男にはちんぽがある

男にはちんぽがある。

ありていにいえば、ちんぽがあるから、男は支配階級であり、そのため全能感に浸る。それを揺るがすものは許さないばかりか、揺るがすものを傷つけ支配しなおすことで、さらなる全能感に浸るのである。

男が男であると最初に認められるのは、誕生の時点である。そのとき、取り上げた医師によって、赤ん坊は男になる。彼が男であると認識されたのは、股の間になる一つの臓器によってである。その臓器は、長じるにつれ、社会的なシンボルに成長する。

男であるがゆえに優遇される。男であることを保証するのはちんぽである。彼らにとって、ちんぽがあるかどうかは、仲間として認められるかどうか、とても重要なことなのだ。

だから、男は、いつでも「俺にはちんぽがある」ということを誇示したい。

彼らが社会的に優遇されているたった一つの根拠が、「ちんぽ」にあることを彼らはよく知っている。

彼らは、本当のところ、女性がどんなに悲惨な人生を歩んでいるのかどこかで知っている。だから、絶対に、女と思われないようにふるまう。それがたとえ、ネットの世界であっても。

彼らが女としてふるまう時もある。いわゆるネカマは、彼らがちんぽを誇示していることと矛盾しているように思える。しかし、それは、彼が男である現実の人格と、直結しない場であるときに限られる。体と人格が同一の場で、彼がもし「女のよう」だとみなされると、彼はそのコミュニティで最下層になる。

 

 

彼らは、ちんぽによって「全能感」「支配階級」を感じているので、それがもろいことも知っている。

それを補強するために、性暴力や、常に公共の場に提示されるポルノを必要とする。

彼らは、女を憎みながら、彼が支配階級に居続けるためのいけにえとして、女を必要としている。彼にもしモノにした女がいなければ、彼は不完全な男としてみなされる。彼はそのとき女を憎む。そうした状況に陥るのは、「モノにならない、拒絶する女が悪い」と思い込む。彼らは支配階級に属したいので、支配階級に反抗することは思いもよらないのだ。

男が男であるためには、ちんぽがあるだけでは不十分である。ちんぽを入れる容器としての女が必要なのだ。

男は、女を劣ったものとして規定してきた。それは、学問の世界であっても、思想の世界であっても、家庭生活であっても、経済世界であっても、どこであってもだ。

それは隅々にしみわたっている。

性犯罪は、女を蔑視し、憎むことで発生している。彼らは自分の力が通用するのか確かめるために、女の体を使い捨てる。女に人格があって、それが傷つくことで、どれだけ苦しむのか、考えもしないのは、彼らにとって、人間とは男のみを示すからである。

 


家の中の性差別・暴力

「妊娠出産のために仕事をやめ、知り合いが一人もいない場所に引っ越し。家事をしてほしいと夫に頼んだら、自分と同じだけ稼げるのかと言われた。捨ててきたのは、自分の世界のすべてだった。その痛みを愛する人にもわかってもらえない苦しみ」というのは、定期的にツイッターでよく見る。

家の中での差別構造について、ここで書いたが、「女性の賃金は安い。だから、仕事を辞めさせる。そして、家事をさせ、逃げられない状況で、夫が妻にモラハラをする」というループが生じる。

女の賃金が安いのは、「夫が外で稼ぐのだから女性は補助的な賃金で構わない」という社会通念、社会的慣習のためだ。

しかし昔から、単身者の女性はたくさんいた。単身の女性であっても、リストラの時に「彼には家庭があるから」といって、首を切られてきた。

彼女にも生活があったのに、彼女の生活は、「どうでもいいもの」として、扱われてきた。

裁判の時に、社会通念、社会的慣習は、法律の次に重い根拠となる。

社会的通念のために、生活が苦しいのに、社会的通念にそれを正当化される状況だ。

秩序を乱すことを嫌う人が多いが、秩序が人を苦しめているとき、その秩序は壊すべきだ。それを公民権運動という。フェミニズムは、公民権運動の一つなのだ。

「賃金が安いから、家事労働を長時間しろ」と夫が言い、「家庭労働を長時間するのだから、賃金を安くする」と社会が言う。

その中で、女性は一人で生きることが難しかった。社会運動をするにしても、社会運動でさえ、補助的な役割を強いられ、また、運動体でも性暴力に遭った。声をあげようとしても「社会運動をつぶす気か」と恫喝される。

社会運動からも排除され、社会のメインにもなれないできたのが女である。

経済的に圧迫されると、「モノを言うこと」すら、難しい。

家庭内の「誰に食わせてもらっているのだ」に象徴されるモラルハラスメントは、社会における女性差別を利用している。利用して、それを強化している。

前述した「モラハラ」は、女性蔑視を基にした、女性差別の再生産なのだ。

女性が一人で生きることが難しい状況、女性が子供を産みたいと願えば、結婚し、仕事をあきらめざるを得ない状況を利用することで、1人の人間を苛め抜くことができる。それは、男の万能感を満たす。

「女をモノにする」という言葉は「女を物にする」という意味だと、最近思い知った。物にすることで、男は「個」を承認されたと思う。何に承認されたかはわからないまま、彼らは承認欲求を満たし、満足する。彼らは深く考えない。

彼らは彼らの内なる社会に「男は女をモノにすることで一人前になる」という基準を持っている。一人の人間を自分の一存で生死を握れる。それを常に確認する行為が、「モラルハラスメント」として現れる。

そして彼らはどんどん狂暴になっていく。

自分を満たすためには、前よりももっとひどいことをしても、女が自分についてくるということを確認するしかないからだ。だから、すべてのハラスメントは激化する。

男が男であることを示すたった一つの根拠は、股の間にぶら下がっている一つの臓器である。医学的にも社会的にも、股の間にぶら下がっている臓器があるかどうかで、彼が男性かそうじゃないかを判断する。男性器というのは社会的なシンボルなのだ。

その臓器が彼らの力の源である。彼らが「男である」ただそれだけのことで、支配する側になる。だから、彼らは股の間のものを使いたがる。努力に応じて、女をモノにして使うことができなければ、彼らは女を恨みにくしむ。彼らは、女を報酬として受け取ることを権利だと思っている。

だから、彼らは女にどんなこともできる。

 

参考

あのね〜〜〜〜〜〜〜!!!!!

