朝の日課がに化粧が増えた

朝起きて、洗顔をして、着替えて、朝ごはんを作って、シーツとタオルを全部交換して、洗濯をして、その間にご飯を食べる。
それから、ウエットのシートでクイックルワイパーを家じゅうかけて、そうしていると、洗濯が終わるので、干す。
その合間に赤ちゃんをあやしたり、機嫌が良くても、短い時間しかいられないから、抱きしめたり、手をつないで「て、て、て。ててててて」と歌いながら、右手と左手を交互に動かす、という遊びと、「あんよ、あんよ、あんよの子」と言いながら足をばたばたさせるのを手伝って、それから、両足をもって、腰をぐるぐると回してあげる。
すっごく喜んで、にこにこしてくれる。解けそうな気持になる。
赤ちゃんは朝はほとんど機嫌がいい。
それから、自作のメリーゴーランドを見せる。ネムリラのオートスウィングはとっても役に立つ。

赤ちゃんの連絡帳を書いて、おむつを補充して、ガーゼを入れて、わたしがする準備は終わり。
赤ちゃんが保育園に行く時間になると、パートナーが、ひよこの着ぐるみを着せる。そうすると、保育園に行くことがわかるのか、お口がとんがって、うれしそう。

おなかがすいたら、ぴっと手をあげて教えてくれる。うれしいと手をぶんぶんふる。興奮すると「ふんすふんす」と息を荒くする。
赤ちゃんにもいろいろな感情があって、意思がある。
母乳拒否が続いていてつらいけれど、ミルクをやるときに、膝に乗せると、暖かく、柔らかく、ちょうどいい重みで、これが幸せの重みかと思う。

赤ちゃんが、保育園に連れられて行く間に、化粧をする。
いろいろと買い集めた化粧品の中から、一番気分に合うものを選んで、つける。
ファンデーションも、三種類持っている。
落とすのがしんどそうな日、毛穴が詰まっている日は、オンリーミネラルのミネラルファンデ。
以前は、粉のタイプで、出すのが大変だったけど、プレストタイプに変えたら、本当に楽になった。
コンパクトを付属のブラシでこすって、そのまま、顔に乗せるだけ。

毛穴を入念に消したいときは、アナスイの液体のファンデーションを塗る。
機能がいいのかはわからないけれど、バラの香りが好きだから。

それから、お粉をはたく。
いろいろ、素敵な新製品が出ていてほしくなるけれど、なかなか減らないので、もう五年くらい使っている。
化粧品は、半年で捨てろというのを読んだけれど、よく考えたら、粉、特に固まっているタイプのものには、水がないから細菌は繁殖しない。
油で固めているのも、油の中ではそれほど細菌が繁殖するとは思えない。

一番楽しみなのは、ポイントメイク。
アイシャドウを混ぜると、色が変わるのがとても好き。
MACとアナスイをよく使う。
アナスイのアイカラーデュオが好き。
色を混ぜると、不思議に変わる。
わたしはパールやラメが入っているものが好き。

口紅は、kiss、ちふれ、media、ボビイブラウンなどいろいろ持っている。
口紅も半年で捨てろと書いてあるのを読んだ時、一回泣く泣く捨てたけど、別に健康上問題がなさそうだから、まあいいや、とまた集めて使っている。

気に入っているのは、韓国コスメのティント。すごくよく染まるから、下地に使っている。

一時期はグロスがべたつくから嫌いだったけど、最近は好き。

昨日のツイキャスで紹介したアイテムをまとめました。リンク先は各メーカーの商品ページです。

https://t.co/JlMhnl5XTA

— O9CO2+H2O🍺 (@OQCeeee) 2017年11月27日

” rel=”noopener” target=”_blank”>コスメ集

モーメントにまとめました。

— O9CO2+H2O🍺 (@OQCeeee) 2017年11月23日

” rel=”noopener” target=”_blank”>簡単ベースメイク特集

こういうのも、読むのが楽しくなった。

化粧が終わったら、筋トレと体操ができたらする。
今は風邪をひいているから、走れないけれど、できれば走る。
運動をしないと、甘いものを無性に食べたくなる。
不思議と、運動をすると、それほど食べたくならない。
たぶん暇だと、脳に刺激がほしくなって、甘いものを欲してしまうんだと思う。

日課がスムーズにできるからと言って、鬱がないわけじゃなくて、その証拠に毎日ベーグルを焼いている。
小麦を練ったり、食べたくなるのは、たいてい鬱がひどいとき。


爪の色は誰の色?

