依存を超えて自分を生きる

山口達也と非生産(田房永子さん)

この記事を読んでいろいろと思うところがある。

わたしが真に困ったときに、贈られた言葉で「自分を生きてください」というのがあった。

「自分が生きる」が「自分を生きる」になったとき、自由になれますと言われて、心が強く動かされた。

わたしは、依存心の強い人間で、いろいろなものに依存してきた。人に依存したときは最悪だった。お互いに。

出産後、依存することが減った。過食傾向があったけれど、食べることにも依存しなくなった。

この記事を書くにあたって、「子供に依存してるのかな」とも思ったけど、それも違う。

ということを書こうと思う。

以前、田房永子さんの「キレるわたしをやめたい」について「この場面はキレていいと思う」という感想を書いた。それは今でも変わらないんだけど、産後「キレる」ということが増えた時期があったので、「このことを言っているのか」と思った。

たとえば、哺乳瓶を洗っていると、頭の後ろのほうで、パンっとなにかはじけるような感じがして、そのまんまキレてしまう。

怒鳴って、伴侶をたたき起こす。何やってるんだよ!と。

それで、いろいろ対策した。

振り返って、スローモーションで再生すると「頭の後ろのほうに白い塊がわく→それが破裂する」の間には、「なんでわたしばっかり」という気持が隠れていて、その気持ちが「今もそうだし昔もそう」ということを訴えていた。

生まれたときからの恨みがそこにあった。

生まれたときからの恨みを解決するのは難しいので、「わたしばっかり」と思ったら、とりあえず、それをするのをやめようと思った。

キレて家がぐっちゃぐちゃになるまで泣くより、わたしが育児をしないほうがましだという言い訳もあったけれど、それより、恨むくらいならやらないほうがわたしのためだと思ったから。

ましだからだとかなんとかとか、人や自分に言うための言い訳もやめたかった。

わたしがしたくないからわたしはしない。

そういうシンプルなことが大事だろう。

実際には、子供の世話をしたくないといっても、それを代わってくれる人がいないと実行できない。だから、伴侶に頼んだ。

それ以来あまりキレていない。

だから、そういうことなんだろう。本当はしたくないのにしなければならないからしている。だから、しなくてもいいように状況を整えて(そうすることで責任を果たして)、しない。

伴侶には負担をかけて申し訳ないと思うけれどキレたってどうせ負担はかけるから、彼が嫌になったらその時話すしかない。わたしはどうしたって、わたしでしかないから、恨んでキレるか、恨まないで生きるかしかない。

それでも暑い日にはキレることもあるので、キレそうになったら、薬を飲むようにしている。漢方薬も飲んでいる。効いていると思う。

依存をしているときは、単調な刺激をひたすら摂取して、脳を使わないように、刺激で満たして、時間をショートカットしている。幽体離脱と同じだ。今を生きていない。だから、そういうときは、生きている実感がないし、時がたつのがとても早い。それで、自分の人生がいつの間にかまた知らない間に失われてしまったと嘆いて、また恨む。自分の人生を親とか子供に盗られてしまって自分のしたいことができてないと言って恨む。依存しているときにはそれに夢中だから何も考えなくていい。考えているつもりだけど本当の意味では考えていない。

「考えるのをやめる」ことと「依存をやめる」ことは似ている。

考えることをやめるのは思考停止みたいだけど、思考することで生きるのをやめるという状況がある。それが依存。食べることを考えていて食べていてどう食べるかいかに食べるか、それしか考えていない時って、頭使っているようで使っていない。食べることで生きている感覚を取り戻し、そして、食べることで思考をマヒさせる。

だから、食べることについて考えることを止められてようやく生きるみたいな感じになる。

食べることばかり考えているときとか、あと何時間したら睡眠導入剤(以下睡眠薬)を飲めるかだけ考えているときは、生きてはいるけど人生を生きていない。「わたしを生きて」はいない。人生がつらい時、ひたすら睡眠薬を飲める時間を待っていた。睡眠薬を飲むとぼんやりするから。そのぼんやりを「思考が研ぎ澄まされている」ように錯覚しているときもあった。別に何でもいい。睡眠導入剤じゃなくても、過食でも、なんでもよかった。

 

自分が人生を生きなきゃ死ぬってことが本当に腑に落ち始めたのは、五年前が始まりだったと思う。それまでどうやっても無理だった。親を捨ててからようやくやめられた。それまでは「自分で好きなように人生を生きるのは親に悪い」と思ってできなかった。親と縁を切って親に対して理由を説明しなくなってからよくなった。理由を伝えて説得しないといけないと思っていたから、依存しないといけなかった。説明をしなくてはいけない立場は常に弱い。