女っていうのはね!!!!!

男のためのステータスとか!!!!!

賞品とかじゃね〜〜〜〜〜んだわ!!!!

努力に応じて与えられるべき報酬として女を見るのはええかげんにせぇ!!!!!

こちとら人格があるんじゃ!!!!!

どんだけその股座の棒と玉に支配されとんねん!!!!!!


女の賃金・男の賃金

女の賃金は低い。誰と比べて?男と比べて。正社員同士で比べても六割から七割。そして、女性は非正規雇用が多い。いわずもなが、非正規雇用の賃金はさらに低い。

女の賃金が低ければ、時間をかけて、男性の賃金も低くなる。

職場での正社員の数が削られ、非正規雇用に置き換えられていくからだ。同じ仕事をするならば、非正規雇用にやらせたいと考える経営者が多いからだ。

同一の会社であっても、女の賃金のほうが安い事例もたびたび見てきた。

出産、育児で休んだら、当然のごとく出世の道は断たれる。新卒一年後の時点で男性よりも手当や昇給が違っていた人もいる。人事の裁量によって部署配置が決められるので、会社の規定の範囲内でそういうことが起きるのだ。

女性が育休を取り、男性が取らない時、男性側の会社は、盗っている。女性の会社から盗んでいる。休みに伴うコストを。だから、男性ばかり採用する会社は泥棒なのだ。

 

同質性の担保された内側でいくら競争しても、それは、内輪の競争に過ぎない。何を言っているかと言えば、

の「ダイバーシティ抵抗勢力」とは、「日本人」「男性」「高学歴」の属性を持つ人間だと分析されている。

これらの人々が、それ以外の人々を職場から排除する。

「男性の賃金を上げるためには女性の賃金をあげざるを得ない」という利己的な理由でも、男性たちは、女性の賃金を上げることを拒む。

女性は、安い賃金で働かされ、また、たいして賃金を獲得しないからと言われて、家庭内でも長時間の家事労働に従事させられている。

そして、家庭での長時間の家事労働があるから、子供を産むから、という理由で、「女の安い賃金は正当なのだ」と脳に刷り込まれて、それがおかしいということもできない。こんがらがっている根元を探せば、そこには女性差別がある。

社会は「女性が家庭を支えるものだ、だから、賃金は安くてかまわない」と言い、家の中で夫は「賃金が安いのだから、せめて家庭を支えてもらわなくては困る」という。これは女性差別なのだ。人権問題だ。

これから、消費税が上がるので、非正規雇用・低賃金・低学歴・障害者・病身者の女性たちのことが心配でならない。

 


人付き合い

わたしは人とうまくやれないなと気付いたのはかなり幼い時だった。なにかなじめなかった。

そのまま大人になって、自衛として礼儀正しくしようと心がけた。感情をおもてなしするのは難しくても、礼儀正しさというのは、理屈で積んでいけるものだからだ。

礼儀正しくない人は、価値観が合わないから付き合わなくてもいいとルールも定めた。

だいたい、人と人とうまくいかないのは、距離が近すぎることが問題だ。

人はさみしくなるものだから、距離が遠いと感じたら、近づく努力をする。そうして、双方が納得すればより親しくなるし、そうでなければ疎遠になる。

自分が疎遠になることを決めたらその理由は知っているので納得しやすい。でも、相手が疎遠になることを選んだ時、心がちりちりと痛む。

痛みをなんとかしようとして、より大きな問題を引き起こしてきた。たいていは、その人に向かって理由を問いただそうとしたり、無理やり連絡を取ったりすると事態が悪化する。

だから、疎遠になったことに気付いたら、自分で気を紛らわせることをしたほうがいいい。

疎遠になった相手と話せることは何もないのだとわかるようになってから少し経つのだけど、まだ慣れないでもいる。


男女間の”役割分担”の条件

男女間の”役割分担”が成立するときは、それが交換可能かどうかが必須になります。交換可能ではなかったら、それは”役割分担”ではないでしょう。

わたしの家でも、平等ではないです。それは、わたしのほうが賃労働でもらえる単価が低く、労働時間も短いからです。だから、わたしは、家を維持するためには、伴侶に賃労働の主たる担い手になってもらい、わたしが家事の主たる担い手になるしかありません。選んだ結果ではありません。家事労働することを自発的に選ぶことができません。それは、伴侶もそうです。

家の中の社会は、家の外の社会が反映されています。家の外の社会が、「男のほうが働きやすい」社会である以上、家の中でもそれを踏まえた社会にならざるを得ません。

 

「女性は出産、男性は力仕事(狩り、お金を稼ぐ)を担当するのは、役割分担だ」という言い方をみます。

でも、力仕事で人はすぐには死なないけれど出産ではよく死にます。わたしも選べるなら、出産より力仕事のほうがいいですね。私の場合、母子ともに危険になり、ほぼ三日にわたる陣痛のち、カイザーになりました。カイザーって、おなかだけじゃなくて臓器も切るので痛いです。医者が腕を肘まで入れて臓器から赤ちゃんを引っ張り出すんですよ。引きはがすときにべりべりと音がしました。そしておなかの中を洗浄します。

だから痛いけど、心無い助産師に「切ったら痛いのは当たり前だから我慢して」と言われました。そういう痛みを選びたいか?