同窓会に行くときに、爪を丹念に塗った。
紺に染めて、白いラメをグラデーションに重ねた。
重ねれば重ねるほど乾くの時間がかかり、よれてしまうから、苦労する。
赤ちゃんを見る時間をぬって、一生懸命おしゃれをした。

三次会で、世話になった先生と話せた。
「その爪は人と仲良くなる意思のある色じゃないよね。昔から協調性がない」と先生が言った。
「先生に髪がなく、自力ではやすことができないように、わたしには協調性がないんですよ」
と言い返したら、
「それはフォローしきれないな」と言ったやつがいて腹が立った。
何様だろう。
先生は、一回じゃなくて、十回以上、協調性がない、爪の色が変、こんな詰めの色なんてないと言った。
わたしは、出産してから二か月しかたっていないのに、頑張って、先生や、ほかの人に会いに来た。
わたしが一番いいと思う爪の色で来た。
出産してから、髪はぱさぱさになって、体はだるだるになって、顔も皮膚が前と違う。
自分の気に入る姿じゃない。でも、爪だけは好きな部分になるようにしていった。

ほかの人が、ほかの女性の何もしていない爪を指して、
「こういうのがいい」
「協調性がないと社会でやっていけない」と言ってきた。
そいつの妻は、中学生になる子供を連れて、その子供はずっとうつむいているのに、
「法的素養を身に着けさせたいから、宅建を受けさせたい」
「受験するから、口添えを頼みたい」と言っていた。
わたしはその夫婦が不愉快だった。同窓会の三次会に、十一時に、何を言っているのだろう。
でも、協調性がないと名指されたのはわたしだった。
わたしは、
「お前のために塗った爪じゃない」
「協調性で金が稼げるのかよ」
と言いたかったが、
「もう帰ろうかな」と言って帰った。

帰ってから、同期が来てくれて、
「ひどい席だったね、来年からはもう行かないで、うちらだけで会おう。協調性がないなんて思わない、あっちがない、その爪だってきれいじゃん」と言ってくれた。

わたしは、いやだったらいつでも帰る決断ができる自分が好きだ。
爪だって、服だって、自分が好きなものを身に着ける。
それで、自分が好きになれるんだったらいいと思う。
人のことをあれこれ言う人はそんなに立派じゃない。
協調性で飯が食えるか。


親に感謝する必要も許す必要もない

子供を出産してわかったのは、親に一切感謝しなくていいということだ。
わたしは、自分の子に、感謝してほしいと思わない。
何もかも当たり前に受け取ってほしいと思っている。

わたしが勝手に産みたくて産んだ。
育てたくて育てている。
喜んでほしい、笑ってほしい、声を聞かせてほしい、手を握ってほしい、そう思うからいろいろなことをする。
泣いてほしくない、鳴き声を聞いているのはしんどいから、あやす。
飲むところがかわいいから母乳やミルクをやる。
小さいままでいてほしいけれど、できることが一つずつ増えていくことがうれしいから、いろいろな刺激を与える。
今は、こぶしをしゃぶれるようになった。がらがらに振り向くようになった。
手をつないで歌を歌いながら動かすと、「きゃしゃー」と声をあげて笑う。
腹ばいにすることができるようになった。頭を持ち上げることができるようになった。全部うれしい。
外に連れ出すと、必死で回りを見る。のけぞってまでしてみる。
だから、散歩に連れ出したい。
毎日、一つでも幸せであり、喜ばしいことを感じられるようにと思う。
大学資金を貯めて、勉強をしてほしいと願うのは、勉強の面白さを味わってほしいから。

全部、わたしがしたいこと。
だから、感謝なんてしなくていい。してもらったらさみしいかもしれない。

わたしは、「親に会わせないなんてかわいそう」と言われた。
でも、彼らはわたしが会いたくなくなるようなことをした。
感謝しないといけないと思わされていた。
いうことを聞かされて、彼らが自慢できるような人間になって、自分の意思を踏みにじられ、身体的特徴を笑われ、そして「わたしたちはいい親だ」と言われてきた。
みじめな思い、つらい思い、裏切り、虐待、そういう目に遭って、彼らはそれを自覚してもおらず、なじっても決して反省せず、認めない、謝ることなんて遠い、そういう人たちに語る言葉はもうないのだ。