わたしの親は「理由」をとにかく求める。納得しない。だから、いつも理由を考えて行動していた。そういうのは、わたしのためじゃなかった。親はわたしのためだと言っていた。でも、わたしのためにはなっていなかった。

 

自分が自分を生きないと人生はこのままなくなる。もうすでに30年なくなっていたのに!なくなってしまった!親を許せない。苦しい。憎い。殺してやりたい。

という思考と、

親を許せないが、過去のことを反芻していたらさらに現在が失われる。

という現実の間で五年間苦しかった。どちらも本当だった。

 

親を許せないという気持ちを紛らわせるためにライフステージを進めることが必要だった。友達を作って、居場所を作って、お金を稼いで、伴侶を得る。生活の基盤を確保する。根無し草にはもうこりごりだ。根無し草のままだと子供として扱われて親に入ってこられてしまう。

そういう危機感があった。こんなに明確に思ってはいなかった。明確に思っていたら、相手に悪いと思って、行動できなくなっていただろう。

幸い、みっともないことをなりふり構わずした結果、伴侶を得て、生活の基盤も落ち着き、子供も授かった。

子供を見ていると、子供は成長しようとする方向性を持って生まれていることが分かる。成長は親と距離を広げるということだ。成長すればするほどどんどん離れていく。胎児から新生児、新生児から首が座り、寝返りができ、腰が据わり、ハイハイをする。抱っこする時間がどんどん減る。向こうから来たいときに来る。ハイハイし始めてから、一人遊びの時間がどんどん増えた。子供が親と距離を取るのは自然なのだ。生まれたときから決まっていることだ。それが腑に落ちた。

わたしは、親と別の人間だったのに、侵入されていたから、バランスをとるために、依存をしたり、体や精神のバランスを崩した。親がいなくなれば、原因がなくなるので、元気になった。

依存は生き延びるための手段でもある。依存症や、病気になるから生き延びられるということもある。でも、その生き延びるための手段を捨てて、生き延びる以上の生き方をすることもできる。

 

 

わたしは、田房さんという作家に特別な思いを抱いている。

同世代の似た属性の作家さんだから。

そういう、関係あるような関係ないようなことを考えてこの記事を書いた。

 


【女装して一年間暮らしてみました】の裏切り【感想】

ふむふむと読むことができる部分があったけれど、最後に残ったのは落胆だ。

男が女装をするとき、そこには選択肢がある。

女にはない。女は嫌になったからと言ってやめられない。男が女装して女として暮らしても、止めることができる。

わたしたちは、スカートや下着を楽しむことができる一方、それを拘束着としても感じる。

ハイヒールは痛い。したくてするのと、したくないのに、義務や圧力からするのとは違う。目立つと、たたかれる。自分を表現する服装にたどり着くのは難しい。わたしにとって、女の格好をすることは、自由を獲得する行為でもあるが、その一方で、圧力によって装うからだ。

男の服装は、彼の言うようにシンプルだ。ズボンを履いてシャツを着て、ジャケットを着れば事足りる。

女はそうではない。爪が引っかかれば一瞬で破れるストッキングは一枚500円で、それを穿かないとマナー違反だと言われる。

はきたくてはく人もいるだろうが、そうじゃない人もいるのだ。

最後に、女性が変わるべきだと、メッセージを送って、女装をやめたくだりには、失望した。失望、がっかり、一年間してみて、その感想だったのかと。

男が女性に持つ妄想と、女が男に持つ妄想と、どちらがきついかと言えば、男の持つ妄想のほうだ。男は、女の体を扱う時、「女は痛みを感じない」という前提で触れることが多い、わたしはそういう経験をした。

たしかに、女が男を人間として見ないで、「理想」の型にはめることはある。

でも、男だって昼は処女、夜は娼婦みたいな妄想を持つ。どちらが有害か。

彼は、女が男に対する妄想をやめればいいというようなことを言った。そこから男は変わると。男は変わりたがらないからと。

それはとても卑怯だ。彼は、性暴力の被害に遭った。女の姿をしたら、どれだけ暴力にさらされているのかわかったはずなのに、「女に変わることを求めた」。

男は変わる気がないから、変えるとしたら女が変わるべきだと。

では、あなたは男ではないのか。男として、男を変えることができるはずではないのか。女が男を変えるよりも、ずっと楽なはずだ。なにしろ、彼は男の中でもエリートで、男に対する影響力があるから。

女には、男に対する影響力はない。

女装は、女にとって、楽しみである一方、苦しいものでもある。

それを彼はごまかした。

彼の中の女の部分を大切にして、彼が解放感を味わい、本当に生きる実感を得たのは素晴らしいことだと思う。

でも、たった一年間でなにがわかったんだろう。

上澄みだけ。

男が女を人間として扱わない経験を彼はした。男友達は失せ、暴力にあい、軽視された。

男が女を人間として扱わないのに、どうして、女が男を変えることができるんだろう?

