腕を切りながら生きながらえる

入院したとき、腕を切り刻んでいる子に出会った。

医者は切るなとは言わなかった。

わたしも、切るのをやめてほしいと思わなかった。

切らないための100の方法を宿題にノートに書く日々を一緒に過ごした。

切るなと言われて切らないなんてできないことをそこにいたみんなが知っていた。

手首を落とすまで切ると不便だからその前にやめられればいいね、という話を笑ってしていた。

 

わたしは作文の書き方を教えた。

自分の気持ちを書くことを毎日した。

ある日、その紙を持って、彼女は家族と医者で話し合った。

家に帰らず、寮生活をすることに決まった。

それから彼女は切る衝動が減った。切ることは続けても、隠さず、消毒してもらいに、ナースステーションに通った。

 

わたしは精神不安定で、筋肉注射を打ってもらうことで、一日生きながらえるような日々だった。

いたくていたくてたまらなかった。

 

依存をして、薬を飲んで、時間を稼いで、問題に向き合うための体力を取り戻すために、休憩していた。

その時間は必要だった。

 

いつまでも、悲しんでいいと言われたら、きっとわたしたちは死んだ。死にたかったのだから。先が見えなかったから。その先が悲しみばかりだったら、生きている価値もないのだ。

 

切りながら、生きるすべを学び、生きるようになって、他に興味が向いて、生きる実感を取り戻して、解離から自分の体にたち戻って、その過程を通して、やっと、わたしたちは生きられた。

 

二度と会わなくても、共通点がなくても同じ日々を過ごした。

 

わたしたちは認められない存在であっても、わからないと言われても、わかりたくないと言われても、確かに存在している。

 

助けたくないなら助けなくてもかまわない。

でも、寄り添うということが、わたしたちには必要だった。

わたしたちは一緒にいることで、補いあい、治療しあい、日常に戻った。

 

自分を切り刻みながら、生きる方法は確かにあるのだ。

切り刻むことを手放す未来も、確かにあった。


アセクシャルの家族問題

Aちゃんはアセクシャルだ。
Aちゃんとかかわるようになってから、アセクシャルの家族問題について考えるようになった。

もちろん、セクシャリティにかかわらず、家族を持ちたい人もいるだろうし持ちたくない人もいるだろう。
持ちたい瞬間もあったり、やっぱりいらない、となることもあるだろう。

今、家族は恋愛を基本にして、出来上がることが多い。

でも、性欲を基本にしなくても、家族にはなれる。

たとえば、わたしはAちゃんに性欲はない。パートナーである六帖さんも、Aちゃんに対して、性欲はない。
だから、わたしたち三人は、家族としてやっていける。

もちろん、Aちゃんが嫌になれば、どんなことも選べる。

アセクシャルは、恋愛やセックスをしない。
でも、たとえば、ヘテロセクシャルや、同性愛者と家族になることも、実際にはできると思う。

わたしは、マッチョなロン毛の男とセックスをしたいと思っているけれど、そうした男性といい家族になれる気がまったくしない。

だから、もし、セックスしたくなってセックスしたとしても、家族は六帖さんと築いたままにする。

ポリアモリーの人の中には、人を所有したくないから絶対に結婚はしないという人もいる。一理ある。
でも、家族になることを所有と思わなければ、別に両立するんじゃないかと思っている。

アセクシャルの人が、一生を過ごす伴侶として、誰かを選ぶとして、その相手が、Aちゃんを性の対象にしなければ、家族になることは十分に可能だ。

セックスをする相手を外に求めることだって、本当は自由にしていいんだと思う。
セックスをしたい相手と暮らしたい相手は別だということだ。
それは、よく、男性が言う「女房は、抱けない、家族だから女として見れない」という戯言と違って、それぞれの性質に合わせた、家族の形があるべきだということだ。

法律上、結婚することはそれほど重要だとは思えない。国家の管理下になると、税金上優遇されたり、病院に行けたり、相続の問題がスムーズにいく。でも、逆に言えば結婚のメリットはそれだけなのだ。

