頭の中の呪いのごぼう

頭の中に呪いのごぼうが植わっていた。
レイキヒーリングで抜いてもらった。
抜いてもらうまで、頭に呪いのごぼうが生えていることに気づいていなかった。
「呪いのごぼうが抜けていく感触がある!」と言ったら、
「抜いていますから…」と言われて面白かった。めりめり、ぴしびし、根っこが抜けていく感じがした。
茶色い水晶のような透明な石を使っていたのを後で教えてもらった。
抜けていくごぼうが見えた。
目の裏にも、いくらの粒のような形の、呪いの卵が植えられていた。それで、ものごとが正確に見えなかったんだなと思った。

蜂の巣思考だとか、分断思考だとか、そういうところがあって、できないと思い込んでいるって言われていて、そうなのかな?本当にできないんじゃなくて?わたしには能力が全然ないです、みたいに答えていたんだけど、そうかあ、呪いのごぼうが植わっていたか、そりゃあ、しかたがない、わたしは何も出来ませんって、能力が発揮できないように押さえつけられていたんだなと思った。

おかあさんが呪いのごぼうを植え、勉強だけできるようにして、あとの能力は閉じ込めるようにせっせと育てられて来たんだと思った。
だから、いろいろな人たちが、わたしを発見し、利用し、けがし、壊し、ののしり、謝罪を求め、許しを求めて来たんだなと思った。
わたしは形を変えて、変幻自在の、人の感情を慰撫するマシーンのようだった。相手の都合によって変わるのだ。求められている役割を演じることができるマシーンだったので、自分の気持ちに疎かった。
そして、自分自身が被害を呼び寄せているとまで言われたのだった。
そうじゃなくて、加害者たちは、わたしの呪いのごぼうを発見して、それを目印に集まっていたのだと思った。呪いのごぼうは、目印でもあり、わたしのコントローラーでもある。ごぼうを使って、わたしを支配して来た人たちはたくさんいるのだ。

わたしはずっと、加害者に許しを乞い願う気持ちを抱いて来た。
そのことに、さっき気がついて愕然とした。
わたしが加害者を許すのではなくて、わたしが、加害者に許してほしかったのだ。
わたしが、間違っていて、加害者が、正しい。
そういう風に思っていた。
だから、間違っているわたしが、罰を受けるのは当然のことで、正しい彼らがわたしを利用するのも当たり前だと思っていた。
当たり前だから、加害者に許してほしいと言われたら、許した。
怒りを抱いている方が難しかった。罪悪感が芽生えた。許さないといつまでも苦しいのは自分だよと加害者に言われてうなづくわたしだった。

わたしが弱いから、誘っているから、欲しているから、加害者を呼び寄せるんじゃないかと思っていた。
実際、わたしにそう言ってくる人がいた。
わたしはその人を退けたが、その人は「あなたは真実から目を背けている」と言わんばかりだった。
自分が聞きたくない意見を聞かないと、後悔する、良くならない、と言う人もいた。
そうじゃないのだ。
わたしは悪くない。
ごぼうが植えられていたから、わたしは、ターゲットにされ続け、弱り、怯え、脅されて来た。

しかし、ごぼうがとうとう抜ける日が来た。
この日のために、わたしはヒプノセラピーやパーソナルデザインや整体を受けて来たのだと思った。カウンセリングやら精神医学やらそういうものの力を借りて来たのだと思った。
ごぼうはわたしの真実だった。
ごぼうがわたしのすべてだった。
でも、抜けたらただのごぼうだった。
ごぼうがアンテナのようにわたしを支配していたが、わたしはヒプノセラピーで死んだので、ごぼうが抜けていくことがもう恐ろしくなかった。
順番として、ヒプノセラピーで一度死を体験しなかったら、わたしはごぼうを抜くことを許せなかった。
セラピストと協力して、わたしはあたまの中の呪いのごぼうを抜いた。

