フェミニストってなんだろうね

なんかしょうもないエントリ書く。
最初ブログを始めたときは、もう雑記で気楽に書いててツイッターみたいに。読んでる人も少なかった。五人とか。そんで、十人超えるとすごいって喜んだりして、はてなのグループに入って読み合ったり励まし合ったりSkypeしたりして、でもみんなもうあの頃の人やめちゃったのかな。さみしい。わたしがネットに物書くようになってなんと二十年だしもはや。
ダイアルアップとか夜十二時からテレホーダイしたりОSをフロッピーで何枚も使ってインストールしたりしたよ。途中で落ちて泣いた。そして、二十四時間を何回か。そして、PC98じゃなくてWindows買ったから周りにはなんで珍しいねって言われたけどなんでってわたしゲームしないし。14万円した。
ぴーごろごろって言ったりとか、ICQとかの音とか幻聴する今はほんとにあの頃わくわくした。

今はツイッターもしんどい。
ゴヒエツコがわたしに近づいた理由は「フェミニストで同じ性暴力被害者」だからってはっきり言っていた。
そして、今だってわたしは「卑怯者」「卑劣」「嘘つき」「もう信じられない」「著作権侵害」とか言われている。
週刊金曜日もわざわざDMで連絡したならスクショ使うなってはっきり言えばいいじゃんね。
拡散されてちょっとおいしいとは思ったんでしょう。

すごく失望したのは、そのころ相互だったフェミニストがわたしを責めたこと。
性暴力被害者に対してひどいとかね。わたしに対してメンヘラとか、きちがい、発達障害だから人の気持ちがわからないとか言っているほうは、責めないで、わたしを責めた。あいつら人間の屑じゃねえの。
わたしも性暴力被害者だしその経験を利用された挙句ひどい言葉を投げかけられて死にそうだけど死にそうなわたしに追い打ちをかけたのはフェミニスト。フェミニストじゃない人は関心ないし。それか、議論に使おうとするか。
あのさ、わたしは題材じゃないんだよね。わたしを使って議論するなと言って書いたらもうみんな静かになる。根性ねえな。実はあまりみんな頭よくないだろう複雑なことを考えられないだろうそして立場のことを先に考えるんだろう。
それか最初から最後まで黙ってるの。

シーン。あれ、透明人間かなみたいな。
気の毒だと思いますよ、とか、ゴヒさんはその件については謝ったほうがいいでしょうね、とかね、言われてもあんた何様かよ、バカにしてるのかと思った。あんたどういう立場で言っているのよ、お前死ねばいいって思ったけど言わなかったからすげーえらくない?

あの頃、ブログのアクセス数が一日1000から3000があって多い時は一万アクセスが普通だった。はてなのトップに連続四回載ったりしたし。いろんな人が励まされたとか感動したとか言ってくれたり、逆に誹謗中傷されたり、近づく人がいたり離れたり。

まあでもね。あのゴヒエツコを責めた後。
不自然なくらいみんなシーンとして。そんで、ツイッターで相互フォロワーだったフェミニストとかもわたしをブロックした。
フォロワー数が多いフェミニストほど不穏な動きというか、それまでリプライとかしてたよね?みたいな人がさっといなくなった。
わたしのブログにブクマしたり引用してツイートしてたりした人がぜーんぜん無視するようになった。
すごいがっかりした。というか信じられなかった。まじでなのなんでなの、あんたたちどこいったの。
ゴヒエツコのことはまあどうでもいいというかあの人はあの人の事情があるし言いたいことがあるのに言わないで外堀埋めてったりプロパイダ開示請求したりはてなから追い出したりツイッター凍結させたりよくもまあそんなにできるねと思う。
そういうのからわたしを守る人はいないけど、政治がうまい人というか人間を支配するとかコントロールするとか人から守られるのが得意な人はいてわたしはそうじゃない。
あの頃からわたしは全然変わってない。

わたしのブログに感動したとか力をもらったとか重要な指摘だとかなんとかかんとか言ってた人はどこにいったんですかね。
なんか心に穴が開いたみたいですーすーするというか。

政治的に同じ主張を持っていても人間としては全然信用できない。フェミニストだからって素晴らしい人でもなければフェアでもない。そんなんわかってたつもりだったのに、軟弱なわたしは打ちのめされた。
わかりやすい敵みたいな人には心構えができていても、フェミニストにはできてなかった。