伴侶は、私が死ぬかもしれないと思っておびえていました。

比較にならないものを並べるのは詭弁です。

「わたし、出産が怖くて嫌だから代わって」と言ったことがあります。「代われるものなら代わりたいけど」と伴侶は言いました。そうです、代われないんです。力仕事は代われます。ほかの人に頼んでもいいですね。でも、出産は、そうはいかない。(代理母というものがありますが、ここでは話が違いますので)

わたしが小学生の時「女子は掃除、男子はサッカー。役割分担だから」と言われたことがあります。サッカーが好きなわけじゃないけれど、サッカーのほうがいいです。でも、わたしは選べなかったんです。こういうのは、”役割分担”とは言えません。何の役割なんだろう?サッカーって。男子が遊ぶことで、集団にメリットが発生するのだろうか?

集団にメリットが発生しないことは、そもそも”役割分担”じゃないですよね。役割分担という言葉は、押し付けられる側を黙らせる機能を持っています。

女性は出産があるから、仕事をやめるだろうと思われて、賃金が安いため、男女間では、どちらかが仕事をセーブしなければならない時、女性がセーブすることを選ばなくてはならないことが多いのです。そして、セーブすれば、出世できない現状があります。よく、アンチフェミニストが、男は育休を取りたくても、出世できなくなるし、周りが変に思うから取れない、と言っていますが、女性も同じです。出世できなくなります。そして、女性は、賃金が安くなる→家事育児をしてくれ→ますます仕事をセーブせざるを得ないというループに陥れられます。

(余談ですが、女性の賃金が安いと、男性の賃金もつられて下がります。そりゃそうですよね)

こういうのは、対等でもなく、役割分担とは言えません。

仕事か家事育児か、を女性の自由な意思で選べる状況ではないわけです。

女性よりも男性のほうが賃金労働しやすい社会である、という前提があります。だから、アンチフェミニストは「男性が働いて女性が家で支える」ということをいいます。

でも、考え方を変えれば、女性よりも男性のほうが転職先が見つかりやすく、パート以外でも仕事が見つかりやすいので、収入も落ちにくい、だから、男性のほうが転職をして、女性が同じ仕事を続けるというのも同じ状況でありえます。でも、このやり方を選ぶ人はほとんどみません。

差別的な社会状況があるから、それに乗って同じようにふるまうことは必須ではないのです。

そもそも、今は、ダブルインカムが主流になっています。だから、「男が大黒柱」はできません。それなのに、女性がかいがいしく、ハウスキープをして、子供を身ごもり、産み、育てています。そのうえ賃労働をして、男性伴侶の実家のご機嫌伺い、近所づきあいもする。逆はあまりない。それはなぜでしょうか。

 

わたしが知っている男性は「女性にはかなわない」「女性はこまやかだから」と、家事を女性がすることを必然のように言う人がいます。でも、ハウスキープに関していえば、あれは技能と責任感によって行われるものなので、女性である必要はないのです。

 

わたしの家では、わたしが工具を使った作業、裁縫をします。重い組み立て家具でも、わたしが一人で作りますし、家電の設置や修理もします。でも、皿洗いと洗濯物畳みは大嫌いなので、それは伴侶が主にします(わたしもします)。でも、どの作業も、得意不得意があっても、お互いに交換不可能な家事作業はありません。普段、これは自分がやり、それは伴侶がやる、ということが何となく決まっていることでも、相手ができない時には代わります。役割を固定化させないことが大切です。でも、固定化してしまいます。社会の差別構造が、家の中にまでやってくるからです。

それは、意思や思いやりや愛情ではどうすることもできません。

「お前は一生、皿洗いだ」と言われたらいやじゃないですか?自分の分だけならともかく。でも、家族を持った女性は、一生皿洗いをします。たいていの場合。

一緒に住むうえで、「気が付いたほうがすればいい」という人はたいてい地雷でした。こちらにとっては、「気が付いたら損をする」けど「気が付かないと家が崩壊する」という感じ。だいたい、押し付け合いになり、負けるのはたいていこちらなんですよね。いつもこちらが気が付きます。もうそこまでいくと「やって」というのもめんどくさい。

「ここ、汚れているよ」と言われる始末でした。気が付いたほうがやるんじゃないのかい。建前も守れないのか、とわたしは頭にきました。

 

そういう過去のパートナー達は稼ぎもよくないのですが、家の中ではでーんとごろごろ鎮座していました。でーんとしているつもりもたぶんなく、デフォルトがそうなんですよね。稼ぎも悪く、家事もしないならいらねえと思って出て行ってもらいました。でも、彼らは、なぜかがわからないんですよね。説明しても。(なぜかセックスが悪かったのかと考える屑もいました。たぶん、女性は「性欲」で管理できると考える屑だったのですね。お恥ずかしながら、屑って、付き合わないとわからなかったんですよ。あと屑が多すぎます)

 

説明してもわからないので、役割が固定化されていたのです。分担じゃなくて、わたしが一方的に負担を負っていました。こういうのは、”役割分担”じゃない。”役割専任”?

ごろごろしているのと家の中で立ち働くのとどちらか選べるなら、ごろごろしているほうが良かったです。選べない、というのが肝なんですよね。向こうは選べない状況にもっていくのがとてもうまいのです。わたしにはとてもかないません。いろいろ、精神的に攻撃してきます。「普通」「ちゃんと」とか言って。

わたしが「選べない」のはなんでか、というと、女だからです。社会構造がそうなっています。愛があれば乗り越えられるという人もいますが、構造から言えば、愛も搾取の対象になります。「愛しているならできるはず」という搾取です。

「本当に愛していたなら何もかも捨ててついていく選択もあったはずだよ」とは実際に言われた言葉です。何もかも捨てたら、どうなるでしょうか?