こちらが何をいっても、人間がしゃべったと思ってももらえないのに。

生まれてからこのかた、女として扱われることが、どれだけつらいか、彼はたった一年で音をあげたことからもわかるだろう。

彼はそれをわかっているのに、女に変われと語った。欺瞞だ。

彼は、その経験を持って「男」にアプローチするべきだった。

女に語るのではなく。彼はきっと、女に語るほうが負担がなかったのだ。

女の姿をしている間、男に暴力を振るわれたから。それで、簡単なほうを選んだ。

わたしは、だから、読後、騙されたような気分になった。


「キモイ」は女の武器になる言葉

女には拒絶の言葉も罵り言葉もない。

言葉がなければ、従順に、なにかも受け入れらしかない。Fwordがないから、素早く罵れない。

女は、怒ってはいけない、乱暴な言葉を使ってはいけない、という抑圧がある。

「やめろ」ではなく、「やめてください」と頼まなくてはならない。

もし、「止めろ」と言ったら、「非常識で同情できない」と言われる。

「キモイ」という言葉は、感覚的な言葉だ。

男の言葉が「理屈」「説明」的な言葉だとすると、対極にある。

だからか、男は「キモイ」という言葉を嫌う。キモイと言った女性を、頭が悪いと非難する。男への差別だと言ったり、フェミニストが罵倒語を使うなんて、と言ったりする。

説明をするのは男性の文化だ。彼らは、感覚的なものをバカにする。説明しろと強いる。

それを無化する可能性があるのは「キモイ」という言葉だ。

相手に、やめてくれ、こういうことはしないでと懇願せずに、使える、唯一の拒絶の言葉だ。

キモイという言葉は、時として「相手を理解しようとすることをしない最低の言葉だ」と言われる。

でも、考えてほしい。男たちは、こちらの「キモイ」という言葉を理解しようとしていない。経緯も払っていない。

キモイと言われた男は逆上する。自分を虐げる女という風に認識する。

ただ単に拒絶しただけなのに、被害者みたいなことを言う。胸糞悪いことに、フェミニズムが連綿と紡いできた言葉を盗んでまで、否定する。

女には乱暴な言葉が許されてない。もし、乱暴な言葉を使ったら、物理的に、攻撃されることだってある。

「キモイ」という言葉は、数少ない、「お前には用はない、お前はわたしに近づくな」という意味を持つ言葉だ。これは、女の言葉だ。だから、男は否定する。

わたしたちは、相手を理解しなくていい。ずっと、わたしたちは、男を理解しようとしてきた。でも、男が女を理解しようとしてきただろうか。

お前を理解しない、とわざわざいう必要もない男と対照的に、女はずっと説明しろ、わかるようにしろと言われてきた。その「わかるように」のゴールは、男によって、位置を変えられてしまうから、相手を納得させることは構造的にできない。

相手は理解したくないから、ゴールの位置を勝手に変えてしまう。

それを防ぐのは「キモイ」という言葉だ。

お前はキモイ、だから関わるな。そういう意味がある。

だから、キモイという言葉を、わたしは悪者にしない。

丁寧な言葉で説明して、こちらの領域を侵害され、攻撃されてきた。それをはねのける言葉が女にはなかった。

キモイ、という言葉は、その始まりだ。わたしは、キモイ、と言う。相手を理解することを拒む。相手には私に対するリスペクトがないのだから、わたしもリスペクトを持たない。


生産性の中に出産育児家事は含まれない

出産なんて生産そのものだと思うけど、世の中の人が「生産性」というとき、出産は入っていない。それどころか「生産性を落とす理由」として語られるくらいだ。

出産、育児、家事。それらがないと、誰も生きていられない。存在しない。

それが生産でなくて何なのか、と思うけど、「報酬が生まれるものを生産と定義しましょう。ちなみに、何に対して報酬を出すかはこちらが決めます」ってされちゃったばかりに、今のところ、出産には報酬が出ないので、出産は生産として認められない。