こういうことを書くと、アンチフェミニストに利用されるとかそういうのも考えたけど別に利用したい人はとっくにわたしを利用していて、わたしは自分でもバカみたいにいまだにフェミニストを名乗っている。連帯も裏切られてもう信じられないのにね。
フェミニストが一人一派だってこういうことなんでしょう。分断ってこういうことなんでしょう。だから、フェミニストは一人きりなんでしょう。

だから、わたしは沈黙するフェミニストのことを全然賢いとは思わないし浅薄で薄情でどうしようもないと思う。でもアンチフェミニストにはならない。ただすごくがっかりしているししんどいしなんだかね。
わたしは自分が利用価値のある人間だと思ってなかったけどあの時のわたしには利用価値があり、今はない。すっげーわかりやすい。

ツイッターフォロワー多い人ってあれだよね、単純に物事を考えすぎて表層的で、でもだからこそ断言するから気持ち良いから、乗っかる人も増えて、そして、人に受ける言葉もわかるしで、そうすると、自分のちやほやされる立場みたいなの失うのが怖くなるんですかね。全員とは言わないけど。

わたしにはできることやりたいことがまだまだあるから死なないけど死んでもおかしくないというか、わりとずっと寝たきりだし。ひどいよね、二年たったけど、ようやく、本を読めたんだよそれまで読めなかったのあれだけ読んでたのに。一日二冊とか三冊読んでたのに、毎日一万字とか書いてたのに、読めないし書けないし、働けないし、一日五時間くらいしか起きられなくなった。二年間だよ二年間、ずっと良い時で五時間起きられる跡は寝てる、寝ながらわたしの人生って何だろうと思い続けている。無為に終わるのかなと思うと心から血がビューって出る。本も読めない映画も見られない字も書けない。地味に困ったのは書類を開けなくなったこと。心から血がビュービューで続けたら失血死するんじゃなかろうか。弱って。あのね、わたしが死んだとしたらみんながわたしを殺したんだよはっきり書いておくけど。絶対お悔やみとかいうんじゃねえよ、「お前がわたしを殺した」んだからな。

「もうわたしなんて生きてても仕方がないみんながわたしをいらないと言って殺してもいいと思ってるし関心がない死にたいしなせて」というと伴侶は泣きそうになる。僕が死ねばいいという。
夜中の三時から目が覚めて止まらなくなることもあるしか呼吸にもなる。
それね、ゴヒエツコはじめとする、無言のあんたたちのせいだから。
今まで「感動しました」「救われました」とかいっていたあんただよあんた。
あんたたちに殺されるの。

中立ぶってるやつもどっちもどっちとかいうやつも真正のバカだけど一番の真正のバカは「DM公開するなんてやりすぎ」とかいうバカね。公開しないとそもそもバカなお前が知ることにならなかったわけ。公開しなければ証拠がないわけ。
そもそもDMという密室を悪用したことも、訴えたいことの一つなわけ。
真正のバカは真正のバカだということを自覚して恥じて死ね。
まじで生きてなくていい、生きてるおかげでわたしはいたく傷ついた。お前がバカで思慮がなくて浅薄な人間だからだ。
脳みそも使えない上思いやりがないからだ。

この一連のことをを知っているのに黙っている人間は薄情で浅薄だと思う。どうしようもないと思う。
知らないで調べないでモノを言っている人間もずいぶん文章が苦手で読むのが苦手でバカだなと思う。
そんで、菅野完の味方でもないからわたしを利用するな。逆に、菅野完をたたくのにも利用するなわたしは関係ない。
わたしが知っていることで言えることは全部書いているから。

まあ愚痴だよね、わたしなんて別に知られているわけでも有名人でもなんでもないし、知らない人のほうが多い、このまま片隅にうずもれていてみんなあいつどうしているんだろうと思うことすらされない。
あー、でも数少ないネット上の友達(と言ってもいいのかな)はずっと気にかけてくれていて人というのは本当にふり幅が大きいと思う。
ねえ、あのさ、声の大きい拡散力のある人のついていくの楽かもしれないけどその人どこに連れていくか考えたことある?地獄かもよ。
そいつ自体もどこに行くのかわかってないから、地獄に行くとは言ってないんだけど知らないことって誠実だろうか、わたしは誠実であることがとても大事だからそうするけど大事じゃない人の行く末ってどうなるのまあ死ぬときに苦しんだってそれって一瞬だから人生の過程でいい思いしたほうがいいのかもしれないね、でも、それって底の浅いいい思いだよねいいもの食べていい服着ていい家に住んで人気者でちやほやされるくらいの人生って大したことない、そんなの一夜で吹き飛んでみんな地獄に落ちてしまえ。


