子育てはさみしいの連続

母乳を卒業してしまった。
あの暖かさや、縋り付いてくる感じや、ぼんやりした顔、満足しながら眠っていつの間にか口を開けたまま眠っているのをもう見られないんだなと思うと、胸がざわざわしてしまう。
この子はこの子が必要なことをすでに知っていて、わたしはそれを手助けするだけなんだな。
あっという間に終わってしまうというのは本当で、毎日かみしめるように過ごさないと、どんどん感情があふれてこぼれてしまって二度と会えない。
せつなくてつらくてさみしくていとおしいから離れがたいけれど、巣立てるように、一人で生きていかれるように、最後には私たちを必要としないようにするのが目標だから、育児はさみしい。
それは孤独だからじゃなくて、わが子がいとおしくていとおしくて仕方がないから、成長の一つ一つがきらきらと輝いている、だから、その輝きをみてしまうと、でも、もうそれができなかったころには戻ってくれないから、昨日のあの子にも、生まれたてのあの子にも、過去のあの子にはもう会えない。
あんなに愛したのの、過去のあの子はもういない。
現在のこの子はいて未来のこの子にも会える、それは知っているけれど、あの子には会えない。
笑顔がどんどんうまくなる、声を出して笑ってくれる、あやせばずっと笑ってくれる、泣くこともあまりなくて、必要なことを教えてくれるからそれをしているだけ。
こんなにかわいいのに、見つめているだけで疲れてしまって、わたしは倒れこんでしまう。ときどきつらくなる。
そういうときには人を呼ぶ。密室育児が毒だと思うから、みっともなくても、助けてもらったり疲れたら疲れたからという。
お客さんにも手伝ってもらう。どんどん招待して、どんどん開いた家庭にしたいと思っている。

わたしにはわからないおもちゃの使い方も、赤ちゃんのほうがすでに知っていた、という言い方をされている方がいて本当にそうだと思った。
わたしたちも、子供たちも、同じように賢く愚かで未熟なのだ。
そして、お互いに愛しい。
対等ではなく、でも、尊重し合える。

どうしよう、とてもさみしい。あの子はいるのに、あの昨日までの子はいないんだな。


えらいパパ?&卒乳

赤ちゃんが母乳を吸いたがらなくなって、一週間たつ。
もう、見向きもしない。まだ母乳は出るけれど。
もともと、母乳の出は良いと言われていたのだけど、産後鬱になって、増えてくれなかった。
それでも、四か月、吸ってくれていた。
でも、お正月から吸ってくれなくなった。
すごくさみしい。
あの暖かさ、懸命さ、もう味わえないなんて。

でも、これも、自然な流れだから、受け止めよう。
受け入れることはできないから。

「うんちのおむつ替えるなんて偉いパパね」
と言われて、わたしたちは戸惑った。
おむつを替えるのは正直に言うと楽しい。
健康状態もわかるし、赤ちゃんも喜ぶから。
穏やかな子だとよく言われる。お尻が汚れても泣かないで、「えうえう」と教えてくれる。
穏やかなのはママが穏やかからだよ、と言ってもらえるけど。

それにしても彼が褒められる率はすごい。行くところ行くところで褒められる。
わたしたちは、二人でするのが当たり前だと思っている。だから、困惑する。
わたしの具合が悪いので、むしろ彼にかかる比重のほうが多い。だから、「わたしがダメなのかな」と落ち込んだ。
でも、話を聞いているうちに、どうも、世間の男性が
「おむつ替えは汚いから嫌だ」と言ったり、
ちょっとでもしたら、
「イクメン」といって、威張ったりするらしいのだ。
おむつ替えについては、汚いからという理由らしいけど、その人は、汚いからといって自分の尻を拭かないのか?と思う。
そのほうが汚いと思うんだけど……。
イクママという言葉がないから、イクメンといって威張る理由もわからない。やって当たり前。
もちろん、わたしたちは二人でいるときには、お互いねぎらうようには思っているけど、根本的には、赤ちゃんが無力だから、対赤ちゃんとしてはやって当たり前。大人同士では感謝すれども。

保育園に行かせているから、卒乳はやむを得ないのかなと思う。
去年の暮れに母乳がたくさん出ているから、やれる間にやってね、と言われた言葉が身に染みる。
もっと、頑張ればよかったのかな?
でも、頑張ってわたしがいらいらするよりは、のんびりだらだらしているほうが、赤ちゃんは幸せそう。