誰が評価するのか、ってことが、「透明」になっているうちは、「その誰か」は批判されない。批判する人たちは常にいるんだけど、その人たちは「反社会勢力」っていわれる。

まあ、実際、社会の成り立ちがおかしいって言ってるんだからおかしくないけどね。


子供はエヴァンゲリオンの気持ち悪さを理解できない

14歳のころ、エヴァンゲリオンが放送されて、「なんかかっこいいアニメ」と呼んでいた。ロゴが読めなかったからだ。

テレビ放送時の紙芝居のもみたし、えのぐをぐちゃぐちゃ塗ったみたいなバトルシーンも見た。

ミサトはなんかエロかった。

でも、今見るともうミサトが無理すぎる。

ゲンドウがミサトに命令して、ミサトはシンジと暮らす。

ありえないよね、上司と部下が一緒に暮らすなんてさ、しかも大人と子供だよと高校生に言った。

高校生は言った。

「気を使うからダメってことですか?」

あー、まだ、こどもだからわからんのか、と思った。

「学校の先生がある日、おまえんち住むわ、つって来て、裸でビール飲んで、お前家事が下手だとかあれやれとか言った挙句に、キスしてきたらどう思う?」

と言ったら、え、そんなんありえないですキモイ、ってかえってきた。

そーだよね、それを仕組みとして作ったのは大人のゲンドウとミサトなわけよ、シンちゃんはずっときもいけどあれはあの子の生じゃないわけ、仕組みとして公私混同があるんだよ。

ゲンドウが命令して評価する。評価するのは数字だけ。

だから、チルドレンたちは、適応しようとしてえ、レイはいちゃつくし、シンジはお父さんお父さんいうし、アスカは優秀であろうとする。

どういう適応の仕方として現れるのか、が個性になるんだよね。

でも、基本は、ゲンドウが悪いって構造があるんだよね。そこで、子供たちがどういう風に動こうと変わらないんだよね。大人が悪いという構造があるんだよ。構造を作って評価軸を作った大人がいるんだから。

という話をしました。

キモイ、気持ち悪いって言葉は何かと批判される。

それは、感覚的な言葉だからだ。

でも、その感覚にはとても大事なことが含まれている場合がある。

言葉で説明しろ、説明しろと追い立てられる側と追い立てる側の非対称を突き崩す可能性のある言葉だと思う。

追い立てる側が、キモイと言われてダメージを受けるのは、それまで、優位だった関係が壊れるからだ。

一方的に説明しろ、と言えていたのが、言えなくなるから、反逆として感じられるのだろう。そして、その感じ方は正しい。私たちは正しく攻撃している。


ナショナリズムとグローバリズムが結びつく理由

ナショナリズムとグローバリズムが結びつくのはおかしなことだと思うかもしれない。

グローバリズムは、個人と世界を直接退治させるものだ。

わたしたちは、まず、個人であって、そのうえで地域社会や家族というコミュニティの一員として、役割を持ち、アイデンティティを確立する。

でも、その中間の社会がなくなってしまうと、もう、アイデンティティを保証するものが、記号的な「日本」しか残らない。

たいていの人間は、世界の六十億人のうち、何位くらいの能力の持ち主だ、と突きつけられることを好まない。そして、耐えられない。

だから、自分にカバーをかける。

日本=(イコール)自分にする。そうすると、自分が傷つかなくなる。どういうことかというと、まず、自分の失敗や、「できなさ」は、日本という大きな記号によって見えにくくなる。

そして、「日本スゲー=自分スゲー」が成り立つと、自分が何もしなくても、自分がすごいように思える。

例えば、日本の結弦スゲー=日本の自分スゲーにもできる。努力したのも、結果を出しているのも結弦だが、そこの過程なしに、自分の鼻の穴を膨らませることができる。

逆に、このことも成り立つ。

「日本を批判=自分を批判」

日本が批判されると、自分が批判されたように感じる人はとても多い。それは、不断「日本スゲー=自分スゲー」にしている代償のようなものだ。

わたしは、自分が生きているうちに「反日」という言葉が、死語じゃなくなるなんて思いもしなかった。

そして、これは、

「日本の誰かが失敗したとき=日本の失敗=自分の失敗」にもつながるから、「あいつは、日本人じゃない」となる。

「普通」を「健康な男性」に設定すると、それ以外の人間は「普通」じゃなくなる。

でも、あいつは「普通じゃない」「日本人じゃない」ということをやっていると、なんだか、「自分がすごい」と思えるんだろう。

でも、これには、やっぱり代償があって、「普通」を「いいこと」と思うと、ちょっとでも瑕疵がある人を「あいつは普通じゃない」としていくので、「普通の世界」にいる人が少なくなってしまう。普通の世界にしがみつくのに必死になる。