そして、加害者たちに、許しを願っていた自分を見た。
見えないようにしてきたものがなくなったら、簡単な話だった。
許すとか許されるとか、謝るとか謝られるとか、善と悪とか、分けることが意味なかったんだな。
わたしがわたしであること、コントロールされないこと、自分の感じ方をただ見つめること、それだけが大事だったんだな。
そして、気持ち悪いものは気持ち悪いで済ませていいんだ。
そういうことだった。

檻がないのに、檻があるように振る舞っていた。
檻があると教えられていたから。
外の世界は恐ろしいのだと教え込まれていた。
だから、外を切望しているのに、出ることができなかった。
楽しいこと、嬉しいこと、気持ちがよいことに罪悪感を感じるように。
何か楽しいことがあったら、その代わりに悪いことが起きるという呪いを。
人生には楽しいことと苦しいことが半々なのだという詭弁を弄して。
鍵なんてかかっていなかったのに。
鍵がわたしを守ると言われて来たけれど、鍵がわたしを守ったことなんて一度もなかった。
わたしの行動を縛るだけの鍵。
加害者たちはいつも鍵を開けてやって来た。いや、鍵なんて、もともとないんだから。
わたしの自由を縛るだけの檻を、あなたを守るものだと嘘をつかれていた。

呪いがごぼうの形をして、頭の中に植わっていた。


被害を受けてから長い年月が経っても

わたしは、虐待されて育った。
虐待から逃げるために男に走った。
男に虐待された。
虐待されて育ったから、領域を侵害されても仕方がないと飲み込んでしまう。だから、同じようなことを繰り返す。

男性からの暴力的な被害に定期的に遭っている。
その度にひどく傷つく。自分の非についても考える。
周りからも非難される。味方は少ない。
ネットで得た友だちだけが味方だ。そもそも人に話せない。だから、行政や医療を頼っている。普通の人には理解できないからだ。
そして背負わせてはいけないものでもある。

わたしの逃げるためのノウハウは、公開したいところだけれど、虐待男が参考にしても困るので公開できない。

被害から長い間生き延びて来た。
被害に遭わなくなってから、数年経つ。でも、わたしの真ん中には、被害のことが中心にあって、それを整理するためにかなりのコストが払われている。だから、いつも体調が悪い。効率が悪い。疲れやすい。楽しみにくい。感情が鈍魔する。深刻な睡眠障害がある。眠ると死ぬと思う。包丁を抱えて眠っていたことがある。

わたしは男に暴行されたと、暴行したことを後悔して泣く男をかわいそうだと思って慰めた。
グロテスク。
わたしはまだ未成年だった。

その傷はまだ痛い。わたしの価値観のすべてを歪ませる。濁らせる。
わたしには人を見る目がないのだと、ずっと思っていた。
最近、分析力があるから、そこまで人を見る目がないわけじゃないと言われて驚いた。
コンプレックスだったからだ。

わたしは、自分が悪くないと言い聞かせながら、それでも、真実のところは、わたしが悪いのだと思っていた。

被害の直後は、混乱していたから、大丈夫だった。加害者を助けたい一心で、加害を受けていた。
加害を受けて、加害者を慰める。そのパターンだった。

被害から長い時間がたってからも、わたしは彼を助けないとと歯を無意識に食いしばる瞬間がある。
憎くて殺したい、殺すのも汚らわしいと思っている相手を。
助けないといけないと思っている。

いやなことをいやと言えない。したいことをしたいと言えない。顔色をうかがって、いつも自信がない。
だから、つけ込まれるとわかっている。そして、また自分を責める。
地獄のようだ。
そして、自分の非を誰よりもせめていて、だから、治療も地をはうようにゆっくりとしか進まない。
治療をしているうちに、人生の楽しい時期が終わるんだなと思ったとき、一年くらい泣いていた。
他の人が楽しんでいる間、わたしは苦しみ続けるんだと思った。