夜寝る前に、川の字になって寝ていると、赤ちゃんが、わたしと彼を交互に見て、ずっと頭を振り続ける。
結構なスピードで。そして、にこにこしたり、けたけた笑ったりする。
両方に、二人の顔があることが面白くて、幸せらしいのだ。どっちを向いても、パパとママの顔がある。
わたしたちは、にこにこ見てる。

赤ちゃんは、必ずしも抱かなくても、そばにいて、何かしているだけでもうれしそうだ。
昨日は一時間かけて、服の毛玉を毛玉とりでとっていた。それを赤ちゃんの隣でしていたら、じっと「ママちゃんはすごい」と尊敬のまなざしで見られていた気がした。
赤ちゃんは洗濯物を畳むところを見るのが大好きだ。たぶん、ひらひら動くのが楽しいんだろう。

クリスマスのオーナメントのキラキラの青い球を束ねてつるしたり、ラメの紙をつるしたり、あみぐるみのたこさんをつるしたりすると、引っ張って、ぐりぐり振り回して、青い球をかんかん言わせたり、紙をぶわぶわさせたり、たこさんを吸ったりしている。
一人遊びが上手だ。
いつまで手製のおもちゃで遊んでくれるんだろうなあ。
たいしたことがないものでも、喜んでくれるから、何がうれしいか知恵を絞るのも楽しい。
きらきらして、軽く動いて、音がするものが好きみたい。
お祝いでいただいた、すべすべのタオルにうさぎさんの頭が付いたぬいぐるみが今一番のお気に入りだ。
なめるときの舌触りがいいらしい。
ぬいぐるみそのものだと抱きしめにくいけど、タオルだと、まだ小さい手でも握りしめることができるから、それがいいらしい。
いただいた時は頭だけのぬいぐるみにタオルがついているのはどうやって使うんだろう?と思ったけれど、贈ってくれた人はよく考えてらっしゃったのだな、と感心しきり。

卒乳も切ない。
パパばっかり褒められるのも切ない。
でも、それだけ、ほかの男性がしていない現実を反映しているのだし、卒乳してしまうのも、いろいろな人の手を借りることができるんだと思えるといいな。


躁状態が一週間目

夜中の一時から四時に目が覚めてしまう現象が一週間続き、とてもしんどい。
また、赤ちゃんが母乳を拒否するので、一日一回しか授乳できていない。
もうこのまま卒乳かな。

落ち着かなくて、ほしいものリストを一生懸命作る。
ぼーっとしていたい。でも落ち着かない。
なにかしないといけないと思う。でもなにかやらかしそうでこわい。


服を処分すること

服を買うことについての罪悪感は消えないものの、衝動があるため、買うことはできる。
今度の課題は、処分すること。
処分することにはものすごい葛藤がある。
処分したら、二度と会えない。気に入って買ったので愛着がある。
親に二度と会わないと決めるのはたやすいのに、服とおさらばするのはつらい。

今日、服をもらってもらった。
とてもかわいいスカートで、暖かくて、柔らかくて素敵だった。
でも、二年たつのに一度しかはかなかった。
服もかわいそうだ。
流行からも離れる前に誰かに来てもらったほうがいいと思って手放すことにした。
そのスカートのことはずっと頭にあって、「はかないといけない」「でもはく機会がない」という葛藤で苦しんでいた。
普段はワンピースを着ることが多いので、スカートを穿くことは、特に冬にはあまりないのだ。

服を処分して、すっきりした気持ちと、さみしいという気持ちが入り混じっている。
とても喜んでもらえた。
今はこのことについて考えたいと思っている。
服を処分することって、自分を大事にすることじゃないかと思った。
着ない服を着ないと決断すること。
自分がもっと嬉しい気持ちになる服のために、場所と心のスペースを与えること。
着てくれる人に渡せるなら、それはものを大切にしていると言える。
着たくない服をもったいないからと着るのは自分を粗末にしている。
服のことも雑に扱っている。
服をまとうということは、自分の一部を形作るということだから、そこに不満があると、自分に不満が向かってしまう。
だから、これでよかったんだ、自分を大切にするために服を手放したんだ、着ない服をずっと持っている、というのはストレスだ。
もちろん、痩せたらご褒美に着ようと思うとか、楽しみに持っているならいい。コレクションしたって良いんだ。
でも、着なきゃいけないと思うようなら、自然に着てくれる人に来てもらったほうがいい。