逃げる力もなくして、うまくいかなかったときに、誰も責任を取ってはくれません。不幸になった女性は、たいてい自業自得と言われます。それに、わたしの人生は、愛よりもずっと大事なのです。

役割分担、という言葉は、たいてい「パワーの差」をはらんでます。女の子は家事育児ができるように育てられ、男の子にはそこまで教えない、という家庭は多いでしょう。その「できない」ということも「パワー」に含まれます。女の子ならできるよね、と生まれてこの方浴びせられた「期待」みたいなものも抑圧に働くパワーです。

 

そのパワーというのは、「女性蔑視」に基づいています。女性を蔑視することで、男性が持ち上がります。そして、男性が女性に対して力を持つことができます。これが差別構造です。だから、男性にとって、差別というのは気が付くことができないし、気が付きたくもない、不名誉な事実なのです。男性は「構造の話」をしても、あまり聞きたがらないのは、構造の上部にいるからでしょう。

女性蔑視や女性差別構造がある限り、家の中で、男女間が平等に役割分担をすることはできません。

 


「お気持ち」「まなざし論」に対する反論

わたしの嫌いな言葉に「お気持ち」「まなざし論」というのがあります。

客体化という概念は、社会学でもフェミニズムでも普通にあるので、なぜそこがひっかかるのか謎です。

女性はエロい目で見られたら気分が悪くなり恐怖を覚えます。

男性にとって、エロい目で見られることは楽しいことなのかもしれませんが、女性にとっては恐ろしいことです。危害が加えられる前の段階だ、と認識する人が多いでしょう。

モノ扱いされたらいやだ、モノ扱いされると、拒否しても拒否が通らない、という経験をしている人が多いからです。

オタクはよく、「キモイっていわれる」「迫害される」というけれど、もしそうなら、「キモイなーと思われているのが目でわかる」はずじゃないかと思います。

もしくは、「あいつからカツアゲしよ」という目で見られてたらわかりますよね?

よく、痴漢くらいで、という人や、やめてくださいと言えばいいという人がいますが、カツアゲされているときに「やめてください」と言える人ばっかりじゃないですよね。勝手に触ってくる段階で、通常の判断力を持つ人ではなく、考え方がおかしい人間なので、拒否が伝わるとは思えないだけでなく、もっとひどいことをされると思って怖いから言えません。

もし、強盗に遭ったとき、毅然と「やめてください。お金は出しません」と言ったら、殺されるかもしれないから怖いと思いますよね。それと同じです。

 

見ただけでダメなの?というけれど、ええ、ダメなんです。ちらっと見るのと、じろじろ見るのと、やっぱり違いがあります。そして、じろじろ見られたあと、ひどい目に遭ったことがあれば、経験上、それは嫌で恐ろしい行為になります。

女性がキレて怒ると、「ヒステリー」と言われるけれど、男性にはそれにあたる言葉がありません。男性は怒っている状態に名前を付けるまでもないわけです。

わたしは治安のいい場所に住んでいるけれど、日中に男性から怒鳴られたりけられたり、つけられたり、というのはあります。そういうことをするのは男性でした。例外なく。

「人格のある人間だと尊重される」の意味は「嫌だ、やめろ」と言ったときにその意思が通るということです。

「モノとして見られる」というのは、見ている側がその妄想通りに動かそうとしているときのことです。女性は、男性に迫られて(きれいな言葉であえて言いますが、実際には怖い)、丁重に断っても、逆切れされて怖い思いをした人はかなり多いです。つまり、断るってことを受け入れられていないのが怖い。

子供たちは、小学生のころから、盗撮、痴漢の被害に遭っています。それも、人格を尊重されていないってこと。

 

 

男性は「視姦」ってことば使いますよね。実行にも移しますよね。男同士で、ネットでも、現実でも語り合いますよね。あんな気持ち悪い言葉を選択するんだから、本当は見るだけでもダメだってことわかってるんじゃないかなあ。でも、ホモソーシャルにおいては「悪ければ悪いほど男らしい」という規範があるからそれに乗っているんじゃないかと思います。

 

「まなざし論」「お気持ち」という言葉って「お前の感じたことには意味がない」って意味しか伝えていないんですよね。まなざし論、まなざし村、お気持ち論、こういう言葉を使えば、「客体化はやめろ」という女性の主張を無効化できると思っているのかもしれません。でも、それには根拠がない。つまり「お気持ち論」「まなざし論」「まなざし村」って言っている人のほうが、主観だけで根拠なくいっているんですよね、言い返したいだけで。それってとても貧しい行為です。お気持ち、まなざし論といっていたら、女はバカだ、しかし、男は冷静で賢いのだ、と仲間同士で慰められる、そういう符丁と化しているように思います。

 

一方「客体化やめろ」という女性たちの声には、根拠がないんでしょうか?

根拠はありますよね。嫌なものを嫌だという、やめてほしいことにやめろという。

それを尊重されるのは、人間として当たり前のことです。当たり前のことを言っている、というのが、根拠です。人には嫌なものを嫌だという権利があります。

Rightですからね。権利って。正しいことって意味です。嫌なことを嫌だというのは正しいことです。

じゃあ、「まなざし論」という言葉を使う側の人も、「不快だ」と言えば通るはずだと思います?見るだけでダメだという意見に対して「見るくらいならいいだろう」というのは正しいことだと思うのでしょうか。「視姦」という言葉がまだ死語になっていない社会なのに。

例えば、ポルノ的な漫画表現をやめさせられるのは不快だし表現の自由を侵害しているって思います?

ポルノ的表現が、女性や子供への加害行為を助長している事例は、いくつもすでにありましたよね。それで女性は怖がっているのです。

外出先で、子供がトイレに行くときには、女性は必ず付き添います。トイレで暴行される事件が絶えないからです。生活に不自由があるのです。実害があります。

ところで、わたしはネット通販が好きですが、見ているとどんどんほしくなります。見るという行為は、欲望を喚起させるからです。滞在時間が長いサイトでは、購入する可能性が高いということは言うまでもないかもしれません。サイトを作るとき、コンサルタントは必ず言います。

広告の基本で、「この欠けているものを手に入れれば、あなたは今よりも幸せになる」というメッセージを発するという手段があります。だから、広告は何度も見せることが大切なのですね。

人は、自分に欠けるものがあると知ると、それがほしくなります。見ていると、本当はまだ持っていないものなのに、すでに持っているかのようにも錯覚して、執着してしまいます。これは、フリマアプリでも使われているテクニックです。

 