被害を受けて、すぐ、立ち直れるわけじゃない。
遅効性の毒のようにゆっくりと人生を悪化させる。
からだを弱くし、病気にさせやすくし、友だちに心を開けないようになる。人間不信になり、アディクションに逃げる。そうやって生き延びようとすることを、今は愛しいと思うけれど、アディクションを責める人もいる。

被害から長い時間がたって、ようやく、傷の重さがわかってくるところがたくさんある。
若い頃にはわからなかった。
治らないことに絶望した。
絶望してからも生きなくてはならない。
絶望の先がある。
それが希望なのかはわからない。
ただ、他の誰も、経験してほしくない。でも、加害は、わたしの都合を無視してやってくる。自分のスケジュールでやってくる。
長い年月が経ってからも、わたしは未だに搾取されやすい。
わたしは事実を見たい。怒りを感じたら、それを出す。わたしを尊重しない人は無視する。空気を読まない。
安全でないと判断したら、逃れる。
被害から長い年月が経ってからも、思いもしない障害が出て来て、直しながら、誤摩化しながら、生きている。
だから、若い女の子が、加害者に、引き寄せられていくのを見ると、同じ目にあってほしくないと、どうしても願ってしまう。なにもできはしないのに。悔しい。


加害者に興味を持つことはもうやめる

kutabirehateko.hateblo.jp

加害者にずっと興味を持っていた。

一連のことを通して、興味を持つこと自体が危険なのだと知った。
ただでさえ、彼らは、人たらしで、人当たりがよく、魅力的だ。
見極めるのは難しい。
だから、知った瞬間に帆を張って逃げるしかない。

だけど、一度被害者になった人は、逃げ足が遅い。
裏切れないと思ってしまう。擁護したくなる。
そんな悪い人じゃないはずだって。
自分が悪い人と付き合っていたと認めたくない気持ちだけじゃなくて、ただ、親切な気持ちで。

わたしはその吸引に耐えられない。区別もつかない。渦に巻き込まれてしまう。
わたしが加害者の心性に興味を持ったのは、自分の傷に理由を付けたかったからだとわかった。
なんだかんだ言って、理由なく、自分が傷つけられたと思いたくなかった。彼らにどうしても、切迫した何かがあって、自分が犠牲になったことで、せめて彼らが幸せになってほしいと願っていた。
それは歪んでいる願いだとわかっていても、そうすることでしか、いられなかった。わたしが犠牲になって丸く収まればそれで良い。仕方がない。だってもう傷ついてしまったから。治らないから。だったら、世界が少しでも良い方に進んでほしいと思った。

だけれども、のぞいた加害者の心の中は混沌とした自己愛でしかなく、獏としたまとまりのない何かであって、誰かが救ったり、助けたりすることはできないように思えた。傲慢。傲慢は変化を受け入れない。
つまり、わたしは加害者をケアできないし癒せないし、そして、わたしの犠牲は無駄だった。
わたしはそのことを飲み込まないといけない。つらいけれども。加害されたときと同じように辛いけれども。

今回、直接的にわたしが受けた被害はなかった。わたしは加害されていない。でも、わたしを加害した人は似たような思いだったのだろうと思う。それで良いじゃないか。わたしはけなされ貶められた。自分で自分を守れず、危険に飲み込まれた自分を、もう、せめて、自分だけでも許していいんじゃないか。
危険に対する感知ができなかったのは、仕方がない。わたしは悪くないって、自分だけでも思って良いんじゃないか。

加害者から学べるものは何もない。彼らには自己愛しかない。他者がいない。他者に対する愛がない。だから、わたしは奪われるだけ。消費されるだけ。ただひたすらに利己的な人のことを、わたしは理解できない。だから、理解しないままでいよう。常に逃げていたら、理解していなくても良いんだから。

わたしは、法律を理解している。マナーもある程度理解している。わたしは、自分が被害者になったことで、誰かを加害することを過度に恐れていた。無意識に加害するんじゃないかと思って。