でもさみしい。すごくさみしい。
後悔もしているのが本音だ。
でも、また新しい服と出会える。

細菌はブランド物の中古を買ってきて、またリユース産業に戻すということをしている。
レンタルみたいなものかもしれない。
新品を買うと気分がすごく上がるけれど、気楽に服を試すのもいい。
ブランド品を気楽に買うことはできないけど、良い縫製や生地の経験を積むことができるから、中古で万歳だ。
新品の付加価値というのはどんなものにも絶対的にある。
わたしはそれには価値を見出せないからこれでいい。

服を処分するのは悪いことじゃない。
なんで悪いことだと考えているのか、どこでその価値観が植え付けられたのは考えないようにしたい。
後悔は過去に今の時間を費やすし、焦りは未来を食いつぶす。


欲望のあり方

自分が何を欲しがってるのか、案外わかっていないようで、なにか見ると刺激されて、ほしいという気持ちが喚起される。
そして、頭がくらくらする。
自分が何を欲しがってるのか、それによってどんな満足をえるのか、わからないまま手に入れて、それから変化することで、あとからわかることもある。
わたしは、わかりたい。
だから、ただ、買うんじゃなくて、買う前と買ったあとどう変わるのか知りたい。
そうすることで、わたしは自分の衝動と共存したい。


起業できそうな高校生

高校生に、メルカリがはやっているそうだ。
売るときのコツをおしえてもらった。

商品の下に綺麗な布やセーターを引く。
飾りとしてアクセサリーを添える。
光を調節する。
詳細な記載。
それだけで、中古のスマホケースが新品の半値ですぐに売れるそうだ。

実践したら、微動だにしなかった出品がうごいて、たくさん売れた。

ハンドメイドの筆箱をプレゼントしたら、メルカリで売れると。
売るときのこつは、大量につくっていっぺんに出品すること。
それで、ハンドメイド作家だと認識される。
作品の中から選ぶ楽しみができるので、買ってもらいやすくなる。
作品のキャラや方向性をわかってもらえる。

メルカリを通して、子供たちが、マイクロビジネスで起業してるといっていい。
素晴らしく教育的だ。

ものを買うことも売ることも自分の欲望のありかを知ることになる。


衝動の管理の訓練

ひどくそう状態が激しく、ここ数日夜中の一時から四時まで覚醒してしまって、昼間も眠れないのでくらくらしている。
そう状態になると、罪悪感が強くなるから嫌だ。
衝動を開放したいけれど、解放すると、後悔するから、必死で抑える。
抑えることに全力を使うから疲れる。
綱引きみたいなものだ。両方から力を加えて、わたしの心を引っ張って、動いていないように見えるのは、逆向きの力が拮抗しているからなので、いつか引きちぎれてしまいそうだ。

買い物をしたいと思う。
それで、ほしいものリストを作った。
どうせ、お小遣いはもらったその日に使い切ってしまうけれど、お小遣いをもらう前に、吟味しようと思う。
思い付きで買うよりいい。
ほしいものリストを作ると、心の中でドラマがある。
これはあきらめよう、これはどうしても欲しい。あきらめきれない、だとか。
そうこうしているうちに、調べると、また素敵なものが出てきて、それもまたほしくなる。
そうしたら、その前にほしいとあれだけ思っていたものなのに、魅力が色あせることもある。不思議だ。
わたしは、今、メイクや服やバッグ、靴などファッションに興味があるから、ほしいものも、そればっかりだ。

生活の工夫はしているうちにできるようになった。
引き出しの中も片付けられるようになった。
模様替えするときも動線を考えて、収納まで簡単にアクセスできるようになった。
毎日床も、ガスコンロも拭いている。流しもきれいに磨いている。
前はお皿は洗ってもらっていたけど、食べたらすぐに洗えるようになった。
30分で食事の用意をできるようになった。三品も作れる。
だから、訓練次第で、わたしの衝動ともうまく付き合えるようになると思う。

結果的に買い物をしてしまうことには変わりなくても、その間の経験値が増えるなら、未来につながる。

昨日人に教わったこと。
はちみつポットにお茶葉やインスタントコーヒーを入れると、出しやすく、管理しやすい。
メルカリで商品を売るときには、商品の下にきれいな布やセーターをひいて、できたらアクセサリーなどを添えて、写真写りをよくすること。

出産してから、妊娠前よりも足が小さくなって、24.5の靴がぶかぶかになって23のサイズになった。
足のサイズがこんなに変わるなんてびっくりした。

生活をしていると、いろいろ学べる。
いろいろなことに気付けたほうが、絶対にいい。
同じことを繰り返していると自分が嫌いになる。
だから、苦しくても訓練をして、修行をすることで、苦しさから自由になりたい。