結婚しても、離婚をして、家族が解散することはよくある。

だから、その時々に合わせて、自分にあった家族を選ぶことは大事だ。

セクシャリティで、家族をあきらめなくてもいいといいたい。家族がいらない人も尊重されるべきだ。

アセクシャルの人の孤独を、Aちゃんに出会うまで知らなかった。
でも、性欲なしの家族の可能性は、気が合う相手を見つけることができれば、きっとできるんだと思う。

実際、わたしたちは、今のところ、家族のようなものだと思っているしね。
恋愛至上主義からはじまる家族が破たんするのはよく見るんだから、恋愛なしの信頼感に結ばれた家族や居場所、一緒に時間を過ごす人が、そういう場所が、たくさんできるといいと思う。

人生は、冒険だ。実践しながら、切り開いていくことができる。

アセクシャルの人に関していうと、その人に対して、性欲が向かない相手となら、家族になれる。
気が合って、生活を共に出来さえすれば。


福祉の利用者と支援者の上下関係から尊厳を守る

わたしは、今着ているヘルパーさんの事業者とは強固な信頼関係を築いてきた。

前回、来てくれたヘルパーさんが「子供のために自分の何かをあきらめることができなければ、産まないほうがいい」「これは、やめたほうがいい」というようなことを強く言われて、自分が思っていたよりも落ち込んでしまった。

実際、中絶したほうがいいかもしれないと思った。

支援者は、どうしても、わたしに対して、親身になればなるほど、「こうしたほうがいいよ」と言いたくなってしまう。母や姉のような気持になって。

でも、わたしは自分で自分のことを考えて決めたい。

今日、本当は来てもらう日だったのだけど、責任者の人に連絡して、お休みにしてもらった。

電話の内容はこんな感じ。

「この前、こういうことを言われたので、気が重くなってしまったから相談したいです」
「自分でもそれはやめたいと思っているから、そっとしておいてほしい感じかな?」
と言われたので、
「そうじゃなくて、自分で、階段を作って、自分で階段を上るように、自分でいろいろなことを決めたいんです。それを上から言われたとおりにしていたら、自分の人生じゃなくなってしまう感じがして、落ち込むんです」ということを説明した。
「あのヘルパーさんのことは好きだし、これからも、あ¥たくさん話していきたい。でも、自分で困っていないことについて、こうしたほうがいい、と言われてしまうと、自分で考えて決める余地がなくなってしまうから、それは、つらいことなんです。鬱状態も悪化してしまって、しんどいのです。自分で、いろいろなことを、納得したうえで決めたいから、何が正しくて何が正しくないかは知っているけれど、間違ったこともしながら、やっていきたいのです」

と伝えた。
そうしたら、責任者の人は、「じゃあ、みんなで相談してみるね。そして、そのヘルパーさんには二回か三回ちょっと抜けてもらうことにするね」と言ってくれた。

責任者の人は、最初、わたしが言われたことを気にしなければいいというようなことを言っていたけれど、話していくうちに、わかってくれた。
わたしは、自分の力で考えて、自分の力で行動したいということ。それを「指示通り」にしてしまえば、元気がなくなってしまうこと。
そういうことをわかってくれた上で、話し合いを事業所でしてくれるとのことだった。

自分の気持ちを言うのはしんどい。どういう反応が返ってくるかもわからない。ちゃんと自分の言いたいことが正確に伝わるかもわからない。

我慢したり、言いなりになったり、逆にお客さん気分であれこれ命令する利用者さんもいる。

でも、わたしはそうじゃなくて、自分の気持ちを伝えて、向こうの気持ちも知って、そのうえでよりよい支援を一緒に作り上げていきたいのだ。

誰にでも、欠点はある。見えないこともある。支援しているうちに、利用者のことを、弱いから、こういう風にしたらいいとアドバイスしたくなる時もあるだろう。

もちろん、困っていることに関して、そういってもらえることは助かる。
でも、困っていないことに対して、助言されると苦しい。

そういうことを、ちゃんと伝えられたのは、事業所や、ヘルパーさんと積み上げてきた信頼関係があるからだ。
受け身じゃなく、自分らしく生きていくために、自分の気持ちを伝えることで、自分の環境は変えられる。


定型の人の無防備さ

定型の人は、外部から得た価値観を内面化して、鵜呑みにして、苦しんでいるように見える。
自分の中の意見よりも、周りの価値観を大事にするから、そこからはみ出した事態になったときに、行き詰まる。
わたしには、生きにくさは、そういう意味ではない。
自分しかいない世界なので、自分の価値観だけに準じて生きている。

こうしなければいけないといわれたら、それを鵜呑みにして、「なんで?」と思わないから、外部からの価値観を疑えない。
そして、なんでと言われることが嫌い。
自分で自分を不自由にしている。

わたしは、疑問を持ったり、怒ったりする。そうすると、生きづらそう、もっと穏やかになればいい、適応したらいい、と言われるけれど、それはわたしの快適じゃない。疑問を持ったほうが、自分らしく生きるための指針が建てられるので楽だ。

定型の人の中には、疑問を持つ他人を見ただけで腹を立てる。常識に対してとても素直だと思う。
そして、生きづらくなっている。

目に見えないものを信じて、幽霊みたいな世間体に沿って、嫌なことを我慢する。
我慢してもいいことがないのに。そして、自由そうなわたしを攻撃することだってある。

定型の人は自分たちの気持ちをお互い察することができると夢見ているけれど、そんなことはないんじゃないか。
よく愚痴を聞くもの。
お互い話し合って自己開示すれば避けられることも多そうだし、嫌なことをさっさとやめればいい場面でも我慢するから何十年でも無駄にする。

わたしは、嫌なことはちっとも我慢しない。すぐに逃げてしまう。

自閉症が障害だといわれる。そう、もちろん、障害特性に沿った生きづらさはある。
でも、定型の人に生きづらさがないかというとそうじゃない。
自分で認識できない分、苦しいのではないかと思う。


障碍者の親と当事者の軋轢

一年前、モビゾウさんともめたことがあった。
モビゾウ研究室

発達障害は楽しいこともある……
上記の記事を書いた。
モビゾウさんのツイートを一番上に張っていたが、モビゾウさんからリプライが来て削除を求められた。
なんで削除しないといけないのかさっぱりわからなかったが、ひどいコメントがいっぱいついた。
削除してからも、モビゾウさんとフォロワー関係の人同士がリプライを送り合ってわたしの悪口を書いていた。
「削除されたみたいですね」とわたしがわざわざ削除したのに、自然現象みたいに書かれた。

今読み直しているとこの記事に悪いところなんてない。
この問題のコアは、「親が障碍者を育てる大変さ」と「当事者の大変さ」を書いていたところに、親御さんのほうから「こっちの大変さも考えてよ!」と言ってきたことにある。

でも、当事者に「あなたも育てにくかったはずだから親のことを言うなんて」というのは、暴力だ。

障害があってたいへんだから、支援がある。
当事者のための支援だ。親が大変なら親のための支援もいろいろある。

障害の診断をつけるということは支援に結びつくために必要であって、支援しないほうを選ぶのなら、そもそも診断を受ける必要もない。それならそれでいい。障害があっても健常者のように育てるという方針なら。

でも、いちいち「支援を受け入れることに決めました」と悲壮な風に言われても、こっちは「はあ?」ってなる。
支援は当事者が楽になるためのものだから、親が苦しいだの、決断が必要だったっだの、言う必要はないんじゃないか。見ず知らずの当事者に向かって言うのは、甘えだ。暴力だ。カウンセリングを受けたほうがいい。

あのことも、障碍者差別の一環だったと思う。障碍者は親の批判をしてはいけない、モノを言ってはいけない、というような。
親だって苦労しているんだ!と当事者にいうとき、そこには何が発生するのか。

「味方になるはずだった人を敵に回すなんて」ということもコメントに書かれた。
でも、いきなり敵視してきたのはモビゾウさんやその周りの人だ。モビゾウさんとその周りの人はリプライで「ブログにコメントしておきましたよ!」「ありがとうございます」というやりとりをしていた。
モビゾウさんはわたしに「晒された」と言っていたけど、モビゾウさんは数を頼んで、わたしを攻撃してきた。
モビゾウさんが「ありがとうございます」と言わなかったら、コメントを付けた人個人の問題だったけれど、モビゾウさんがわざわざお礼を言っていたとなると意味が変わってくる。