わたしは恐ろしかった。自分の身に起きたことを、他人にしてしまうことが恐ろしかった。
だから、わたしは目を塞いだ。そして、恐ろしいのに、加害者のことを知りたかった。
わたしは、再び目を見開いて、きちんと事実を見ようと思う。
加害者は、自分のことしか考えていない。わたしは加害者のケアを出来ない。わたしは彼らを幸せに出来ない。
わたしは自分を幸せにできる。そうしたら、少なくとも世界の一人は幸せになる。
加害者を幸せにすることで、世界を良くするんじゃなくて、自分が幸せになることで、世界を少しでも良くした方がずっと良い。

わたしの母は人当たりが良かった。良い人だと思われていた。頭も良かったし計算高かった。
わたしは母のことを知りたかった。どうして、こんなことをするんだって。

わたしは領域を破壊されて育った。領域を破壊されると、適度な距離感を持つことが難しくなる。
だから、加害する人から離れられなくなる。
加害する人は生きる理由を与えてくれる。わたしが加害される、まさにそのことによって、加害者はその瞬間、生きる目的に燃えているように見えるから。

母のことがわかれば、わたしの傷に意味があって、理由があって、だから仕方がないんだって思えるんだと信じていた。
でも、たぶん、理由はなかった。
わたしは彼女の理由を知らなくて良い。
わたしに加害を与えて来た男性たちのことを知らなくて良い。

他にももっと知った方が良いことはたくさんある。美しくて身につけても痛くない下着の種類とか、セージを焚くとさっぱりするとか、無水エタノールに精油を入れてスプレーするといいにおいがするとか、ローズマリーはプロテクトで、ジュニパーは清めるとか。

加害者のことを知れば、傷が癒えると信じていたのは、わたしが傷ついていた、まさにそのこと自体の理由だった。
それには根拠がなかった。費やした時間がむだだったことを認めるのは辛い。自分に非があるなら、まだよかった。そうしたら、その非を直せば、二度と同じ目に遭わない保障があるのだと思えたから。でも、非がなくても、狙われたら、それでおしまいなのだ。
わたしは加害者の心性に期待するのをやめる。
なるべく近づかない。知りたいときは、書物というクッションを通して知る。直接関わらない。
加害者だとわからないで知り合ってしまったら、わかった瞬間に逃げる。
そのことを恥ずかしがったり裏切りだと思わないで、とにかく自分を守る。
わたしには使命がある。時間には限りがある。生きていくことを楽しもう。加害者は寂寥の世界を歩めば良い。


性暴力は規範を壊す

わたしは、性暴力加害者が、性暴力を認めて、それを文章に書いたことが、あまりにも嬉しくて舞い上がった。

それはつまり、誰かが言っていたけど、あまりにも傷ついて、加害者がどうしてそれをしたのか、理解したくなるほど傷ついたってことで。

じゃあね、性暴力は相手の領域を侵害する行為だから、強盗に例えると、強盗をしたことを理解しただけの人を応援できるかというと、できない。
でも、わたしは、応援したかった。嬉しかった。変わっていくところを見たかった。
わたしは、どうして強盗がわたしを襲ったのか知りたかった、じゃないとその理不尽を理解できなかったから、ってなる。

あれは、性暴力の告白に他ならないと思うのだけど、あの話を強盗で整理すると(わたしのために、強盗で話をしないと、理解できない)
子どもの頃から窃盗や、毀損を繰り返していた少年は、その罪を理解することなく大人になり、人を脅して、金品を強奪するようになった(ひどいことを言って、女性に嫌がらせをして、ストレスで痩せさせ、その後セックスする)。
それでも、彼は、捕まらないし罰せられない。
そのうち、じぶんのしていることは、「何か」である、たとえ良いことをして、たとえば痴漢を見つけて注意したりするようになるけれど、自分が引き裂かれているように感じる。
そして、女の子を深夜に呼び出して、その告白をする。
たまたま、女の子は、強盗の被害者だった。その加害者は捕まっていない。
女の子は強盗に遭ったことを誰にも話したことはない。
その後、男性は、自分が強盗だったことを告白する。そうしたら、ネットで賛美両論が起きる。
そして、女性が、強盗を擁護する。強盗を許したわたしは無知で弱い人間ですかと。
かばうようなタイミングで。