自分にやさしい家事:家事は愛の作法の実践である


自分にやさしい家事”

 

具体的な実践部分もあります。片付けはどう考えるべきか、調理はどう考えるべきか。

ヘルパーさんは何をしてくれるのか?

どういう風に家事スキルを身に着けるか。

 

家事は指示出しも難しいです。

例えば、カーキ色のバッグとって、といっても、カーキ色が分からない人はそのバッグ探せないんです。

お皿洗って、といっても、お皿を洗う範囲が、「洗って、水切りにおいて、シンクを代吹きで磨いて、代吹きを洗う」ところまでなのか「

「皿は洗うけど調理器具は洗わない」

「皿調理器具を洗って、拭いてしまう」

ところまでする人なのか、相手によって違うし、スキルも違うので、他の味方も考えないといけません。

家事やケアをするというっ行為には、両面からの暴力性があります。

ケアをしろ、という強制も暴力です。

また、「ケアをする」ということは、相手を「矯正」することもできるので、権力になります。ケアと引き換えに取引もできる。

療育なんか、全部を否定するわけではないけど、「相手を思い通りにする」という意味では気を付けないといけない。

(今度そのテーマでも書きます。障害をどこまで「世の中に合わせる」か、慎重にならないといけない)

例えば、子供が風邪をひいても、看病をする、しない、で相手を支配できます。

強いように見える相手でも、食事の量や内容で支配できてしまう。

そういう面についても書きました。

一部引用します。

下記の分だけじゃなくて、

自分で自分の生活を工夫するということは、自分で自分をコントロールする、できるんだ、という自信を育てます。
家事とは思想の実践です。ルーチンワークでもあり、仮定を実践して変化する結論を試す場でもあります。家事について、誰もが何かの意見を持っているのは、生きる上でどこまでも軽視することができるからです。家事は、女性や子供の領域でした。わたしの祖父の世代のほうが、わたしの親世代よりも、男性たちが家事をしていたと感じています。家事を軽視することは、女性軽視が前提です。生産性がないという言葉は、お金を産まないという意味で使われてきました。家事の経済的価値が低いのは、経済的価値を設定する性別の人間が男性だからです。男性が「家事は価値が低い」と決め、女性にやらせて「女性は経済的に価値がない」「誰にでもできる」といって、その愚痴の捨て場所になっていたのがわたしたち世代だと思います。 自分にやさしい収納の続編です。 母達は孤立し、連帯することが「家庭」によって不可能でした。社会的な構造が、彼女たちを「自然」「健康」「子供の学歴」に走らせました。彼女たちは、自己実現を社会によって奪われていたからです。唯一、許されていたのが、「素晴らしい家事」をすることだけでした。

前編です。


新しい本を出版します。

  • 自分にやさしい収納の続編を書きました。
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    自分にやさしい家事: 家事とは愛の作法を実践すること

    次の金曜日から月曜日まで無料キャンペーンを実施する予定です。
    よろしくお願いします。
    出版したらまた更新します。


自分にやさしい家事

自分で自分の生活を工夫するということは、自分で自分をコントロールする、できるんだ、という自信を育てます。

家事とは思想の実践です。ルーチンワークでもあり、仮定を実践して変化することを試す場でもあります。家事について、誰もが何かの意見を持っているのは、生きる上でどこまでも軽視することができるからです。家事は、女性や子供の領域でした。わたしの祖父の世代のほうが、わたしの親世代よりも、男性たちが家事をしていたと感じています。家事を軽視することは、女性軽視が前提です。生産性がないという言葉は、お金を産まないという意味で使われてきました。家事の経済的価値が低いのは、経済的価値を設定する性別の人間が男性だからです。男性が「家事は価値が低い」と決め、女性にやらせて「女性は経済的に価値がない」「誰にでもできる」といって、家事をないことにしてきました。そうした価値観が、母親世代を追い詰めてきました。自分のしてきたことをなかったことにされることは、人生や存在をなかったことにされることと同じだからです。その愚痴の捨て場所になっていたのがわたしたち世代だと思います。