願いは家内安全

昔はもと家族の健康を願っていた。
年末からいらいらしていた。もと家族は、イベントごとに、怒鳴り散らしたものだ。
仲良くしなくてはならない、きちんとしなくてはならない、理想に遠すぎたので、いらいらしていた。
焦りと後悔ほど無駄なことはない。
焦りは未来を先取りしようとするあまり地に足がつかなくなるし、過去を後悔すると、今を食べてしまう。

先送りするしか、対処方法はない。それは気休めではなくて、目が覚めたら、新しい抜け道を思い付く可能性にかけるということだ。

わたしは、気持ちが穏やかじゃなく、なにか焦っている。
でも、気晴らしにほしいものを考えたり、編み物をしようとしたりする。
それでも、もっとほしい、もっと早く作らないとと焦るには変わらないのだけど、比較的被害が少ない。
人に当たり散らすよりずっとましだし、あとで自己嫌悪しにくい。

今祈るのは、何者かになりたいというより、家族が平和に暮らせるようにだ。
昔はそんなこと、思いもしなかった。
堕落だと思っていた。

わたしは、受験に合格しても、喜んではいけないと言われていたから、なにか成功しても喜んではいけないという癖がついて、成功しても喜んではいけないので、努力にきりがなく、ずっと頑張り続けていた。

わたしの感情を奪った人は、絶対反省しない。
自分が被害者だと思っている。
だから、わたしが親に会わないのは、虐待をしてしまう人への親切だ。虐待しないですむ環境をつくってあげることが親孝行だ。

もと家族には家内安全がなかった。
今はわかるようになった。それが幸せ。


さみしくてさみしくてさみしくて、手を伸ばす

複数の人に自分の機嫌をとるのがうまいといってもらえたので、信じられないような、意外な気持ちになった。

わたしは暗い青春を送っていて、渋谷に買い物に行こうといわれても華やかな場所が怖いと断ってたくらい。
でも、ほんとはそういうところにいく人生がよかった。

さみしくてさみしくてさみしくて、夜に苦しくなって、そうなると変な人と関わるようになって、トラブルになることも続くんだけど、とにかく大量の人に話しかけて話してだんだん楽しいときも増えてきた。

失敗も多いけど、居心地の良い人間関係を知って、人間関係のことも学んだ。

さみしくてさみしくてさみしくて、どうしようもないときに、ああ、これがあるから人と関わる気になるんだなと気がついてから、だんだんさみしさを原動力だと捉えるようになった。

そして、長い時間をかけて、生活を整えることが、気持ちの荒れをケアすることになると気づいて、部屋を整え、風呂に浸かり、爪を塗り、髪をブローし、毎日洗濯して畳んでしまうようになった。

忙しければ忙しいほど、そういうことが必要なのだ。
忙しいと、できなくなるけど、できなくなるほど忙しいのは、キャパを超えてるから、忙しいこと自体をやめる。

セルフネグレクトをやめるためには、たくさんのことを学ぶ必要もあった。
でも、それもさみしさが原動力。さみしくなければ、自分の欠けている部分に気づかなかった。
手当たり次第になんでもためしてみるのは、さみしかったから。

助けになることがつらいとき、声をかけるだけでも、かけられるだけでも、全然違う。
なんにもできないなんてことはない。
できることがおもいつかないなら、一緒に考えればいい。
孤立せず孤立させない。
それが一番大事なこと。


週刊金曜日とゴヒエツコについて呟いたら凍結されました


ゴヒエツコと週刊金曜日の関与について呟いたら、一時的にですが、Twitterを凍結されました。

週刊金曜日とゴヒエツコの名前だしたらいけないの?
どこが悪いの?
プライバシー?裏工作の告発はプライバシー侵害よりも公益性のが高いでしょう。
どこに個人情報入ってるの???

週刊金曜日なにやってるの?

ゴヒエツコか、週刊金曜日かが、通報したとしたら、めっちゃカッコ悪いですね。

わたしはPTSD発症してますよ。
ゴヒエツコは被害者づらしてるけど、わたしのファンだといってきたんだし、わたしのこと、こういう人だと知ってたでしょ?
人に秘密をばらされたくないなら自分でやればいいんだよ。プロの文筆家のくせに、やることが稚拙。
わたしよりも歳上なのにね。