捕まっていない強盗と、全く別の人に(捕まっていない)強盗された被害者と、二人で深夜に話し合うことなんて何もない。
それどころか、恐ろしい構図だ。
後悔しているなら、出頭すれば良い。そして、罪を償えば良い。だけど、そうしないで、女を選んで強盗告白をする。
そして、盗んだものの値段を気にしたことがないという。

というのは、やっぱり変だ。
わたしは強盗に遭ったけど、強盗が、再犯しないように願っているけど、それは、わたしの仕事じゃないとわかっている。行政の仕事だ。
そして、彼が、強盗をしたと言う認識を持つのは当たり前だと思ってるし、そのことに感謝なんてしない。罪を償うのも当然だと思う。わたしの左腕を返せ、ってあのときは思った。
そして、その後、強盗と深夜で二人っきりになって、強盗の告白をして泣かれたら、恐怖で許すしかないだろう。
麻痺する。

わたしは、強盗を許せない、と今思ってる。それは、規範まで壊されなかったからだ。
でも、性暴力は規範まで壊す。許しちゃいけないものまで許すようになる。
それが、性暴力の恐ろしいところだ。
されてることは、同じようなことなのに、強盗は許さないのが当たり前なのに、性暴力者は罪を償っていなくても、また、全く別人に対する犯罪だとしても、被害者が許す局面があまりにも多いのだ。
仕方がない、ってあきらめることが多いのだ。
強盗に遭ったら、仕方がないってあきらめますか?あきらめないですよ、わたしは。

出頭したら、いろいろなことを失わないといけない。本当の犯罪者になる、って感じするものね。でも、それが罪を償うってことだ。
性暴力者は倫理も歪んでしまっている。
人当たりが良くて、話しやすくて、面白くても、人間的魅力があっても、わたし自身がどれだけ、「加害をしたという認識そのもの」を歓迎したとしても、ダメなものはダメだ。
わたしが弱いとか、告白された女の子が弱いとか、関係なく、社会悪だから許したらいけない。
自分の領域や意思を飲み込まれるから近づいたらいけない。

強盗が、わたしに対して、ネットで炎上しているから、かばうようなコメントを出せとか、自分の意思で許したんだとか、書いて「自分の意思で許したってことにしよう」って提案されたらぞっとするし、そうじゃなくて、自分自身で強盗をかばってあの強盗は良い強盗なんです、自分も強盗に遭って救われました、って書いたら自分自身が相当医療を必要としているだろうし、実際強盗に遭ったあとは医療を必要とした。
そして、強盗が代筆して、わたしは無知でも弱くもなく自分の意思で許しましたっていったとしたら、わたしの自意識に侵入されたと感じる。
そして、強盗が同じジャンルの被害者に許されたとしても、実際の現実の自分でした相手に許されることと全然別。
別だし、許されても罪は消えない。

強盗だと、わたしも普通に考えられる。
でも、性暴力のままだとうまく考えられない。
それって、やっぱり、わたしも性暴力を通して、規範を壊されたからだろうなと思う。
だから、今でもつけ込まれるんだなと感じる。