普通基準は普通じゃない人を普通になれという圧力としても働くし、普通世界にいる人を追い立てもする。

人を数字以外で見ると、「痛み」というものが大切になる。

何がその人に盗っていたいのか、どこからが痛いのか、というのは、人の輪郭をくっきりさせる。

ナショナリストはだいたい人の痛みに疎い。

それは、自分が「日本スゲー」の陰に隠れていて、日本を批判された=自分が痛いになっていて、痛みがあやふやになっているからだと思う。

自分の痛みを認識して、初めて、自分と他人の区別がついて、そのあと、「他人も痛い」ということがわかる。

ナショナリストはその段階に至っていない。


太った私は、とても醜い……だろうか。

今日一日具合が悪くて、寝床から出られず、そこから赤ちゃんを見守っていた。

精神安定剤を飲んだら、体の緊張が取れたのか、冷や汗が止まり、動けた。

それでも「シミがあって太っていて、こんなに醜いのだから人に会いたくない」という気持ちは消えなかった。手も、きれいじゃない。美人の手じゃない。

消えてしまいたいと思う。

わたしは父に会うたび、挨拶もせずに「また太った?シミがひどくて汚い」と言われた。

わたしは、そんなに気にしていなかったけれど、絶縁した中学生の時の同級生もシミがひどいと言ってきた。

シミを気にする人は合わない、だから、絶縁したんだけど、こだまのように、思い出されて、わたしを苦しめる。

シミがあったからといって、別ん誰に迷惑をかけるわけでもないのだけれど、それをわざわざ言ってくる人がいる。何も考えていないのだろう。それか、わたしを傷つけたいんだろう。肉体的な特徴をわざわざ私に告げたとしても、わたしにどうすることもできない。そんなことは考えればわかるが、考えなければわからない。考えることが面倒な人は考えないので、考えないで、言う。

考えない人のために、わたしの人生は、困難なものになった。

何をするのにも、否定的な言葉がよみがえる。

わたしは父に、老人はんひどいね、デブだね、口臭ひどいね、とは言っていない。もうすぐ禿げそうだし、本当に醜い生き物だね、とは言っていない。

そういう人は、自分が言われることは想定していない。

わたしに対して、シミがひどい、センスが悪い、だからあなたはだめなんだ、と一言目に言う人は、別にきれいな人じゃなかった。

でも、わたしは「髪が薄くて、みっともないね、痩せすぎだから醜いし、あなた、評判すごく悪いよ。けちだし、常識もないしね」とは言ってない。

こういう風にふるまったほうがいいですよ、普通の人に合わせたほうがいいですよ、みんなこういってます、という人もいるけれど、わたしはそういうのを聞くのもしんどい。知りたくない。

わたしは、わたしのやりたいことを邪魔されるのも指図されるのも嫌いだ。自分を大事にするほうがいいとか、だから、言うことを控えるべきだと言われるのも不愉快だ。

そういうのは、はっきり言えることが多いのだけど、美醜に対しては、そのまま受け取り、苦しくなってしまう。

ほかにも、あなたはこうだから駄目だ、というのを素直に聞いて、悩んでしまう。

そういうのもやめにしたい。

別に太っていて醜いおっさんなんて山ほどいうけど彼らはそんなこと気にしていないし、気づいていない。言われることもないんだろう。

それがうらやましいとはちっとも思わないけれど、鈍感だと生きやすいんだなと思う。

鈍感になりたくない。わたしはわたしでいたい。それなのに、太っていて醜い、だけで、消えてしまいたくなる。ふっと死にたくなる。


大学受験は難しくなる

今年は都市の大学の定員の規制のため、明治を筆頭に、とにかく難しくなった。

早慶東大などのトップレベルを受ける人については何も変わりはないが、それ以下の大学が非常に難しくなった。

Marchを受けるよりも、地方国公立のほうがずっと入りやすい。逆に言えば、地上の大学は今お得に受けることができる。

都市の大学が難しくなったのは、定員数が減ったこと、受験方法の多様化によって何度も受けられることがあげられる。

二十年前は、滑り止めを含めて、三回受験すれば多いほうだったのが、今では、似十回受験する人も珍しくない。同大学の同学部を受けるだけでも五回のチャンスがある場合もある。そうすると、定員数に対して、受験人数が跳ね上がるので、結果的に偏差値が上がってしまう。偏差値が上がると、「偏差値が高い」から受ける人たちが殺到する。