目次
前書き
無理をしない料理編
調理器具
皿など料理
非常食
食事の作り方
スープ
主菜
主菜洗い物台所の手入れ調味料
野菜の調理
実際の料理時の動き
だしの取り方
たんぱく質おやつ
オイルポット掃除
ごみ箱を減らす
フローリングワイパーの選び方
疲れすぎていて、モノの居場所を決めることができない時
収納の選び方
動線とは何か
洗濯
寝具の選び方
室内掛けのラック
洗濯用品
ネットショッピングのこつ
ネグレクトからケアへ
家事とは愛の方法を実践すること


自由は学ぶことで獲得できる

わたしは、学校の成績が思わしくない人と接点がなかった。
親は、とにかく、わたしを通して人生の実現を図ろうとしていたので、自分が成績が良くてうれしいとか嬉しくないとか考えるよりも、悪い成績を取ってはならないと思って生きていた。
喜ぶなとも言われていたせいもある。

それでも、わたしは本が好きだった。祖母がわたしのために本を買ったり、図書館に連れて行ってくれたりした。
影がどうして長くなったり短くなったりするの?と「影を盗まれた少女」という祖母が買ってくれた本を読んで疑問に思った。
どうして、1+1は2になるのか?

大学に入って疑問を持てることは素晴らしいと学んだ。
塾の仕事についてからもいろいろなことを学んだ。

最初の生徒さんは、中学二年生になって「I」が何を意味するか知らないくらいの学力だった。その子が
「教科書に何が書いてあるか知りたい」と言った。
わたしはひどく心を動かされ、かき乱され、とても崇高なものに触れたと感じた。それがわたしの原点だった。

彼女は豊かな世界を持ち、人にやさしかった。
良い大学に入る人は往々にして、「テストが得意」な人である。
テストが得意だということと、賢く、知恵があることは別なのだということ。

彼女はそれから頑張って、普通くらいの高校に入り、課目によっては学年一位すらとった。

テストが得意かどうかは、単に、運が良いかどうかくらいの意味でしかないと心から思った。

「知りたい」と思うことは、貴い。
学校教育では、興味が持てないことでも、多くの分野の知識に触れることに大いなる意味がある。
学校は素晴らしいと思う。
親がろくでもないとしても、学校に行ければ、その間は、「普通」の生活ができるから。

ただ、こぼれてしまう子もいて、そこは改善していかないといけないけれど。

わたしは、テストが苦手でも学ぶことが好きだと自負していたけど、本当にテストが苦手な子を見て、自分の狭さを知った。

ある子は「先生は怒らないで」と言った。
わたしはそれ以来どの生徒さんにも一回も怒っていない。
それは、その子の言い分に納得したからだ。
「先生が怒っても勉強しないし、怒られても成績は上がらないし、怖いと来たくなくなる」
ああ、その通りだなと思った。
じゃあ、わたしは、勉強したくなるようなことを教え、学校の成績に直結しなくても、この単元からどこまで広がるか、遠いところまでの景色を見せよう、それがわたしの役割なのだ。

わたしは、遠いところに行きたかった。それは心の中にある。
子供を預ける保育園の目標に「自分を好きになる」「心と体で感じて、自分で世界を広げる」ということが挙げられていた。
わたしも一緒に学びたい。

わたしの親はろくでもなかった。
わたしは円満な家庭を知らない。
だけど、円満な家庭を作ることができる。
わたしたちは学べる。過去から自由になるために学ぶ。
学ぶことは、わたしを自由にする。
思い込み、しがらみ、苦痛から、解放するのは、知恵でる。わたしは学ぶことができる。そして、自由を得る。


いったん、Twitter退会しました

耐えられないことを言われたので、Twitter退会しました。
その人はわたしを卑劣だといってるようです。
なにもかも嫌になってしまったので、ちょっとやすみます。
先のことは考えてなくて…
ほんとは、Twitterで世間話するの楽しいんですけどね。
ちょっと心が破れそうたったので避難しました。


ジャーナリスト、言論人の腐敗を告発する

菅野完の被害者を気の毒がる人へ、意味わかってやってます?