だから、ポルノ的な漫画表現が、児童や女性への欲望を喚起していない、というのは、結構苦しいんです。「あなたには、女性や児童に対する性虐待が欠けている」って訴えかけているわけですからね。「あなたにはこれができてないんですよね」というメタメッセージを発しています。

本当は、ポルノも、性的な夢想へ、安全に導くものに過ぎなかったらいいんですけれど、ヘテロシス男性向けのポルノでは、女性か児童が性虐待の対象になっています。それが、本物の人間であっても、「性的キャラクターのイデア」としての女性であっても、結局、「その特徴を持つ者への性虐待」という欲望を喚起する点では同じです。

性虐待ポルノを見ているだけにとどまらず、仲間内で、符丁を語り合って、結束を強め合う状況は、かなり危機的に感じます。すでに「そこまでやるなんてすごい」という風潮もありますよね。日々、変質者から子供を守るために、ぼんやりすることもゆるされず、神経をとがらせると、「児童への性虐待」を面白い冗談のように消費する人を信頼できません。

 

また、表現の自由というのは、いつでもどこでも、完全に自由に許される根拠になるものでもありません。もしそうなら、ほかの自由も完全に保証されるべきですよね。でも、「安全に暮らす自由」「心配をしないで道を歩く自由」というのは、弱者にはありません。この場合の弱者というのは、社会的肉体的弱者、という意味です。あらゆる自由の中で、表現の自由は何をおいても尊重されるという決まりはないんです。

 

自由は自ら守るものだとどこかで習った人は多いでしょう。それは、いつでも自由にさせろ、という態度だけじゃなく、周りの人に気を使ったふるまいをすることで、信頼され、規制を最小限にするという態度も含まれます。

人を客体化する害については、様々な人が述べています。

でも、「まなざし論」とバカにする人たちは、「なぜまなざし論といってバカにするのか」ということを丁寧に人に伝えるように書いたことがあるんでしょうか。せいぜい、恫喝的な文章しか、わたしはみたことがありません。

気持ちや感情は大切なものです。

でも、男尊女卑な社会では、感情を女性特有の属性だとみなします。感情は理屈よりも低いもので、それを尊重するのは悪い、と考えるのが、女性差別の一つです。「男は感情をあらわにするべきじゃない」という規範を内面化しているんでしょうね。ただ、それは、男性が自分で乗り越えるべきことです。よく、女性に「フェミは男を救わない」というようなことを言う人がいますが、女性はケア要員じゃないですからね。それを言うのもフェミニズムの仕事です。

だから、「まなざし論」、「お気持ち」といって、女性の訴えを「感情的なものだから揶揄してもいいんだ」と思い、それを言ってのける、ということ自体が、女性差別的な行為と言っていいでしょう。

結論は、「感情を女性特有のものとして、価値のない、根拠にするのに足りない、バカにしてもいいもの」という態度で発せられる言葉自体は、男尊女卑、女性差別のあらわれなので、「お気持ち」「まなざし論」「客体化w」というのはやめましょう。そういう人間は紛れもなく差別者です。


萌えとは何か

わたしは、オタクの歴史とか萌えの歴史とか、いわゆる非モテ界隈のブログもけっこう追ってました。本田透も二冊買って読んだんですよ。

なぜ、そうしたか、というと、わたしに近づいてくる人々が、鉄オタであったり、音ゲー、ラノベゲーム、泣きゲー、エロゲーをたしなんでいたり、駕籠真太郎をはじめとするエログロ漫画をずらっと本棚に並べている人であったり、SFオタクであったりしたからんですよね。延々とハルヒの話をする人とかね。

わたし自身は、オタクではなく、オタクだと言われたこともなかったので、話も合わないし、エログロ漫画とか、師走の翁どう思う(そして手渡してくる)と言われても、ひどいな、という感想しかないわけです。鉄オタに朝五時に撮影に連れていかれても、朝ってすがすがしいなと思うけどさ…。なんか早口でけたたましくしゃべってユーチューブの逆再生をするだけじゃなくて、逆再生したセリフを丸暗記しててそれを映像と同時に言うという人もいたし、家で映画見てたらちょっとずつ止めて解説をする人もいました。

だから、今まさに萌えている人を端から見てどうか、という話をすることはしたいと思います。

萌えるものをみたとき、まず、枕やバッグを抱きしめて、突っ伏して、両手をバンバン振って、机や床や壁や人をたたきながら、「ふうー」「はあー」「ヤバ」「これ…マジ…ヤバ」と言いながら胸を押さえて倒れたりします。で、ぶつかって痛いと「アウチ」と言います。これがわたしの知っているオタクです。そうじゃない人もいると思います。当然。でも、知人だったオタク(本人がオタクって言ってました)はそうしていたんですよね。あと、本当にデュフって言ってました。

それで、ちんちんは立ってないかもしれないけれど、興奮の種類は同じなんだな…、と思いました。本人が自覚しているかどうかは別ですけれど。

こういう風に書くと、「個人の体験だ」と言われ、「ソースがない」と言ってくる人がいるんですけど、個人的な体験の集積がソースなり根拠になります。

学者なり政府なりが「はい、これを調べます、アンケートに答えてください」といって、質問に〇×をつけた結果だけが、根拠になるわけではないです。

例えば、質的な評価をするとき、それは数じゃなくて、「語り」をどう評価するかが問題になりますよね。

それに、まず、誰かが口火を切らなければ、それが存在することさえ、誰も知らないわけです。

オタクの自分語りはたくさん読みました。でも、身近な人がどうであったか、というのは、とても少ないです。例えば、「#ある日突然オタクの夫が亡くなった」のような記録はとても大切なんですが、珍しいと思いました。家族による、「オタク活動の影響」についての記録です。こういうのも、誰かが書かなければ、誰も知ることができません。トラウマ、被害妄想という言葉は、簡単に使っていい言葉じゃないんですけど、どこかで見た言葉ですが、「二度と会わないから、吐き捨てることができる」んだと思うんですよね。そういう人たち相手に誠実でいるのは難しいことです。
性的なものがまったくダメか?というと、そうではないと思うんですね。