日東駒専はもはや滑り止めの大学ではない。

センター利用で明治大学を受けた人は、8割でも落ちた。合格ラインは、8割五分らしい。それだけ取れれば、東大も入れてしまう。

 

大学進学を機に、地元から出るのが最終チャンスの地方に住んでいた人には、あまり良い情報ではない。

都市に行けば、広告を含めて、多くの情報に強制的に触れて、どんなものがあるか知ることができるから。学生時代という短い間だけでも、都市に住むのには意味がある。

ただ、大学に限って言えば、偏差値によって大学の質が大きく変わることはない。

学生のレベルが変わるだけだ。

偏差値が低くても、親身になって育ててくれるような大学を探して、入学するのもとてもいい。都市部に集中しているということは、それ以外の大学に入りやすいということだ。

視点を変えれば、いい面もある。

決してあきらめず、これからの一年を頑張ってほしい。

大学の考え方をよく調べることが大切だ。


zozosuitの衝撃

ゾゾスーツは、アパレルの常識を変えるだろう。

なにしろ、ボディのデータが、その人の年代、ブランドの好み、いくら服に使うのかの情報とひもづいて、手に入るのだから。

今まで、洋服は、ブランドが手探りで、サイズやパターンを作ってきた。

それがどうだろう。

今後は、手探りじゃなくて、実際のデータが手に入るのだ。

ゾゾスーツが、伸縮センサーじゃなくて、ドットを読み取ることにしたのは賢い。

センサーはバラバラにして盗まれる。そして、Bluetoothの規格が変わったり、壊れたりしたら、そのコストがかさむ。もちろん、センサー自体も高い。だから、先の見通しが高い。

それを、スマホでの写真で位置情報を得ることにしたのだから、ゾゾスーツはこれから、世界中に、いろいろな分野に進出するだろう。

医療の世界でも役に立つだろう。義肢にももちろん使えるばかりではなくて、手術するときにも前もって体の情報が分かっていたらきっと便利だろう。

ベーシックアイテムを網羅すると言っていたので、ユニクロはかなり危うくなる。

各ブランドは、顧客が実際に求めている服を作るために、スタートトゥデイと提携せざるを得なくなる。そこから入る収入もかなりのものになるだろう。

既存の技術を組み合わせて、安価で新しいものを作る。素晴らしい。わたしにもっとエンジニアとしての力量があったら、絶対に参加したい企業だ。

服の解放だ!

わたしは太っている。鏡を見るとうんざりする。でも、服の厚み、パターン、ラインによっては、ずいぶん印象を変えることができる。印象を変えると、自信がついて、太っている自分も悪くないと思える。

服というのは、自分に対するイメージを変えるものなのだ。自信を持たせ、人生を明るくする。

三十代以降の女性は、体の形が多様化する。

入ればいいと無理やり押し込んでいる人もたくさんいるだろう。

それが変わるのだ。

おまかせ便の精度も上がるだろう。

あれはとてもいい。勉強しなくても、トレンドあった服を提案してもらえる。実際、段ボールを開けるときには、クリスマスのプレゼントを開ける子供のようにわくわくしている。わたしのために選ばれた服!わたしが知らない世界への扉。

すでに二回、お任せ便が届いた。

一回目はパーフェクトだった。体のラインをきれいに見せ、わたしが買おうと思わない、けれど、自分を美しく見せる服が入っていた。

二つ目はがっかりだった。選ぶ人の力量によるのだとわかった。

今まで販売員として、安く使われていた人に、雇用の可能性が増える。

店頭に立たなくても、服を提案するセンスが、この先必要になる。

世の中が激しく変わっている。今まで評価されていなかったものが、お金に代わる。

たいていは、人間でしかできないこと、つまり、センスが必要とされる。

服の販売員は、今まで、その力を安く使われていたと思うけれど、服の知識や、選び方、イメージする力が、これで生かされる。

その多くはきっと女性だ。女性が家でできる仕事が増えた。

これも喜ばしい。スタートトゥデイの社長は、高卒で、それから企業をしたそうだ。

システム屋さんなのかなと思う。


【母からの解放(著:信田さよ子】感想~母のなかったことにする力

読んでいると実家にいるときのことを生々しく思い出して何度か叫びそうになりました。社会構造から母娘問題を読み解く本です。今回は具体的な解決方法が載っていました。

 