言論の自由には、受け取る側が事実を正確に受け取ることも含まれているでしょう。
ゴヒエツコ側には、ジャーナリストや言論人がいます。
彼らが嘘をつくことで、わたしたち受け手の「権利」は損なわれています。
わたし以外の人たちは、そのことを糾弾すべきです。
故意に嘘をつくジャーナリストや言論人は害悪です。取材能力のない一般人をだまして思うように操ることだからです。
人は、知りえる情報をもとにして行動します。だから、間違った情報を与えられるということは、行動を操作されているというのと同じことです。

これは、陰謀論ではありません。
メディアの腐敗、言論の腐敗の告発です。

この件は、複雑なようでいて単純です。
菅野氏がゴヒエツコ氏にgropingした。
菅野氏は事実を認めたが、賠償の条件が合わなかった。
裁判をする一方で、ゴヒエツコはネットリンチをした。
その時に、レイプ被害者を利用した。
そして、ゴヒエツコを含む言論人は、利用したレイプ被害者にもネットリンチをした。
そして、レイプ被害者に、ブログを消せと言い、裁判を示唆して圧力をかけている。

性暴力被害の内容をジャッジするな、という人がいます。
でも、事実として、被害の軽重はあります。
それをないことにすると、わたしのような人間の口封じをすることになり、有害です。
被害状況をジャッジしてるのではなく、事実として違います。
そして、どんな人が被害者か問うてるのではなく、ネットリンチをしたり、メディアを使って裏工作したり、他の性暴力被害者を利用して、嫌がらせをするのは悪いことですし、まわりも止めるべきです。
また、他人が代弁するべきではない。

性暴力被害者のことを全部同じにするのは雑だし、性暴力被害者のいうことを何でも聞き、心情に配慮していくと、わたしのような間違いをおかすことになります。
性暴力被害者がネットリンチをしたがっても、まわりは止めるべきです。
他の性暴力被害者を利用して、嫌がらせをしたら止めるべきです

わたしは、彼女の被害が強姦だと思っていました。
でも、違いました。
わたしの被害は強姦や暴行です。
左腕の神経が切断され、一週間緊急入院するほど重いけがでした。
首を絞められ、殴られ、血だらけになりました。
別の事件ですが、薬を飲まされ、二十四時間昏睡状態になったこともあります。逃げるために四回引っ越しをしました。火をつけてやると言われました。引っ越した先で、引っ越してもお前の居場所は突き止めてやると脅迫状も来ました。何度も事件に遭うのは変かもしれません。障害のせいかもしれません。わたしはおろかだと思います。
でも、わたしは、その被害や被害ゆえの症状を、同じ被害者だから助けてくれと言った相手に、嘲笑されました。
それと同じでしょうか。
どうして、ゴヒエツコさんやゴヒエツコさんの支援者は、ゴヒエツコさんのつらさはわかるのに、わたしのつらさはわからないんでしょうか。

人の痛みを少ない多い、自分よりまし、というつもりはありません。
心の痛みはその人のものだから。
でも、事実として、こういうことが起きた、ということの差は、明らかにするべきです。
その人が、秘密にしたいなら、秘密を守りますが「同じ性暴力被害者だから」と言って頼ってきて、結果が気に入らなかったら嫌がらせをし、根回しをして孤立させる、というやり方をする者に対しては、その周りにも「あの人と私の被害は違う。同じではない」ということも必要だし、訴訟をしたのも関わらず、その裏でいろいろな動きがあったら「不当」だと言わなくてはなりません。

週刊金曜日は、事実を曲げて報道しました。それは、メディアへの信頼を傷つけるものです。
メディアには力があるので、ジャーナリストと言えども、事実に反した個人への攻撃は批判されるべきです。
その事実とは、菅野氏がしたのはレイプでなく、gropeだということも当然含まれます。
なぜなら、週刊金曜日は「レイプ」だと思わせるような書き方を続けてきたからです。

被害者本人が、不当な要求をしたり、ネットリンチをたくらんだら、周囲の人間は、それを止めなくてはなりません。
それが当人のためでもあります。
他者の代弁をすると、わたしの間違いを繰り返す可能性があります。
実際、根回しをされた人たちは、「ゴヒエツコ」の心情をおもんばかっていますが、他方では「性暴力被害者」である、わたしの心を傷つけています。
また、被害者本人の希望を叶えることが、被害者の心の回復を助けるものではないわけです。