日本で言えば、今ならちゃんみな、わたしの世代で言えば、宇多田ヒカル、アメリカで言えば、テイラースウィフト、ガガ、マドンナとか、主体的な女性像を打ち出しているアーティストはたくさんいます。これらの人々も「消費される客体」ではないとは言い切れないわけです。主体的なアーティストとしての側面を持つけれども、消費される部分もあります。

それこそ、「性的」と言えば、「エッチなもの」じゃないものも、含まれますよね。

最近、キズナアイが議論に上がっているので、彼女/彼を例として挙げて話していきます。

キズナアイを批判する人々に対して「じゃあ、胸の大きい、ノースリーブの女性は、性的でダメなのか。フェミニストはおかしい」という人もいました。

なので、今回は、ノースリーブを題材にして、書いていきます。

ノースリーブが必ず規制しなくてはならないという意味ではないので、そこはご了承ください。

というと、「フェミニストがキズナアイのノースリーブをエロいと言っている。だから、フェミニストが女性差別をしている」、と主張する人もいそうですよね。でも、フェミニストの多くは、「キズナアイは、女性差別的な構造を強化する、抑圧する」という文脈で批判しているはずです。

キズナアイを、彼女のファンが全くエロティックな存在として見ていない、というのは難しいんですよね。それはなぜかというと、キズナアイのYouTubeのコメントを見れば、エロいと言っている人や、彼女をネタとしたAVがあると案内している人すらいるからです。女に見えるキャラがいればエロだと思う人間も出るのは仕方がないだろう、と思う人は、結構毒されていると思います。

 


これ本質的には「フェミがオタクのちんこに鍵かけようとしてる」という恐怖(半分誤解含む)に対する防衛機制だよね。射精権を巡る戦い。

2018/10/09 09:58

こういうことなんだと思うんですよね。


萌えと女性差別構造の維持

 

萌え絵には性的なニュアンスがある についているブコメをなるべく見ないようにしていたのですが、300を超えたので、トップ10は見ようかな、と思ってみました。

萌え絵のことを書くと、とても怒る人が多いのがわかりました。

なぜ書くのかとか書いて意味あるのかとか、不毛だとかいろいろ言われていますが、「萌え絵が性的か否か」の前提をはっきりしないと「どのくらい性的なニュアンスがあるか」「今後、それをどう扱うか」という話もできないからです。

下記の記事を読んでへーっと思うところは多かったんですが、

これは一見新しそうに見えるけども、まったく新しくない。つまりオッサン向けのエロ広告とかが、単に虹の「駅乃みちか」とか「碧志摩メグ」みたいなものに置き換えられたにすぎないの。しかも彼らが、旧弊オッサンよりタチが悪いのは、それらの表現について「エロくない!健全な表現!」と言い張ってること。そんな主張は極めて悪手で逆効果にしかならないのに、自分の性欲に気付いていないとでもいうのか?*3

の部分ですね。これは、わたしが認識していることと差がないんです。

 

萌えというのは、胸がぎゅっとして、きゅーんとして、ドキドキして興奮する気持ち(ちんちんは立たないことも多い)ということだとわたしは考えています。

「萌え」っていうのはオタクジャンルの人たちに与えられた、初めての「欲情語彙」だったんじゃないかなと思う。

この記事は2008年なんですが、そのころのブログには「萌えとは欲情の言い換えである」ということはいろいろなところで言われていました。

 

ブコメに「トラウマがあるんじゃないのか」「被害妄想」「エロいという気持ちである性欲を肯定して揚げてください」というようなことが書かれていました。

実際には、トラウマや被害体験は関係があるかもしれないし、ないかもしれません。あってもなくても、わたしの言いたいことを読み取る結果が変わるとは思えないのです。普通にとれば「トラウマや被害妄想があるに違いない」というのは「だから、この人の言うことは、トラウマを原因とする偏見があるから聞かなくていい」につながり、結局「トラウマのあるやつは黙れ」というメッセージになります。

「トラウマがあるからオタクをたたくんだ」という意味のブコメを読んだら、トラウマや被害体験がある人は、この問題に言及するのは難しいんじゃないかな。これも抑圧の一環です。

萌え絵を批判する人に対して、「女性として被害を受けた可能性」を出して、その発言の信頼性がないことをほのめかす行為は、萌え絵愛好者が、女性差別構造の維持をしている、という仮説の答え合わせになるでしょう。

 

「(あなたが)エロいと感じる気持ちを否定しないで」に至っては、「エロいと指摘した奴が一番エロい目で見ているんだ」でしかないです。「女性差別をしていると指摘した人間が一番女性差別している」みたいな詭弁と同じです。こういうのを見ると、対話することが不可能なんじゃないかなとひどくがっかりします。

 

いつでも、どこでも、「女性の体を客体として見る」というメッセージを発するということは、女性や女性の姿をしている人を委縮させます。主体性が認められないというのは、非常に怖いわけです。主体性を言い換えると「嫌だ」「やめろ」という権利です。人間は「これをしたい」という気持ちと「嫌だ」という気持ちの二つで、自分の領域を認識します。やめろ、と言っても、「やめろ」という意味だと認識されない恐怖を身にしみて感じている人は多いはずです。

これは、わたしの被害妄想じゃなく、「いやよいやよは好きなうち」「本当にいやだったら怒らない(憎まないで)で無関心になる」というような言葉からも、「女性や子供が嫌だと言ってもそれは嫌という意味で理解されない」というのは、一般的な概念だということがわかるかと思います。

 

女性差別がある社会では、女性は、自由に好きな恰好をすることができません。その一方、女性差別のある社会では、それとは逆に「自由な服装をしているキャラクター(ただし、男性が特に好ましいと思う姿)」が描かれます。その「キャラクター」がどのように受け取られているか見ると、ますます、女性は自由にふるまうことができなくなりますが、消費する立場では、「こういうキャラもいるのだから、抑圧はない」という主張の論拠になります。