死にゆく人たちに関わるよりも、わたしは、自分が愛する存在、これから生きていく存在にエネルギーを向けたい。
親なんて早く死んでくれて結構だ。死んでくれ。もう悩まなくて済むから。

わたしは、父方の祖母にひどくなじられたので、二度と会わず、葬式にもいかなかった。
母方の祖母の葬式には呼ばれなかった。
親戚なんて、都合の良い時には労働力として頼ってくるが、こちらが困っても無視する。
あいつらは早く死んでほしい。
パートナーの親とだって、わたしは無関係だから付き合わない。彼の親であってわたしの親じゃない。知り合いでもない。

わたしが会いたい人、関わりたい人とだけ関わる。それでいい。


買ってはいけないと言われていた服を大人だから買った

ふわふわのシャギーのセーターと、やはりふわふわのワンピを買った。
実家では、自分の好きな服を買ってもけなされ、返して来いと言われていたので、おしゃれをするのが怖かった。
ふわふわのニットなんて、わたしには似合わないと思い込んでいた。

一緒に大学生活を送った友達は、ずっと渋谷で買い物をしよう、これも似合うよ、とかわいい服を勧めてくれたのに、わたしは「怖い」と言って断っていた。
それほど、わたしの心の中は母親に占められていた。

子供を産んで、わたしの親は、本当にひどいことをわたしにしていたのだとわかった。
柔らかくふわふわといい匂いのする赤ちゃんが、最近はよく笑う。
手をつないで、歌を歌うだけで喜んで遊んでくれる。散歩にも連れていく。きれいな服を着せる。
こんなに美しい生き物に、ひどいことをできたあの人たちはやはり異常者だった。それがよくわかった。
子供を産むと親の気持ちがわかるというが、わたしには余計わからなくなった。
産む前のほうが、「わたしにはわからない事情があったのだろう」と思えた。
実際に子育てをして、彼らの悪質さが、際立つ。どうしたって、この弱い生き物に、あれができることが理解できない。

ボロボロの服は、自尊心を削られた。
どう考えても、貧乏ではないのに、誰も着ていないような、時代遅れの服はつらかった。みじめだった。

ふわふわした服は、汚れる、誰が洗うんだ、似合わない、ファッションショーに行くわけでもあるまいし、色気づきやがって、など罵倒された。

わたしは、それが似合わないものだと思っていた。
時間は二度と戻らない。そのことを思うと、心がびゅっと穴が開いたような気がする。

それでも、わたしはこわごわと、ふわふわした服を買った。そんなに高価でもない。でも、わたしはとても幸せだ。

前述の友達はわたしに、「お母さんに子供を会わせないなんてかわいそう」と言った。
「かわいそうなのはわたしだ。会わせたいような親じゃないんだから、自業自得だ」と言い返せた。
でも、わたしは、やっぱりつらくなって、パニックになって、家で暴れた。

自分の人生を取り戻すことなんてできないかもしれない。
失った時間は絶対に帰ってこない。
今、あのとき着たかった服を着ても、気持ちは成仏しない。
あの時は着たかった事実は変わらない。その気持ちも消えない。

それでも、わたしは、服を買って、大事に着る。
わたしの傷は今も生々しい。わたしの青春も、一番柔らかな感受性を持っていたころ、みじめだった事実も、一番きれいだったころ、みっともない姿でいたことも、消えない。癒えない。

そんなわたしが、母に会うことはできない。
おしゃれは無価値なもの、おしゃれをするわたしをののしり、みっともない生き物だと思い込ませたあの人のそばにはいきたくない。

今でも悲しい。
ずっと悲しい。
悲しくて気が狂いそうな気持を、忘れようとしても、忘れることはできない。
波が押し寄せて、流されまいと、生活に縋り付いているだけ。錨のように、今持っている美しいものがわたしにはあるけれど、鏡に映るわたしは、中年で、フェイスラインも、体のラインも崩れている。
あの頃、わたしは美しくありたかった。きれいな、かわいい、気に入った服を着たかった。

わたしは、爪を塗る。朝起きたら、化粧をする。取り戻したいから。何をかわからない。
自己決定権のようなものかと思う。
でも、取り戻せない。むなしさに胸がかきむしられる。
それでも、続けるしかない。
わたしがわたしであるという戦いのために。