事実として、菅野氏は、最初200万円支払うつもりでした。謝罪文も出そうとしていました。
それを拒んだのはゴヒエツコ側です。
なのに「菅野は賠償金を値切った」という言い方をする人がいて残念です。
菅野氏の主張は、ネットリンチをしたのだから、それについて考慮せよ、ということだったと思います。
それが結果的に認められなかったということです。

ゴヒエツコは、わたしに自分の被害内容を説明しませんでした。それは明らかに不誠実な態度で、わたしをだましたのと同義です。
わたしはレイプ被害者です。
それを「自分と同じ被害」とあたかも思い込ませるように誘導した、ということも、わたしを傷つけています。
同じだと思って、奔走したのに、暴言を吐く。集団で揶揄する。嫌がらせをする。
わたしとゴヒエツコの被害は違う。
これは事実です。
これを言ったからと言って、彼女の被害をジャッジすることにはなりません。
物事には段階があります。それによって、罪の軽重も決まります。

彼女は嘘をついている。
そして、根回しにより、自分の手を汚さず、周りを操作している。
そして、彼女の被害を利用して、自分たちに都合よく、一般人を動かそうとしている人たちがいる。
これは、性暴力被害者への愚弄であり、なによりも、ひどいことです。
被害者を利用することは、悪です。
悪を野放しにしないでください。

藤倉さんのブログに詳しい経緯が載っています。
彼は、週刊金曜日も取材しました。
菅野完氏の民事訴訟判決と被害女性「ゴヒエツコ」氏の実態

追記
わたしは、ネットリンチをしてしまいました。
裏工作に加担したので、わたしの文章を読んで、信じてくださった人をだましてしまいました。
これは、何度悔やんでも悔やみきれず、本当に申し訳ない思いでいっぱいです。菅野さんに対しての人権侵害もしました。
ごめんなさい。
しかし、それ以上に許せないのは、ゴヒエツコの弁護士です。
ネットリンチをなかったことにしたので、わたしの存在を無視しました。
彼女は、わたしに裁判を示唆しました。
わたしにブログを消せと言いました。
じゃなかったら裁判すると。
本当に、つらいです。

上記エントリのコメント欄を見て、救われるような気持です。
ちゃんと正確に物事を見る人は、わたしの友達以外にもいるんだなと。
全部引用したいですが、これだけでも。
http://cultwatching.cocolog-nifty.com/shuhitsu/2017/08/post-af60.html#comment-140452838
では「強姦」とは抱きつかれた(もしくは押し倒された)ことと同じレベルの被害なのでしょうか?

強姦とは、単に抱きつくことと比べものにならないほど女性の尊厳を傷つける行為です。

強姦を、抱きつかれた(もしくは押し倒された)だけと同じように考えることの方がよほど性暴力に対する軽視だと思います。


菅野完の被害者を気の毒がる人へ、意味わかってやってます?

菅野完をRTしながら、#metoo と言う人に、言いたいこと。
これ読んだんだけどさあ。
わたしのブログをゴヒエツコ、菅野で検索してもらえばわかるんだけど。
わたしは、性暴力被害者です。
嘘だと思う?
でも、警察に履歴があるよ。

菅野完の被害者であるゴヒエツコは、わたしに菅野完の性暴力を非難する記事を書かせ、そのせいで被害の後遺症が出て苦しむわたしを嘲笑し、障碍者差別し、今も訴訟までほのめかして嫌がらせを続けています。
(何の名目で訴訟するのか謎だけど)

ほんとーにいろんな嫌がらせされているんだよ。
例えば、ゴヒエツコの裏工作の証拠になるスクショをツイートしたら、ツイッターを凍結されたし、ブログにも開示請求が来ました。はてなブログむ止めざるを得なくなった。ブログくらいって思うかもしれませんが、わたしにとっては財産だったんですよ。

菅野完がリツイートされたときのゴヒエツコの気持ちを想像できるなら、同じ性暴力の被害者だからと思って、善意で協力したのに、そのお返しが「嘲笑」「嫌がらせ」「差別」だったわたしの気持ちも考えてください。
わたしをバカにするツイートをしている人もいました。集団で嫌がらせや暴言を吐かれました。

