと引き換えにする契約だ。

わたしは契約なんてしたくない。人間関係は自由にしていたい。国に管理されるのもまっぴらだ。

結婚できる人はまとも、という風潮があったり、「もてる」という言い方があったりするけれど、それもどうかと思う。結婚していて、かつ、ろくでもない人もいるし、結婚していなくてもろくでもない人はいる。結婚ともてることは関係がないし。もてることがいいこととも限らないし。

常識を疑って、それが自分にとって、幸せかどうか精査することなしに、時流に乗っかっていくことが、正しいのか。
わたしはそのことに懐疑的なので、結婚できる、できない、って言い方が嫌いだ。


自分がここにいると叫ぶこと

恋人を作るには、自分を知ってもらうことが大事だ。
不特定多数に自分のことを知ってもらえるブログは、とても役に立つ。

男の顔は、そう大差ないのだから、体だけ作って、服をかっこよく着て、髪の毛を清潔にしていたら、だいたい嫌われない。

みんながいいと思っている相手を狙うのは、たいへんだ。
埋もれている原石がたくさんある。もちろん、男尊女卑は論外だ。自分が恵まれていないから、男尊女卑になって、女のほうが恵まれていると「女尊男卑」なんて言い出すのだろう。男尊女卑の人ほどそういう。弱音を吐きたいのに吐けないから、社会的に弱い存在で許される女がうらやましいのだろう。

実際には、弱さというのは、生きにくさにつながるので、そううらやましいものでもない。ただ、自分の境遇に気づいて、社会的構造が自分を苦しめるということに気が付きやすいという点では有利だ。けれど、女性をたたく人は、そのことに思いを至らせる前に、女性がうらやましいのだというのだろう。

女性の地位が低いと、男性も、買いたたかれてしまう。人生を奪われてしまう。

女性のほうが賃金が低くて能力があれば、高い賃金をもらっている男性は、それ以上給料をもらえることは難しいだろう。比べられてしまうからだ。だから、結局、男女の賃金が不平等なのは、男性にとっても不利なのだ。

そして、仕事以外の人生がない、というのは、やはり病んでいる。
人生は仕事以外にもたくさんの楽しみがある。苦しみも痛みもある。そこから逃げて、仕事に没頭していては、人生を味わったことにならない。
仕事というのは、決まっていることをすることだ。枠がある。どんなにクリエイティブな仕事でも、最終的にはお金をもらう、という枠に収まる。
その枠以外の、お金にならないことに価値を見出せたとき、人生が始まるといっていい。

フェミニズムという言葉が有名になって、男性にも届くようになった。パラダイムを変えて、考え方がより柔軟になったという方もいれば、フェミニズムが男のパイを奪うという人もいる。そこの境目がどこなのか、わたしはわからない。わからないなりに考えると、世界に対する好奇心の差なのだろうと思う。

現状を追認する人にとって、フェミニズムは、とても攻撃的なものに感じるだろう。好奇心が旺盛な人にとっては、フェミニズムが示す「女性の不在」という問題について考える機会が与えられたことに喜ぶだろう。

科学の発見だけでいっても、女性はのけ者にされてきた。だから、科学には女性の視点がない。
たとえば、医学だけに限っても、もし、医者の世界が男ばかりではなく女が多ければ、子宮の謎ももっと詳しく解明されているだろうし、病気ももっと治せるものが多かっただろう。女性の体のことが、あまり詳しく研究されていないのは、研究者が男だから、だという話を聞いたことがある。

女性ならではの視点、という言葉は大嫌いだけれど、弱者ならではの視点で、社会をよりよく変えることは可能だと思うし、弱者にやさしい世界は、強者にも優しい世界だ。強者もいつ弱者に落ちるのかわからないのだから、その不安を解消できる。メリットがある。

メリットデメリットで語っていい話ではないけれど、コスパとかメリットとかいう言葉でしか、心に響かない人はいるから、こういう書き方をしてみた。

現状を追認しても、生きやすいならそれでいい。だけど、社会はいつでも不完全なものだから、変えるために声を上げていかないといけない。
一人の世界が変わったとき、その人は、初めて声を上げるだろう。
声の出し方を覚えたとき、世界が具体的に変化するだろう。

自分のことを知ってもらえば、どんなニッチな趣味でも、それが違法でない限り、誰かが、興味を持ってくれる。なんだっていい。
人から何かを受け入れると、人を愛せるようになる。