わたしはあの女の子の文章を読んで、本当に力が抜けるほどだった。


幸せには重さがないから、天秤も使えない

わたしの感じ方を否定する人は、正しいつもりでいる。
でも、感じることに、正しいも正しくないもない。

わたしの範囲を超えて、侵入してくる人は人生にいらない。

すごく幸せだ。
c71になってから、いろいろな人に親切にしてもらっている。

大阪のオフ会に招いてもらった。
家庭的にもてなしてもらって嬉しかった。
フェミの人と実際に離すことってあまりないから、貴重だった。

アロマ&ヒーリングルーム睡蓮

睡蓮さんにもお会いして、頭痛をとってもらった。
ごぼうみたいな頭痛のもとを引っこ抜いてもらった。わたしにもごぼうみたいなビジュアルが見えた。
手のひらからなにかあったかいものが出ていて、気を失うように寝た。
猫はひんやりしていて不思議な手触りで、かわいさの固まりだから、生きていることが奇跡だ。
目の奥に、呪いもかかっていたので、それもとってもらった。
朝体調が悪くて起きられなかったのに、帰るときはけっこう元気で、幸せな気持ちで落ち着いた。

良いこともあるなと思った。
良いことがあると悪いことがあとから来るようで怖いけれど、そんなわけないから、楽しいこと幸せなことだけしていたい。
事実をありのまま受け止めよう。
わたしは幸せだ。


許さないまま生きて、優しいなんて言われないで

優しいと言われることを避けて生きていれば、生きることがとても簡単になる。

ものを壊されたり、大事なものを汚されたり、触られたり、盗まれたりするのは、とても傷つく。
侵入されていることが普通になると、自分の輪郭が曖昧になる。
感覚を鈍くしないと生きていけなくなる、いちいち悲しい、腹が立つと思っていたら、生きていけなくなるから、許すようになる。
たいしたことがないって思いたくなる。そして、生きていけなくなるからしていたことが、生きていく意欲を奪っていく。

心のバリアが弱くなると利用される。
利用してくる人や、けなしてくる人、とにかく心の領域、からだの領域を侵してくる人を断ち切れば、一時的に孤独になっても、危険は去る。

女が主体的に生きると、「きつい」って言われる。優しさに主体性は奪われる。簒奪される。

性的に簒奪されることも、主体を剥奪されることも、欲望を汚いと言われることも、無視されることも、混乱に持ち込まれることも、耐えられる。
耐えられるし、下手をしたら何も感じない。それどころか、庇護されている気持ちになる。
守られているような。

でも、そのまま生きていられない。

長い時間をかけて、侵入されないように、規範を作り直さないといけない。
そんな試練は、必要ないものなのに。

わたしは女の人の味方だから、女の人は、誰の許しも得ずに生きてほしい。
そして誰のことも許さず生きてほしい。
許しを乞われても、許さなくて良い。
許しを得なくても、好きに生きて良い。

良いなんて、言葉すら足りないくらい。
逸脱していても、生きる喜びを取り戻すためなら、何だってしてほしい。
そして、誰だって縁を切ってほしい。

優しいなんて言われないで。
それで、生きていて良い、と許可をもらったことにしないで。

生きていれば良いことがあるなんて言えない。
わたしはプロじゃない。影響力もない。何も

他人の領域を侵すくらいなら、疎遠で良い。
嫌いな人を遠ざけないと、自分のことを好きになる素質のある人と離す時間が取れないし、きっかけを作ることも出来ない。
だから、嫌いな人は二度と会わなくて良い。