ゴヒエツコに大人としての責任を取らせてください。
わたしに、謝罪させ、嫌がらせをやめさせたうえで、いくらでもかわいそうがればいいじゃないですか。
わたしへの責任を取らせないのって、結局人間扱いしてないんですよ。わたしのことも。
ゴヒエツコに対してもそうですよ、あなたは責任とらなくても守ってあげますよ、ってメッセージ送ってるんですよ。
それって本人のためになります?
尊重するなら、責任を取らせるべき。
それとも、この被害者(ゴヒエツコ)は気の毒だけど、この被害者(c71)は気の毒じゃないって思ってます?

わたしは、菅野完の被害者をかばう文章読むと、気分が悪くなって病状が悪化します。
具合悪いですよ。

だから、こういう思いやりができる人が、わたしのような立場の人間について考えないのを見ると、「ああ、私は本当にどうでもいい存在だな」と思います。
無神経な人がなんか言うよりも傷が深いです。
ほんとに傷つく。

複雑なことを考えられないんですか?
わたしがした失敗は、彼女自身が語るべき言葉を代行したことです。
彼女は、被害内容を言いたくないと言ったのですが、あとから知った被害はわたしのほうが深刻でした。
性暴力被害にことの軽重をつけるなと人は言いますが、あきらかに、より、深刻な被害を被った相手に、矢面に立たせて、負担を背負わせ、その結果が気に入らなければ、嫌がらせをしたり、暴言を吐くことが許されるんでしょうか。

それに、被害者を思いやるのはけっこうですが、こういう風に彼女が言ってもいないことを書くのは、彼女の言葉を奪っていることにもなります。
彼女自身が語るべき言葉を彼女から奪うな、わたしと同じ失敗を繰り返すなと思います。
忖度と思いやりは重なっている部分と違う部分があると思います。
人の気持ちを考えろといいながら、彼女がまだ口にしてもいない言葉を、代わりに言うことは慎むべきです。
当事者性や、経験を、他人は奪ってはなりません。
そのうえで、彼女がこうしてほしいと言ったからと言って、その通りにするかは別。
自分が嫌だからと言って「きっとあの人はこう思っている」と書くのは、被害者を矢面に立たせているのと同じことです。

涙あふれそうなセンチメンタルな文章書くのもいいですけど、その文章を書くなら、ちゃんと責任とれるか、考えるべき。
他人の被害について何か書くのってすごい責任が生じますよ。
このブログを書いた人、ちゃんと、それをわかっていますか?
あのエントリを拡散している人、ちゃんと、考えたり、思いやったりしてますか?
自分はいい人間だと思えるから、拡散してませんか?
自分は性暴力被害者について、ちゃんと考えられる人間だ!って思えるから、いい気分になれるから、書いたり、ツイートしたりしてるんじゃないですか?
その、あなたの「いい気分」の裏で、わたしは傷ついています。

追記
週刊金曜日は菅野氏をうんこと呼び、原稿にうんこ.pdfと名前をつけ、菅野氏の犯罪をレイプであるかのように書きました。
しかし、実際にはgropeです。
事実を歪めて、メディアとしての力を間違って使っています。


シェイプオブウォーターの感想は絶望の物語

シェイプオブウォーターを観て、気分が悪くなった。それは、人間の関係性がいびつだからだ。
モンスターの造形は美しかった。
でも、これは、「マイノリティは周縁に吹き飛ばされて、死ぬ」というメッセージを繰り返し繰り返し描かれていて、恐ろしかった。これが、監督にとってのリアリティなのだろうか。

弱いものを支配することによって、力を得る。
イライザは半魚人をケアし、かくまうことによって、幸せになる。
かくまうというのは、監禁すると同義だ。
半魚人を自分のもとにかくまってから、イライザは幸せになる。
半魚人は、囚われていることに変わりはない。

アメリカは、半魚人を確保することでパワーを得る。
ソ連は、半魚人を得られないなら殺そうとする。アメリカにパワーを与えることが嫌だからだ。
ゼルダは、イライザに対して一方的に語り掛ける。彼女の不満は、絶対に声を出せないイライザに対するおしゃべりで解消される。
ゼルダの夫は、ゼルダを支配する。

