大学受験は難しくなる

今年は都市の大学の定員の規制のため、明治を筆頭に、とにかく難しくなった。

早慶東大などのトップレベルを受ける人については何も変わりはないが、それ以下の大学が非常に難しくなった。

Marchを受けるよりも、地方国公立のほうがずっと入りやすい。逆に言えば、地上の大学は今お得に受けることができる。

都市の大学が難しくなったのは、定員数が減ったこと、受験方法の多様化によって何度も受けられることがあげられる。

二十年前は、滑り止めを含めて、三回受験すれば多いほうだったのが、今では、似十回受験する人も珍しくない。同大学の同学部を受けるだけでも五回のチャンスがある場合もある。そうすると、定員数に対して、受験人数が跳ね上がるので、結果的に偏差値が上がってしまう。偏差値が上がると、「偏差値が高い」から受ける人たちが殺到する。

日東駒専はもはや滑り止めの大学ではない。

センター利用で明治大学を受けた人は、8割でも落ちた。合格ラインは、8割五分らしい。それだけ取れれば、東大も入れてしまう。

 

大学進学を機に、地元から出るのが最終チャンスの地方に住んでいた人には、あまり良い情報ではない。

都市に行けば、広告を含めて、多くの情報に強制的に触れて、どんなものがあるか知ることができるから。学生時代という短い間だけでも、都市に住むのには意味がある。

ただ、大学に限って言えば、偏差値によって大学の質が大きく変わることはない。

学生のレベルが変わるだけだ。

偏差値が低くても、親身になって育ててくれるような大学を探して、入学するのもとてもいい。都市部に集中しているということは、それ以外の大学に入りやすいということだ。

視点を変えれば、いい面もある。

決してあきらめず、これからの一年を頑張ってほしい。

大学の考え方をよく調べることが大切だ。


zozosuitの衝撃

ゾゾスーツは、アパレルの常識を変えるだろう。

なにしろ、ボディのデータが、その人の年代、ブランドの好み、いくら服に使うのかの情報とひもづいて、手に入るのだから。

今まで、洋服は、ブランドが手探りで、サイズやパターンを作ってきた。

それがどうだろう。

今後は、手探りじゃなくて、実際のデータが手に入るのだ。

ゾゾスーツが、伸縮センサーじゃなくて、ドットを読み取ることにしたのは賢い。

センサーはバラバラにして盗まれる。そして、Bluetoothの規格が変わったり、壊れたりしたら、そのコストがかさむ。もちろん、センサー自体も高い。だから、先の見通しが高い。

それを、スマホでの写真で位置情報を得ることにしたのだから、ゾゾスーツはこれから、世界中に、いろいろな分野に進出するだろう。

医療の世界でも役に立つだろう。義肢にももちろん使えるばかりではなくて、手術するときにも前もって体の情報が分かっていたらきっと便利だろう。

ベーシックアイテムを網羅すると言っていたので、ユニクロはかなり危うくなる。

各ブランドは、顧客が実際に求めている服を作るために、スタートトゥデイと提携せざるを得なくなる。そこから入る収入もかなりのものになるだろう。

既存の技術を組み合わせて、安価で新しいものを作る。素晴らしい。わたしにもっとエンジニアとしての力量があったら、絶対に参加したい企業だ。

服の解放だ!

わたしは太っている。鏡を見るとうんざりする。でも、服の厚み、パターン、ラインによっては、ずいぶん印象を変えることができる。印象を変えると、自信がついて、太っている自分も悪くないと思える。

服というのは、自分に対するイメージを変えるものなのだ。自信を持たせ、人生を明るくする。

三十代以降の女性は、体の形が多様化する。

入ればいいと無理やり押し込んでいる人もたくさんいるだろう。

それが変わるのだ。

おまかせ便の精度も上がるだろう。

あれはとてもいい。勉強しなくても、トレンドあった服を提案してもらえる。実際、段ボールを開けるときには、クリスマスのプレゼントを開ける子供のようにわくわくしている。わたしのために選ばれた服!わたしが知らない世界への扉。

すでに二回、お任せ便が届いた。

一回目はパーフェクトだった。体のラインをきれいに見せ、わたしが買おうと思わない、けれど、自分を美しく見せる服が入っていた。

二つ目はがっかりだった。選ぶ人の力量によるのだとわかった。

今まで販売員として、安く使われていた人に、雇用の可能性が増える。

店頭に立たなくても、服を提案するセンスが、この先必要になる。

世の中が激しく変わっている。今まで評価されていなかったものが、お金に代わる。

たいていは、人間でしかできないこと、つまり、センスが必要とされる。

服の販売員は、今まで、その力を安く使われていたと思うけれど、服の知識や、選び方、イメージする力が、これで生かされる。

その多くはきっと女性だ。女性が家でできる仕事が増えた。

これも喜ばしい。スタートトゥデイの社長は、高卒で、それから企業をしたそうだ。

システム屋さんなのかなと思う。


犯罪の八割は男性が起こし、性犯罪の99.7%は男性が起こす

犯罪の八割は男性が起こす(起訴)。

略取誘拐、人身売買、強制わいせつ、強姦の被害者は、女性がほとんどだ。

暴行、傷害、誘拐、強制わいせつ、強姦などは、九割が男性だ。

だから、女性は男性を恐れる。そして、憎むのにも根拠がある。

女性は、おびえながら暮らしている。被害にもあっている。それで、男性が言葉での攻撃も恐ろしいというのは無知から来ているのか、現実を見たくないのか。

男性は、男性であるだけで性犯罪被害者になりにくい。

犯罪者の九割が男性なのに、女性が、どうして、男性を恐れないでいられるだろうか。

女性が起こす犯罪は、窃盗か万引きが多い。それは、もちろん犯罪だが、女性が恐れるのは、物理的な攻撃である。物理的な攻撃を行うのが男性だと感じていて、そして、数字からも裏付けられる。

女性が男性を警戒するのは当たり前だ。

見た目でわかる特徴があって、それを避けるしかないのだから。

また、強姦、強制わいせつ、人身売買の被害者が、65歳以上の女性まで存在することも注目すべきだろう。

 

男子の受刑者が19744人に対して、女子の受刑者は2122人しかいない。おおよそ9:1の割合。

 

 

女子の犯罪で九割を超えているのは、英二殺しだけだ。それも年に十件。

これは、未婚の母(多くは子供)が妊娠して、支援もなく、殺すに至ったものが多いだろうし、男親の不在、社会の支援のなさから招いた、社会的な問題が背景にある。女がせざるを得ないように追い込まれていること、子育てを女がするものだと思わされていることが原因だろう。

 

強姦 被害者の数

総数  1,289男 - 女1,289
強制わいせつ

総数7,027  男161  女6,866

 

上記から、性犯罪の被害者のほとんどが女性だとわかる。

被疑者の性別(平成 22 年中の検挙人員)
※ 警察庁「平成 22 年の犯罪」を基に作成したもの。

強姦 総数803男 802 女1
強制わいせつ 総数2,189 男2,180女 9

9/(803+2189)=0.003008

これをパーセントに直すと、0.3パーセントが女性の起こした性犯罪になる。

ということは、性犯罪の九割九分は、というか、99。7%は男性が起こしていると言える。そして、その被害にあうのは、年齢問わず、「女」。年をとっても、性犯罪から無縁ではいられない。