許さないまま生きて、許されないまま生きて、優しいなんて言われないで。


罪を許したときのこと

ストーカーにあったときの話をします。

だから、フラッシュバックを起こしそうな人は読まないでください。

わたしは、小学生の時、筆箱を男子に投げられました。輪になってパスするので、取り返せませんでした。

だから、小刀をもって、刃の部分をしまって相手を脅して止めさせようとしました。

殺しても良いと思いました。

怒られたのはわたしでした。

からかわれたとき、机を投げて暴れました。
からかわれにくくなりました。

靴を隠されました。捨てられました。傘を捨てられました。

探しても探しても出てこず、心配顔をした人が首謀者でした。

だれも罰せられませんでした。

わたしは泣きました。

大事だったからです。

だんだんやり返しても無駄なのだと学習しました。

平気になったのかと自分でも思いました。

その後、ストーカーと知り合いました。
彼は加害を反省して泣いて、謝りたいと言いました。
わたしは彼を慰めました。

その後、彼はわたしのストーカーになりました。
つきあってくれないと死ぬというので付き合いました。

今わたしは、学習性無気力、ストックホルム症候群、自他の境界がなくなるほど、弱っていたからと知っています。

でも当時は誰にも言わず苦しみました。
自分が苦しいと感じることも禁じていました。

なぜならば、わたしに価値がないのだから、わたしが犠牲になることで、人の命が助かるのなら、命を投げ出そうと思いました。

離人になりました。夢の中にいるようで、感覚がなく、生きているのかわからなくなりました。

わたしはそれからもいろいろな症状で苦しみました。
それが他人のせいだと言えませんでした。
自業自得だと思いました。

わたしは大人になったので人のせいにできるようになりました。

わたしは悪くありません。

わたしは繰り返し人に迷惑をかけました。

でもわたしは悪くありません。誰のことも加害していないからです。

わたしは自分の規範や境界を取り戻すことにかなりの労力を払いました。

わたしは、悪夢をみます。
でも今それは現実ではありません。

起きても悪夢のなかにいたとき、わたしは生きていると言えませんでした。

わたしはあのころ、わたしのことが大事ではなかったから、人をかばいました。

わたしはそうさせた人たちが憎いようになりました。

わたしは今は小刀をもって戦える自分だったころに戻りつつあります。

小刀をもって、立ち向かったことは悪いことです。
でもわたしはあの勇気が懐かしいです。

靴も筆箱もわたしにとっては大切なものでした。
ランドセルを踏みにじった男子をわたしは今も許しません。

あのとき守ってくれなかった大人も許しません。

わたしは、わたしのことを守れる大人になりたいです。

わたしはとても悲しいです。
わたしは、わたしに暴行した本人が、わたしに謝ったとき、子供だったので許しました。

その五分後には、お前が誘うからおれはあんなことをしてしまったのだとなじられました。

わたしは謝りました。

本当に悪いと思ったからです。
その後、わたしはその人をかばいました。
頼まれもしないのに。
彼の人生が終わることを防ぎたかったのです。
わたしの人生は終わっていたから。

規範は容易く力関係によって歪みます。

本心から許しても、その言葉が本当であっても、その後の自分を傷つけることはあるのです。

わたしと同じような人がもう二度と現れなければ良いのに思いました。

でも、そうはいかなかったようです。

わたしはとても悲しいです。

わたしは世界中の誰が敵でも、あのとき小刀をもって、大勢の暴力に立ち向かった子どもだった自分のことが一番好きです。
誰に否定されてもです。


本当の恋人なら救ってくれるという幻想の醜さ

本当の愛があれば救われると思っているから、自分が救われなかったとき、裏切られた、本当の愛じゃなかったという。

だけど、恋人にも人生や辛さがあるから、なにも裏切りじゃない。

相手の意思や主体性を尊重していたら、そんなことは言えない。

罪を許してくれたら、本当の恋人、愛、だったとしたら、その人の人生はなんだったのだろう。

罪滅ぼしですらない。

許しを与えるだけの機械だ。

それは人をもの扱いすることと同じだ。   

許してくれてありがとうと崇めることと、相手の人生を踏みにじり利用することは両立する。

あなたが許してくれなかったから、不幸だと言葉に出さなくても、告白は相手をいつまでも縛る。

秘密を打ち明けることは相手の負担になる。
秘密の内容を知るまでは、相手も判断できないから、加害の話はプロにするべきだ。

許しが与えられなかったことを、嘆く権利はないのだ。
それが加害の重さだ。

そして、罪の重さを打ち明けること、人をもの扱いすることで、抑圧は解消されない。
解消されたと感じたとしたら、それは抑圧ではなくて、本来与えられる権利のなかった優越を、奪って、最初からの権利のような顔をしたという話になる。


