水面下の学力

学力がどうやって役に立つのか、書きたい。

具体的に、計算や、数学の概念や、古文の知識を使うことなんてそうそうない。
だけど、その概念を身につけるための方法論や、脳の動かし方、概念を操ることを出来るようになっている。
無意識にみんな利用している。
具体的じゃなくても全然良い。
ただ、発想するときに、種は多い方が良いし、道具として、自然に使っている。
たとえば、理科の知識を忘れていても、考え方やその道筋の正しさがわかっていたら、それを踏まえて本を読めるし、間違っていることにも気づきやすい。グラフの見方を教えてくれるのは、中学生のときだ。
今は統計も学ぶから、そういう知識も身に付く。
微分積分の概念は日常的に使いやすい。計算が出来なくても、考え方がわかっているだけで、いろいろなことが簡単に考えられる。
興味も持てるし面白く感じる。
知識や、概念を取り揃えていると、言葉にするのが簡単になる。
人に説明をするのがうまい人は、こうした忘れてしまっているけど、一度は身につけた知識やその過程がある人もいると思う。


わからないことを作文に書く

わからないことを作文に書く、ということを教えました。

微小に向かう無限と、拡大に向かう無限とがあるとしたら、作文に向いているのは、微小な無限だと。
答えが出ていない問題について語るとき、「わからない」「迷う」という気持ちの足跡を書けばそれで良いのだと言う話をしました。

拡大していくと、どんどん高らかになってしまって、それが本当の気持ちなら良いけれど、一行書くごとに、進歩しないと思うと、どんどん書けなくなる。

書く内容が転換するときに、接続詞をつけないといけないと思ったり、流れがおかしいんじゃないかと思ったりして書けなくなる。

だけど、順番がおかしかったり、展開していくことも、それはそれで味なので、思った通りに書くと良いですよ、ということを言いながら、書いてある箇条書きを並べ変えたら作文になって、生徒さんも喜んだ。良かった。

今日は疲れているので、生徒さんが得意な教科からはじめて、テンションが高くなってから、自信を持って、苦手な教科に取り組ませた。
そしたら、少し堂々と解けて、落ち着いて、文章を読んで「聞かれたことに答える」「書いてあることを図にする」という課題が少し出来たのでよかった。


え、学校に行かないのよくないって言う人実在するの?

図書館にいっても良いよってツイートが問題になってたの知った。

え、学校に行くことが良いことなんてどうして思うの?なんで?いけないの?
学校いやだったら図書館で勉強してたり本読んでたりしてたら、いいじゃん。

だって、学校を休むことは違法でもなんでもないからね。
大人が、子どもに、教育を与える義務があるんだから。
それだけのことだよ。
図書館でそれを得てもいいわけだ。
そもそも未成年が違法のことをするってどんなときよ。
あり得ない話をする人がいるんだな。
大人になっても法律を理解しない残念な人がいるらしい。
その人にとって、学校教育は役に立たなかったんだな。

わたしそうしてたけど、ちゃんと学力ついたし、大学にも二つ卒業したし、まじめだよ。
家も学校もいやだったら図書館に行ったら、子ども安全な確率高いじゃん。
そんで、本を読んでいろんな世界があると知ったらそれで良いじゃん。
わたしは塾講師で不登校の子も見るけれど、簡単に解決できないよ。
プロでもそうなんだから。
お金で契約してないと、相手の距離が間違ってしまって、すごく対応することになるから、そっとしておくのが良いよ。
通報!図書館にいることで通報されるの?
子どもは難儀だな。図書館で勉強する自由も認められないわけ。
学校に行かなくていいってなんでわからないんだろう?
大人には、勉強の機会を与える義務があるんだから、図書館で勉強を与えんかい。
学校で勉強する環境じゃないなら、図書館で勉強させる方が、子どもの権利を守れるよ。