女性がなぜ委縮するかというと、

「キャラクター」の姿が、女性の特徴を抽出して、さらに強化している姿であるとします。それが男性にとっての「イデア」であるとわかります。これが問題になっている「性的な誇張」の意味です。

すると、その「キャラクター」が、誰にどのように受け止められているかが、これから女性がどのように扱われるかの前提になるからです。

 

ダメなのは、「女性はエロい」という視線で消費する構造なんですよね。女性がいわゆるセクシーな姿でいても、それを消費する視線、女性差別構造が悪いのです。そして、女性の姿の特徴を抽出して強化したキャラクターの在り方、それの消費の仕方によっては、それを悪化させるのです。

それを考えたくないからと言って、女性差別があると指摘した人を「女性差別をしている当人だ」というのは詭弁です。

女性が、好きだから着る、というのと同じように、キャラクターがこれを好きだから着る、というのは言えませんよね。キャラクターが自分自身で何かを好きになることはできません。設定上、「好き」ということにはできても、人間と同じように「好きになる」ということはできないのだから。

 

これからどうしたらいいのか、というと、女性差別をなくし、女性を抑圧する構造をなくしてほしいということです。

だから、それには、どの道を選ぶとしても、表現の一つ一つを個別に性的なニュアンスがあるか、どの程度か、それは、女性を抑圧する可能性があるか、吟味してから、外に出していく、外に出すならどの場がふさわしいかという過程が必要です。

 


「萌え絵が性的である」と言ったときのよくある反論について

キズナアイを例にとって書きます。

それは、

があるからです。

個人的には質問の形をとった反論だと思います。それはおいておくとしてコメントでも答えましたが、

  1. キズナアイが性的かどうか
  2. ジェンダーロールの与える影響は少ないはず
  3. 女性が描いている

1については、わたしが性的か判断するかどうかは本論で書きました。このコメントでわたしが大切だと思ったことは、キズナアイはやっぱり萌え絵なんだなということです。

でも、上記の記事で、わたしは「エロいからダメだ。嫌いだ」とは、言っていないんですよね

「性的に誇張されたキャラクターならば、NHKの子供向け番組にはふさわしくない。また、番組内の役割からいっても相応しくない。なぜならばジェンダーロールを強化するから」と言っているんですよね。

なぜ、キズナアイを好きな人たちは、キズナアイが性的ではない、ということを前提に主張するのか不思議です。残念でもあります。

2についてですが、コメントした人も認めている通り、ジェンダーロールへの影響はあります(影響は少ないと思いますというのは、つまり、あるかないかでいえばあるってことです)。そして、その影響が少ないか多いか判断するのは、誰が適切か、ということです。

答えは誰も適切ではない、です。

影響が少ないと思う人もいるし、多いと思う人もいます。

わたしは多いと思う人です。だから、その根拠を書きました。「多様な描かれ方をした女性キャラクターは多いから、影響が少ない」わけはないと思うんですよね。本当に多様化しているのか、という検証はなされていません。検証するなら、「多様化したキャラクター」という定義をしなくてはいけません。

また、コメント主さんも検証したわけではないと思います。影響が少ないという検証も難しいです。

この世の中から女性差別が完全になくなったら、「少ない」と言えるかもしれませんが、そうではないんです。女性差別はあります。

余談ですが、女性差別がある、という現実を認めない人は多く、データを出せ、と言われることが多いです。民法一つとっても、義理の父母の介護をしていた「嫁」の遺産相続がゼロ、とか、再婚期間に制限があるとか、ほかにもたくさんあります。もしくは、日本の女性の睡眠時間が一番短い、日本男性が家事をする時間が世界有数で短い、日本男性が育休を取るのは、3.6%で、しかも日数は六日だけだとか、いろいろあります。(質問の形で意見を言われるのも、女性はよくされることで、相手に差別の意識がなくても、うんざりしている人は多いです)

でも、差別の結果は、データで出ることも多いのですが、差別されている人間は、データを取ることのできる立場に登れないんですよね。それが差別の形の一つです。表に現れないように隠ぺいすることができるんです。

わたし自身は、「日本で作られた、ジェンダーロール規範から自由になった女性キャラクター」を実は一つも知りません。必ず、何かしらのジェンダー規範に沿って描かれています。まあ、実際無理なんですよね。無理なんだけど、意識して、それに抗うように描かれているキャラクターというのは作ることができるんだと思います。正直に言って、世界中のだれもが性的規範を内面化しています。内面化というのは、

上記の記事にも書きました。

内面化している以上、自由にキャラクターや物語を作ることはできないんです。でも、意識して、規範を再生産しないように、または、規範に対して批判的に描くことはできる、ということだと思っています。

 

3については、萌え絵は絵ですから、描く技術があれば、女性だろうと誰だろうとあらゆるジェンダー、セックスの人が描けます。

女性が描いているから、

≫「男性の価値観、理想に従わされた」「男性の求めている像に近づけた」

わけではない、というのは苦しいですよね。女性ならば性的に誇張した絵を描かない、というのも、ジェンダーロールを内面化した結果です。

もちろん、エロくてフェミニズム的である、というものもあります。

かわいい、という言葉に幼いものをめでるという意味が多分に含まれている以上、かわいい=幼いものにエロスを感じるのも、歪んでいると思います。幼いものはたいてい無力で非力ですから、それにエロスを感じるというのは、支配する喜びが付随すると考えられます。

 

 

 


萌え絵には性的なニュアンスがある

タイトルがすべてなんですが、以下述べていきます。

萌え絵はそもそも少女漫画の顔に男好みの体をくっつけたキメラ的な技法のもとで描かれています。

少女漫画の顔に大人の体、というキメラ的な描き方をしている、と指摘したのは大塚英志だったかと思います。

1990年代に萌え絵が発生しだしたと思うんですが、そのとき、リアルタイムで萌えキャラそのものに注目して文章にしていた人はかなり少なくて、大塚英志と東浩紀と斎藤美奈子くらいだったと思います。