性嫌悪ではなく、主体嫌悪

女をもの扱いして、性嫌悪を克服しようとするもくろみは、失敗している。

性嫌悪ではなく、女が主体になることの嫌悪であり、自分が客体になることを、恐れていると言うこと。

女が性欲を持つことを恐れるのは、自分が普段性欲を発揮することイコール他人をもの扱いしていることだから、自分がそれをされるのが嫌だというだけのこと。

加害者が変わってくれたり反省してくれることを切望する気持ちがある。
だから、わたしは判断が狂った。

誰ももの扱いされてはいけない。
してはいけない。

もの扱いすることで、克服できることはなにもない。
それは新しい加害に美しい名をつけただけ。、


わたしはものとして簒奪する気持ちを知りたいの

わたしはものとして、扱われ、簒奪された。

その後、他人をものとして、扱い、簒奪した。

これは誰のそしりも免れない。

わたしは学習した。
自分に起きたことが大したことじゃなかった、普通のことだと思いたかったし、自分にされたことがおおごとだと知らなかったので、同じことを他人にしても、たいしたことだと思わなかったのだ。

そして、密かな欲望として、なぜ、わたしが簒奪されたのか、知りたいという気持ちがあった。

簒奪が、加害者のいうとおり、たいしたことじゃなく、加害者にとってなくてはならないもの、なかったら死んでしまうもの、わたしが断ったら加害者が死んでしまうと脅すものなのだとしたら、わたしはやっぱり簒奪を許さなくてはならない。

わたしは、奪われたものを取り返すという気持ちもなく、ただ、簒奪者の言う普通を学習した。

そして簒奪者になった。

わたしは確かにレイプも窃盗もしていないし、誰かを病ませるほど深く関わったりもしない。
わたしにはそれほど人間にたいしてまめではない。
でもわたしの手には誰かに加害を行ったという手応えが残っている。

わたしはなにをしたのか?
なにをされたのか?

わたしはそれがまったく思い出せないのだ。

簒奪者はいつだって、わたしのためにといって、奪っていき、あらゆる形で利用した。

感情の吐き出し口として、アイデンティティーのよりどころとして。
彼らは非常に繊細で脆く、そして他人をものだと思っていたから、対人にたいして鈍感だった。

わたしはそれで許されるのか、と思った。

簒奪者はいつでもわたしが間違っているといった。
わたしはその呪いをまだ引きずっている。
簒奪者はわたしをものとして扱った。

たくさんのことを奪っていった。
わたしは、思い出せないけれど、回復の過程で誰かからなにかを奪ったと思う。
わたしは簒奪者から学んだからだ。
そして倫理観を破壊されたからだ。
簒奪者は手始めに倫理観を破壊する。
そして、自分のしていることがたいしたことではなくて、正当なことだとわたしに教えて、新しい倫理を植え付ける。

わたしはそこから抜け出したけど、他人をものとして、扱うという偽の倫理観を持っていた時代があった。

わたしにはそのころの記憶がおぼろげにしかない。

ほとんど誰にも会わなかったから被害者は少なかったはずだけど、きっと誰かを傷つけた。

わたしは何が起きたのか理解してなかったから、適切な人に相談できなかった。

大人になってからは、お金を払って、話を聞いてもらっている。
たぶん、それが一番安全なやり方で、誰のことも再び傷つけない懺悔だ。

わたしは加害者にさえも、懺悔する気持ちを持っている。洗脳から抜けきれていない。
わたしは自他の区別がまだついてない。 
もともとそうだったのもあるし、簒奪者はまず自他の区別を破壊する。

だから逃げても価値観がすぐには変えられない。
そこで、慣れ親しんだ簒奪者のもとに帰る被害者が出てしまう。

簒奪者のもとに帰らないようにするために、簒奪者の理屈を知りたい。