犯罪白書に書いてあるが、性犯罪については、暗数がとても多い。ほかの国で「性犯罪」となることが、日本では犯罪ではない。また、警察に訴えることができない、レイプ検査キッドがない、警察の対応が悪い、捜査されない、などの問題が多々あることをお忘れなきよう。

ただ、強姦に関しては、定義が「性器に性器を挿入すること」であるので、「異物を体に挿入する」ことに変えるべきだ。男性差別を訴える人は、まず、ここを言えば、男性の性犯罪被害者を救える。ただし、女性に言うんじゃなくて、公権力に言うように。そして、その公権力のほとんどが男性たちが占めていることも忘れないように。

男性も、「自分を苦しめているのは男性だ」ということにはよ気づいてくれ。

司法も警察も検察も男が占めているし、犯罪者もほぼ男性だ。

冤罪も犯罪も男性が起こしている。

Twitterのリプライでわかったが、データを突きつけても「男性差別を訴える人々」というのは、データを「見ない」。見えないんじゃなくて観たくないから見ない訓練を積んでいるようだ。

上記のデータをリプライで送ったら「嬰児殺しは女がすると言われたらどんな気持ち?」と返ってきた。そりゃー「見たくないものは見ない、どんなに明らかなデータでも見ないのかすげえキモイ。ああ、やばいキモイ」って思うよね。こんなに明らかなのに、それには返事しないで話そらすんだから気持ち悪いよ。対話が成り立たないというか、なんだろう。ちょっとこの話の通じなさは怖い。恐怖。


マサキチトセ氏本人への批判《エロくない性の話》への批判続き

実は、批判のブログを書く前に、DMで二回にわたって対話をした。

今では、DMを選んだことを公開している。信頼していたから、DMにしたけれど、DMのやり取りに問題があった。わたしは、公開した状況でやり取りするべきだったと後悔している。しかし、わたしは、あのとき、まだ、彼を信頼していた。だから、気を使って、DMで事前に会話をしたり、確認をしたりしたかった。

しかし、それは裏目に出た。

たとえば、彼は、ご理解くださいと繰り返した。

これは問題だ。差別を受けた側がなぜ理解を求められるのか。そこに、力の非対称性がある。

あの番組で起きたことは、「差別」だ。フランス語を習おうとして女性の心得を学ばされたことは「差別ではない」と示し続けたことが、差別である。

「マサキチトセの」と冠がかかっていて、企画者も、司会者も、ゲストの人選をしたのも、マサキチトセ氏なのだから、全責任はマサキチトセにある。

わたしがどのように何を理解しようと、「差別を中断することなく番組を続行することを決めた」のは、マサキチトセ氏である以上、番組内で差別が起きたはマサキチトセ氏の責任ということになる。

わたしがいかに「ご理解」しても、現実に、あの番組が差別を垂れ流したことは変わらない。

「なにもしなかったわけじゃない」と言いたければ言うのは自由だけど、はっきりいって、わたしは単に話題を変えたようにしか理解できなかった。

「差別をやめろ」とゲストに言うか、それでもやめなかったら、ゲストを外して番組を続けるか、一度番組を閉じるという選択肢もあった。

だが、彼はそのいずれもしなかった。無作為の責任がある。

また、傷ついた側に「ご理解」を求めるのは、結局「傷ついた側」に責任を求めることと同義だ。わたしの理解が足りないから、わたしが差別と感じているみたいだからだ。

DMでは、中立的な言葉遣いをしていたけれど、彼は中立ではない。番組の主催者なのだから。(もし、マサキ氏が訂正を求められるのならば、わたしはDMを全部公開してもかまわない)彼は、友人だから話をコントロールしたわけじゃないとおっしゃったが、彼はむしろ、話をコントロールするべきだった。

また、わたしがブログを書くことを「ありがたい」と言った。これにはいろんな意見があるだろう。一瞬、わたしは寛容だからそう言ってくれるのだと思った。

しかし、その後、考えが変わった。わたしが矢面に立って、どうして、考察するのかを考えれば、「ありがたい」というのは間違っている。ありがたい、という言い方を批判しているのではない。彼の心構えの問題だ。彼は、「ありがたい」という言い方の前後に様々な留保をつけた。だから、ありがたい、という言葉を抜き出すには問題があるかもしれない。だが、その留保のつけ方にこそ、問題を感じる。

本来なら、彼自身が書くべきことだ。彼がシス男性だから、トランス女性について、批判しにくいというのは言い訳にならない。自分だけの意見だとバイアスがかかってしまうというのも言い訳にならない。

属性抜きに「差別を行った」ら、その言動そのものについて、批判することはできる。もし、できないのだったら、批判できない相手をゲストに呼んだことが問題だ。

 

延べ、視聴者が250人いた中で、それはおかしいと声をあげたのは、わたしと、もう一人の実体験を語った人だけだ。それもいびつな状況だ。

それを是正できる立場にいたのは、マサキチトセ氏しかいない。彼は、自分の責任を透明化している。

彼が、番組の内容に責任を持つ立場でなかったら、だれも責任を取らない。そんな状況で、差別について語るべきではない。

差別が番組で垂れ流されて、それを止められないのなら、それは、危険な番組だ。

LGBTについての差別と、女性についての差別。

どちらも差別なのだから、女性についての差別も、「差別をやめろ」というだけでよかった、それを怠ったのだから、きわめて遺憾であるとしかいいようがない。


【女性の教育格差】マサキチトセ《エロくない性の話》への批判

このラジオが発端になって、非常に混乱している、精神的に危機的な状況でもある。自殺衝動は高く、抑うつ状態で、うまく手足を動かすことができず、音に反応して、動揺し、頭の中で叫ぶ声に耐えられない。持っている中で、一番強い薬を飲んで、何とか飛び降りたり、切りつけないようにしている。夜は眠れない。悪夢を見る。

マサキ氏自体への批判はこちら
DMでやりとりをしたが、あり得ない。
リプライなら証拠にすることができたのにと後悔している。

このラジオの問題は大きく分けて、

「フランス語を履修したのに女性の心得を教えられた」という実体験に対して、それを差別だと認識せず、その認識を最後まで改めなかったやか氏。(この実体験を書いた方は、「エイプリルフールのゲイカップルのアウティングネタの何が悪いのかとっさにわからなかったので、学びたいと思って参加した」旨書いていた方です。だから、なおさらつらいと思いました。)

「シス女性のトランスフォビアがなくなれば、フェミニズムでも女性同士共闘できるはず」「女性にはミソジニーがあるため、男性という特権階級から女性に降りたトランス女性を許せないのだろう」というトマト氏の発言。

もちろん、その場を作ったマサキ氏に責任は帰属する。

わたしは、Twitterに書く前、このブログを書く前にマサキ氏とやり取りをした。

その際に「友人だから、差別を止めにくいという無意識の判断が働いた可能性がある」ということをおっしゃって、わたしは

「わたしは友人ではないから、差別を放置されていてもかまわない存在なのだ」という風に受け取った。

(そのあと、意図的な行為ではないが、絶対にそうではないと言い切れないからそういう風に言ったとのこと)