苦しく、悔しく、みじめな戦いだ。
絶対に取り戻せないものに抗って、頭の中の記憶はいつでも無差別に襲う。
そのたびに、わたしは狂う。


綺麗なもので心にシップをしたい

綺麗なもの、かわいいもの、美しいものを手に入れると、自分もきれいでかわいくて美しいものになれる気がする。
それは、気のせいだから、次から次へと消費の対象はうつる。目まぐるしく。
一回も袖を通さずに廃棄される服、化粧品、気まぐれに選ばれるアクセサリー。
自分の体のコントロールを奪われたことで、わたしは、自分の体や心のコントロールを失ってしまった。
コントロールを失うと、自分の体が自分のものだ、という当たり前の感覚がなくなる。
必然的に自尊心もなくなる。
一度、ひどい目に遭うと、ずっとひどい目に遭い続ける。そういう連鎖がある。
それは、わたしだけに起こったことじゃない。保育園で、年中の友達が、近所のお兄さんにお菓子と引き換えに体を触られると言っていた。でも、お母さんにそのことは言えないとも言っていた。そんな年齢から、わたしたちは、体も心も傷つけられ、幸せだとか安心だとか守られているという感覚を失ってしまった。
当たり前に得るものなのに。失うというよりも初めからなかった。

だから、わたしは、美しいもの綺麗なものかわいいものがほしい、それは、わたしがコントロールできるものだから。
買う、手に入れる、保存する、手入れをする、捨てる、無残に扱う、全部わたしの思うままだ。
普通に生きているだけで、娯楽にもSNSにも、心にやすりをかけられるような一言、言葉、情報があふれている。
歩けば、店に入れば、女という体は、人を、つまり日本において人と扱われるのは男だけだ、その男が、欲情するための媒介として、女の体が存在し、女は、あらゆる苦痛を、「快楽」に読み替える神経を持つものだというプロパガンダがふりまかれている。
針で刺されても、棒を突っ込まれ、こすられ、水攻めにされ、窒息され、拘束され、縛られ、殴られ、でも、女は、女という体さえ持っていたら、それらの苦痛は快楽になるのだと、そういう嘘が蔓延している。それをおかしいと言えば、「お前は気がくるっている」と言われる。

そして、あふれるそれらの加害性の高い情報を食べて、彼らは安心する、自分たちが持つ加害欲は、責められることもない「ただの性欲」なのだと肯定され、また、加害欲が再学習されていく。そして、わたしは無気力と無力を再学習する。

わたしの身に起きたひどいことは、勝手に起きたわけじゃなくて、男がわたしにしたことだ。
そして、わたしは学校に行けなくなった。だって、学校にはそいつがいたから。
わたしは、大学に行くのも苦痛だった。だって、男の大きな声がするから。
授業中にパニックになったときにも、教員にののしられた。「相手の子は何もしてないのにかわいそうでしょう」
その人は、セクハラ対策委員だった。比較文化論を研究していた。

わたしは、誰にも何もしていないが、わたしが行ける場所は限られている。学習するにも、体力も精神力もいるが、わたしは集中することができない。なぜなら、集中していると「あのこと」がいつでも浮かび上がってくるかもしれないからだ。
それが浮かび上がってきたら、わたしの体も心も「あのこと」に乗っ取られて、時間も「あのとき」に戻ってしまう。わたしは、現実を喪失している。

精神が不安定だから「メンヘラ」「きちがい」「頭がおかしい人」と言われる。
だって、それを言う人たちはわたしの過去なんて知らないのだから。
不安定で迷惑をかけるわたしの背景など、当然知ったことはない。だって、彼らは加害者ではない。そんなのは当たり前だと言い聞かせ、わたしはにっこりしながら早く死にたいと願う。ああ、そうだね、わたしは醜い、肉塊だ。

心臓がバクバクして呼吸が苦しくなる。空気がうまく吸えない。空気がなくなってしまったようだ。

早く忘れたらいいね、命があってよかったね、魅力的だということだからよかったね、自慢?
あなたがだらしないから目をつけられてそういう目に遭うんだよ、何度もそういう目に遭うってことは自衛する気がないか、もしかして望んでいるんじゃないの?

わたしは、わたしの体を一つ一つ切り落としたい。
あのことに触れた部分を一つ一つ切り落としたい。そうして、残った部分がきれいならば、その部分だけで生きなおしたいと願うのだけれど、そんなことができるはずもない。

わたしは、わたしが不安定になったのは当たり前だと思っている。
でも、仕方がないよね、と許されて、存在するくらいならば、消えてしまいたい。
わたしが「いてもいい」と許可を与えることができるあなたは、どうして、当たり前のように、わたしよりも「えらい」わけ?
どうして、許可を与え許すことができる立場に、あなたは当たり前に立てるの、そしてわたしはいつでも下の立場にいなければならないの?あのことがあっただけで。たまたま、あのことに出会わなかったあなたが。

がらくたを集めるようにしか、今日を生きることができない。
明日も生きられるのかわからない。
昨日生きていられたことはもう忘れてしまいたい。
心にやすりがかけられてしまうから、だから、心にシップをしたい。


男尊女卑に染まると、成績が伸び悩む

統計やデータを必要とする人は、読まないでください。
わたしは、データも大事だけど、現場の感じていることも、貴重な情報だと思うので書きます。
聞き取りやフィールドワークも研究になるのだから、データデータという人はちょっと滑稽にも感じるのだけれどそれはおいておいて。

スマホを手にした男子高校生は、男尊女卑に染まります。
スマホを持つまで、ネットを見る時間が長くなるまでは普通の子だったのが、ネットの記事を読みだすと、お母さんをバカにし、目上の女性をバカにし、年下や同級生もバカにするようになります。
すると、周りから人がいなくなります。
そして、「理解されない」という恨みを抱き、「理解しないほうが悪い」と思考が転換していきます。
そうすると、ますます、ネットの男尊女卑にすがるようになる。
男尊女卑というのは、妄想です。
男というだけで、素晴らしくすぐれている、という妄想です。
だから、それに染まると、まったく努力をしなくなる。
しなくても、自分は男だから、で止まってしまうようです。
それに、努力はすればするほど、いかに自分が卑小な存在か突きつけられるようになりますからね。
一度、男尊女卑の甘い蜜を吸うと、その「卑小な存在だ」「何もできない存在だ」ということに耐えられなくなるみたいです。

ネットに、コンビニに、本屋に、ポルノ的なイラストや、ポルノそのもの、性暴力があると、何が悪いか、というと、自分が女性に性的嫌がらせをしても、「許される」と思い込んでしまうという弊害があります。
男子高校生が、「女性の裸に近い姿のイラスト、ポーズは煽情的」なものを見せてきて「どう思う?」と聞いてきました。
それは、性的嫌がらせです。だから、わたしは、その子と話すことが嫌になりました。
でも、彼は、そういうことをしても、いいと思っているからそうしたわけです。
だって、性的嫌がらせをしても、女の子は赤面したりキャーというだけで許す、という物語があふれているからです。
環境的にも、ポルノはたくさん売られています。だから、そういうものを、女性も見慣れているし、見せていいんだと、彼は勘違いしたんだと思います。
だけど、そういうことをしていると、人に嫌われます。当たり前だけど。
人に嫌われると、適切な助言をしてもらえなくなります。男尊女卑があるから、わたしの勉強に関する助言も聞かないです。

それどころか、わたしに「母親たるもの」というような説教をしてきます。

そういうことをするのは、彼女がいる子もです。モテないからそうなるとは限らないのです。

全体的に女の子は、教えれば、成績が伸びます。やる気もある、努力もする、伸びないわけがありません。
でも彼女らがしっかりしているのは「女の子だから」と抑圧されてきた結果だから、それはそれで、わたしはひっかかりを感じています。

「女の子は浪人を許さない」「女の子だから、そんなに上を目指さなくていい」「そもそも教育は必要ない」という保護者はまだまだ大勢います。だから、女の子は「子供時代のリミット」を常に目の前にぶら下げられているため、しっかりせざるを得ないのだと思います。だから、女の子は、能力が高くなりがちです。

男の子でも、勉強ができる場合があって、それは二通りです。
教育熱心な家庭であるか、お父さんがお母さんを尊重する家庭であるか、どちらかです。
でも、本当にそういう男の子は少ないです。なかなか根深い問題です。

男尊女卑というのは、男と女が世の中に二通りだけ存在しており、男というだけで偉い、と妄想する、妄想の中でもきわめて雑な妄想です。
客観性がないのだから、もちろん、学業も伸び悩むのも当たり前かもしれません。
男尊女卑の染まることで、その人の能力が限定されてしまうのだとしたら、差別者自身も、不幸せなことだと思います。
差別される側は言うまでもなく。
(ただし、差別が存在して、世の中を動かしているので、下駄を履かされている男性が、能力が低くてもそれなりの地位に就けるという現実もあります。その現実自体が、男性の能力を制限する過程を再生産しているともいえます)


偽医学にご用心

薬は体に悪いという人がいる。
しかし、病気は健康に悪い。
当たり前だ。
薬で病気の症状が軽減できたら、その分、楽に休むことができる。
根本的な治療にこだわる人がいる。
たとえば、わたしはアトピーで皮膚がボロボロだ。
ステロイドを適切に使えば、亜鉛軟膏を使えば、傷は早く治る。そうすると、感染症から身を守れる。
生活の質も上がる。でも、それを許せない人もいる。

皮膚がボロボロで傷だらけで、バリアーの役を果たせず、痛みやかゆみがあるなら、それを取り除くのが先だ。
体質は変わるかどうかわからない。

でも、根本的に体質を変えろと言ってくる人がいる。
健康的な人には信じられないかもしれないが、根治しにくい病気を持っていると、ハイエナのように、新興宗教やマルチに勧誘される。最初はただで渡される。良いでしょ、薬や病院に頼ると、体の力が失われるの、根本的に治さないと。
一時的に悪くなっても、それは好転反応。幸せになりたいよね?

うちの母は、自然なものにこだわって、洗濯も粉石けんに変えた。そのせいで、洗濯物にはカビが生え、アレルギーは悪化した。
一人暮らしになってから、精神的にも肉体的にも、ずっと楽になった。
アレルギー物質を除去するために、一日エアコンをつけ、空気の出入りを減らし、乾燥機をかけ、ハウスダストを減らすためにこまめな掃除をする。それが自分でコントロールできるのは素晴らしい。

サプリも漢方も、副作用がないと勧めてくる人がいる。
副作用があるかないか、それは、調べてないから、わからない。わからないから、ないってことになってる。そういうことだと思う。
普通、効用のあるものには、副作用があるものがほとんどだ。それが普通だ。効き目のほうが、副作用より、益があるから、使える。
副作用があるとわかっているものは、医者がコントロールできるということだ。

漢方外来に行ったら、牛乳をやめて、肉食もやめろと言われた。
藁にもすがる思いで行ったので、しばらく気になった。
でも、アレルゲンでないものを除去する理由はないと結論した。
もし、牛乳をやめて、アトピーが治るなら、もう、そういう調査や研究が行われているだろうし、でも、そういう発表を聞いたことがない。
その人は、日本人は肉も牛乳も食べてこなかったから、体質に合わない、だから、肌が鮫肌になる、と主張してきた。
でも、縄文時代に、日本人は肉を食べていたはずだし、平安時代には牛乳があった。言っていることが無茶苦茶だ。
ようするに、根拠がない。思い込みだ。
食べたことがないものだから駄目なのだったら、お茶もだめだろうし、コーヒーもだめだろうし。
牛乳や肉は、栄養が豊富だ。それを捨てるメリットが「一年後にアトピーが良くなるかもしれない」ということだけだ。
その間悪くなったとしても「好転反応だ」と言われる可能性もある。
責任を取ってもらえない。痛いのもかゆいのも自分だ。

関係ないことなのに、母親と仲良くしろ、どうして、距離を置いているのだ、と言われたこともドクハラだと思った。

そんなことまで、どうして言われないといけないのか。
精神疾患や、自閉症だということも伝えた。摂食障害があることも伝えた。なのに、それらは考慮されなかった。

以前、中国に東洋医学を学びに、留学した西洋医学の医者にかかっていたことがある。
その医者は、「あれもだめ、これもだめ、と言っていたら、食べるものがなくなっちゃう。水も飲めなくなる。だから、バランスよく、いろいろなものを食べて、一つのものを食べることのリスクを減らすことが大事」ということを言ってくれた。
わたしは、そのころ、ほかの漢方薬局に「医食同源。あれを食べるのは体を冷やす。これは炎症を強める」など言われて、食べるのが怖くなっていた。

新聞広告の「この病気にはこれがきく」みたいに書かれている病気になると、いろいろな人が、寄ってくる。
そういう病気は、治りにくい。だから、カモになる。
医者にかかっていると治らないと、その人たちは言ってくる。
でも、耳を貸したら、いけない。
もし、効き目があるなら、標準医療になっているはず。
そこまで、医療は人が悪くない。医者は基本的には、人を助けたいと思っているはず。
相性の悪い医者だったら、逃げる。
元気なうちに、相性のいい医者を探しておく。
弱っていると逃げられない。

注 漢方もサプリも、医者に相談しながら使ってます。
使いようで効き目がないわけじゃないので、うまくつきあいたいですね。
基本は標準医療がいいと思います。
個人的な考えで、医者じゃないので、わたしのいうことも鵜呑みにしないでほしいです。


やだなと思うことからちょっとだけ気をそらす

人と関わる仕事は、自分のペースでしにくいし、割も合わないと思うことがあるんだけど、そうして知り合って、長く続く付き合いになることもあるから、投資でするつもりで、「やだなー」と思う気持ちをそらすことができる。

別に本当に後で役に立たなくてもいいんだけど、今、この場で、やだなーと思う気持ちをそらせればそれでいい、という場面は多い。

死にたいと思う気持ちを解決しなくても、そらしているうちに、時間がたてば、忘れるみたいなもので。
解決しなきゃ、と思うと、集中してしまうから、問題が重くなる。
それよりも、気をそらして、問題に関わらないようにしながら、ほかのことをやるテクニックもだいぶ必要だ。

教える仕事は、人を育てる仕事でもある。
昨日、わたしは、有名にもならないし、歴史にも名を遺すことなく死ぬんだろうな、と思った後、でも、普通の人生を送れ得るから、わたしとしては、だいぶいいんじゃない?と思えてうれしかった。
人を育てるといっても、わたしが関わった子たちは、みんな、きっと歴史に名を遺すことなく、有名にもならず、一生を送ることになる人たちがほとんどだろう。
でも、わたしが伝えたことで、人生がちょっとでも彩られたり、困ったときに頼る先を増やせていたりしていたらいいと思う。

中高生というのは、どんなに社交的でも、勉強ができても、やっぱりきつい時代だなと思う。
生徒に、高校生に戻りたいか聞かれると、絶対ヤダ、あれは二回もしたくない、それで今の人生がもっと良くなるとしてもヤダ、というと、彼らはちょっとほっとした顔をする。

別に、やだなという気持ちを共感しあったところで、問題は解決しないことのほうが多いんだけど、お互いにあれはヤダ、とか言っている間に、気持ちがそれて、別のことができるようになる。
それは、とっても生産的だ。問題を解決しなければならぬ!と思って時間を無駄にするほうがよっぽど馬鹿らしい。
別に生鮮的である必要もないしね。

子供を産む以上に生産する仕事はないと思うけど、男社会の中では、子供を産むことでその間仕事ができないというのは、生産的じゃない!って価値観がある。
ばかばかしい。
そんな人為的なもので、精神を引き裂かれるなんて、まっぴらだ。

もっともわかりやすい問題でも、こんなの、解決なんてしなくていい、と思う。
産みたいから産むし、生産的かどうかなんて知るかと思うし、国のために産むわけじゃないし、子供のためでもなく、わたしのエゴで産む。それでいいし、それ以外のことも、わたしのエゴ。エゴを満たして幸せになるんだ。

男社会の問題が解決する前に、わたしはたぶん寿命が来る。
その間に少しでも、男社会はばかばかしい、ってのを周知したい。

男のルールでできた試合場で命がけで戦うのはバカだ、でも、現実的にはお金も稼がないといけないしそうすると男社会のルールもわかってないといけないね、というののバランスはとらないといけないから、女の子にも男の子にも、子供たちにはサバイバルの方法を伝えたい。

問題に近づきながら、核心に踏み込みながら、でも、飲み込まれないで、気をそらしながら、自分の生活とのバランスをとって、わたしのルールで生きていきたいよ。

男から降りました、って言っても、単に、稼ぐだけの人生をやめただけだったり、お前全然ジェンダーロールから降りてないじゃねえか、ってこともたくさんあって、いらいらもする。
ロジカルシンキング男なんか、本当にくそだ。前提の知識が間違っているのを、ロジカルに結びつけても、間違った結論しか導き出さないのに、俺は賢い、とのたまうのを見ると、言葉が通じねえ、と無力感にさいなまれる。

自分の子供を、「人材」なんて呼ばれて、使い捨てにされる未来を幻視すると、めまいがする。そんなことのために、爆発しそうな腹を抱えて、つわりを耐えているわけじゃねえ。

行き詰まっているのに、既得権益があると、文句を言いつつ降りられない。
でも、やっぱり、変わらないといけないね。
時間は動いているし、人間は増えたり減ったりしているから。

まともに、世界のつらさを見てしまうと、生きていることもできなくなってしまうから、ちょっとだけ、のぞき見ながら、目をそらしながら、気をそらしながら、でも、真ん中の部分は間違えないように、心の中を点検しながら生きていかないとなと思う。

たいていのことはばかばかしい。
ばかばかしいことが本質だ。
ばかばかしいことに振り回されて、消耗して、死にそうになる。
死なないように生きていきたい、そう思う、生きていきたい動機がまだ見えないけど。


気分障害は厄介だ、突然死にたくなる

今日はとても楽しかった。
楽しい気分でいた。お香を焚こうと思ってライターに手を伸ばしたら、「死にたい」という気分になった。
それは、まったく何の脈絡もなかった。
こういうときは「死にたい気分」とわたしの人格は切り離せる。
あんまり脈絡がないから、わかりやすい。
でも、何か出来事があり、動揺している隙に、忍び寄る感情に対して無防備な場合があり、そういうときには、気分と自分を切り離すのに苦労する。
さっきは、突然の死にたさ、悲しみに押し流されることはなくて、そういう人がやってきたから、追い返すこともできないけど、入ればいい、でも相手はしない、という対応ができた。

いつもそうだといいんだけどね。

気分障害というのは、そういう病気で、厄介だ。
自分で自分をコントロールできない。気分がやってきて、わたしをめちゃくちゃにする。
気分の力は強い。気分がわたしをどうにかしている間、自分が人形になったような気がする。
でも、乖離するのも、危険が多いから、気分をごまかしながら、自分のしたいこと、本当の気持ちを探ることを続けないといけない。
気分障害がなかったら、こんなことしなくてもすむから、楽だろうな、と思うけれど、気分障害じゃない人は、楽だということも気が付かないだろう。だって、困ってないからね。


お金の支配

父が出て行ったあと、婚姻費用も養育費ももらっていたから、金銭的には困っていなかったはずだが、お金に関して常に重苦しい気持ちでいた。

母は家にいて、わたしたちを監視するような子育てに没頭していた。
そのころあった新興宗教やコミューンの名前とほとんど遭遇していた。だから、今でも、自然食品とか、健康のために何とかというのは、苦手意識がある。新興宗教に入ることもなかったし、コミューンに入ることも、運良くなかったけれど、それによる被害はあった。

自分たちに愛情のない人が払っているお金で暮らすというのは、精神的につらいもので、物理的な制約はなくとも、一緒に暮らしていた時から気分屋だった人の気分を損ねたらどうなるのかと思うと、たまに会うことも矯正のように感じられ、逆らうこともできなかった。いわゆる面会交流のようなものだと思うが、会った後には、じんましんと高熱が出て、三日は学校を休んだ。
ストレスで自律神経もおかしくなったし、学校で倒れることもよくあった。
でも、拒否すると、暮らしていけないのではないかと思ってできなかった。

そういう経験をすれば、早く働きたいと思うものだと思うが、わたしは働くのが遅かった。
お金がどこからか、何もしなくても、入ってくるという生活をしていたので、お金のというものが人を支配することは知っていても、自分で稼いだら自由になるのだ、ということに結びつかなかった。

働こうと思ったのは、知り合いのおじさんが「親が死んだら、食っていけなくなるだろう」と言ってくれたおかげで、それでようやくお金と自分が結びついた。

働いてお金をもらうということを見て学ばないとわからないタイプだったようだった。
それからは、働くことに必死だった。

自分でお金を使うとほしいものが手に入るという単純さにひかれて買い物をしまくった。
依存症になってしまった。
今もまだそういう傾向がある。
自分で自分をコントロールできないというのは、恐ろしいものだ。
自分の意思で止められない、かといって、人に言われた言葉でどうすることもできない。
具体的な支援が必要だった。そして、支援とつながった。

家族ではない、行政に支えられるというのは、なんと気楽なのだろう。
愛という名の支配に、顔色を窺って、奴隷にならなくて済むのだ。