母は、「なかったことにする力」で世の中を渡ってきた、だから、その力には勝てない。謝ってもらおうとか、理解してもらおうと思えば、距離が縮まってしまう。

そのことを、「わかってもらおうと思うは乞食の心(田中美津)」を引いて説明しておられ、フェミニズムから見た母娘問題の本として、優れています。

虐待と毒母の違いは「虐待は客観的に判断できる指標がある。毒母は母が重いと思う娘の主観的な言葉」という定義づけが改めてされており、「毒母という言葉で、母親が追い詰められてはならない」と明言されていました。

主観的なことは、劣っているという意味ではありません。

力強く、自分に何がありどう感じたか、表現することができるのは、それはそれは大切なことです。すべてのスタートと言ってもいい。

男性は、それを軽んじます。わたしは、主観を大切にします。

気持をなかったことにされてきた娘たちにとって「母が重い」「毒母」という言葉は、発明でした。その言葉を手掛かりにして、自分の気持ちを発信できたからです。

社会の矛盾のしわ寄せとして母娘問題があり、だから、娘の声は社会にとってないものとしてきたほうがありがたい。社会や母、父は、ハッピーな加害者だからです。

彼らは、今のままが幸せです。だから、現状に異を唱える者が邪魔です。なので、その「異」をなかったことにします。そうしたら、丸く収まりますから。

だから、彼らにとって「邪魔」になる言葉は、わたしたちにとって有益なわけです。彼らが邪魔だと言ってきたら、効果があるということです。彼らにとって、痛くもかゆくもない言葉には力がない。

母親と友達になれるか?を基準に考え、もし、できないのならば、その関係は母の意向だけでできあがっている、もし、そこから距離を取りたいのならこうする、という距離の取り方が具体的に書いてあります。

何をされて、自分はどういう影響を受けたのかを明確にし、言葉遣いを改めて他人のように接する。家庭内別居ができるのだから、と、貧困ゆえに実家から出られない人も母親と距離を取る方法も記されていて希望が持てます。

実家を出ればいい、とさんざん言われてきましたが、病気や障害、支配によってエネルギーを確保できず、実家から出られない女性、非正規雇用も三分の二に届こうかというご時世ですから、お金がない女性、いろいろな人がいます。そういう人たちが無視されていないのはとても心強いと感じました。

「なかったことにするスキル」「聞こえないスキル」「自分の矛盾に疑問を持たないスキル」が彼らにはあって、そのため、彼らは自分たちのダブルスタンダードを維持できます。

聞くことができない、理解することができない、のではなくて、彼らは「理解したくない」「聞きたくない」「無視したい」と考えて実行しています。

それを、わたしは今まで「理解できないならわたしの努力が足りないのだ」と解釈してきましたが、そうではなく、彼らは「理解したくないのでそれを実行している」だけなのです。

そして、「理解できても、わからないことにする」ほうが便利なので、そうしています。彼らはしたくてやっているのです。したくないけど仕方がなくというわけじゃなくて、心からそう思っています。

現実を「見られない」んじゃなくて「見ない」「見たくない」んですが、そこを被害者や抑圧される側の人はまさかそんなことはないと思って、「理解したくない」ので、「話せばわかる」と期待しています。その期待は間違っています。彼らは望んでいないし思うとおりに行動しているのです。

 

わたしは、母を「助けたい」「救いたい」と長い間思っていましたが「彼女は好きでそうしている」のだとわかってからはだいぶ楽になりました。愚痴を言うような人生を送りたいと思っているからそうしているのだし、愚痴を言える先があったので幸せだったのです。そして、愚痴を言われるわたしは不幸でした。

わたしは「彼女を愚痴を言わなくて済む環境に暮らせるように変えたい」と思っていました。それが解決方法だと思ったんですね。でも、そうじゃなくて、わたしが変えられるのは「自分が愚痴を聞くことをやめる」という部分だけです。母はそもそも他人です。他人を変えることはできません。母を変えることができるとしたら「コップを外から揺らされたとき中の水が揺れるように」現状が動いた時だけです。愚痴を聞いている間は、コップは揺れません。

母は、言いたくて愚痴を言っているのですから、変えられるわけがないのです。

 

母や、差別者と話していると、こちらは疲れます。でも、あちらは疲れません。あちらは「言葉の遊び」だと思っていることが、こちらには差し迫った現実です。でも、加害者はハッピーなので、現実を知りたくはないのです。知りたくないから知らないのです。ここをわたしはずっと勘違いしていました。知りたいけど能力がないからできないのだと変換していたのですが、素直に受け取れば、できるけどしたくないから知らないでいたいだけなのです。