マサキ氏は、「友人だから批判しにくかったという可能性を捨てきれないけれど自分としては、不十分とはいえ、教育の差別について突っ込みを入れた」という趣旨のことを言っていた。

それは理解している。ただ、本人も言うように、決定的に不十分なのだ。

わたしは、トランス女性の「男性ジェンダーロール的ふるまい」「男性特権についての構造を理解していない」ということが大きな問題であると告発するものである。

もちろん、女性差別は、女性も男性も、セクシャルマイノリティも行う。

トランス女性は少数派の中の少数派だから批判が向きやすい。だから、批判をしないほうがいいのではないかという葛藤もあった。

わたしは、自分の感情を把握するのに数日かかる。その間にも体調は悪化し、日常生活を送れなくなる。差別というのはそういうものだ。

あのラジオを聴いていた人たちは、複合的差別を受けている人が多かっただろう。そして、自分が差別者として人を抑圧したくないから、トランス女性の声を聴いて学びたいという思いで参加していた人も多かっただろう。

しかし、わたしは、裏切られたと感じた。

わたしは理解したいと思っていたが、彼女たちは、それを怠っているように見えた。

わたしは、その人が「女性だ」と名乗れば、女性だと認識する。

見た目がどうであっても、身体がどうであっても、関係なく、女性だと名乗られたら、女性だと理解する。そして、女性として扱う。

しかし、シス女性同士がそうであるように、経験の差異はあり、その差異による認識の違いはある。

シス女性は、また、女性として扱われて育った人たち、トランス男性も含めて、わたしたちが共有していることを、トランス女性たちは、「男性として扱われて育っていたので」共有できていない。それは、知ろうと思えば知ることができることである。実際、フェミニズムについて親和的な男性たちは、教育格差について、理解している人もいるのだから。

「育ち」による、「価値観」の影響は誰も逃れることができない。けれど、それは学ぶことによって修正できる。しかし、やか氏はそれを怠った。

  • 男性特権について

わたしの考える男性のジェンダーロールの一つに「人の話を理解しない」「人の話を聞かない」というものがある。人の話を無視することを許されるのが、男性特権の一つである。やか氏は、男性特権を、身体的な強さとして語っていた。それは不勉強だ。不勉強自体は罪ではないが、男性性を感じ取られて、忌避される原因になるだろう。

やか氏は「ホモソーシャルにいて、排斥されると暴力を受けるが、女性はそうではない」ということを言っていた。

これは端的に間違っている。社会全体がホモソーシャルの文化下にいるため、男性は、男性らしさを誇示するために「弱者」を殴る。

その弱者は誰でもいい。男性が男性だけを殴るわけじゃない。

男性は、女性を殴り、子供を殴り、障害者を殴り、老人を殴る。わたし自身、中学生時代には、男子生徒が、男らしさや強さをアピールするために、毎日殴られていた。理由はない。そこにわたしがいて、殴りやすかったからだ。そして、彼らはホモソーシャル内の地位を維持していた。

ホモソーシャルの維持には、女性が不可欠だ。その認識がやか氏にはなかった。

やか氏は、「個別に見ることが大切」だということを別の話題で言っていたが、個別で見ることで、構造的な問題を「なかったことにしてしまう」作用について、もっと考えてほしい。

 

 

  • 教育格差について

わたしの仕事は、女の子相手に、勉強を教える仕事だ。必然的に、その親御さんは教育熱心で、貧困ではない。そういう相手の仕事をしている。

ある女の子は、目が悪くて、黒板の文字が見えず、三年間、授業の内容が分からなかった。そして、バカだと言われ続けて、自分でもバカだと言っていた。

その保護者が眼鏡を買わなかった理由は「女の子だから眼鏡はみっともない」という理由だ。

それで、彼女は自尊心をはぎ取られ、教育機会を逃した。

教科書を全部燃やされた子もいる。

「女の子なのに片づけないならいらない」という理由だ。

学校で毎日男子に殴られている子もいる。

教師や、男子生徒に、服に手を入れられている子もいる。

盗撮された子もいる。行く先々をつけまわされ、自転車のステッカーで居場所を把握され、いろんな場所をつけられた。

計算が早ければ「お前がそんなに早いはずがない、どうせ間違っている」と言われ、成績優秀ならば、「男子に譲れ」と言われる。

計算が苦手だとすると「女だからな、女はしょうがない」と言われる。

女らしくないから数学をしないように仕向けられる。バカにされる。殴られる。笑われる。目立つなと言われる。支援すれば乗り越えられるものを乗り越えることができないようにする。そして「やっぱり女だね」と言われ、肯定される。

進学率が問題なのではない。進学を、勉強を、理系の学問を、「自発的に」あきらめさせる「過程」が残酷なのだ。

長い時間をかけて、女性から選択肢を奪う。そして、自分から選択肢がないからと、選ぶことをあきらめる。

お兄ちゃんは浪人して県外の大学を受けていいのに、妹は、高卒か短大。県内が当然。理系に進みたくても薬学部か、看護しか許されない。

理系に進む、といえば、あらゆる説得を受ける。それを跳ね返して、物理や化学を履修するのは、精神的な支援が必要だが、ほとんどはない。

そして、「女の子は文系だよね」という既成事実が作られて、「女の子は文系」という偏見は再生産される。

同じ程度に優秀な子を比べたら、女性のつきやすい仕事の中で、看護師は給料が高いと言っても、男性が就ける職業よりもずっと安い。

進路を選ぶときにも「女の子だから」手に職をつけてやめても復帰できる資格をと求められる。

もしくは「女らしい学校」にいって「女らしい」職業に就くことを求められ、その前提で、勉強をする。

 

 

わたしの知っている女たちは、子供時代、お風呂場で声を立てずに泣いたと言っていた。泣いたことを知られないように。

家から出るなと言われる。仕事に就くなら家から通える範囲で、介護を手伝いながらと言われる。それが今なお女性の現実だ。

(プライバシーを守るために、いろいろな場合を混ぜています)

  • トランス女性におびえる女性は存在する

トランス女性におびえる女性は悪だろうか。正直なところ、わたしは、トマト氏の「共闘」について、雑だと感じた。

シス女性同士でも、価値観が違い、立場が違うので、共闘できず、連帯できず、それを求めながら実現できない現実にのたうち回っている。

女性たちがトランス女性を怖がる理由は、トランスフォビアだけが理由ではない。

たとえば、やか氏は上記の女性の教育格差について実感がない。

高専で世界史の授業なのに、中国史を学ばされたということと、フランス語を履修しているのに教えられなかったということを同じだと思っていた。

女性は、高専に入ることが難しい。

まず、受験させてもらえない。受験したいと言ったら「男ばかりだぞ」「お前に物理ができるのか、数学や化学や物理ばかりだぞ」と言われる。

高専に入ると、恵まれた就職や、高度な教育、安価な授業料という恩恵を受けられる。でも、現実に、女性は、その選択肢をふさがれている。

高専には入れた、ということだけで、「理系の勉強をすることを邪魔されていない」「願書を学校が用意した」ということがわかる。それは、女性たちが喉から手が出るほどほしがっているものだ。しかし、それを彼女は知らない。