まあ、気が向いたら、雑談くらいしても良いと思うけどさ。

それで、ちょっと関係するかもしれないのだけど、その頃読んだ本が今の人生に役に立ってる。
集団で生きることが難しいわたしだけど、コミュニケーション能力を使って塾の仕事をしているよ。
自閉症だけど、話を聞くのはうまいんじゃないかな。
テンポの良い軽い話題をするのが苦手だったり、空気を読むのが苦手なだけで、雰囲気も読めるし、相手の言っていることを理解する能力は、定型の人よりもいっそのこと高いと言わせてもらう。

塾講師は、基本的に、雇われているけど自営業でもあるわけで。
向いていることをするのが良いよ。
会社員はわたしはダメだった。
異質性を見抜かれてしまった。
相手だってバカじゃないからね。
わたしが異質なことは、すぐ誰にだってわかる。
だけど、自営業をしている限り、誰もそんなことを気にしない。
自分のペースで働いて、自分の頭を使って働ける。
生きている感覚を取り戻せる。
二次障害になった人にこそ、自営業を勧める。
簡単だよ。

学校に行かなくたって、コミュケーション能力を伸ばす場が良いんじゃないの?
同じ歳の人たちと、政治的につるむやり方を身につけられるだけじゃない?学校。
歳の違う人に、認められながら過ごすのも、人生勉強になると思う。
浮きこぼれって言葉をはじめて知ったけど、わたしもそうだった。
そして、図書館で本を読んで、授業中も本を読んでた。質問には、聞かれてから考えて解いてた。
先生もあきれてほっといてくれた。ありがたい先生だ。

だから、学校なんて、適当で良いんだよ。
定型の人だって適当に過ごしてて、寝てたりして人生の損失をしていたりするんだから。
だったら、自分でしたいことをする人の方が正常だと思うけどな。


生きる意味をわからないあなたがそのままで素敵

生きている意味が分からない。
いじめをする側の人の気持ちがわからない。
自殺をする人の気持ちがわからない。
リストカットをする人の気持ちがわからない。

そう、彼女が言ったので、素敵だなと思った。

わたしも生きる意味なんてわからない。
「クレームあったけど、慰めてもらったからまあ良いかなと思った」
「生徒がちょっと良い感じで帰った」
だから、今日も生きているのであって。でも、誰かに、「いつかいいことあるよ」「良いことも悪いこともあるよ」と言われたら、そんなことじゃねえよ、と思うだろう。

具合の悪いときには、これから先良いことがあると言われても「だから何?」としか思わない。
だから?
それで?
今苦しいんですけど?

先が見えないと言うのは苦しいことだ。
過去に楽しい経験が蓄積されていないと、すぐに死んでしまうんだ。

大人になって、楽しい経験を貯蓄するべく遊んでいるけれど。子どもの頃は遊び方がわからなかった。
楽しい経験を貯蓄する代わりに、貯金はないのだけど。生きている楽しさはある。
子どもの頃はどうして生きていれば良いのかわからなかった。

今生きている理由を聞かれたら、かっこよくいえば「地域教育への貢献」なんだろうけれど、そんな仰々しい言葉がわたしを救ってくれるわけではない。
実際に行われる、ちょっとだけ良いこと、生徒がわからないことを教えてくれたとか、分からないと言ってくれたとか、そのことがわたしにも思いもよらないわからなさで、興味深かったりとか、新しい考えのきっかけになったりとか、具合が悪かったときに気遣ってもらえることだとか、親御さんからの励ましだったりとか、そういうこと。ミトコンドリアがATPを交換してエネルギーにするみたいに。日常の生きた出来事がわたしの中の悪い考えを交換してくれるんだ。毎日生まれる悲観的な考えを、良い気分に交換してくれる小さな出来事。
それがなければ生きていけない。新しく知っていくこと。わからなさ。その交換の連続。

ネガティブなことのエネルギーは大きくて、そのことがわたしを生かしていた頃もある。恨みやねたみがわたしを生かし、そして、行動させた。それから、道が開けた。憎んで、恨んで、妬んでいたから、そうじゃない人生を選びたかった。
自分と比較して恵まれているように見える人に、認められるように、うらやましがられるために、行動した。

お金を使うことに血道を上げたこともあった。復讐みたいに。

わたしは自分の命を持て余して。鈍かった。痛みや悲しみや苦しみに対して。だから、何度も反芻して、頭の中を過去で常に一杯にした。妄想の中で生きていて、現在を捨てていた。現実も「今」の瞬間も生きておらず、幽霊のようだった。

わからなくて、言葉もでなくて、迷っていて、黙っている彼女を素敵だと思った。
不用意なことを言いたくなく、前向きな、言葉を探している彼女。
わたしはそのままで良いんだと伝えたかった。

前向きなことなんてわからなくていいんだと言いたかった。
生きる意味の答えが見つからないので良いんだと。
「見つけるために生きる、ってまとめるとかっこいいけどね。でも、そうじゃないよね。綺麗にまとめすぎているよねって思うよね。それは。だから、そんなことじゃないよね、お互い」
とわたしは言った。

生きる意味、今は、小さなちょっと良いことがわたしを生かしていると思うけど、そんな状況じゃなく、傷ついて痛んで弱っている人にはそんなことは届かない。だから、生きる意味、わからない。
それでいて、リストラされて死ぬ人の気持ちもわからない。ローンがあるから、って追いつめられて死ぬ人の気持ちもわからない。
死ななくても良いのに、ってやっぱり思う。
思うし、思うけど、一瞬納得する。ローンを苦にして自殺。そうなんだ。
でも、ローンがあるから死ぬ、って筋が通っているようで通っていない。
よく考えれば、筋が通っていない。納得できない。
ローンが原因じゃないんだと思う。それまで、すりつぶされた何かが、その人を殺したのだ。

本当は死なないで良いんだ。でもその人の苦しみが、ローンを苦にしてとしか、名付けられないことが問題なんだ。その人が、わからない、って言えたら死ななかったかもしれない。

苦しいときは他に道があってもその道が見えない。
あるけれど、信じられないようになる。
本当はだましだましやっていく方法があるのに。

わたしは続けた。
「わからないというままで良い。そのことを書いて。どうして、そういう人がいるのか、存在を知って、困った。わからないって、書くと良いよ。そうすると、頭の中が動くから、新しいことが思いつくから。分からないことを分からないって書くことだって、大事なんだよ。正直な、素直な気持なんだから」
わたしはそう伝えた。

社会現象や、友だちのことを考えて、どうしてそんなことが起きるのか、悲しいことが起きるのか、戸惑いながら、迷いながら言葉を紡ごうともがいている彼女がいた。

生きる意味とは何だろうと格闘する彼女は素晴らしかった。


知性も美しさもわたしのもの

生まれたくて生まれて来たわけじゃない。

最近気になるのは、ツイッターで、「良い父よい母のもとに生まれて来て感謝。人を見る目もある。自尊心も培われた」というようなツイートを見る。
逆に「虐待されなかった、というのは資本だから。勉強できる環境を用意されて勉強できたのも親の恩恵」みたいなツイートも見た。
これは、勉強して来たのが努力なんだから、ということに反発したツイートで、努力できないような環境の人もいるんだという意味なんだけど。でも、これをそのままストレートにとると「努力して来たのも、全部親の功績に還元されてしまうのか」と思う。

親の功績じゃない、還元されたくない。
わたしは、わたし。
わたしが手に入れて来たものは親がお膳立てしたものだろうと、なんだろうと、わたしのもの。
なぜならば、わたしが選んだから。
好きで生まれて来たわけじゃないから。
親は私を好きで生んで育てた可能性が高いけれど、わたしはその意思と同じじゃない。
好きで生まれたわけじゃない、ってことが、親とわたしを区別する大事なこと。

勉強できるからといって、からだを壊すまで勉強させられたことは忘れられないし、体調を崩して救急車で運ばれたらつかみかかられたとか、推挙にいとまがないけれど、わたしはわたし。
環境が良かったのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。わたしから分離できない。
かといって、出自が全部決めるとも言いたくない。
自尊心が培われなかったから、だから、それがなんだ。培われないなりにやっている。
痛めつけられて自立できないようにさせられて、巣立ちが遅かった。でも、それも「成人してからも親元にいたのは自分の意思でしょ」と言われる。「物理的に縛られていたわけじゃないでしょ」と。
家に一切友だちを呼んではいけない、お父さんがいないことを悟られてはいけない、というルールの中で育てられた。
わたしはそのことに反発して生きて来た。お父さんを恨みながら。おかあさんを恨まないように必死に努力しながら。
それから、おかあさんを恨みだして、お父さんのことは恨まないようにしようとした。
わたしが生きて来たのは親のお金で。

でもだからといって、わたしの持つ美点が、親の功績に還元されると思いたくない。
そうしたら、出自がすべて決めて、わたしの意思なんてどうせ関係なく、環境だけが左右して、その環境も親の財力に左右されて。わたしの意思なんて消えるがごとく扱われたくない。
わたしは生まれてきたくなかったんだから。その意味でわたしは親と違う。別の人間だ。

誰かが生きるのに、他の誰かのリソースを使わずに生きるなんて不可能だ。社会の中で生きているのだから。たまたま子どもの頃は親の比重が多かっただけ。だんだん、少なくなる。

わたしは自発的に本を読んで育った。「本を読むような環境を整えられて、殴られずに育って良かったね」という人もいるのかもしれない。わたしは家に帰るのがいやで外で本を読んでいた。教科書を燃やされている友だちもいたけど、わたしの教科書は燃やされなかった。運が良かったのかもしれない。
「理解力のある頭脳に生んでもらってよかったね」という人もいるかもしれない。これはわたしの頭だ。母が理解力のある頭脳に生もうとして生んだわけじゃない。わたしはたまたま運良く、賢い頭を手に入れた。これは、天からの授かり物だ。

「親のおかげでわたしは幸せ」、という人も、「環境によって努力するという概念自体も与えられなかった層がいる」という人も、同じような危うさを感じる。環境によって自分がすべてを作り上げられたような。

それは無力感だ。無力感につながる。

努力したから自分がある、だから、能力のないひとは努力が足りない、という考えも間違っていると思うのだけど、この三つを繋ぐ間。重点のような、中心のような、場所。それがあるはずだ。

わたしは親と違う人間だ。わたしは生まれてきたくなかったから。
わたしは生きている。
仕方がないとあきらめた。あきらめたからには自由に生きていたい。わたしは生まれてきたくなかったという気持ちを忘れるくらい、自由に、自分で、独立して、生きていたい。そのための材料を運良く授けられたことは特権なのかもしれない。
だけど、この、知性も美しさもわたしのものだ。
わたしのできないことの多くも含めて、わたしの欠点も、誰でもないわたしのものだ。

わたしの死にたかった気持ちも辛かった気持ちも絶望も希望も全部含めて、わたしだ。
感謝しない。


良い人だけど毒親ってこともある

わたしの父は良い人だけど毒親だ。
生きている人だからあまり悪くも言いたくないのだけど、金銭的責任は十分すぎるほど果たしてくれたし、わたしのことを気にしてくれるし、大事に思ってくれているけど毒親だ。

わたしの母は料理を作るのがうまかった。おいしいごはんを作って待っていてくれた。でも働かなかった。そして、わたしのパーソナリティをつぶすようなかわいがり方をして、ペットのようにあつかって、わたしを虐待した。
わたしは自分の親を、礼賛していた。虐待されながら。
二人とも素晴らしい人なのだと思っていた。わたしがいなくなれば、お父さんはわたしたちに対する支援を断ち切って、おかあさんが飢え死ぬと思っていた。人質なんだと思ってた。

そのときの心細さは忘れられない。おかあさんがしがみつくようにわたしに抱きついた。あのときの重さ。暑さ。感触。あなたを守るからと言いながら守ってほしそうだったあの感じ。

悪い人だから虐待するわけじゃない。良い人でも虐待する。クズだって良い人だって虐待するし、クズだって悪い人だっていい親になる。

もちろんおいしいごはんを作る毒親、誠実な毒親、まじめな毒親、社会適合者な毒親、社会規範に収まった毒親、常識のある毒親、仕事のできる毒親、いろいろいると思います。毒親だから、人格のすべてが全部ダメってことじゃないから、見切りを付けるのが難しい。

パートナー選びと同じですねー。

初期設定として毒親に育てられてないから見る目があるわたしラッキーというツイートを見て、よかったね、と思うと同時に「今の段階ではそうかもしれないね」と思うわたしがいます。わたしもわたしの両親とても素敵と思っていた時期があるからです。

つっこみたいのは、自分の母親に見る目があったら、良い父親を持つ自分にも自動的に見る目ができ、母親に見る目がなかったら、人生終了なのかよ、ってことです。

自分の母親に見る目があってもたまたまクズと結婚することもあるだろうし、見る目があっていい人だと思ってもそのあとクズになると言うこともたくさんあると思うのですが、その難関をくぐり抜けてずっと良い父親だったのはずいぶんラッキーだねと思うのですが。

でも、自分には見る目がなくてクズだけとしか付き合わないからって自分や自分の親がダメだったからと思いすぎると絶望しかまっていない。

そして、わたしは男を見る目がない。ない。それは初期値がどうのこうの、生まれがどうのこうの、育ちがどうのこうの、って理由だったら、もーわたしにはどうしようもないので、絶望するしかありません。
でも人間学べると思いますね。初期値が良くても、子どもとして良い父良い母に見えても、人生の段階によって、感じ方は変わるかもよ、と思うし、初期値が悪くても、だんだん「虐待されていたから虐待するような人、パーソナリティをつぶす感じで愛する人を好きになる」というのから逃げられるようになると思うんですよね!

わたしの母はわたし思いですが、妹とそろって「あなたはパーソナリティ障害だから!」と言って来た日のことは忘れられません。
かといって、精神科に行こうとしたら、止められましたし…。
それでいて「わたしは偏見ないから。勉強しているから」と言っている一方で「仕事場の人があの病院からは変な人が出てくる、でもしかたないよねー、って言ったの」という会話をしたとかそういう話が出てくる人でした。
ダブルスタンダードも良いところだ!
わたしはこの人はそのときどきによって言うことが違いすぎると思い、混乱しました。
だけど、彼女は、自分がそのときどきで全然違うことを言っている気がしていないんですよね!自分が何を言っているのか分析しないから。理解できないの。嘘つきなのかなと思ったこともあるけど。

良い人だけどクズ、クズだけど良い人、良い親だけどクズ、良い人だけど毒親など、いろいろなパターンが存在します。
毒親って他人のパーソナリティをつぶして、一方的に自分の型にはめてかわいがろうとしたり、かわいがらなかったりする人のことだと思ってます。
物理的な虐待もあったけど。かわいがりながら虐待するってことが人間には可能。
いつも、虐待するってことは難しくて、ときどきかわいがりながら虐待しながら監視しながら自分の思うステイタスのある職業に就いてほしいと願いながら教育熱心になることも可能。優しい顔も持ちつつ、虐待することも可能!

だから、わたしは虐待されて、良い親だと信じているから追いつめられているのに、自分を無理矢理幸せだと信じて言い聞かせていた頃がありました。あの頃わたしの目の瞳孔は開いていたと思います。


相づちをうつ技術

人の話を聞くだけで暮らしているわたしのことをどうかと思う人もいるかもしれない。
だから、書こうと思うのだけど、人の話を聞いて、適切に相づちを打つのは簡単ではない。

人は誰でも話を聞いてもらいたがっているのだから、質問したらいいんでしょ?と思っている人もいる。
だけど、変な質問をして、プライバシーにずかずか入って、相手を疲れさせておいて、「こんなに人に話せないようなことを聞き出せたのだから、良い聞き手だったわたし」と悦に入る人もいる。
無理矢理聞いてもダメだ。

自分の思うように誘導して答えを導きだそうとして聞くのも良くない。
自分はこう思うのだけど、というのをさておいて、相手の思うことを聞き出さないといけない。
たとえば、この前わたしは「前向きに頑張らないといけない」と思う生徒の話を「違う」と思ったけどそのあとどういう風に話が続くのか全く想像しないまま、生徒の言葉を整理していった。そうしたら「悲しいこと、つらいことを感じないようにコントロールしている。だから、人とうわべだけで付き合っているようでつらい」というところにたどり着いた。
そして、そのことは解決しなかったけれど、わたしと話を整理する経験はその人にとってよかったようだった。

その話についても、当たり障りのない話題から入っていったのだ。
当たり障りのない質問をして、自分の感じたことを話す、ということを繰り返すと、人は自分で自分の持っていた答えを発見するようだ。
それは、時間がかかるし、神経も使うし、労力も使う仕事だ。

人の話を最後まできちんと聞いて、裁かないで、うなづくというのは、けっこう大変だ。
それで、わたしはそのことでお金をもらって、生活している。
それは間違っている、と思う人がいても、やっぱり仕方がないけれど、人に話を聞いてもらうことがけっこう難しいと言う経験を通して、わたしはそれが悪いことだと思わない。良いことだと思う。


乗り越えたり、強くなることばかりでは苦しくなる

効率の良い人間は苦しい。

なぜかというと、もっと優秀にならなくては、もっと強くならなくては、と思っていたら、いつまでたっても「まだ優秀ではない、他の人に比べたら」となるので、ずっと居場所がない。他人にも居場所を用意しない。強いものだけに居場所を用意するとなったら、自分以外の強い人に尽くすだけの人生になる。

ポジティブになろう、良いことだけ見よう、というのは、一見正しそうだけど、人生にはつらいこともあるし、楽しいこともある。
つらいことは気持ちが悪いことで、楽しいことは気持ちのよいことだ。
それは、自分が感じることなのだけど、ネガティブな方だけ、ストップをかけようとしても結局自分の感じ方をコントロールしていることには違いないので、楽しいことに関しても、つらいことに関しても、自分の感受性にストップをかけたり、これは感じてはいけないことだと思ってしまう原因になる。

そのことが怖いのは自分の不快感の発する「警報」に気づかなくなって、自分が否定されたり、傷つけられたりして、どんどん痛みに鈍くなってしまうことだ。痛みに鈍くなると、傷つけられることにも鈍くなって、逃げ出すことができなくなる。
それを自由意志で逃げないと言う人もいるけれども、わたしは違うと言いたい。
逃げ出せないほど痛みに鈍くする方法で虐待する人はいる。そうしたら、痛みを感じないから逃げないけれども傷つきすぎてぼろぼろになる人が出来上がる。その人が逃げて回復する途中で、悲嘆にくれたり、呪詛をこぼしたとき、「自分の意思で逃げなかったんでしょ?」という人は最低だと思う。

乗り越えたり、強くなったりして、ネガティブなことを乗り越えようとしている人は、すでに痛みに鈍感になるくらい傷つけられているんだと思う。楽しい状態でも、さらに強くなったり乗り越えたりすることは労力をたくさん使うのに、ただでさえ、不愉快な状況になって、力が失われたときに、通常のときに出している力以上のことを求める人はおかしい。

だから、つらいときは、「乗り越えよう」と思うんじゃなくて、ただ、「つらいなあ」と思っていれば良いと思う。

生徒さんに「いつも失敗したら、反省してるし、生徒さんがやめるときにはいろいろ考えてしまうの」と言ったら、
「先生が一生この仕事を続けていくんだったら、そんなことをしていたらぼろぼろになってしまいます。
だから、まあいいやくらいで考えてください。わたしが満期でやめるときも、やりきったな、って思ってほしいです」
と言ってもらった。


困っている人からお金をとること

この前ベシーのブログに「困っている人から金をとるな、勉強もしていないのに相づちだけで占いと言って金をとるな」というようなコメントがあった。

そのときはかっとしたのだけれど、このことに疑問を持っているひとがいる、ということだから、ひとつひとつ考えてみたい。

わたしはそもそも、塾講師で生計を立てている。困っている人からお金をとる仕事だ。
勉強ができないから、困っている人に、勉強をわかりやすく教えて、悩みも聞く。将来に関わるすべてのことを請け負う。
これは、無料で教えている「学校」というものがあるのに、それでは足りないから来ている人たちに対しての仕事だ。
困っている人からお金をとっている。間違いない。
でも、すごく感謝される。お金を払うだけじゃなくて、感謝もくれる。お客様は。それは、「わかりやすくものごとを説明する」「心に沿う」人があまりいないからだったり、お金を払っていても、嬉しいと思う何かがあるからなんだろうと思う。
わたしはすでにお金をもらっているから、それ以外のものを受け取らなくても良いと思うのだけど、でも、仕事から、社会との接点だったり、嬉しい気持ちだったりを受け取ってる。全然悪いことだと思ってない。

どの仕事も困っている人からお金をとっているのだと思う。困っていなかったら、それをほしがらない。お金を払ってでも、ほしいのだ。

無料でやる人もいる。もちろん。でも、無料となると、しがらみだったり、お金以外のものを対価として払うことになる。
どんなに無料だと思っていても、それだけではすまなかったりもするし、お金を介在しているから安心するという気持ちは確実にある。

以前、無料で同人誌を配ろうとしたとき、無料だと誰もほしがらなかった。値段を付けたら、買ってもらえた。100円のときより30円のときの方が売れた。その方が価値があると思ってもらえた。自分で「これくらいの価値がある」と胸を張れるものから売れるのだと思った。

わたしは分かりやすくものを説明することのプロであり、相づちを打つことのプロだ。
相づちを打ってもらえることで、人は何かを乗り越えたり強くなったりしないし、しない方が良いと思うのだけど、でも、気が楽になる。
楽しいところだけで人と関わろうとすると、自分を限定的にしかさらけ出せないので、どこか、空虚になって、元気がなくなってしまう。でも、友だちや知り合いにつらいところを話すことは難しい。病気のことや、プライベートのことをむやみに話して、言いふらされるのは困るからだ。
だから、見ず知らずの人に、お金を払う、ということを通して、信頼関係を作り、その上で、話すというのは、安心できることなのだ。

間違える人が良くいるけれど、分かりやすく説明することや、相づちを打つことは無償じゃない。
無料でもない。
わかりやすい説明というのは、技術だったり知識だったりで、その人がお金をかけて、時間をかけて集めて来たことだ。
それをただでかすめ取ろうとしたら泥棒だ。
知っていることなんだから。減らないんだから、というのは、その技術や知識に対する尊敬が足りない。
そして、教えている間の「労力」も無視している話だ。
無料だとしたら、その人と友だちだからだ。でも、教えてもらったり話を聞いてもらったら、だいたいの人はお礼をすると思う。
友だちじゃない人から、分かりやすい説明を受けたら、お礼の仕方はたいていお金が一番喜ばれる、という話なんだと思う。

占いをすることになったのは、今は治ったけど、多重人格になり、その人格が占いをしたいと言ったからだ。
その人は霊視ができた。今も、なんとなく、その人の過去に起きたり、現在に起きたり、未来に起きることが何となく見える。
だから、わたしはその人の気持ちの整理の手伝いが出来る。それに、説明もできる。わたしは説明のプロだ。物事を整理して考えるプロだ。
占いの部分はアミューズメントだと考えている。その人に関わることで、どうでも良いようなことを当てると、クライアントの人はちょっと喜んでくれる。猫の柄だとか、人間関係で悩んでいる相手の人が薄毛だとか、太っているとか、小柄だとか、本人の腰が遺体とか、足が冷えているとか、そういうことを当てられる。
わたしはそういうのにたいして、オプションで祈ったりも出来る。だけど、本当の病気に対して治せない、ということも伝えている。
わたしは、相づちを打って物事を整理して、そして、こういう未来が見える、とか、こういう過去が見える、と言ったりする。

けれど、そのこと自体をなんとかするのはご本人ですよ、ということもお伝えするようにしている。
わたしは、治せないし、物事を良くしたりも出来ない。でも、指針をほしがっている人がいる。わたしは指針を作れるけれども、作らないようにしている。なるべく誘導しないようにとも思っている。一緒に考えるために、前提を整理して、その人が本当に何を欲しているのか、考えるようにしている。
病気の人には病院に行った方が良いとも言う。

占いを始めたことで、周りをぎょっとさせたと思う。
でも、占いの内容は、未来や過去を見ることと、相づちを打つことと、説明をすることだ。
相づちを打ち、励まし、説明をすることはそもそも生計を立てている仕事の一部だ。
相づちを打つだけでお金をもらうことを悪いと思う人がいることは分かった。
でも、相づちは自分を解放するために、たまに必要になるものだ。
わたしは一生懸命、考えてものを言ったり、聞いたりする。
相づちを打つだけでお金をもらうというひとは、相づちをバカにしている。
相づちはとても大事なものだ。一生懸命わたしは話を聞く。わたしと話したい人もいるだろう。他にも占い師もいっぱいいるし、心理学をやっている人や、カウンセラーや、精神科もある。でも、それでもわたしに話したいとその人が選んだなら、止める筋合いもないし、わたしはあくまでも選択肢の一部だ。そして、お客様はそのことを分かっていると思う。

だから、困っている人からお金をとるな、と非難されると一瞬ひやっとするけれども、わたしはそのことをどういう壊れる筋合いはないと思う。
お金は関係を省略して作り上げる道具なんだ。関係を作るためにお金を差し出すことは、別に、特別なものでもない。


魔法を使う

生徒さんから深刻な悩みを打ち明けられる。
他の人に話せなかったり、親にも話したけど、それでも他の人に聞いてほしかったり。
行きずりの他人だから、話せるんだろうなと思って聞いている。

乗り越えなきゃいけない、強くならないといけない、ポジティブに前向きになって、暗い気持ちをコントロールしないといけない、という子が、本を読んで「透明な存在」て言葉に共感をしていた。同調圧力にあわせていても、透明な存在になってしまうし、人と違うことをしても、避けられて透明な存在として扱われてしまうって。辛い部分をストップして、楽しい部分だけで人と付き合うって。でも、それだと、うわべだけの付き合いだと感じて辛いって。話してくれた。

わたしはお金で雇われているだけの存在だから、話していて、怖くなったり、いやになったら契約をやめれば良いだけだから、生徒さんも気楽だ。

病気になったり、食べられなくなったりする生徒さんもいるし、学校に行けなくなる生徒さんもいる。今からこんなペースで悪いことが起きて、大丈夫なのかとみんな不安になっている。

わたしはうんうん、って話を聞いたり、一緒に怒ったりする。
「相づちをうつだけでお金をもらうなんて」と怒る人もいるだろうけど、そういう仕事もあるんだ。
困っている人からお金を採るように見えるのかもしれないけど、困っている人はお金を払ってでも話を聞いてほしいのだし。
お金をもらってうつ相づちって、普通にうつ相づちとやっぱり違う。すごく優しくなれる。
お金を払わないと安心して打ち明け話が出来ない人ってたくさんいる。やっぱり、秘密を漏らされたり、自分が傷つく反応をされたりするのが怖いから。怖いと言うか当たり前の心配なんだけど。
相づち打つだけ、て思う人は相づちの魔法をバカにしていると思う。相づちには魔法がある。
魔法で、元気が出たり、気が楽になったりする。
それは魔法だから、具体的に何か出来るわけじゃない。

わたしの相づちには技術があって、魔法があるから、普通の相づちとはやっぱり違う。
自分で言うのもおかしいけれど、プロの相づちなのだ。
相づちを打つ合間にもいろんな話を聞いたり話したりする。
それがいつもちょうど良い感じじゃないといけない。
説教に傾いたらだめだ。

「相づちくらいでお金をもらうなんて」と思う人は相づちを真剣に打ったことがないのだ。
それは労働だし、やっぱりたいへんなことだ。間違えたら相手が死んでしまうくらいの気持ちで、命がけで打つ相づちもあるのだ。

子どもたちは不安定で、信頼関係のある、でも他人で、お金で割り切れる大人、という存在が必要なのだ。

自分は自分だから、自分の問題はなんとかするしかないし。逆に、自分の楽しみも自分で作るしかない。
具体的に何かしてもらうだけが良いんだって思う人はそうすれば良いけれど、そうすると、人生が他人に乗っ取られてしまう。
自分が自分で生きていくためには、お金を払って相づちを打ってもらって、元気を出すくらいがちょうどいいんだと思う。