 

Twitterで見た言葉ですが「人殺しでも犯罪はよくないと言える」のです。だから、差別者や親が、いくら「差別はよくない」「抑圧はよくない」と言っていても、言葉だけだということを覚えておきたいと思います。差別はよくないと言っている分にはいい人だと自分のことを思えますし、まったく疲れません。でも、現実的に行動を改めるのは嫌なので、そういした言動不一致が取れます。

そこで「なかったことにする力」が発動するのです。こちらとしてはなすすべもありません。

引用

p196 女性である前に人間である

私たち女性は骨の髄まで女性なのではありません。男性と同じ人間です。人間というベースに子宮や膨らんだ乳房をはじめとした、女という属性がプラスされているのです。

~略~

いっぽうで男性は、男というより人間だと思っています。

~略~

たとえば女性から、「あなたも性犯罪者と同じ男性ですよね」と質問されたとき、彼らはどういう反応をするでしょう。「ええ? そうですね。同じ男ではありますね」と。冷静に応じる男性は、相当に考え抜いている人です。

多くはその質問をされたことに驚き、「あいつら、人間じゃないですから!」と、声高に性犯罪者の男たちをまず「人間」の分類から外そうとします。人間ではない性犯罪者対人間である自分、という構図にもっていこうとするのです。

男性はどうして、性犯罪者と同じ属性だということを認めることができないのか、常々不思議に思っていました。

そもそも、男性がジェンダー(男らしさ)を意識するのはそういう特殊な時だけで、ふだんはman-humanという壮大な図式の上に乗っかっていて、めったにジェンダーやセクシャリティについて考えなくていいという、とってもハッピーなひとたちなのです。これはとっても不平等なことじゃないでしょうか。

そして、ここに答えが書いてあったので、わたしはショックを受けました。

なぜ、あれほど、自分が男であり、性犯罪者と同じ男という属性を持つことをかたくなに否定するのかというと、彼らは普段自分を男だとわざわざ考えていないので、特殊な時に、性犯罪者という刺激的な言葉を聞いて、「自分は男だ、そして、男という属性は汚されてはならない」と反射的に刺激に対応しているのが分かったからです。あれは特殊な男で自分はそうじゃないと、分けたいのです。

たぶんですけど、「女にも犯罪者はいる」と言われたとき、女性の反応は「ふーん、そうだね、女にもいろいろいるから」って感じでショックは受けないと思うのです。

だから、「男性に性犯罪者がいるよね」と言われたとき「男性差別だ!」「同じように言われたらそっちも傷つくだろう!」と言ってくる人たちが不思議でなりませんでした。

「ハッピー」だから考えないし、考えないからハッピーなので、女性に「考えないほうがいいよ」と言えるわけです。自分が考えてないでハッピーだから。

因果が逆なのに、「女性は考えることでわざわざ不幸になっている」「自分は考えないからハッピーだ」と無意識に思っているのです。

女性が「考えざるを得ない状況」に日常的に

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女性は夜道を歩くとき、満員電車に乗るときなど、さまざまなシーンで女であることを意識させられます。それは強制されると言っていいでしょう。絶えず、被害を受けるかもしれないという防衛体制を崩せません。

というわけです。でも、それを男性たちは「理解したくない」から、「どうして女は自意識過剰なんだ」「男を犯罪者扱いするのは男性差別だ」といってくるのです。だから、わたしたちは「どうして理解できないんだろう?」と頭を悩ます必要はありません!理解したくないんだから、何を言っても無駄なんです。

フェミニズムについて、よく誤解されがちですが、敬愛する女性学の研究者が主張しているように「弱者の思想」だと私は考えています。弱者は弱者であることことで尊重される、弱者であるがままに生き延びることができる社会を目指す考えなのです。

と書いてあることに全面的に賛成です。

力の差があるのに、ないかのように扱う、現実を見なかったことにする、「娘と母」「女性と男性」の間にある、厳然とした力の差をなかったことにして、「気にするから存在するんだ」と言ってくる人たちが大勢います。

「気にするほうが差別者」と、言葉を投げられたことともあります。

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フェミニズムに触れ、母親も自分と同じ女性であること(共通のジェンダー)を見つめる必要があります。

わたしは、子育てをする中で、悩みます。同じことをするんじゃないかと。具体的に自分がどう育てられたか思い出します。

だからそれを一歩進めて、具体的に母親の謎を解き明かすことで、わたしは、母と自分を分けたいと思います。