知らないで済むというのは特権である。わたしは、ラジオで「構造が違う」とコメントしたが、彼女はそれを理解しなかった。わたしの話を聞こうとしなかった。そういう風に見えた。それは、「男性的な行動」だ。話をなかったことにする態度は、男性的だ。それが男性特権だ。高専には入れたことも、差別の構造を理解しないで済むことも、それで泣いたことがないのも、特権だ。

 

また、トランス女性は、女性規範を内面化するあまり、女性に対して、攻撃的な言動をする場面を見る。まるで、男性に認められたいがためのように。男性に女性だとお墨付きをもらいたいかのように。それは、ホモソーシャルの再現のように映る。それで、わたしは、トランス女性について、難しい気持ちになる。

もし、世の中に、女性規範がなければ、彼女たちが内面化することはないだろう。だから、究極的には、トランス女性が、攻撃的なくらい、「名誉男性」と化すのは、世の中のせいだ。トランス女性のゴールが、「女性になる」ことならば、それは納得できる。納得できるが、わたしの批判の対象になる。

 

やか氏の「高専の話を通して差別がないことになった」流れの後のトマト氏の「トランスフォビア」「女性はミソジニーだから、男性であるのに女性に降りたトランス女性を憎む」という内容のコメント(別の文脈だし正確な引用ではないので、実際のラジオのコメント欄を見てください)で、わたしは本当にがっくりした。

わたしの指摘は、トランスフォビアによるものではない。わたしは、共闘できないと思った。なぜなら、彼女たちは、女性として扱われる困難の歴史を知ろうとしなかったから。そして、教育格差の話を、いったんはとりあげたのに、それをそのままにして「シス女性のトランスフォビアがなければ共闘できる」という風に言ったから。とりあげておいて、やっぱりやめることができるのは、それが彼女たちにとって、切実な問題ではないからだ。

わたしにとっては切実だ。そこの差異がどうやっても存在するのに、トマト氏は連帯できる、と言った。わたしは、できない、と言いたい。

責任の所在が、シス女性にのみ帰せられるのはフェアだろうか。シス女性は、トランス女性に、男性として扱われて育った、その価値観の残滓を感じ取る。トランス女性にはその価値観の残滓を少なくとも見つめてほしい。わたしたちは同じ世界に住むが、別の経験をし、別の目で見てきたから。

それをトランスフォビアと名付けるのは、正確ではない。シス女性の恐れの内容を精査せず、トランスフォビアで片づけられたら、批判も徒労だ。批判が、トランスフォビアに回収されるのだとしたら、こんな苦しいことはない。わたしは共闘も連帯もしない。できない。

 

ホモソーシャルの被害者は、主に女性だ。

男性ではない。男性として扱われていた、もしくは、ふるまっていたころの話をするのならば、ホモソーシャルの犠牲になった女性たちの話も聞くべきだ。少なくともわたしは彼女の話を聞いたのだから。

その構造を理解してもらえないならば共闘はない。

共闘できると、言えるトマト氏に、わたしは、言いようのない、断絶を感じた。

トランス女性は、女性であるのだろう。だけど、持っている価値観がわたしとは違う。わたしは違いを理解したいと思った。わたしは、トランス女性に対して、抑圧する立場の、マジョリティだから、知りたいと思った。自分が侵しているかもしれない過ちを正したいと思った。

でも、トランス女性たちは、その育った過程で言えば、男性として扱われてきたのだから、シス女性に対しての「抑圧者」である。その一部が漏れ出てきたラジオだった。

  • 責任の所在

責任の所在は、もちろん、マサキチトセ氏にある。

彼が始めたことだからだ。彼は、あのラジオをコントロールする責任がある。

TwitterのDMに書かれたことが、わたしは今でも信じられない。

執筆をして、講演会をするような人が、一見正しくて、でも、わたしにはどうしてなのか、言語化できないけれど、わたしから力を奪うような言動をとったこと、また、とり続けていることが、どうしても理解できない。

 

ゲストが、差別的な、不正義を行ったら、時間を割いて、それは間違っているとしっかりと、説明してほしい。少なくとも、聞いている側の人間が、孤立しないようにすることはできたはずだ。あのラジオでは、差別を垂れ流されて、そして、放置され、孤立して、学びたいと思った気持ちを踏みにじられた。差別をやめろと言ってほしかった。やめさせることも納得させることも長い時間をかけなければできないのかもしれないが、やめろと言ってほしかった。あのラジオを聴く人たちは複合的差別を受けている人が多かっただろうから。

「このような気持ちになっているのは自分だけなのかもしれないが、同じような気持ちになっている人のために、声をあげなくては」とわたしは思った。それは、本来はリスナーの仕事ではないと思う。でも、わたしは連帯のために、残り続けて、今もこうして書いている。これが連帯だ。トマト氏のいう連帯とは何かわたしには全く理解できない。トマト氏が、シス女性と連帯できると思うならば、一緒に、「それは差別だ」というべきじゃなかったのか。

やか氏が長々と高専の話をしたのは、差別の肯定だった。差別なんてないというメッセージだった。フランス語は植民地と関係があるから、しかたがない、ドイツ語なら違ったかもしれないというのは詭弁だ。それもフランス語を教えてもらえないというのは仕方がないという差別の肯定だ。それならば、英語はどうなのか?

連帯できるとトマト氏が言うならば、やか氏に「差別の肯定をやめろ」というべきだった。そうでないのに、連帯できる、「シス女性がトランスフォビアをやめれば」という条件付きの連帯が実現できるとは思えない。

彼女はあの場で何をしたのか?連帯できると感じさせるようなことをしたのか?

できることはあった。「差別の肯定をやめろ」というべきだ。連帯できるというならば。連帯できない現状の理由を女性のトランスフォビアだというのなら。

 

わたしは今後、あのラジオを聴くだろうか?

また、自殺衝動の高まりと、抑うつの波、自己否定、この世にいないほうがいいという覆いかぶさる影、わたしなんていないほうがいい、いなければこんなつらい思いはしなかった、わたしは醜い愚かな生き物で、差別的な言動一つ止めることができないという無力感で苦しむのかと思う。

  • 女性は貧困である

教育格差は、貧困に直結する。進学するなという言葉以外にも、女性は、勉強の時間を削られたり、少しでもつまずいたら、女だからできないのだと言われて、支援を受けることもできず、勉強でのつまずきや、「自分にはできない」というどうしようもない感覚を克服することができないまま、自分から選択肢をなくす。そして、選んだ人生の結果を自己責任だと言われる。そう仕向けられてきても、誰も助けてはくれない。

貧困も自己責任だと言われる。教育格差は、生存に直結する。

わたしは、大学に行くことができた。学校推薦で受けた企業二つに「なんで、あなた女性なの?」と言われた。「女性にできる仕事はない」とはっきり言われた。

「出産するでしょ?」「結婚するでしょ?」「家族構成は?片親なの?」「家から通えないんじゃねえ」「うちの職場は男性エンジニアしかいないから」いろいろある。

給与の高い仕事に就いた同期に「理系メーカーは女性が志望しないから女性が少ないんだよね」と言われた。

わたしは、貧しかった時、一つのキャベツを一か月かけて食べ、病気で自炊が難しいけれどカロリーをとるために、食パンにオリーブオイルをかけて食べて、髪を自分で切っていた。

教育格差や、男性に給与の高い職業が独占されていること、それで、生きることが難しいこと、そもそも、子供時代の「社会的虐待」によって、女性たちの精神が、どうしようもなく傷つけられて、十分な教育を受けるために戦う気力も奪われている現実を知ってほしい。貧困に陥っても相談先がない人もたくさんいる。それは、相談先を知る機会を奪われていたこと、相談するための気力を、「育つ過程」で奪われてきたからでもある。

 

女性が、数学や物理、化学をあきらめないとしたら、それだけでも戦った結果なのだ。

周囲の無理解や嘲笑に負けなかった精神力が、誰にも評価されず「女性が理系に就かないから駄目なのだ」という言葉をあちこちで聞くとき、大人になっても、子供のころの傷をえぐられる。

 

わたしは、今でも「数学を教わるなら男性の先生がいい」と言われる。「男性の先生」に数学の授業を振られて、古典ばかりがまわってくる。

そして、給与は減る。生活が貧しくなる。

 

子供の時、男として育てられたのか、女として育てられたのか、それによる価値観の形成を清算しない限り、共闘はない。

同じ女性同士ですら難しいことを簡単に言えることも、わたしには苦しい。

差別をなくしたいと願って聞いたラジオから流れた差別的な言葉が、最後まで流れ続けたから、わたしはとても苦しい。

 

追記 4・7 午前三時

下記のことを書くのはわたしにとって苦痛だ。なぜなら、わたしはマサキ氏を尊敬しているし、講演会にも行った。執筆を頼まれるような、そんな聡明な人が、どうしてなのか。わたしは、わたしの勘違いだ、認識違いだと言われることも恐れているから、とても書きにくい。

ただ、あの場を用意した彼の存在と責任を透明化するわけにはいかない。

わたしには、彼が、自己保身的に見える。そして、最初、教育格差の深刻さを知らなかったから、不十分な対応に終始してしまったとしても、その後のやりとりでわたしに言った「理解してほしい」という内容が、「全く何もしなかったわけではない」と要約ができる内容のことを念押ししたことが、本当に重要なことなのか、理解できない。わたしは、彼が言っていることについて「理解した」けれど、どうして、それを言ったのかは「理解していない」。マサキチトセのエロくない性の話批判続き

DMなど彼の語り方についての批判は上記記事


シェイプオブウォーターの感想は絶望の物語

シェイプオブウォーターを観て、気分が悪くなった。それは、人間の関係性がいびつだからだ。
モンスターの造形は美しかった。
でも、これは、「マイノリティは周縁に吹き飛ばされて、死ぬ」というメッセージを繰り返し繰り返し描かれていて、恐ろしかった。これが、監督にとってのリアリティなのだろうか。

弱いものを支配することによって、力を得る。
イライザは半魚人をケアし、かくまうことによって、幸せになる。
かくまうというのは、監禁すると同義だ。
半魚人を自分のもとにかくまってから、イライザは幸せになる。
半魚人は、囚われていることに変わりはない。

アメリカは、半魚人を確保することでパワーを得る。
ソ連は、半魚人を得られないなら殺そうとする。アメリカにパワーを与えることが嫌だからだ。
ゼルダは、イライザに対して一方的に語り掛ける。彼女の不満は、絶対に声を出せないイライザに対するおしゃべりで解消される。
ゼルダの夫は、ゼルダを支配する。

黒人であるゼルダ、ゲイである絵描きは、利己的に動かない。いつも、イライザにとって都合よく動く。彼らは命の危険をいとわない。
都合がよすぎる。
イライザは白人だ。障碍者ではある。障碍者としては、絵描きやイライザに庇護される存在だ。
庇護は支配だ。
その反面、黒人やゲイというスティグマを背負った二人は、マジカルフェアリーとして、存在する。
彼らは、主人公にとって、ただただ都合の良い存在だ。彼らはなぜイライザに協力するのか?
それは描かれない。自明のものとされる。
その「自明」さが気持ちが悪い。
白人にとって「いいもの」であるだけだ。それって差別だ。
黒人も、ゲイも、どこまでも都合が良く動くだけの存在で、彼らの都合は描かれない。

悪役は、指を失って「神に近い存在」から「葬られる存在」に変わる。
白人で、健常者でも、マイノリティになれば、周縁に放り出されて「苦しんで死ぬ」。
彼が死んだのは、半魚人に殺されたからではなくて、元帥に追い詰められたからだ。
彼はミスをして「ノーマル」ではなくなる。ノーマルではなくなったので、追い詰められて、危険なことをして、殺されるような危険な立場に追い込まれる。そう追い詰めたのは元帥だ。でも、元帥の「危害を加える」存在であることは、最終的に透明化される。
実際、半魚人を虐待したのは、悪役じゃなくて、「元帥の命令」だ。
だから、悪役が殺されても、「因果応報」という感じはしない。元帥は、透明化されて、観客から糾弾される立場から退く。

半魚人から見れば、イライザも、人間だ。人間が半魚人をとらえて、監禁し、虐待した。
イライザと半魚人はセックスをするが、その関係は対等ではない。
物理的な力では半魚人のほうが強いが、立場的にはイライザが彼の命を握っている。
対等ではない間柄のセックスは、気分が悪い。
イライザはなぜ半魚人に惹かれたのか?
それは、半魚人が「囚われの身」であることと無縁ではない。
イライザは自分を「孤独な存在」と言い、半魚人も「孤独な存在」だという。
でも、それは、イライザが勝手にそう思っているだけだ。半魚人は孤独ではないかもしれない。そういう概念がそもそもないかもしれないし、半魚人界では、仲間がいるかもしれないからだ。
イライザが、自分の思い込みを持ち続けることができるのは、半魚人がそれについて反論できる立場ではないからだ。
イライザには声がないが、半魚人にも発話するための「声」がない。
言葉はあるが、それもイライザが与えた、限定的な「言葉」でしかない。

絵描きは、猫を殺されても「彼の本能だから仕方がない」という。
ゼルダは、イライザと半魚人がセックスをしたと知っても「男っていうのは油断も隙もない」と言って笑う。
わたしは、この二つに強い違和感を抱いた。この物わかりの良さは「物語にとって」都合がいい。
彼らが「生きた」存在じゃないんだと思った。
猫が殺されたら、悲しいか、驚くだろうし、そうでなくても半魚人のことが恐ろしくなるだろう。
友人が、人間以外とセックスしたら驚くだろう。人間以外とのセックスはタブーだからだ。
タブーを破る人間は恐ろしい。タブーというのは、自分側の人間と、そうじゃない人間を分けるという意味を持つ。
タブーを破ると、「向こう側」の人間になる。
タブーを破った人間に対して、驚かないのは「向こう側」の人間だ。
だから、絵描きも、ゼルダも、もともと「向こう側の人間だった」ということが半魚人を回収したあとにわかる。
「向こう側」というのは、「普通じゃない」ということ。
普通、というのは、元帥が象徴する白人たちの失敗しない人間たちで構成された世界のこと。
悪役は、ミスをし、指を失うことで、少しずつ「向こう側」の人間になる。
悪役が死んでも、勧善懲罰だと感じないのは、元帥が最後まで無傷だからだ。
悪役の悪行は、すべて、元帥の命令がもとなので、一番悪いのは元帥だ。
でも、元帥の「悪」は透明化される。

イライザが「声」を獲得するのは、半魚人を得てからだ。
彼女は、「ファックユー」と言って反抗し、半魚人に愛を伝える。
ゼルダは、イライザに対しては話すことができる。
でも、男には話すことができないか、「言葉」を伝えることができない。
悪役に対しては、しゃべることができなくなるし、夫はゼルダの言葉を無視する。
絵描きは、元上司には無力で、要求を通すことができない。
イライザに対しては話すことができる。
この映画の登場人物は「自分より弱い人間」には話すことができるが、「自分より強い人間」には話すことができない。
イライザがもっとも弱いものとして描かれ、そして、声を奪われているのは、その原則にのっとっている。
そして、イライザが、自分より弱い存在である半魚人を手にした時、「言葉」を獲得する。

悪役は、悪役だから殺されるのではなく、少しずつマイノリティに転落することによって、死ぬ。
彼は少しずつ指を失っていき、それと同時に力を失い、完全に指を失ったと同時に死ぬ。元帥が彼を死ぬように仕向ける。
彼は、半魚人に殺されなくても、どちらにしても、元帥によって殺される。
それは「普通」から落ちてしまったからだ。
ミスをしない人間だけが普通だから、ミスをした悪役は普通ではない。普通じゃない人間は殺される。
元帥はそういった。物語もそれを支持している。物語を作ったのは監督なので、わたしは
「監督は普通じゃなくなった人間を殺す」のだなと思った。

イライザは死ぬことで、半魚人と結ばれる。
半魚人は、彼女を抱き上げることで、受け入れる。
異種婚は、死で終わる。死後に幸せになる。異形の者は、障害者を中心としたマイノリティのメタファーとして描かれてきた。
この作品も、そのコンテクストから自由にはいられない。
監督がこの結末を選んだということには、意味があるべきで、その意味は、異形の者は死んでからではないと幸せにならないという意味になる。
障害者であるイライザを受容するのは、異形の者である半魚人である。
異形の者である半魚人を受容するのは、障害者であるイライザである。
半魚人には、イライザを愛する動機がない。
でも、彼はイライザとセックスをする。密室での関係は対等ではない。特に、その密室を作り上げたものと、そこから出ることができないものとは。
わたしは、対等ではない状況のセックスが嫌だ。
物語が、半魚人やイライザに「異形の者」を愛するというミッションを要求する。
その物語を作ったのは、監督である。
監督が、「異形の者は異形の者が受容し」「その結末は死後での幸福」であると描いた。
だから、これは絶望の物語である。
わたしは、怒りを覚える。


法律は平等でもなければ公平でもない

女性専用車両に嫌がらせをする男性たちに関して、いろいろな議論がある。
その中で「女性は不服があれば裁判を起こすべき」「警察は暴力装置だから、法律に沿わないことをさせると権限が拡大してしまう、そちらのほうが危険だ」という意見に関していくつか書いておく。

裁判を起こさないなら、権利に胡坐をかくものだ、不断の努力を怠っているというものまで読んで、わたしは憤激した。
降りろコールをすることだって、戦いだ。それ自体が、「不断の努力」の一つだ。男性の嫌がらせについて、意思表示をすること自体が、権利を行使しているということだ。

法律にのっとって、「男性が嫌がらせのために女性専用車両に乗ること」は肯定し、女性たちがその嫌がらせにブーイングすることは、ダメで、女性は盗撮されようが罵倒されようが、「裁判を起こす」やり方のみで、反撃しろと言っているのも同じだ。
警察に頼ることも、警察の権力を増長させるからダメだが、司法ならば良い、というのは、どういう使い分けなのか。
危険を感じたとき、警察に、パトロールを頼むことは誰でもする。していいことだ。

それを電車でしただけじゃないのか。それをも、否定するなら、武器を持ち歩いて、自力救済するしか道がない。
実際に危害を与えられても、やりかえすことも、言い返すことも、警察を呼ぶこともできないなら、けがをしてから裁判するしかないと言っているのと同義だ。
それでは遅い。

そもそも、女性専用車両は、性暴力を撲滅させたい女性たちの運動に対してのガス抜きだった。
当時私は中学生だったが、ひどく落胆した。
「日本は本当に男尊女卑なんだな。女性の安全を守るために動くよりも、文句を言う人間を隔離する方法をとったわけだ」と思った。
痴漢は性暴力であり、犯罪だ、だから、それをなくせ、という運動があったのだ。その目的は果たされなかった。
女性は、公共機関で、移動する自由を奪われている。
痴漢に遭う、ということは、安全に移動する自由を、つまり人権を侵害されている状態だ。
それを、鉄道会社も、社会も、許容し続けているので、痴漢は、大手を振るって「女性がいるからしかたがない」ものとして存在し続けている。

その一方、性暴力被害に遭うことを避け、また、PTSDと戦いつつも、働いたり、学業をする自由を獲得するために、女性専用車両を必要とする人も確実にいる。
その場所を奪われたら、女性たちに、「安全に移動する」自由はなくなる。
男性は、いくつもある車両の中の一つに乗れないだけだが、女性にとっては、女性専用車両がなければ、「公共交通機関そのものに乗れなくなる」のだ。女性は移動できなくなる。移動できなければ、学業を修めることも、仕事に就くこともできなくなる。

そもそも、女性の六割は、非正規雇用である。それは、政府が、たくみに、女性たちを労働の周縁に、追いやった結果だ。それも、法律にのっとった結果である。それが、社会の構造による差別だ。
電車に乗れないということは、女性たちが経済的に自由であること、生きることそのものが奪われるということだ。

裁判を起こせばいいという人がいる。
しかし、裁判は、貯金があり、仕事を休め、住所を知られてもかまわない人だけが行えるものだ。
女性の多くは非正規雇用なので、裁判を起こせば、仕事を失うか、収入が減るかする。

だから、裁判を起こせない。住所を知られて、あとで報復に出られることも十分考えられる。
(実際、裁判後に住所を知られて脅迫状を受け取ったことがある)

また、民事裁判を起こして、勝ったとしても、相手に貯金がなければ、何の金銭的賠償も受けられない。
ないものはない。強制労働させることはできないから、裁判に勝っても、泣き寝入りする結果は変わらない。
失うもののない人間は、それを悪用して、やりたい放題する。
刑事事件にならない、ぎりぎりの嫌がらせは無数にある。

それについて、「裁判を起こせばいい」という人間は必要なく、むしろ邪魔で有害であり、「差別や嫌がらせ、人権侵害は許さない」と表明する人間だけが必要だ。

刑事訴訟は、そもそも、検察が起こすもので、結果的に相手が有罪になっても、被害者には何一つメリットはない。
(刑事訴訟を起こした時、裁判制度の中では、被害者は当事者じゃない)

そもそも、法律は、健康な日本人男性に有利なようにできている。
社会は、法律にのっとって動いている。
あらゆる行動は、法律の基礎に支えられている。
社会に差別がある、ということは、法律の中に差別があるということだ。
立法の意思決定の場に、女性を含むマイノリティは非常に少ない。
裕福な日本人男性によって、法律が作られ、運用されている。
だから、法律が、日本人男性にのみ有利なのは当たり前だ。
法律は法律自体が平等なのではなくて、「規定が誰でも知ることができる」という意味で平等なだけ。
あとは国を縛ることができて、法律以外で、人に罪をきせることができないだけ。
それでも籠池さんみたいなことが起きる。
入管や籠池さんのことみても、法律が平等なのだといえるのか。

法律が、公平で平等だという考えはナイーブすぎる。
沖縄差別も、アイヌ差別も、部落差別も、わざわざ立法までして、合法的になされている。
沖縄の基地問題をひとつとっても、明らかだ。
女性に不利な法律だっていくらでもある。
冤罪は、弱者を犯人に仕立て上げることで出来上がっている例がほとんどだ。
字が読めない、気が弱い、貧困、支援が得られない人、そういう人を狙う。

差別は、社会構造だ。
法律や司法は社会の基礎だ。法律の中に差別がある。
それら自体が、差別を作り上げる一つの要素だというのに、裁判さえ起こせば、法律にのっとれば、正義がなされるはずだと思うのは、無知だ。


【異性愛カップル】女性は男性に家事を教えなくていい

成人した異性愛カップルにおいて家事育児の分担は大きく問題になる。

よく、男性も女性も「女性が、男性パートナーにわかりやすく、できることから、丁寧にひとつずつ、新人教育するように教える」ということを言う。
わたしはそれに反対だ。

たいていの場合、家事育児のやり方を「教育」するのは女性だ。「協力」を求めるのも女性だ。
男性は「言われるとやる気をなくす」「もっとわかりやすくいってほしい」「冷静に言ってほしい」という。
しかし、やる気をなくすも何も、そもそも、やっていないわけなので、これ以上やる気をなくすとしたら、マイナスがさらに虚数になるのか?という感じがする。
そもそも、女性と男性は対等なので、女性に「教育コスト」「説明コスト」そして、そもそも「家事育児」の負担がのしかかるのはおかしい。
男性は「働いていること」を免罪符にするが、成人しているなら、基本的に、自分で自分の面倒を見るのは当たり前だ。その前提の上に「各家庭の家事分担」が初めて議論できる。
自分のことを自分でやる、という部分には「自分でわからなかったら、やり方を調べる」「教えてもらうように頼む」という姿勢が不可欠だ。
前提が間違っているのだ。
女性が「説明して」「協力を求めて」「教育する」のでは、対等ではない。対等な相手に、上記の言葉は使わない。
成人した、責任能力のある相手に、一方的にケアをするのは間違っている。
たいていの場合、ケアをするのは女性側だと決まっている。

対等というのは、自分で自分のことをするという前提に立って、その上で、まとめてやったほうが効率が良いことに関して、役割を決めるという態度が必要だろう。

気がついた人がするというのも罠だ。
家事をしない人は当事者意識がないので、気がつかない。
気がつくのは、家事をできる人だけ。

余談だが、「男はこうあるべき」「女はこうあるべき」と考えている人たちは、わたしとパートナーの関係をうらやましがったり、嫌味を言いたくなったりするようだ。
わたしは「全部やってもらってるじゃない?」と言われる。
パートナーはわたしに相槌を打っただけで「優しい」と言われる。
どちらも、こちらとしては、苦笑いするしかない。

そういう人は、家事をする男性を求めているのだろう。しかし、家事を当然する男性は、基本的には「男とはこうあるべき」という思考を持った人を好まない。逆もまた叱りで、わたしは、対等である相手しか好まない。当然、家事育児を主体的ですることを当たり前に求める。家事をする、育児をする。というのはやさしさじゃなくて、責任感、主体性を持つこと、当事者性を持つことに他ならない。
その意識が生まれるためには、人権意識が必要だ。相手には相手の人生があり、自分には自分の人生がある。
それを実現するために、お互い補い合う。自他の区別をつけ、自分の人生は自分のもの、相手の人生は相手のものだとわかることが必要不可欠だ。

ほめて育てる、という方法論は聞き飽きた。
パートナーシップを結ぶのは、子供じゃなくて、大人だから。


女に「教えてあげる男」

誰かに何かをさせるというのは、暴力になりうる。

話を一方的にすることも暴力の一形態だ。
相手の話を聞いているつもりで、単語しか読まず、自分の話だけを延々として改めないという暴力がある。
それは被害者が読めば加害だから、やめろという話が理解できないのだ。
これは、思いやりがない、共感がないのではなくて、「国語として読む力がない」「知識を与えるべき下位の存在から言われる話がないと無邪気に心から思っている(信じるというレベルでもない)」ということだと思う。
だからといって、あなたには読む力がないようですね、といっても「あおり」みたいだし、何といっても通じないだろう。
落ち着いて文章を読んでくれと言っても、音として読むことができても、文章として、言葉と言葉とのつながりを理解できない人には何を言っても仕方がない。単語を拾ってそこから喚起されたイメージを「読んだ」と信じている人はたくさんいる。

それでも、目の前のセカンドレイプを放置しておけないから、それは加害だということを言う。
でも、当事者だと名乗れば、自分の傷を深めることになるので、当事者がすることには限度がある。

言葉もないなら黙ればいい、そのうえでいうなら、わかっててセカンドレイプしているわけだから罪が重い。
女性が就学し、就業するためには、TPOにあわせた衣服を着る自由が必要だ。
しかし、それを制限する考えが生まれてくる時点で「加害者メンタル」だ。
衣服の自由を制限することで犯罪にあわないようにしろ(しかし、服装に気を付けても犯罪に会わないわけではない)と、引き裂かれた命題を一方的に与えることができると思うのは「被害者」を「下位」の存在だと思っているからに他ならない。

対等だと思っているなら、そんな無茶苦茶な「アドバイス」をするのだろうか?
男同士で「おやじ狩りにあった」「金持ってそうな格好してたのが悪い」
という会話をしたら、そいつは、正気を失っていると思われるだろう。女に関してそれをしても、「正気を失っていると思われないだろう」と思えるのは、やはり、女をバカにしているのだ。


犯罪にあわないですむ服があったとしたら、その服を置いておけるだろうか?
そして、その服を着ていこうという日はどんな日だろうか?
通学?通勤で使えるか?
また、それを着ていたら、「女性だ」という属性がばれるわけだから、なんとしてでも、嫌がらせしようという人はいる。
男になるしか、このミソジニックな世界で、被害者にならないで済む方法はありはしない。

服装の是非ではなく、攻撃対象になる「性」であることが原因なのだ。

正確に言えば「その属性だったら攻撃していい」と社会的に容認していることが原因だ。
服装を変えれば犯罪にあわない可能性があると言い募るのは、「属性に関するイメージを社会が変えるは不可能なので、お前は努力を続けろ」という絶望的なメッセージである。
「社会を変えることは不可能だが、被害者を変えることは可能だ」
これ自体が、どうして、人を傷つけないと言えるだろうか。
被害者は、被害者になった時点で変えられる。
女性は赤ちゃんの頃から、性的対象とみなされ、性的搾取される。
だから、自分の尊厳を尊重しきって育っていない。
そのうえ、自己表現もはぎとられたらどうなるか?
性暴力が奪うのは、自分の体や、自分の心をコントロールできるという信頼である。
信頼を奪われて、「自分は自分の体をコントロールできない」「自分の体は自分のものではない」「自分は汚れている」と思わされるのが性暴力だ。
体のイメージや写真を奪われて、好きなようにされても、心が傷つくのはそれが一因である。

服装を指図されるというのは、「お前に自分の体をコントロールさせない」「男に襲われたくなければ男である俺の言うことを聴け」ということで、理屈としては性暴力と変わらない。

「社会は絶対に変わらない」というのが、こういう人たちの前提だ。
犯罪者はいなくならない、だから、被害者に努力をさせる。それが理屈であり合理的だと思っている。
犯罪者も、被害者として選ばれる属性も変えられない、属性の持つ意味も変えられない、だから、属性の中に居続けながら、それでも、被害者として選ばれないけなげな努力をしろということが、攻撃じゃなくて何だろうか?

この人は、ひとめがあるなら、性犯罪は起きないと思っている。
それ自体が事実誤認で、勉強不足でどうしようもない。それを指摘されてもなお、「意味がある主張をしている」と信じられるのだから、傲慢だと言われても仕方がないだろう。
家の中でも家の外でも未知でも学校でも会社でも駅でもカラオケでもプリクラでも性暴力は起きる、レストランでも居酒屋でも病院でも性暴力は起きる。道を歩いていても、妊婦でも、母親でも、年老いていても、弱いとみなされれば、暴力の対象になる。
弱いとみなされること自体が、犯罪の原因なので、社会が「この属性は弱いとみなす」ことをやめて、その属性からパワーをはぎ取ることをやめれば原因は一つ減る。
でも、それをしないで、「被害者」「女性」「公の場」で、「服装を改めろ」と言い続ける。

この人が、やめろというまで、リプライをやめなかったことから、同じ内容を三回リプライしても効果がなかったことを鑑みると、単語しか読めないという結論しか導き出せない。

リスクは、日本という社会に女と一見してわかる見た目で生まれたことだ。
だから、社会を変えることが一つしかない解決方法だ。
見た目を変えろ?それは人権侵害だ。
この簡単な話が理解できない人間が人に指図をして回ることができる。そういう自分を疑わなくて済む属性のまま、今まで生きてくれた。
それが男尊女卑のあかしだ。

読めないのは仕方がないのか?でも、読めないなら黙っていてほしい。有害だから。
暴力だから。
人のニーズを満たす気もなく(話を聞かない)、自分のニーズを満たせと要求し続ける(話を一方的にする)ことができてきたんだろう。
一見、わたしも同じことをしているが、それは、相手が暴力的な言説を振りまいていることに対する対抗なので、暴力の使いどころが違うということだ。

犯罪を減らしたいなら被害者に働きかけるのではなく、加害者にはたらきかけるべき。
ほとんどの被害者が女性で、女性を選んでこうすべきと指導すること自体が性差別的であり、性加害の動機である権力の発動と同じ機構なんですよ。


ケアワークの不均衡

感情を使った行為を繰り返すと疲れる。
感情を人のために使うことをケアワークという。
言語化されていないことを読み取って、元気かな?機嫌はいいかな?と様子を見たり、人の相談に乗ったり、慰めたり、励ましたり、そういう感情面に関わることすべて。
昨日うちではケアワークの不均衡について話し合った。
「わたしにケアワークをしてくれ」「ケアワークをさせないでくれ」というのは、一見わがままだけど、実際には、「顔色をみる」という手間を省いているので、とても親切な行為。
自己主張が激しいという人もいるけど、そうじゃなくて、察してと思ってばかりの人といると疲れるでしょう?
はっきり要求を伝えるというのは、自分のことをモニタリングできている証。
言わないでもやってもらおうと思っている人のほうが甘えている。
もちろん、してほしいといっても、拒否されることもあるし、相手に拒否する権利はある。
それが尊重ということ。
依存というのは、全部相手に何かを押し付けること。
謝ること、判断すること、決断すること、世話をすること、健康管理を任せること。

どうすればいいか、いちいち相談してきて「こうしたらいい」と判断してばっかりは疲れるでしょう。
それはケアワークをさせられているというわけ。
責任まで取らされるなんて、損もいいところ。

決断、判断も、感情労働に代わりはない。状況と結果を判断する。決断に責任を持つ。

たとえば、わたしとパートナーとは一見、彼がしている仕事量のほうが多いけれど、ケアワークを担っているのはわたし。
彼は自己モニタリング力がまだ弱い。
だから、わたしはそれを補う必要がある。気持ちや、感情、体調全般。何を必要としているのか、どうしたら、よくなるのか。

彼はわたしにたいして、それができない。だから、わたしは自分のことを自分でする。

してほしいと頼むときもある。でも、「察して」くれることはまずない。わたしは彼の顔色を見て、判断して、どうしたらいいか、考えるのに。
思いやってもらっているという感覚が、必要なのに。

昨日起きたことは
「毎日相談してくる人がいて困る。ラインがめんどい。しんどい。もういやだ。自分で決めて自分でやってほしい。だからそういったのに、わたしはしつこくできませんよ笑って返事が来てなんも通じてなかった。もう無理だからやだ」
と言ったら、へんな顔をしているので
「どうかした?」
と聞いたら
「僕もいつかいやになられるのかなって」
と言われた。
本人も言わないほうがいいと思ってたから変な顔をしつつ黙っていたらしい。
だけど、変な顔をしていたら、聞くし!聞くことですでにこっちは労働している。
で、「そもそも変な顔をしたのが悪かった」と言われたんだけど、感情を持つな表現するなと言っているわけじゃないので、最初から
「僕のことを嫌にならないでね」と言えばいいのだ。
毎日ラインで相談されるというのは子育て中にしんどい。だからいやだ。自分で判断してほしい。
で、それと一緒に生活しているパートナーが同じわけない。
だから、その後わたしは
「わたしをケアしてよ!」と言ったら「体が動かない」と言われた。
「あのね、ケアしてくれというのがすでに親切で、足もんでほしい、ぎゅっとしてくれっていってるんだよ、それでなんで悩むのさ」と言った。
もう、こういう話し合いもはっきり言って疲れるし面倒だけど家族だからしている。

わたしが、自分を慰めるために、「足をもんでほしい」と具体的に言っているのは超絶親切なことでそれで仲直りしようと言っているのになんか悩んでしてくれないのでわたしは説明までしないといけないので、無限に疲れた。
自分で自分を大事にすることができないと、人のことも大事にできないいい例である。

自分の気持ちをモニタリングできず、表現できないから、他人を粗末にしたり、依存することになる。
自己表現とは自立の一種だ。
黙ってわかってもらえると思うのは甘えだ。

対等というのは、ケアワークのやり取りが同じ分量であること。
だから、子供と大人では対等ではありえない。
まして、子供にケアワークをさせていたら、大人は子供に暴力を振るっていることになる。
男女でも、男性はケアワークの経験が乏しい。自己モニタリング能力も劣っている。
でも、だからといって野放しにしていたら、絶対にできるようにならない。
だから、育ててやる筋合いはないものの、仕方がないから話し合っている。