モビゾウさんはご子息の写真や、習い事や、いろいろなことを公開している。子供にも人権はある。
モビゾウさん自身が、言葉を封じさせるという形で、わたしの人格を認めず、わたしを差別した。

わたしは彼女が発信した以上のことを知るはずがない。それ以上のことは何もわからないのに「曲解された」という風に言われた。
何がどう曲解なのかわたしにはいまだにわからない。
ことの発端としてツイートをリンクしただけで、本文にはモビゾウさんのことは何も書いていなかったから。
でも「モビゾウさんのツイートなしでは成立しない記事。モビゾウさんのツイートを利用してアクセス数を増やそうとしている」とまで言われた。読んでいないのはそちらじゃないか、と思った。

当事者でなくても、当事者の親じゃなくても、発達障害を理解し味方になってくれる人はたくさんいる。
逆に当事者であっても当事者の親でも差別審がある人はいっぱいいる。

わたしなりに、発達障害だということを受け止めようとしているさなかに、「今まで療育を受けられなかったからこれから療育をしていきたい」と書いたことが、どうしてモビゾウさんを腹立てさせたのか。それは、わたしの中にある問題ではなくモビゾウさんの中の問題だ。

発達障碍者の親の気持ちはわからない。そこで見下される理由もわからない。
たいへんだったら、支援を求める。そんなの当たり前のことなのに。
そういう風に言われるとむっとするのは、支援を受けることに抵抗があるのではないか。抵抗がある、ということは、そこに偏見があるからだ。
支援を受けると現実になってしまうようだとか、認めることになるだとか。
障害を認められないのは、障害は悪いこと、下に見られるようなことだ、という差別があるからだ。

障害は、もう、すでにあるものだから、認めるしかない。
当事者は認めるしかない。
認めないで生きていくこともできるが、相当ハードモードだ。
工夫ができない。ずれのことを説明できない。そうした手段を奪うことは暴力だ。

わたしはこんな風に穿っている。
モビゾウさんは自分のことをかわいそうだと思いたいんじゃないかって。発達障害がかわいそうじゃないと、自分が子供の支援をしている大義名分がなくなる。子供がかわいそうな子、ということにしないと、その子を育てている自分もかわいそう、ということに続かないから。
モビゾウさんは、自分のご子息が、発達障害だということを認めきっていないように見える。だから、そこで葛藤が起きて、第三者の、わたしのブログのようなどうでもいい話にも反応するんじゃないか。

上記の記事について、モビゾウさんは「ブログにブログ主の偏見が反映されている。障害がアイデンティティになっている。障害に固執している」という風にツイッターに書いていた。

わたしは障碍者だから、障害がアイデンティティの一部にもなる。
大きな特徴だからそこだけ認めないのはかえっておかしい。わたしに「障害に固執しているかわいそうな人」みたいなことを書くのは差別や暴力だと思う。

むしろ、障碍者の親だということに、アイデンティティをおいて、固執しているのはそっちじゃないのか。

わたしは固執しようがしまいが、自分について回る性質から逃れられない。診断されて、数年目だったから、あのころ自分が自分の障害について考えるのはそんなに不自然じゃなかった。それなのに「障害に固執している」と言われて、わたしはショックだった。
そんなことを言われたら、わたしは考えることも許されないんじゃないか。

療育は、発達障碍者本人を楽にするため。親のほうがつらい、それは手間暇の面でそうかもしれないけれど親自身が悲鳴を上げるほど大変なら、親のほうも支援を受ければいい。

大変な人が支援を受けるのだから。

わたしは障害がある、わたしはこういう風に考えていると書いただけで、どうして、あんなにモビゾウさんがかき乱されたのか、全然いまでもわからない。

親御さんがどんなに大変か想像もつかないけど、療育はやっぱり本人のためのもの。
わたしは「大人になってから、療育を受けられなかった自分が、自分なりに自分を療育したい」と書いたことをあんなに馬鹿にされ、矛盾だといわれたことがいまでもわからない。
療育を受けてなくても、大人になってからでも、やり直しは効くということを書きたかったのに。
それがどうして、あんなふうになるのか。大人になったら療育に近づいたらいけないのか。
わたしたちは線形に発達しないから、長い時間をかけて一生発達していく。
それを否定されたら、わたしは生きていけない。

療育を受けられるというのはチャンスなのだから親が悲壮になるのは理解できない。しんどかったらゆっくりやればいい。
モビゾウさんは四歳になる前にお金や暇を注ぎ込まないと後悔するみたいなツイートをしていた。それについて、わたしは反応したわけだけど。

悲壮になるのは親のエゴで、「普通にしたい」という欲求があるのだと思う・
療育を子供に受けさせたら子供も親も楽になるんじゃないかと思う。
健常者のためのルールを学べるのだから。
(世の中が発達障害の人ばかりだったら、別に療育はいらない)

どうして、わたし側に偏見があるという飛躍になるのか。

障碍者はたくさんいる。普通にいる。普通のことだ。どうして、親がかわいそう、という話になるのか。百歩譲っても「親の苦労を分かれ」とわたしに言ってくる理由には一つもならない。

モビゾウさんは「子供が健常だったら、娘とピアノの連弾をしているところを見れたかもしれないのに」という趣旨のツイートをしていた。
それだって、ご子息が発達障害であろうとなかろうと、かなうかかなわないかわからない話で、そして、連弾ができたら、子供が幸せになるかというと、結びつかない。やっぱり、そういう子供を育てたい、という親のエゴに見えるのだ。

わたしは、大人になったら療育を受けられない、ということは否定したい。
もしそうなら、絶望しかないから。
今は、療育を受けられる世界で、その世界では四歳までにすることで将来が決まる、ということになっているらしいけれど、それだって、先のことはわからない。
今、実際わたしは生き延びてきたわけだから。
わたしが書いた記事に「療育否定だ」と言ってきたのはモビゾウさん。わたしは大人になってからでも間に合うと言いたかった。
それを否定してきたのはモビゾウさんのほうだ。


モビゾウさんは、わたしに謝らないまま、ツイッターをやめた。
曲解されたり、人の悪意にさらされたからとのこと。

わたしは、モビゾウさんから悪意を向けられたと思っている。
人の視点によって見える景色は違う。

「みつばさん」がツイッターをやめたから、ということが理由みたいだ。
でも、「みつばさん」は人に堕胎をさせた側のくせに、女には堕胎をさせればいい、ということを言っているような人だ。
女の権利として、堕胎はある。そして、悪いことじゃない。けれど、心身の苦しみは、させた側にはどうにも償えないものだ。妊娠した時点で、とりかえしがつかないものだ。生むにしろ、堕胎するにしろ。完ぺきな責任なんて取りようがない。
そんな人を、好きだと思い、その人がネットの悪意でいなくなるをえない、みたいに言えるモビゾウさんとは善悪の価値観が根本的に違うんだなと思う。

この件については、発達障害かどうかは関係なく、倫理観の問題だと思う。

一連の話のログをまとめました


妊娠六週目の支援

妊娠六週目に入った。
つわりがひどく、めまいと吐き気がひどい。四週目が一番つらかった。
四週目は、中絶した一回目の妊娠がフラッシュバックして、心身ともにまいっていた。

一回目の妊娠は、「子供とわたしを生活保護に入れて、その上前を撥ねる」「子猫を含めて八畳間に四匹の猫がいて、糞尿を片付けていない状態」だったので、劣悪な環境とDVがあった。
そのときには、軟禁されていて、薬を弾薬された上に、統合失調症の薬を無理やり飲まされていた。その状況下の中での妊娠だった。
そこで、逃げて、長い間隠れている生活があった。

生活が落ち着いたので、六帖さんと子供を作ることにした。
六帖さんは、働き者で、勉強をよくするので、わたしの特殊性(フェミニスト、自閉症スペクトラム、躁鬱)と折り合いをつけられると思った。

今の環境は前回よりも良いので、つわりも前よりは軽く済んでいる。
でも、減薬をしているので、情緒が不安定になりやすい。
細かいこと、たとえば、片付けが思うようにいかない、自分で思ったところに物がない、目に入るところに気に入らないものがある、ということで、今日は泣いて暴れてしまった。

ヘルパーさんが来る日で、ちょうどいたときに爆発できたので、今後、どうしようか、という話になった。

ヘルパーさんは「六帖さんが、合わせるように」ということを一つの提案としていった。

「わたしが我慢したり、合わせたりしなくていいんだ」と思ってびっくりした。

今、わたしに必要な支援は、「わたしが適応するように」することじゃなくて、「わたしに居心地の良い環境を作る」ことらしい。
自分では我慢しないと、合わせないと、と思っていたので、本当に驚いた。

具体的に「こうしてほしい」ということがあったら、細かくメモに取って、みんなが共有できるようにしてほしい、というヘルパーさんからの要望も出た。

わたしが「こうならないといけない」という目標を目指すんじゃなくて、「できないことを列挙したり、こうしてほしいということを伝える」ということが必要とされた。
これが福祉や介護の考え方なのか、と思った。

外部の人やプロが入ると、自分たちで何とかしないといけない、特に当事者が変わらないといけないとどこかで思い込んでいたのだけど、その思い込みが一つとれた気がした。


躁うつ病と自閉症と人格

頭から言葉が零れ落ちてしまいそうだから急いで書く。

躁うつ病も、自閉症も、思考や行動に影響を与える病気だ。
でも、善き人になろうとすること、それを心がけることが、病気への対処法だと思う。

躁状態になって、失言する人は、もともとそういう人だ。
気が大きくなって、普段思っていることが出てしまっているのだ。
だから、不断から、相手の事情を鑑みて、発言する習慣をつけていれば、躁状態になっても、相手の事情を考えて物事を言うだろう。
そうしたら、大きなトラブルにならない。
躁状態と一言に行っても、いろいろな躁状態がある。
わたしはうつ状態よりも躁状態のほうが苦しい。
衝動を抑えなくてはならないから。

焦るとき、行動したいとき、運動したいとき、アディクションに走るとき、さまざまな症状が出る。
楽しい気持ちになる人もいるだろうけれど、わたしは、自分を抑えるほうに力を使うので、躁状態のほうが苦しい。
今回の躁状態は、覚醒の度合いが非常に高いだけだ。

その前の鬱の波は、覚醒度が低く、寝たきりだった。

躁うつ病は波なので、躁状態の時と、うつ状態の時とは鏡合わせだ。
うつ状態の逆の状態が、躁状態になる。躁状態の時にしたことの反映がうつ状態に出る。

躁状態の時行動したら、うつ状態の時には何もできなくなるし、躁状態の時に、落ち着こうと努力していたら、鬱も軽く済む。

うつ状態も、自分の心の在り方を反映する。
自分のことをひたすらに考えている人間だと、うつ状態の時考えるのは自分のことだけだ。
だから、わたしは普段から、人の役に立つことを考えていたい。
それは、自分のためのことだ。病気に対する工夫だ。

生徒さんのことや身近な人を幸せにしたいと願いながら暮らしていると、うつ状態が襲ってきたときに、自分のことばかりを考えて落ち込むという状態は避けられる。人のことを考えられる。当たり前のことだけど、そのほうがずっと楽だ。
自分がどれだけだめなのか考え続けているよりも、どうしたら、人をより幸せにできるのか考えながら力不足に落ち込んでいるほうがよっぽど幸せだ。

そういう工夫で、鬱にも対応することができる。

人のことを考えることが、躁状態と鬱状態の波を、トラブルなく乗り切り、さざ波に変えてくれるのだと思う。
トラブルが起きたこと自体が、自分を動揺させる。人間関係も壊す。

壊していい人間関係と、壊してはいけない人間関係がある。
差別する人からは逃げてよいけれど、思いやりのある人を断ち切ってしまうと孤独になる。
孤独は毒だ。

もちろん、無邪気に踏み潰してくるやつにはどんな手を使っても、乱暴な言葉を使っても抗う。

ただ、それとは別のことを言いたい。

トラブルや失言、人とうまくやれなさを、躁うつ病のせいにする人がいるけれど、躁うつ病はただの渦だ。
渦の中に巻き込まれていたら、確かに、してはいけないことをしてしまうかもしれないけれど、心構えとして、渦を観察する気持ちを持ち、そこに、「渦があるな」と思うだけでも、ずいぶん渦に巻き込まれなくて済む。
渦の観察者になれる。観察者になると、何をしたら、工夫できるのかわかる。

そこに苦しみがある、病気がある、悩みがある、迷いがある、疑問があると自覚するだけで、苦しみは、自分の外になる。
自分の苦しみが当事者としての苦しみから、ただ、そこに苦しみがあるなと、観察する視点をおてるのだ。
そうすると、苦しみは生々しさを失い、遠ざかる。

わたしは、自閉症だから、人の気持ちを読むことはできない。そういう概念がない。読めるのか半信半疑だ。

でも、相手の属性を記憶して、それに合わせて、会話することはできる。
そうしたら。相手の踏み込まれたくない領域が分かるから、相手を嫌な思いにさせることが少なくて済む。
そういう工夫ができる。記憶して、対応する。その繰り返しで学ぶことができる。

どちらも、直すことのできない病気だけれど、自分が善き人間でありたいと願い、それを地道に何十年でも続けていけば、きっと、わたしの症状も和らぐ工夫ができると思う。

人のためにすることが、自分の病気を柔らかくすることの役に立つのだ。
周りの人にも、自分にも優しい解決方法だ。
これは、今日思いついたことだ。

ずっと主治医には自分の病気を観察して文章を書くことが、必ず人の役に立つといって、進めてきてくれた。
その成果が、今日出たと思う。

今日の話は、とても大切な話だ。


塾は息抜きの場所

塾は息抜きの場所だと思っています。
学校でも家でも息苦しい、それが子供です。
望まれて、こういう子になってほしいと思われて、がんじがらめになって、自由がない。

塾講師は他人だから、親でも先生でもない、上下関係がない。

だから、ほめるということが大事です。

ほめると、元気が出ます。塾の時間は一時間化に時間だから、塾に来ない時間をどんなふうに使えるかが勝負になります。
そのためには、やる気を引き出して、勝手に成長してもらって、自分の力で成績を上げるということが基本です。
わたしたちは、その手伝いをするだけだということを肝に銘じて、傲慢にならないようにしないといけません。

教えるということは、傲慢になることが容易です。相手の知らないところや、相手の弱いところが分かるので、傲慢になることはたやすいです。

しかし、それでは、生徒はおびえるだけです。世界に居場所がないと、思い込んでしまいます。

だから、せめて、塾は息抜きになって、自己肯定間をあげる場にするべきだと思います。

また、塾講師にとっても「人をほめる声」を自分の声だとしても、耳で聞くことは、自分自身の自己肯定間をあげます。
けなしていたり、欠点を追求していると、その声が耳に入ります。だから、自分を低く考えてしまうようになります。

塾講師は、元気で、図々しく、言うことは言い、場の空気をだれないようにコントロールすることが第一で、そうして、生徒をリラックスさせることに努めるべきです。

勉強に興味が持てるように、勉強に関する雑談をして、それをきっかけに、世界の秘密を知りたいという好奇心を引き出すこともできますし、先生が好きだから、点を挙げてほめてほしいというのも原動力になります。
やる気を引き出すためには、どんな手段を取ってもいいと思っています。

子供は褒められる機会が少ないです。
できないことばかりを言われて、「こうなれ」という像を押し付けられ、それに慣れない自分を恥じています。
いつも、自分はダメだと思っています。

そうではなく、できるんだ、これはできる、そういうことを伝えて、得意なことから延ばす、というのが、初回の授業では特に必要です。

学校をボイコットしている生徒には、自分で考えて、意思表示ができて、えらい、と言えます。
成績が悪い子には、学校が居づらいだろうに、通い続けていることが偉いといいます。

授業が分かるようになれば、苦痛の時間も面白くなるので、そういう方向にもっていくのが、塾講師として大事なスキルだと思います。

だから、ほめない教師はダメです。
ほめないでダメ出しをしていれば、「厳しい先生」という評判になって、クレームは来ません。
でも、どれだけできるようになったのか話す先生には、生徒が甘えるので、クレームがきます。
クレームを恐れることも、恐れないことも、こちらが決められます。

精一杯やるのはもちろんですが、生徒に寄り添う、生徒の気持ちを考える、生徒の進度に合わせた話をする、理解しやすくする、という工夫は常にしなくてはならないでしょう。


全体分の部分

今日は学校をボイコットしている生徒さんに、溶液と溶質の割合について話した。
簡単に言えば、全体分の部分を出すだけの話だと話したら、一発で話が済んだ。

これで躓く生徒さんは多い。
でも、話は単純なのだ。

彼も、いろいろなことで悩んだり、困ったりしている。
でも、やはり、わたしと同じように「自由でいいね」と言われるそうだ。

自分で判断して、自分で行動していると、そういうことを言われる。
誰だってできるはずなのに「自分にはできない、うらやましい」と言ってくる雑音は入ってくる。
リスクを受け入れたら、誰にでもできるのに。
でも、リスクは受け入れたくないから、そういうことを言う。そして、人のことをうらやむ。

人をうらやむくらいなら、自分ですればいいのだ。

でも、人の標準世界から外れると不利益があると思い込んで、それは避けたいから、安全パイを取る人が、人のことをうらやましがる。
うらやましがるのは、簡単だ。
自分は悪くない、相手が悪い、うまくやっている人がうらやましいと思っていれば、自分を変える必要がないから。

そういうのはくだらない。

学校に行かなくても、勉強をしていれば、世界は広がる。

同世代の人とかかわるスキルや年上の人とかかわる場所がありさえすれば、学校は行かなくていい。
もちろん親御さんの経済力や余裕、家で子供がいることという大変さを受け入れる条件があるけれども。

自由でいいね、という言葉の裏側には、「私は不自由なことを我慢している」という一言が隠れている。
だから、自由でいいね、と言われてうれしくもなんともない。

自分で考えればいい。

自分で考えることには限りがあるから、本を読んで、見聞を広めて、自分の疑問を解消しながら、自分の生活や性格と折り合いをつけることがとても大事だ。

中学一年生にして、そのことができている生徒さんは安心だ。
だから、全力で知識を教えて、世界を広くする手伝いがしたい。


塾講師という「困りごとを解消する」仕事

塾講師というのは、人の困りごとを解消する手伝いをする仕事だと思っています。

生徒は困っているから、塾に来ます。その状態をいくらかでも「まし」にする手伝いをするのが塾講師だと思います。
塾講師は学校の教師とは立ち位置が違います。
全体を教えるのが学校だとすると、一人一人に合わせて、その子にチューニングするのが塾講師だと思います。

予備校の先生は、勉強させた気にして帰すのが仕事になってしまう場合が多そうです。
わたしは、マンツーマン、少人数制なので、勉強させた気にすることで満足度を上げることには興味がなく、本質に触れて、きちんと基礎をわかって帰すのが仕事だと思っています。

なんのためにそれをするのか、先にはどういう世界が広がるのか。
それを教えたら、子供は興味を持つので、勉強への苦痛を軽減できると考えています。

勉強に対して苦痛を感じていることも、困りごとの一つです。
だから、その苦痛を軽減する、その結果、勉強ができるようになる、自分でも知りたいと思って勉強するようになる、というのが、理想の形だと思います。

短い時間しか一緒にいられないので、自分自身でどれだけ努力できるようになるのか、努力と思わず勉強できるようになるか、それを支援するのが肝だと思っています。

勉強すると、人生が開けます。勉強する習慣が持てれば、資格も取れます。

わたしは、子供に、生きる力を持ってほしいと思います。
誰かが死ぬのは本当にもううんざりです。
天寿を全うするまで、あらゆる困難に折り合いをつけられるような、力を持てるような支援をできたらいいなと願っています。

実際には、完ぺきな人間ではないので、「まし」な状況を作れればいいなと願いながら働いています。