 

わたしの実感ともそれはあっていて、萌えキャラは、はじめにときめきメモリアル、同級生というようなギャルゲーのタイトルを経て、その後エロゲーに発展していきました。

男好みの体、というと、わかりにくいかもしれませんが、ほっそりした華奢な体に、誇張された胸部が描かれている、という風に読んでください。

以前は、萌え絵が少女漫画のキャラの技法上にあること、そして、それにも関わらず、性的なニュアンスを加えていることについて、ある程度の合意が取れていたように思います。

今は、萌え絵には性的なニュアンスがない、という意見の人、強い言葉で言う人は「フェミは性的ではないものから性的なものを探し出している」という風に言います。

しかし、わざわざ、「少女漫画のキャラクター」と違う技法で描く理由があるはずです。意図や判断、好み、と言ってもいいかもしれません。

それは、「性的に誇張したいから」という理由ではないんだろうか。

(少女漫画や、子供向けのキャラに萌え絵が逆輸入されていることも今はあると思います)

萌え絵の歴史的な経緯を書きます。

わたしが初めて萌え絵というものを認識したのは、二十年前です。「はじめてのおるすばん」というえぐいエロゲーのキャラを見せられたのです。顔がすごくかわいいな、と思ったと同時に、その場の雰囲気を含めて異様な感じがしました。相手は同級生だったのですが、わたしの反応を楽しんでいる様子でした。なんだろう、良く知っているもの、つまり、少女漫画のキャラみたいな感じなのに、すごく変な感じがする、と思ったのを思っています。これがセクハラなのは明らかですが話が変わってしまうので。

あのキャラっていわゆるロリもので、公式上は十八歳以上ということになっていることも知っていますが、「はじめてのおつかい」を意識したタイトルから「幼い」キャラに何事かする、というゲームなのは明らかで、それは暗黙の了解ですよね。欺瞞なのは、ユーザーも知っていました。

 

必要とされているのが、「かわいい」だけなら、少女漫画でいいんですよね。

でも、「萌え絵」なんですよね。萌え絵がいい。そういう人がとても多い。そして、萌え絵のほうが公共の場に多く露出している。

それは、萌え絵が男性向けにカスタマイズされているからだと思います。男性に受けるものは、公共の場に出やすいです。それは、意思決定をする人、つまり、組織の上部が男性で構成されているからだと思います。

「かわいい」という言葉は、たくさんの研究がされていますが、一つの結論で、かわいいというのは「幼い」という特徴だと言われています。

萌え絵は、「かわいい顔に大人のボディがついている」というは、かわいいを幼いに置き換えると、つまり「幼い顔に大人のボディがついている」ということになります。

みんなも見慣れて感覚が変わったから大丈夫なのだ、という人もいます。でも、わたしは価値観が変わってしまった、ということを問題にしています。

萌え絵の出発点が、「男性に向けた性的なニュアンスがあるもの」なんです。少女漫画にもエロティックな描き方はあります。でも、それは、あまり表には出てこない。エロティックな描き方の少女漫画のカットが広告に使われることもほぼない。

もちろん、社会は変わったから、萌え絵=エロゲーのキャラ、という感覚が古いのはよくわかります。絵柄自体も大きく変わりました。使われる場面も変わりました。

 

でも、今の萌え絵の描き方のコードが、あまり変わらないように思うのです。古い例ばかりですみませんが、十年前のゲームの、ラブプラスも、こするとゲージが上がって、ハートが出て頬を赤らめてくっついたり、キスをしたり、というのも、やっぱり「エロ」ではあるんですよね。全年齢対象なのは知っていますが。

あれも、やっぱり「愛でる」行為だと、身近にゲームをしていた人がいるのは知っていたんですが、その「愛でる」の内容は、「エロ」も含まれているのではないかと。

わたしはとても疑問です。エロいと評価し楽しんでいたものに、「エロいですね」と言われると、どうして「エロくはない」というんだろうかと。テンションが上がって、「わー」となる、かわいい、楽しい、ってなる気持ちを否定したいわけではありません。わたしもそういう気持ちになるキャラはいます。

誰かがエロいものとして楽しんでいないとしても、エロい文脈で楽しんでいる人がいて、そういう文化がある、ということは、ファンならば特に目につくことでしょう。

 

話は変わりますが、わたしが疑問なのは、「エロ」として楽しんでいたものなのに、「エロ」だね、と指摘されると「エロじゃない」というのは、なぜなんだろうということです。

萌え絵はかわいいから、というのだったら、別に少女漫画の絵でもいいはずです。顔は同じ技法をもとに描かれていますものね(今の少女漫画ではなく、わたしの感覚だと、90年代から00年代の絵柄を発展させたものだと感じます)。

 

愛好家たちも、萌え絵と少女漫画のキャラクターの違いは、たぶん見てすぐわかってるんじゃないかと思います。ほかの人も言っていましたが、それが微かにエロティックであるか、とても露骨にエロいという差はあるし、軽重の差も重要だとは思います。

その愛好家や、愛好家じゃない人間にもわかる「違い」の部分は「エロ」「客体化、モノ化して、消費している」点に立脚すると思います。

なぜ「好きなのは、性的に誇張されていて、エロいから、それはとてもいい、だから好きなんだ」と言わないんだろうかと思います。

エロはダメだと思ってるんだろうか。

 

わたしの立場では、女性や、女性の表彰をモチーフとしたキャラクターにエロティックなものを背負わせて、モノ化し、客体化し、「女とはエロティックなものだ」という無自覚な価値観や、ジェンダーロールを強化することは、ダメだというしかないけれど。

Twitterでも見かけた意見ですが、エロは好きじゃないから嫌だ、という意見も当然です。

結論としては、歴史的な経緯から言っても、萌え絵が性的なニュアンスを含まない、性的な誇張がない、というのは難しいのではないかと思います。

(事実誤認に基づく記事を公開してしまったので、大幅に変えました。ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません)