女性や子供を消費物とする表現はもう嫌だ

女性や子供を消費物として扱う、というと、よくわからない人も多いかもしれません。

女性や子供の表象を利用して、そこから人格をはぎ取り、見た者が一方的な意味づけをする…ようなものを想定しています。

具体的には、

学生服姿の女性のスカートから伸びる足を切り取って撮ったもの。

女性の胸元だけを切り取って撮った写真やイラスト。

衣服を身に着けているはずなのに、布が股間に張り付くかのような表現をされたイラスト。

マイルドなものの例をあげましたが。

女性や子供が、主に男性の妄想に都合がよく描かれたものすべてが、わたしはもうつくづく嫌です。

もし、家庭の中で、ポルノグラフィティを子供に見せたら虐待です。

しかし、一歩外に出たら、それに類するものがあふれています。

わたしは、子供のころから、それを嫌だと思う気持ちにふたをしてきました。

「それがある理由」を一生懸命考えて、「仕方がないんだ」と飲み込もうとしました。

興味をもって、慣れようとしたこともあります。いったんは慣れたと思ったこともあります。

でも、今思えばそれは過剰適応でした。

今、書店に並ぶライトノベル(ラノベ)の表紙について、喧々囂々です。

ゾーニングをすべきだ、いや、それは隔離になる、隔離されて周縁においやるのか、ゾーニングするとしたらその基準を国にゆだねるのか、表現の自由はなんとしても守らなければならない。

表現の自由を持ち出すのならば、人格権を持ち出したいと思います。

わたしは素朴な「嫌だ」という感覚、感情を重要だと思っています。

例えば、損害賠償請求の際にも、「心の状況」「不快に思ったか否か」というのは、非常に大切な点になります。

人格権とは、基本的人権から導かれる権利です。憲法11条、憲法13条に基づきます。

憲法13条は、

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

としています。

これは、労働法上の感情型セクハラについての条文の根拠となります。

現在、残念ながら、特定人以外への差別的表現に対して、規制する条文はないので、わたしが「ああいう表現は嫌だ」と言ったとしても、法律上はどうすることもできません。

環境的セクハラというのは、労働厚生省によると

「環境型セクシュアルハラスメント」とは、職場において行われる女性労働者の意に反する性的な言動により女性労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該女性労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることであって、その状況は多様であるが、典型的な例として、次のようなものがある。

(1)

 事務所内において事業主が女性労働者の腰、胸等に度々触ったため、当該女性労働者が苦痛に感じてその就業意欲が低下していること。

(2)

 同僚が取引先において女性労働者に係る性的な内容の情報を意図的かつ継続的に流布したため、当該女性労働者が苦痛に感じて仕事が手につかないこと。

(3)

 女性労働者が抗議をしているにもかかわらず、事務所内にヌードポスターを掲示しているため、当該女性労働者が苦痛に感じて業務に専念できないこと。

と定義されています。職場環境の問題と、生活空間や公共空間を並列に並べるのは乱暴かとも思いますが、援用できそうな気もするんですよね。

つまり、ヌードポスターを公に掲示することが、女性労働者の苦痛に感じるため、それをやめさせることができる、という理論を使えないかということです。

男性社会では、「気持ち」「感情」というのは、論拠として、バカにされる要素ですが、まさに、その「苦痛に感じ」ることが、要件になっています。

ヌードポスターを掲示することで、女性にどんなメッセージを送るか、というと、「女とは、記号的な、肉体に還元できる」「お前は女である」「お前はエロい肉である」「俺はこの空間を自分の好きなように支配する」「ゆえに、この空間にいるお前のことも支配できる」ということなんです。

女性や子供が性被害に遭ったとき、まず言われることは「そこにいたのが悪い」「自衛しなかったことが悪い」「気を持たせたのが悪い」ということです。

職場というのは「そこにいるしかなく」「自衛することもできない」場所です。気を持たせたのが悪いに至っては、相手の妄想をコントロールすることができないのですから、なおさら逃げられません(妄想型セクシュアルハラスメントというのもがります)。

ところで、職場でなくても、これは同じです。

すべての人はあらゆる場所に自由に行く権利を持っています。

ある場所に行くのが、仕方なくでも、自発的にであっても、その場所にいたから犯罪に遭っても仕方がない、ということはありません。

どの場所にいたとしても、「安全に過ごせる」というのは、基本的人権です。

しかし、女性や子供にとって、すべての場所が安全な場所ではありません。

書店、公衆トイレ、電車、駅、図書館、美術館、大通りの歩道、信号待ち、エスカレーター前、遊園地、学校、会社、カラオケ、などなど、あらゆる場所が性的被害に遭う可能性のある場所です。これらは、わたしが危険な目や被害に遭った場所です。これらをすべて避けて生活することはできません。もし、それをしろ、という人がいたら、その人は、女性や子供に、「幸福な人生」をあきらめるように勧めているのと同じです。それこそ人権侵害です。具体的には先ほど挙げた13条違反です。13条は、対私人に適用されます。

例えば、書店の全年齢向けの「ラノベ」の表紙が、女性や子供の表象を性的、もしくは「もののように消費物のように」描いたとしたら、それの発するメッセージはこうです。

「女性や子供は、このように扱われて当然の存在だ」ということです。

(ラノベ、というのは、そもそも子供が小説を読みたいと思ったときに、最初に手に取るジャンルの一つだとも思いますが)

公共空間にあるというのは、そういうメッセージ性があるということです。

わたしは、もっと悪いもの、つまり、イラストや漫画の形式で描かれた、女性や子供の体を破壊する表現もあることを知っています。

それらがわたしに投げかけたメッセージは、こうです。

「女性や子供の体を破壊することはとても興奮する、エロチックなことである。そのとき、女性や子供は痛みを感じない」

これは、端的に言って間違っています。

わたしは、ずいぶん、このような文脈やコードに取り込まれました。

ポルノ表現を見続けると、脳や思考に悪影響がある、という記事も読んだことがあります。女性蔑視を当然とする考え方にも結びつき、何が女性蔑視に当たるかを感じ取るためのセンサーも壊れてしまうんでしょう。

「女性蔑視なんてない、なぜなら俺は認識したことがないから」とうそぶくような人間がいます。

表現の自由は、批判する自由でもあります。

だから、わたしは、女性や子供を消費するような表現を嫌だと言います。そして、消え去ってほしいと思います。

それは、かつて子供だったわたしのためであり、今、子供時代を送る、新しい世代に同じ思いをして、傷つき歪まずに育ってほしいからです。

 

 

参考

セクシュアル・ハラスメント 法務省


説明されてもお礼を言わない男性

Twitterで、バズったツイートのリプライ欄を見ていると、

  • 知らなかったのか、間違った認識を持っている男性に対して、女性が説明している
  • 男性はその説明を理解したようなのにお礼を言わない
  • それどころか、「では、これはどうなんです?」という風に話題を変えていく

という場面を目にする。

なぜなのか。

それは、相手に敬意を払っていないからだ。

女性が何かものを言ったとき、男性の多くは(この注釈をいつまでつけなくてはならないのか、それを思うと気が遠くなる)、「聞いてやっている」とどこかで思っているのだろう。

相手が女性ならなおさらそう思うのだろう。だから、間違った認識を訂正することもなく、謝罪をすることもない。

「女性差別?僕の周りにはありませんねーw」

「もし周りにそういう人ばかりならお気の毒ですが…。でも、だからと言って、男性全体が差別しているとか、主語大きすぎませんか?」

「うちの父は家事してますよw」

というような人が説明されても、よくて「そうなんですねー」という反応で、お礼を言わないので、失礼だなと思う。

相手に失礼な態度をとっても、許されてきた歴史が見て取れる。それが当たり前だと思っている時点で、それは差別者だ。

 

「自分は女性差別をしていない、周りに女性差別をする男性が多いのなら、あなたは見る目がないか、そういう悪い環境に身を置く(ほどレベルが低い)のですね、どうして逃げないんですか?」ということを言う人は良くいる。

「僕はそういうのは見たことないですね」

「性犯罪に遭う女性が悪いっていう人いるんですか…?ああ、服装とかそれは聞きますよね?事件の詳細は聞きますよ、だって、防犯する必要はありますよね?泥棒に入られたくなければ、戸締りしろ、って言いますよね?それと同じことですよね。は?セカンドレイプ?何言ってるんですか、誤解です」

みたいなことを言う男性はたくさんいる。全部同じ人が言う場合もある。

まず、男性は女性差別を目にすることはない。差別は女性に向けられる。嫌だと思うのは女性自身なので、それを目撃したとしても、男性は「文化」「よくあること」「普通のこと」として認識するのではないか。まず、差別だとは思わないだろう。

日常的に行われており、自分の友達、親、そのほかのすべての人がしていることが、特別悪いことだと思えない人はたくさんいる。

部屋の中で、男性が入り口から遠い席に座り、女性が入り口に近い席に座っていたとして、その光景を見て、何がおかしいかぱっと理解できる人が何人いるだろう。

「そこまでして上座に座りたいの?」「別に俺も上座に座りたいわけじゃないし」という人はいるかもしれない。

でも「上」「下」を作られて、常に、そこに座れと言われ、そうじゃないところに座ると「親のしつけが悪いんだな」と言われる世界で、自発的に上座を選ぶ女性はいない。だから「女性は自発的に下座に座る」と男性は認識する。

男性でも、常に、食卓を分けられて、同じ席で食事させてもらえなかったら、苦しくなるのではないかと思うのだけど、絶対に自分の身に降りかからないことを想像することは、難しいらしい。

そうして、女性差別が目の前で起きていても、男性は、認識しない。認識しないので「女性差別はない」という。

性犯罪についても、そうだ。

例えば、男性の医師が暴行され、殺されかかっても、

「期待していたんだろう」「殴られたそうな顔をしていたから」「お金がありそうな服装をしていた」「あの時間、一人で歩かなければよかったのに」「強盗も、元気があってよろしい」「強盗にもお金が欲しいという事情があったんだろ」と言われることはない。

(男性が性犯罪に遭ったと言えば、同じ男性から茶化されて笑いものにされる。それは、男性は、自分も性暴力の対象だと認識したくないから、他人事にして、距離を取りたいという心境によるものだろう。性犯罪に遭った男性は「弱い」から、バカにしてもいいとも思っている。それが「男性の文化」である)

でも、女性は言われる。

家には鍵をかけることができる。家に鍵をかけても、家の人権を侵害することに張らない。

けれど、人間に対して「防犯意識を徹底しろ」という場合、それは、その人の、行動や、働く自由、住居を自由に選ぶ自由を、侵害する結果になる。

被害者に対して、服装や、態度を詮索することは、その人の「その人らしさ」を自由に表現する自由を奪っていることになる。

男性は、そんなことを「してもいい」と思っているから、上記のことを言うんだろう。

してもいい、と思っているのは、性犯罪の被害者が、たいてい弱者だから。

(これで、弱者、と書くと、被害に遭う、女性や子供を弱い人間だと思うのは差別的だ、という人もいる。性犯罪の被害者が女性だ、と書くと、男性も性犯罪の被害に遭う、という人もいる。フェミニストは、女と男の違いにばかり目を向ける、差別主義者だという人もたくさんいる)

 

弱者だと侮るから、モノ相手にすることと、人間相手にすることの違いが判らず、家に鍵をかけるのと同じことを、人間にも「すればいい」と簡単に言えるのだ。

自分が「こうすればいい」という助言ができるという認識も、性暴力に遭った被害者(たいていは女性だ)よりも、自分のほうが賢く、上の立場にあると認識していなければできない。

相手のことを思って、のつもりだろうが、相手のことを思うならば、違うアプローチはたくさんあるのに、それを模索することをさぼっているのだ。

さぼっていても、許されているのは、男性だからである。

人権感覚の欠如がそこから見て取れる。他者に対する人権を軽んじている人間は差別者である。

つまり、女性が発言したことや説明したことに対する態度から、その人が差別主義者だということが、被差別者にはわかるが、差別者は指摘されても認識できないという構造は、相手を自分の同等だと認識できない、ということから発するのだ。それが、説明されてもお礼を言わない、ということにもつながる。


身を守るためのフェミニズム

人権感覚を身に着けると、生きにくくなる面も確かにある。

長いものに巻かれたほうがその場では楽なのだ。

そういう処世術を選ぶことができる人もいる。

けれど、人権を侵害されたとき、それを人権侵害だと認識できなかったら、病気になったり、けがをしたり、財産や仕事を失ったり、最悪な場合死んでしまう。

何が人権侵害か、それは学ぶことができる。

人権を守らない、差別的な風土、家庭に育った場合、感覚がマヒしてしまっていて、何が差別なのか認識できない。自分の育った環境や感覚を擁護したいために、「差別なんてなかった」「これは差別じゃない」「文化である」「本人たちも進んで選んでいる」ということまで言うことさえある。

たとえば、男性に、女性が血みどろになるまで殴られたとして。周りが「そりゃ。あんたも悪い」「殴られるようなことをしたのが悪い」「いうことを聞いていたら殴られなくて済んだのに」という場面がある。

その場合、その人の周囲も、暴力に慣れており、感覚がマヒしている。だから、そういう環境で「殴られずに済む」処世術を磨いていっている。殴られる側も、殴られないための正解を模索している。それはある意味で文化と言えるかもしれない。だが、その文化は正されるべきだ。文化である、という釈明は、何の意味もない。

しかし、「殴られないための正解」というのは、殴る側が作り上げることなので、殴る側の気まぐれで、答えは変わってしまう。そうした相手の気まぐれで正解が変わる環境で暮らしていると、自尊心が減ってしまう。自分が殴られることをみじめだと思うと生きていられない。人はあらゆる選択を自分で行っていると思いたいものだと思う。それがたとえ歪んだ環境であっても、自分が選んでいることだと思えば、みじめさは減る。

 

女が選んでしていることだ、女が男を甘やかすから男が助長するのだ、という言い分は、因果を逆転して捉えている。

 

しかし、幸い、人権感覚については、学ぶことで、価値観を変えることができる。

殴ること、意見を言わせないこと、威張ること、モノに当たること、大きな声や物音を出すこと、モノを投げつけること、人の行動を制限すること、それは、あらゆる意味で対等ではない。

違和感をねじ伏せている期間が長いと、違和感に気付くセンサーが壊れる。

そうすると、暴力を振るう相手、差別をしてくる相手、そういう相手を避けることが難しくなる。

価値観をマヒさせたまま暮らせば、その場では楽に、慣れた処世術を使い、それがたまたま通用しなくても、「運が悪かった」「こっちが悪かったから」と思っていれば波風もたたない。

勉強とはなぜするのか。

人に搾取されないようにするためだ。

人権侵害をする相手に合わせて暮らすことは、人に搾取されているということである。性別で役割分担を勝手に決められ、または、本人が自発的に選ぶように仕向けられていたり、それ以外の行動を実質的に選ぶことができないのならば、それは性差別である。

「男性が家事育児をしているので差別はありません」という人がいるが、男性が家事をしていようが育児をしていようが、それはそこに差別がないという証拠にはならない。

フェミニズムを学ぶと生きにくくなる。それは、この世の中が、女性差別を中心にして動いている証である。

女が男の気分を損ねたら殴られるのは仕方ない、という世界で、「これは人権侵害だ」と言えば、「頭がおかしい」と言われるのは、被害者のほうである。

だから、フェミニズムを学べば、生きにくくなるのは当たり前なのだ。

しかし、フェミニズムを学ぶことで、人権感覚が身につくと、「この環境はおかしいので、自分には合わない」と認識することが可能である。致命的な出来事を事前に避けたり、避けられなくても、あとから、すぐに対応しようとできるようになったりする。

「これは、自分の利益にならない」「自分の利益にならないことは拒絶してもいいのだ」と学ぶことは非常に大切なことだ。

人の利益が自分の利益になるとは限らない、ということを、女性は認識しないように育てられる。だから、損をしていても、人のために尽くしてしまう。それが美徳だと信じてしまう。そうしているうちに、死んでしまう。

男性の中には「自分はそんなことは言わない」という人がいるが、そんなことはどうでもいい。実際、「女性差別的な言動をとる」男性がいて、それを支えるバックグラウンドが存在することと、「そうではない男性もいる」ということは成り立つので、反証にはならない。

 

人権感覚を身に着けると、人権感覚を身に着けた人と知り合うことができる。そこで、コミュニティを形成することもできる。

そうすると、殴られず、威張られず、脅されず、けなされず、バカにされず、自分の思うように冒険でき、自分のことを選択できるようになる。

誰もが自分の利を追求する世の中で、戦い方を覚えることができる。

どの性別の人でも、自分は我慢できる、という人でも、次世代の人にその文化を引き継がせないでほしい。自分が選んで我慢していたとしても、その子たちにその文化を継承させることは、やっぱり暴力だから。

自分が加害者になることから、身を守るためにも、何がしてはいけないか、知る必要がある。それが学ぶ意義である。


男性にとって、女性差別は利益がある

自明のことを書きたい。女性差別は、男性にとって利益がある。

障碍者差別は、健常者にとって、利益がある。

そのほかの差別も同様だ。

自分が差別される側ではない、ということで、自分へのプライドを保つ人から始まって、具体的な利益を得る人は大勢いる。

安い賃金で人を雇える経営者、ケアを丸投げして自分はその義務から逃れる者、再生産から逃れる者、汚い仕事をしないで済む、属性だけでちやほやされること。

「自分はあいつらよりはまし」と思わされることでさらに上の階層の人間に懐柔され、都合の良いように動かされる。最後には殺される。

 

女性差別を利用して、ヒーローになろうとする男性がいる。

彼は、女性差別者だ。いろいろなパターンがある。女性にひどいことをして度胸試しをする男性、女性差別を人に教えようとする男性。彼がどれだけ女性差別の代弁者となろうとしても、当事者ではない。それでも、彼は、称えられる。それは女性差別の構造を踏襲している。女性から利益を得ているからだ。

 

女性が男性から利益を得ても、それは男性差別になりえない。なぜならば、権力構造が違うからだ。その違いを理解しない人間は、フェミニストをダブルスタンダードとののしる。耳を貸す必要はない。彼らを説得することもする必要がない。そもそも説得できない。彼らは女性差別から利益を得ているから、絶対に説得されない。

 

いい人間だと思われたいというのは、強い欲望だ。評価されたい、すごいと思われたい、尊敬されたい。

反差別はその手段になりうる。だから、気を付けなくてはいけない。

わたしは、たとえば、日本国内では、民族差別の代弁者にはなれない。わたしが訴えることができるのは、女性差別と障碍者差別だけだ。日本国外にでれば、差別される側に回る。白人ではないから。アジア人差別を抗議することができる。できるというのもおかしいけれど。当事者以外ができるのは、耳を傾け、明らかな差別者をつぶすこと。でも、いつもはできない。生活があるから。

 

 

わたしが以前した失敗は、セクシャルマイノリティの男性が語るフェミニズムに耳を傾けすぎたことだ。彼は、わたしよりも、学があるように思った。

わたしは、今思えば、学問に関して、女性差別を内面化しており、学のある男性の言うことには、正しさがあるのではないかと思っていた。しかし、わたしのもつ女性差別を受ける当事者性を利用されかねなかった。途中で気が付いて、引き返してみたけれど、わたしは、彼から学ぼうとするべきではなかった。

 

わたしの弱みは、「常に学びたい」という願いだ。それが欠点だ。そのため、人に付け込まれる。とはいえ、学びたいと願い、学ぶので、そうしたことにも、遅くなりはしても、気が付くことができる。

 

日本において、男性のほうが高い教育を受けやすい。だから、わたしが学びたいと思えば、男性から学術的な思想を強いれることになりやすい。そしてそれは、わたしの当事者性を奪われることにつながる。とても危険なことだ。

 

自分にとって大切な思想を、自分を差別する属性である「男性」から学ばなくてはならない。そういう状況下で、わたしは、どれだけ抗えるだろうか。学ぶ最中に少しずつ紛れ込んだ、洗脳という毒を飲み込んで、女性差別を内面化してしまう。

 

わたしは、権威に弱い。権威を持っているのはたいてい男性であり、男性の規範を身に着けた女性である。だから、わたしは、それらに背を向けなくてはならない。

 

 

男性にとって、女性差別は都合がいい。利益がある。

それを忘れてはならない。

人を信用しないわけにはいかない。何かしらの基準は必要だ。常に学んでアップデートしなくては、差別と闘えない。自分の尊厳を守れない。しかし、「学び」の中に「毒」が混じる。信じた人がさりげなく差別をし、そして、差別してきたにもかかわらず、「自分が差別された」と被害者としてふるまう。一つでも差別される属性があればそれが可能になる。

 

男性の中にも女性差別はよくないと考える人はいる。女性の中にも女性差別は必要だと考える人もいる。誰にとって何が都合よいのか、状況によっても変わる。自分の利益を主張できるのは、自分だけだ。

学問の世界も、政治の世界も、経済の世界も、男性に独占されている。そのため、それらの果実を得ようとすれば、引き換えに、心や体や思想に、男性の価値観が混じる。毒されてしまう。それを拒否すれば、コミューンや、身体、魔女などの概念に行きつく。ただ、誤解を恐れずに言えば、それも「追いやられる」ことの一形態ともいえるだろう。

 

忘れてはならないのは、男性にとって女性差別には利益があるということ。

人と人の間には、それぞれ違った正義と利害があるということ。

自分の利害を主張できるのは自分だけだということ。

その孤独の先に、かすかに連帯の道が見える。それほど連帯は難しいだろう。

連帯がたやすく見えるとしたら、それは、毒が混じる水を飲むことと同じだ。

 


いい人と思われたいことと、反差別とは相性が悪い

自戒を込めていうのだけど、「いい人と思われたい」ということと、「反差別」とは相性が悪い。最悪だ。

いい人間になりたいから反差別、というのと、いい人に「思われたいから」反差別というのは似て非なるものだ。

反差別をするためには、自分で勉強して、自分の判断で、考えながら行動を改めなくてはならない。厳しい道だ。

そこに人間関係を含めてしまうと、「この人が言っていることを批判できない」「あの人が言っているのだから大丈夫なのだろう」「こういうことをしていると評価されるだろう」と、行動の軸が他人に左右されてしまう。

反差別は、世の中に歯向かうことだ。世の中は、ある種の人々にとって、差別込みでうまく回っている。「社会」にとって、差別は必要なものなのだ。

女性たちは、社会の周縁に追いやられている。女性たちは社会に含まれていない。差別される人間は、社会の一員とみなされていない。それでいて、社会は、差別される人間を搾取しないと、円滑に回らない。

見えなくされていながら、あてにされている。あしげにしながら、おだてられる。

おだてるなんて、安いものだ。正当な「人権」に比べたら。

人権と、人の尊厳、命を軸に考えると、差別はあってはならない。差別は人を殺し、病気にし、貧困に陥らせ、幸福の追求を妨げる。だから悪だ。

世の中のために、というとき、その世の中は誰のものなのか、誰が支配しているのか、誰にとって都合がいいのか、考えなくてはならない。

そのうえで、反差別は口触りのいいっものではいられない。うまくいっている人に対して、あなたの利益をよこせ、それは、あなたのものではない、という行為だから。

人に好かれたい、いい人だと思われたい、そう思うことは、反差別を行う上で邪魔になる。マジョリティにとって、反差別は、いらだたしく、場をわきまえない、無作法なものだからだ。

男が女を襲う時、女がそれを告発したら、男は「おとなしくして、場の空気を読んで、大人の分別を持つべきだ。そうすれば、お互い恥をかかないし丸く収まる」というだろう。世の中はそれを肯定している。告発すれば、女の側が非難される。金目当て、わかってたんだろう、自衛すればよかった、気を持たせたのだろうと。

自衛すればよかったという人たちは、良かれと思って被害者を責める。実際に、被害を防ぐにはそれしかない。加害者を変えることは現実的じゃない。彼らは、被害者が自衛することは現実的だと信じている。外出するときは大人の男性と同伴し、それがだめなら複数で行動するべきだという人までいる始末だ。

「その同伴する男性が襲ってきたらどうする。そもそも、女性の行動の自由が妨げられていることについては?」というような、当然の疑問は、彼らにとって耳障りだ。

つまり、被害者非難をする彼らは「いい人でいたい」から、被害者を非難する。性暴力を振るわない自分でいたい、性暴力を防ぐために何かする自分でいたいから、性暴力被害者を非難する。

何かするのも、真剣に何かしたいわけじゃない。ただ、何かしたというアリバイがほしいだけだ。だから、被害者を非難することで、いいことをしたと思える。自衛をするべきだ、という間違った正論を言うことで、彼らは彼らの認知の中でいい人でいられる。それをおかしいという人間は、彼らの平和を乱す。だから、嫌われるだろう。当たり前だ。でも、それでいいじゃないか?

いい人でいたいという欲望を満たすために、セカンドレイプをする人間がいるのだ。

 

いい人でいたいという欲望は人を傷つけ、自由や人権を損なうのだ。

 

 

もし、あなたが、反差別を行おうとするならば、あなたはいったん孤独を覚悟しなくてはならない。人と仲良くやるのは難しいかもしれない。間違っていることを間違っていると言えば、角が立つ。世の中と折り合いがつかない。

繰り返すけれど、世の中は、差別込みで回っている。

だから、娘を持つ男性が「娘のために女性差別は反対だけど、でも、女性としての役割があることは伝えたい」「女性差別には反対だけど、勧善に差別をなくすことは難しいだろう」ということだって成り立つ。実際にみたことがある。そういう人にどうするべきなのか。そういう人にも、いい人だと思われたいか。彼らは女性差別に興味を持っている。彼らを味方として、育てるべきなのか。

 

いいや、育てるべきじゃないのだ。女は、女だからと背負わされたケアを、捨て去るべきなのだ。大人は自分で成長することができる。ケアをして、育てたところで、気に入らなかったから、彼らは、フェミニストを恨む。

 

女性差別を訴えるとき、女性は、女性差別を最優先にするべきだ。ほかの差別のことを考える必要はないとはいわない。

でも、人にはそれぞれに立場がある。それぞれの正義がある。それぞれの利益がある。

だから、自分が自分の主張を第一にしなければ、誰も代わってはくれない。

 

 

いい人だと思われることをあきらめよう。孤独であることを受け入れよう。

スタートに戻ろう。

助け合うことはあっても、基本的にわたしたちは、それぞれ一人きりだ。人生を生きる、自分を生きるというのはそういうことだ。孤独なのだ。

生まれたときも死ぬときも一人なのだから。

 

 


女性差別に興味を持っても、男性にはメリットがない

はじめに

これは「女性差別」「女性への犯罪」に初めて気が付いて、第一走者と言ったり、女性に声をあげろと言ったり、女性差別の代弁者になろうとする男性に対して批判する文章です。

(厳密に言えば男性にとってもメリットはないわけではないけれど、知覚できるかというとまた別。また。女性差別が「女性にとってメリットがある」と考える人もいるので、メリットがあるなしで差別問題を論じるのはおかしいという話でもある)

差別には不利益があるからやめるべきだ、というのは不十分だ。

差別がある世の中は、うまく回っている。回っているように思う人がいる限り、「不利益があるからやめるべきだ」と言っても「自分には不利益がない」となる。

「誰にとっての不利益か」を考えると、主に、「女性差別の不利益は女性が被る」のだから。

差別は、人の尊厳や命を踏みにじる。だからだめなのだ。

利益を追求すると、「(他人の)命を犠牲にしても得られる利益」を得る人たちもいるので、無効化される。そういう人たちは差別に困っていない。差別を喜んでいる。だから、わたしたちは、彼らを追い詰めるべきだ。味方になってもらいたいと願うべきじゃない。差別によって不利益を得るのだ、ということを骨身にしみこませるべきだ。

だめだからだめ、いけないからいけない、という原則を持ってもいい。

本文

女性差別や、「女性問題」に興味を持つ男性に対して、どんな態度をとるべきか。

今、初めて、「女性は、男性に暴力を受け、性暴力を受け、賃金格差があり、社会的に不利益な扱いを受けている」ことに気付いた男性がいたとする。

その男性は「初めて知った!では僕が女性差別を解決する」と張り切る。

そうしたとき、彼らは、女性差別の上塗りをする。

女性の代わりに語り、女性に被害の経験を語るように言う。自分の男性としての影響力を使う。

これらはすべて女性差別だ。彼らはいいことをしていると思っている。自分のことをいい人間だと思っている。

男性は男性であるだけで、構造的に加害者だ。社会的な不利益を是正せず、女性差別を知らず、男性に対して、働きかけることも知らなかった。

女性に被害内容や、経験を語らせることは、暴力だ。それもわからない人たちがいる。

そういったとき、彼らを批判するかどうか、女性たちは迷う。

せっかく味方になってくれた人を、敵に回すようなことをしたくない。どうにか育てることができるのではないかと。

育てる!

女性たちは今までもずっと「人を育てて」きた。とうに成人した人間を、しかも何の関係もない人間を育てる義理はない。それは、女性に課せられてきた不利益そのものだ。人を育てずに済んでいたら、できてたあろう様々なことを想像してほしい。

男性は、家事をするだけ、育児をするだけでも注目されほめたたえられる。

だから、家事や育児をする男性たちは自分のことを「女性差別をしない、いい人間だ」と思っている。家事や育児をするだけで、どうして褒められるか考えもしない。男性だから、「本当は家事も育児もしないで済む男性でありながら」家事育児をしているから、注目されているという非対称に思いをはせることもない。

彼らがおろかなんだろうかと思うこともある。とてもよくある。どうしてこんなに簡単なことが見えないのかと。

はっきりしているのは、(あえていうと)「男性問題」を発見し、是正したところで、彼らにメリットはないということだ。メリットがないので、彼らはいつものように今までのように生きることを選ぶ。

では、女性差別を解決すると、男性にメリットがあることを伝えるのはどうか?

メリットによって女性差別をやめろという人たちは、そのメリットが消えたとき、女性差別をまたするだろう。

おだてて、ちやほやして、ほめたたえて「味方」になった人たちが、困難に直面したとき、どんな風に手の平を返すか、わたしたちはよく知っているはずだ。

わたしは、メリットの如何ではなく、「女性差別は不公正なことだからやめる」といえる人間を望んでいる。

それは「お気持ち」と揶揄されることなんだろう。

でも、わたしたちは、感情を軽んじられてきた。そして、感情は「女のもの」「おんな特有の弱点」とみなされてきた。「女は感情的で話が通じない」と言われてきた。どんなに冷静に論理的に話していても、「感情的」とレッテルをはられる。わたしの体が女の形をしているからだ。

男たちは、感情を軽んじ、それでいて、感情的にふるまうので、感情をコントロールすることができない。だから、メリットや利益に目がくらみ、不公正に立ち向かうことができない。それは、彼らが解決するべきことだ。

 

感情は素晴らしいものだ。

なにか、不公正をしそうになったとき、理屈よりも先に感情がシグナルを送ってくれる。それで、わたしたちは、悪人にならずに済む。素早く判断できる。感情は、生きることに価値を与え、なぜ生きるか、生きるとはどういうものか教えてくれる。感情的であることを恥じることはない。そのうえで、わたしたち女が論理的であることを主張することもできる。冷静である必要もなく。

 

 

男性たちは、不公正を許容している。それを恥ずかしいと思えない人間に味方になってもらってどうするというのだ。

差別とは不公正であり、殺人である。それが悪いと理解できない人間に、何を言うことができるだろうか。殺人にはメリットがない、殺人をしないことにはメリットがある、と、言って通じるのか考えれば、通じないと答えは出るだろう。

女性差別は男性問題である。それだけのことを理解できない「味方」を育てることを放棄しよう。彼らは味方にならない。味方になるとしたら、人間的に成長する必要があり、わたしたちに、それを支える理由は一つもない。メリットがあろうとなかろうと、しなくていいことをする、その弊害は大きい。彼らは、反差別の訴えをする、被害者に対して皿に甘えてつけあがる。わたしはそんなのは嫌だ。

 


「生きる」と「怒る」

生きているという「感じ」がするのはどういうときかというと、怒っているときだ。

怒るとパワーがわく。生きるためのパワーだ。

会社を辞めたときも、「パワハラに遭ったので病気になりました」というんじゃなくて、「パワハラだ、それは不法行為だ」と相手を責めるべきだと主治医に言われた。

回復が全然違う。

病気になったほうが悪いと付け込まれる余地を残すな、パワハラをした相手が悪い、その結果損失を受けたと主張するべきだと言われた。だから、後者の言い方をして、自分でそう言う認識をすべきだと。そう主張すると自分もそう納得する。自分が悪いのではないと。

病気になったからやめますだと、自分が悪いみたいに認識してしまうから、体に良くない。

 

怒っているときは自分の輪郭がクリアになっている。
それに依存しすぎると、怒っているばっかりの人になったり、怒るための出来事を探すようになったり、怒ることで人に認められたいと思うようになったりする。
でも、そうじゃなくて、生きるためのネガティブな感情を個人的に大事にするってこと。
というのは、今日いくつかの記事を読んだから。

 

怒るっていうのは、自分のセンサーが働いているってこと。それをなかったことにすると、自分を守れなくなる。

怒っていることを認識するって、それは、生きるために戦ってるってこと。


ゲリラ的人生

ゲリラ的人生は、くたびれはてこさんの過酷な人生が描かれている。

逃げるという言葉を書いていて、事実その通りなんだけど、わたしの言葉だとこれは「戦い」って言い方になる。

嫌なことがあって、ここにいたら生きていけない、という気持ちにふたをしないで、行動してるから。

わたしは、同じ年の時、こんなにも勇敢な人間じゃなかった。

機嫌よくいると、自分以外の人にとって都合がいい。でも、自分の都合が悪い。

昔、元カレに「いつも笑っていてくれ」と言われて、ぶちぎれたことがあった。あのとき、なんで怒っているのか、相手を納得させることはできなかったけれど、ちゃんと怒った幼い自分のことは勇敢だったと思う。

わたしは、「笑っていて」と言われて非道な暴力を受けたと思った。そういう感じで、今までわたしが我慢しているうえに成り立っている穏やかさは、なんていうか、彼にとってとても当たり前で彼は一切努力しないということを宣言しているんだなと思った。思ったというか実際そうだった。

わたしは、人の顔色をうかがうけれど、相手の要望通りに動けない人間だから、天然とか空気読めない子とか言われていた。

「なかったことにする力」の強い大人に囲まれて育って、事実としてあったことが「勘違いだ」と言われているうちに、自分がどんな現実を生きているのかわからなくなった。言葉が誰にも通じない感じがして、うまくしゃべれなくなった。うまくしゃべれないことをごまかすために機関銃みたいにしゃべって何もかもごまかしていたかった。それは、大人にとって都合がよかった。わたしは問題を抱えていたが、問題はないということにしたい人たちしかいなかった。

 

でも、問題はあった。成人してから、精神科に行くことができた。十六歳の時から精神科に行きたかった。

わたしは病むべくして病んだ、病むことが正常だ、と言えるような環境に育ち、そこから逃れるためにさらに十年かかった。

わたしは、信頼していた人に「こじらせている」「頭がおかしい」「怒ってばっかりいる」「めんどくさい人」と人に紹介されたことがある。その人から去る決断をするのにも三年かかった。信じられなかった。自分のことが。

わたしはもしかして、こじらせていて、頭がおかしくて、怒ってばかりいる人間なのかな。それは直さないといけないんだろう。

そう思って、直そうとした。実際、「いつも怒っている人は不幸な人」と言う人はいるし、「現実が充実していたらネットで文章を書くはずがない」とい言う人がいる。でも、そうした人は、わたしに何の関係もない。責任も負うわけではない。無責任な人たちだ。

現実が充実していようがしていまいがわたしには書くべきことがあるし、怒っているときがあったからといって、不幸なわけじゃない。そして、不幸でもいい。不幸だからバカにされるということがあってはならない。不幸な状況を自分から選んだわけじゃないんだから。

 

 

わたしは、いつも戦え、と思っている。戦ってやると思っている。

それは、撤退を意味している場合もある。自分の気持ちが踏みにじられるような場所を選ばない、そういうところから逃げる、それは、自分の気持ちを守るための戦いなのだ。

人にはそれぞれの利害があって立場があるのだから、その人なりの正義がある。

ということは、わたしにだって、自分のための利己的な正義があっていいのだ。

自分を優先していい。

女の人は、自分を優先するな、あとまわしにしろ、と育てられ、大人になってからもそうしろと圧力をかけられる。

そんな圧力はないという人もいる。気のせいだと。証拠を出せと。

でも証拠を出しても結局「個人的なこと」「その人がたまたまそうなだけ」と否定される。

わたしは言う。言いたい。あるものはある。

自分が一番最初に何かを得ると、角が立つ。悪口を言われる。悪意を持って邪魔されるようになる。そういうことは実際ある。

名前一つとってもそうじゃないか?愛情があれば夫の姓にするのが普通だってみんな思っている。女の人は後回し。

 

人のために生きること、愛した男のために寄り添うこと、応援したい人がいるってこと、それが女の幸せだ。早く結婚して子供を産んで、自分の人生よりも他人の人生の幸せを祈れるようになってからが、本当の幸せを感じられることだと言われたことがある。

自分を優先するためには、それを受け入れるしかないのが現状だ。

でも、受け入れなくていい。そういう悪意も受け入れなくていい。喧嘩していい。

にこにこ笑っている裏で、殺している感情がある。それはわたしの一部だから、わたしはわたしを殺している。それはだから自殺なのだ。

わたしはわたしの感じ方を見逃さないで、そういう風に感じたことは蓋をしない。ふたをすれば、心から先に死んで体も死ぬ。死んでもいいのかもしれないけど、たぶん、わたしは生きるようになっている。

 

人はみんな無責任に、困っている人を支援することでいい気分になりたがっている。支援もめんどくさいからよさそうな言葉をかける。それは、とってもコストが低い。でも、いいことをしているような気がする。みんな悪者になりたくない。そして、いい人間だと思いたい。だから、困っている人を探して、なんかいい感じの言葉をかけたいと思っている。その言葉が、その人をおいつめる結果を産んでも、責任はとらない。自分で選んだんでしょと追い打ちをかける。

わたしは、悪者になってやる。そして、自分を殺さない。人のことも殺さない。

いい人のふりをしてにこにこして、自分の気持ちを殺すこともしないし、いい人になりたいからって無責任なことも言わない。


「キモイ」は女の武器になる言葉

女には拒絶の言葉も罵り言葉もない。

言葉がなければ、従順に、なにかも受け入れらしかない。Fwordがないから、素早く罵れない。

女は、怒ってはいけない、乱暴な言葉を使ってはいけない、という抑圧がある。

「やめろ」ではなく、「やめてください」と頼まなくてはならない。

もし、「止めろ」と言ったら、「非常識で同情できない」と言われる。

「キモイ」という言葉は、感覚的な言葉だ。

男の言葉が「理屈」「説明」的な言葉だとすると、対極にある。

だからか、男は「キモイ」という言葉を嫌う。キモイと言った女性を、頭が悪いと非難する。男への差別だと言ったり、フェミニストが罵倒語を使うなんて、と言ったりする。

説明をするのは男性の文化だ。彼らは、感覚的なものをバカにする。説明しろと強いる。

それを無化する可能性があるのは「キモイ」という言葉だ。

相手に、やめてくれ、こういうことはしないでと懇願せずに、使える、唯一の拒絶の言葉だ。

キモイという言葉は、時として「相手を理解しようとすることをしない最低の言葉だ」と言われる。

でも、考えてほしい。男たちは、こちらの「キモイ」という言葉を理解しようとしていない。経緯も払っていない。

キモイと言われた男は逆上する。自分を虐げる女という風に認識する。

ただ単に拒絶しただけなのに、被害者みたいなことを言う。胸糞悪いことに、フェミニズムが連綿と紡いできた言葉を盗んでまで、否定する。

女には乱暴な言葉が許されてない。もし、乱暴な言葉を使ったら、物理的に、攻撃されることだってある。

「キモイ」という言葉は、数少ない、「お前には用はない、お前はわたしに近づくな」という意味を持つ言葉だ。これは、女の言葉だ。だから、男は否定する。

わたしたちは、相手を理解しなくていい。ずっと、わたしたちは、男を理解しようとしてきた。でも、男が女を理解しようとしてきただろうか。

お前を理解しない、とわざわざいう必要もない男と対照的に、女はずっと説明しろ、わかるようにしろと言われてきた。その「わかるように」のゴールは、男によって、位置を変えられてしまうから、相手を納得させることは構造的にできない。

相手は理解したくないから、ゴールの位置を勝手に変えてしまう。

それを防ぐのは「キモイ」という言葉だ。

お前はキモイ、だから関わるな。そういう意味がある。

だから、キモイという言葉を、わたしは悪者にしない。

丁寧な言葉で説明して、こちらの領域を侵害され、攻撃されてきた。それをはねのける言葉が女にはなかった。

キモイ、という言葉は、その始まりだ。わたしは、キモイ、と言う。相手を理解することを拒む。相手には私に対するリスペクトがないのだから、わたしもリスペクトを持たない。


子供はエヴァンゲリオンの気持ち悪さを理解できない

14歳のころ、エヴァンゲリオンが放送されて、「なんかかっこいいアニメ」と呼んでいた。ロゴが読めなかったからだ。

テレビ放送時の紙芝居のもみたし、えのぐをぐちゃぐちゃ塗ったみたいなバトルシーンも見た。

ミサトはなんかエロかった。

でも、今見るともうミサトが無理すぎる。

ゲンドウがミサトに命令して、ミサトはシンジと暮らす。

ありえないよね、上司と部下が一緒に暮らすなんてさ、しかも大人と子供だよと高校生に言った。

高校生は言った。

「気を使うからダメってことですか?」

あー、まだ、こどもだからわからんのか、と思った。

「学校の先生がある日、おまえんち住むわ、つって来て、裸でビール飲んで、お前家事が下手だとかあれやれとか言った挙句に、キスしてきたらどう思う?」

と言ったら、え、そんなんありえないですキモイ、ってかえってきた。

そーだよね、それを仕組みとして作ったのは大人のゲンドウとミサトなわけよ、シンちゃんはずっときもいけどあれはあの子の生じゃないわけ、仕組みとして公私混同があるんだよ。

ゲンドウが命令して評価する。評価するのは数字だけ。

だから、チルドレンたちは、適応しようとしてえ、レイはいちゃつくし、シンジはお父さんお父さんいうし、アスカは優秀であろうとする。

どういう適応の仕方として現れるのか、が個性になるんだよね。

でも、基本は、ゲンドウが悪いって構造があるんだよね。そこで、子供たちがどういう風に動こうと変わらないんだよね。大人が悪いという構造があるんだよ。構造を作って評価軸を作った大人がいるんだから。

という話をしました。

キモイ、気持ち悪いって言葉は何かと批判される。

それは、感覚的な言葉だからだ。

でも、その感覚にはとても大事なことが含まれている場合がある。

言葉で説明しろ、説明しろと追い立てられる側と追い立てる側の非対称を突き崩す可能性のある言葉だと思う。

追い立てる側が、キモイと言われてダメージを受けるのは、それまで、優位だった関係が壊れるからだ。

一方的に説明しろ、と言えていたのが、言えなくなるから、反逆として感じられるのだろう。そして、その感じ方は正しい。私たちは正しく攻撃している。


大学受験は難しくなる

今年は都市の大学の定員の規制のため、明治を筆頭に、とにかく難しくなった。

早慶東大などのトップレベルを受ける人については何も変わりはないが、それ以下の大学が非常に難しくなった。

Marchを受けるよりも、地方国公立のほうがずっと入りやすい。逆に言えば、地上の大学は今お得に受けることができる。

都市の大学が難しくなったのは、定員数が減ったこと、受験方法の多様化によって何度も受けられることがあげられる。

二十年前は、滑り止めを含めて、三回受験すれば多いほうだったのが、今では、似十回受験する人も珍しくない。同大学の同学部を受けるだけでも五回のチャンスがある場合もある。そうすると、定員数に対して、受験人数が跳ね上がるので、結果的に偏差値が上がってしまう。偏差値が上がると、「偏差値が高い」から受ける人たちが殺到する。

日東駒専はもはや滑り止めの大学ではない。

センター利用で明治大学を受けた人は、8割でも落ちた。合格ラインは、8割五分らしい。それだけ取れれば、東大も入れてしまう。

 

大学進学を機に、地元から出るのが最終チャンスの地方に住んでいた人には、あまり良い情報ではない。

都市に行けば、広告を含めて、多くの情報に強制的に触れて、どんなものがあるか知ることができるから。学生時代という短い間だけでも、都市に住むのには意味がある。

ただ、大学に限って言えば、偏差値によって大学の質が大きく変わることはない。

学生のレベルが変わるだけだ。

偏差値が低くても、親身になって育ててくれるような大学を探して、入学するのもとてもいい。都市部に集中しているということは、それ以外の大学に入りやすいということだ。

視点を変えれば、いい面もある。

決してあきらめず、これからの一年を頑張ってほしい。

大学の考え方をよく調べることが大切だ。