愛するためには、愛されることが必要だ。ただ、愛されたことがないと、愛を受け取ろうとしても、拒絶になってしまう場合が多いのだけど。

ネットには、悪意も多いが、無償の愛もあふれている。

男尊女卑の男性も、男性に庇護されることを望む女性も、どちらも愛に飢えている。愛に飢えているから、形を求めるのだと思う。

だけど、愛を知れば、きっと変わっていくのではないかと思う。何かしらの変化が。

ありのままの自分を愛してもらうのは難しい。好かれる形に加工することはプライドが許さない人もいると思う。しかし、それは、悪い甘えだ。

自分らしさを貫きつつ、清潔にしたり、好感をもたれる服装をしたり、もしくは自分が好きな服装をして表現をすることで、人と出会える。愛してもらえる。恋愛の愛じゃなくても、愛は愛だ。

自分の意思を持って、自分の人生の責任を取ること。自分の人生の苦楽を味わうことが、生きるということだ。
責任という言葉は怖いけれど、全部自分で決めるための自由の前提だ。

助けてもらうことだってできる。助けてもらうためには、自分の強い意志が必要だ。どう生きたいのか、考えることだけは、誰にも代わってもらえない。
自分の意思を伝えないと、自分の思っていることはかなわない。
黙って、自分の都合よくなるように待つのは、手間だし、無意味だ。
自分で生きている感じがしないだろう。
人を操縦することが、良いことのように言われていた時代もあった。
女性の地位が低いころは、夫を操縦するのが賢い女だといわれていた。でも、今はそういう時代じゃない。

自分の人生をクリエイトするためには、誰かを操縦して、代わりにやってもらうことと成り立たない。
代わりにやってもらっても、やっぱり自分のしたことじゃないから。
そして、相手の人生も奪っていることになるから。
誰も幸せになれない。

自分の獲得した人間が、何かをやり遂げたとしたら、それは、自分の功績じゃなくて、相手の功績だ。
なのに、それを自慢する人がいる。
その人は自分の人生を生きていない。

ブログでも何でもいいのだけど、自己表現をして、たくさんの人に知ってもらうこと。自分がここにいると、叫ぶこと。
それが、愛を得て、飢えた魂を満たす一つの方法だと思う。


一人の世界を変えること

世界を変えるには二種類あって、一つは、社会の仕組みを変えること。
もう一つは、たった一人とかかわって、その人の内面世界が変わっていくこと。そして、自分の世界も変わること。

わたしは二つ目のことを重視して生活している。仕事の内容もそうだ。人とかかわるときにも、自分が変わることや相手が変わることを恐れないでいる。

なんでも言葉でいうから、摩擦を招いたこともあったけれど、同じことを言うのでも言い方を変えればいいのだと気づいて、自分の性質は変えないまま、より自由になった。
自閉症だから、必ず人を不愉快にするのだと決めてしまっていては、不自由だ。

フェミニズムの記事をよく書くのだけれど、女性だけでなく男性も読んでくれているのだと知った。
(なんだよ、言ってくれよ、恋人募集しているときにさ。みんな奥ゆかしいんだから!フェミニズムに親和性のある男は好きだよ。筋トレさえしてくれれば)

ミニオフ会を何度かしてみて、わたしから影響を受けたと言ってくれた人に何人も出会った。
ブログをしていると、好意的な反応はあまり届かないし、自分でも、自分をコントロールするために、あまり真に受けないようにしているから、好意的に受け取られていると、生身の人間から言われるのはパワーがあった。

よかれあしかれ、ブログを続けていると、悪い反応がより届く。それは、悪い反応をする人のほうが、わたしにメッセージを伝えることに熱意があるからだ。納得した人は納得するので、何も言わないのだ。

いい気にならないように、そんなに有名にならないように、でも、自分は曲げないように、ブログを続けている。自分を曲げなくても、自分を変えることはできると思っている。嫌なことは嫌、だけど、相手のことを考える、ということができるようになったと思う。

昔は、嫌だと思いながらもつきあったり、自分を出せないで苦しかったりしていた。

今は、ブログという場があって、わたしの考えを自由に出していることができる。そして、それに共感した人がわたしと知り合ってくれる。孤独は好きなのだけど、たまに人と触れ合うと世界が広がる。わたしの世界が変わる。情報が増える。感情も増える。

わたしにももともと感情はあったのだろうけれど、それの出し方が人と違っていた。演技するように合わせていたので、苦しかった。
今は、普通にしていても、誰も何も言わない。学校を卒業してから、普通、ひとはそれぞれの人に関して興味を持たなくなるからだ。

興味を持つのは利害関係のある人。商売をしたい人。わたしが病気だと知ると、なれなれしくしてくる人がいた。食生活を変えたほうがいいだとか、それは、でもその人の利害なのだ。

だから、わたしは自分に興味を持つ人が怖い時期があった。
でも、ブログを通して知り合った人は純粋にわたしのことを気に入ってくれる。c71はわたしの人格の一部に過ぎないけれど、それでもありがたいことだ。
わたしはもっといろいろなことを知りたい。世界にはわたしの知らない、豊かなことがたくさんあるらしい。
わたしは植物が光を求めるように、明るいものを求めていきたい。

暗闇に落ち着いていたころは懐かしい。
でも、わたしは胎児のようにまどろむ時期を終えたのだ。


マッチョ思考と甘えたさ

マッチョは好きです。筋肉ブラボー。

でも、マッチョ思考は嫌だ。それは、甘えの思考だから。

甘えるのは大事なことなんですよ。でも、「おれの甘えを察して、あたかも自分は甘えていないていを装って、甘えたい」というのはだめだと思うんですよ。

マッチョ思考である自分を維持しながら、人に甘えることは不可能と言わないけれど、貧しい。

マッチョ思考の人を甘えさせる人というのはいて、それは、「意思を持たないのがかわいいといわれているので実践している女性」なんだと思うのだけど、その人たちも「察して」の文化だから、マッチョ思考の人と「察して合戦」をしてしまうので、満足度は低いと思います。

意思を持たないのがかわいい女性は、意思をむき出しにしません。だから、マッチョ思考の人と一見うまくいく。マッチョ思考の人は「自分が引っ張る」妄想に取りつかれているから、一時的に満足できる。トロフィーを手にしたかの如く。

でも、常に、百パーセント「察してほしい」に応えられるわけはないから、お互いいらいらするんじゃないかと思うのですよ。
それに、マッチョ思考の人たちは「仕事中心の生活」に逃げて、「ほかの自分の生活」を充実させる気力がない。お金にならないことやコスト意識が高すぎて「コスパ高い」ボットになるんじゃないかなーと思います。

彼らの問題は「自分の気持ちを把握できていないこと」だと思います。
そもそも把握できていなかったり、自分の気持ちを無視することに慣れすぎて、「自分の気持ち」があるかどうか、わからない。
だから、自分がなんとなく不満を持っているけれど、誰にぶつければいいのかわからない状態なんだと思います。

それで、目についた「弱音を吐ける属性」の人を攻撃する。その属性というのは「女」ってことですけど。

実際には、「弱音を吐ける」というのは、属性によるものじゃなくて、自分の意思一つなんだと思うのですが、マッチョ思考男性というのは、マッチョ思考男性同士でコミュニティを作っていると思われるので、文化的に「男は弱音を吐かないこと」というのが身についてしまっていて、ラベリングでしか思考できないみたいなんですよね。関わり合いがないので推測になるんですけど。

今の世の中は、マッチョ思考で、回っていって自分の肯定感を強めるということが難しい時代です。
だって、女も男もそれ以外も、自分の意思を持って生きているから、いちいちマッチョ思考の人を「すごいねえ」と言って立てる筋合いもないわけです。
マッチョ思考は、立てられておだてられないと死んでしまう致命的な欠陥を持っています。誰かの上に立つとか、とにかく、外側の「えらさ」にすべてが立脚しているので、「自分に都合のよい他者」がいないと死んでしまう弱い生き物なんだと思うのです。

マッチョ思考を持っていても、おそらく、私と同じ人間なので、日常的につらい思いやしんどい思いをしているんだと思います。でも、前にも書いたように、自分自身で自分の感情を見つめるという作業をしたことがないもので、言語化以前の問題で、把握できていない。だから、不満がたまって、「女なんて馬鹿だ」と、社会的に見下してもいい相手を見下して一応すっきりするんじゃないかと思うのです。

でも、実際にそれで問題が解決するかというと別で。見下されたほうも人間なので「見下された」ことをそのまま受け入れて、「よしよし」してあげる筋合いもないどころか「はあ?なにそれ」という感じで反撃したり、「こいつ馬鹿だな」という感じでスルーしてはいはい、って聞くだけなんだと思うのですよね。

マッチョ思考のメリットってもともとなかったんだと思います。男が偉い、ということで、男自体も得はしていなかった。
偉いと持ち上げられるからには、責任が伴います。でも、自分自身の人生以外に対して、責任を取るのって、納得がいきにくいと思う。それが生きがいの人は否定しませんが。

現代のマッチョ思考の人は、偉いと持ち上げられたいと思いながら、でも、その偉さに伴う責任は取りたくない、もしくは、取れないと感じていて、そのためうっすらと「自分にはできない」「弱音を吐く人が妬ましい」「責任を果たさず自由にしている人がうらやましい」ってことになると思います。今現在、マッチョ思考の人が取れる責任というのは、そもそもないとも思うんです。だから、永久に乾いている。
偉い、と持ち上げられながら、その責任を果たす機会が失われている、もしくは必要とされていない、というのはきついのでは?と思います。

でも、自分がマッチョ思考である、と気が付くためには、一回マジョリティな文化から外れないといけなくて、そして、それが一番マッチョ思考の人には難関なんだと思います。
自分がマジョリティで、普通の人で、でも変わっているところもあって、というのが、マッチョ思考の人を支えていると思うので、マジョリティ=自分が当たり前だと思っている価値観、を疑うのは、死ぬのと同じくらい思いつかないんじゃないかなーと思います。

本当は、甘えられたらいいし、甘えた分、人を甘えさせたらいいんだろうけどね。

マッチョ思考の人の問題は、とにかく自分の気持ちの言語化を怠っていることだと思います。怠っているというか、思いついていないというか。自分に感情があるということを認めてすらいないんじゃないかな。

哲学でも、理屈/感情という風に分けられていて、スラッシュの下側に感情があるのは、偶然ではないと思います。感情を低く見積もっていて、感情的であるものは、低いもの、感情を表す女はレベルが低い、と思っているうちは、楽になりにくいんじゃないかなと思います。

c71.hatenablog.com


かわいさの梯子を下ろされるとき

かわいさは若いころ珍重されます。

わたしにとっては、いい思いとは言えないけれど、便宜を図ってもらえたり、ご飯をおごってもらえたりすることをメリットと考える人もいるみたいです。それに、周りに、意思を持たず、かわいらしくいることが、女の幸せと教えられてしまった人も存在するようです。

でも、人は一人で生きていくのが基本です。かわいくいると、就職には有利かもしれませんが、かわいさだけで入れる職業はあまり収入の伸びがよくなさそうです。かわいさを武器にしていくと、ある年齢で、梯子を下ろされるようです。

自分の意思を主張しないと、それはなかったことにされます。かわいさをめでる人は、自分にとって有利だから、心地いいから、そうしていただけであって、そのかわいらしい人のことを考えているわけではないようです。利己的な人と利己的な人との組み合わせですが、一方に意思のある利己的な人と戦えば、負けは当然です。

わたしは結婚したいと思わないのですが、結婚したいならしたいといったほうがいいです。
女としての幸せは、察してもらうこと、言わなくてもわかってもらって、自分の都合のよい世界を作ってもらうこと、という不文律をわたしも感じることはあるのですが、それは、わたしにとって幸せじゃないです。

わたしにとっての幸せは経済的に自立すること、近くにいる人を選ぶことです。

かわいさは、それと相反します。
かわいさの梯子はいずれ外されます。
そのとき、何の力も蓄えていなかったら……と思うとぞっとします。


ブログを書いて人と出会う

ブログを始めた当初は、自分のために書いていました。
自分の気持ちを整理したり、話し相手がいなかったので、話し相手の代わりにしていたり。
でも、続けていくうちに、特に今年に入ってから、いろいろな人と出会って友達が増えました。

発信しないと、誰にも気づかれずに埋もれていくのだなと思います。

趣味でもなんでも、書いていけば、自分もやっているよ、と声をかけてもらえたり、イベントに出た時に、会いに来てもらったりします。
孤独だったころのわたしが、今の状態を見たら驚くだろう。

わたしを嫌いな人もウォッチするために見ていると思うのですが、それよりも、わたしに惹かれて読んでくれている人が多いと思います。だから、リアルで会っても全然違和感がないし、疲れにくいです。わたしの特質を知ってくださっている方ばかりなので。

わたしは察してほしいという気持ちが全然ないです。全部言語化します。言語化できないくらいまとまっていないときにはそれを話しますし、それと寄り添ってくれる人が今はたくさんいて、ありがたいなと思います。

ブログをなぜ書くのか、迷う人もいると思いますが、苦しみも悲しみも、楽しさも、幸せも書いていくことで、何かピントが合った人と出会う機会が増えるので素晴らしいと思います。

リアルで知り合う人とは、限りがあります。職場とか学校とか。土地や地理に縛られるので、世界中の広い人々と会うことができません。
危険もありますが、それは、リアルでも同じことだと思っています。

ブログをやっていてよかった、幸せだと思います。

わたしが、フェミニズムについて書いていることで、ある男性が、影響された、考え方が柔軟になったと言ってくれました。
少しは影響力があったのかなとうれしくなりました。
わたしは研究者でもないですし、本を最近は読めていないので、自分で考えたことが多く、正確さにかけることも多いと思いますが、入り口になってくれるのならばそれよりうれしいことはないです。

男の人も、女の人を養わなければいけないという呪縛から解き放たれたら、軽やかになれるし、女の人も働いて、自分で自分の一緒にいる相手を自由に選べるようになることはどちらにとっても良いことだと思います。

なぜか、結婚すれば幸せになると思っている人が多く、今日も電話で知り合いに「いい年なんだから」と言われました。現実にはがっかりです。

適齢期なんて自分が決めることで、人に決めてもらいたくないことです。そもそも、結婚したら幸せかということには懐疑的だし。

ネットでは、同じ考えの人もいるし、少し違う人もいる。全然違う人もいる。同じだったり少し違う人と話して、自分の考えをもっと具体的に深める機会が得られて、ブログを続けてよかったと思っています。


シーシャとDIY

シーシャにはまったのは一月のころ。
それから、毎日吸っている。
最初は、小さなボトルで吸っていたけれど、MYAの大きなボトルに変えてから、ずいぶん快適になった。
シーシャは、水たばこ。たばこだからニコチンが入っているし、タールも入っている。

でも、外出先で神タバコを吸ってみたいとは思わないから、やっぱり、シーシャが好きなんだなと思う。

今まで書かなかったのは、喫煙者って、やっぱり恥ずかしいと思っていたから。
でも、家の中でしか吸えないし、副流煙も甘いフレーバーのにおいしかしないから、迷惑はかけていないと思う。

水たばこの危険性には諸説あって、ニコチンが水に溶けるから、体にそこまで負担じゃないという話もあるし、水のフィルターはほとんど気休めだという人もいる。

わたしはお酒が飲めないので、シーシャで少し酔っ払った感じになるとリラックスできる。
それに、昼間寝ていた時間が、起きて、音楽を聴く時間に変化したのは良いことだと思う。
ちゃんと朝起きられるようになったし、夜も眠れるようになった。たばこの害も気を付けないといけないけれど、生活リズムが整って、やることができたのはうれしいことだ。

クレイトップはエジプシャンタイプを使っている。オージーも使ったけれど、エジプシャンのほうがもはやおいしく入れられる。
そりゃ、毎日していたら、少しずつうまくなるというもの。シーシャは、詰め方の腕で、味が全然違う。

軽やかな甘いフレーバーだけを感じるように、詰められるようになるまで、ずいぶん無駄に発破を使ってしまったと思うけれど、今は、小さなクレイトップでも、二時間は香りが持つようになった。

シーシャを通じて、人と会話することもできるようになった。チルインというお店がメジャーなのだけど、そこではほとんど、DIYでホースなどを作っている。それを観察して、自分でも、ホースやそのほかのものを自作するようになった。

DIYは楽しい。工夫次第でいろいろなことができる。マスタード入れを二つ買って切って、保冷剤を入れて、吸い口のところにつけたら、氷シーシャになった時には感動した。

好きなのはミントだけど、この前試した、ピンクグレープフルーツもおいしい。ヘイズやファンタジアをよく吸っていたけど、腕が上がったせいで、アルファーヘルでもおいしく作れるようになった。達成感があった。

具合が悪い時でも、楽しめるものがあるのはいい。
暇は変わらないけれど、彩が増えたのは良かったなあと思う。