黒人であるゼルダ、ゲイである絵描きは、利己的に動かない。いつも、イライザにとって都合よく動く。彼らは命の危険をいとわない。
都合がよすぎる。
イライザは白人だ。障碍者ではある。障碍者としては、絵描きやイライザに庇護される存在だ。
庇護は支配だ。
その反面、黒人やゲイというスティグマを背負った二人は、マジカルフェアリーとして、存在する。
彼らは、主人公にとって、ただただ都合の良い存在だ。彼らはなぜイライザに協力するのか?
それは描かれない。自明のものとされる。
その「自明」さが気持ちが悪い。
白人にとって「いいもの」であるだけだ。それって差別だ。
黒人も、ゲイも、どこまでも都合が良く動くだけの存在で、彼らの都合は描かれない。

悪役は、指を失って「神に近い存在」から「葬られる存在」に変わる。
白人で、健常者でも、マイノリティになれば、周縁に放り出されて「苦しんで死ぬ」。
彼が死んだのは、半魚人に殺されたからではなくて、元帥に追い詰められたからだ。
彼はミスをして「ノーマル」ではなくなる。ノーマルではなくなったので、追い詰められて、危険なことをして、殺されるような危険な立場に追い込まれる。そう追い詰めたのは元帥だ。でも、元帥の「危害を加える」存在であることは、最終的に透明化される。
実際、半魚人を虐待したのは、悪役じゃなくて、「元帥の命令」だ。
だから、悪役が殺されても、「因果応報」という感じはしない。元帥は、透明化されて、観客から糾弾される立場から退く。

半魚人から見れば、イライザも、人間だ。人間が半魚人をとらえて、監禁し、虐待した。
イライザと半魚人はセックスをするが、その関係は対等ではない。
物理的な力では半魚人のほうが強いが、立場的にはイライザが彼の命を握っている。
対等ではない間柄のセックスは、気分が悪い。
イライザはなぜ半魚人に惹かれたのか?
それは、半魚人が「囚われの身」であることと無縁ではない。
イライザは自分を「孤独な存在」と言い、半魚人も「孤独な存在」だという。
でも、それは、イライザが勝手にそう思っているだけだ。半魚人は孤独ではないかもしれない。そういう概念がそもそもないかもしれないし、半魚人界では、仲間がいるかもしれないからだ。
イライザが、自分の思い込みを持ち続けることができるのは、半魚人がそれについて反論できる立場ではないからだ。
イライザには声がないが、半魚人にも発話するための「声」がない。
言葉はあるが、それもイライザが与えた、限定的な「言葉」でしかない。

絵描きは、猫を殺されても「彼の本能だから仕方がない」という。
ゼルダは、イライザと半魚人がセックスをしたと知っても「男っていうのは油断も隙もない」と言って笑う。
わたしは、この二つに強い違和感を抱いた。この物わかりの良さは「物語にとって」都合がいい。
彼らが「生きた」存在じゃないんだと思った。
猫が殺されたら、悲しいか、驚くだろうし、そうでなくても半魚人のことが恐ろしくなるだろう。
友人が、人間以外とセックスしたら驚くだろう。人間以外とのセックスはタブーだからだ。
タブーを破る人間は恐ろしい。タブーというのは、自分側の人間と、そうじゃない人間を分けるという意味を持つ。
タブーを破ると、「向こう側」の人間になる。
タブーを破った人間に対して、驚かないのは「向こう側」の人間だ。
だから、絵描きも、ゼルダも、もともと「向こう側の人間だった」ということが半魚人を回収したあとにわかる。
「向こう側」というのは、「普通じゃない」ということ。
普通、というのは、元帥が象徴する白人たちの失敗しない人間たちで構成された世界のこと。
悪役は、ミスをし、指を失うことで、少しずつ「向こう側」の人間になる。
悪役が死んでも、勧善懲罰だと感じないのは、元帥が最後まで無傷だからだ。
悪役の悪行は、すべて、元帥の命令がもとなので、一番悪いのは元帥だ。
でも、元帥の「悪」は透明化される。

イライザが「声」を獲得するのは、半魚人を得てからだ。
彼女は、「ファックユー」と言って反抗し、半魚人に愛を伝える。
ゼルダは、イライザに対しては話すことができる。
でも、男には話すことができないか、「言葉」を伝えることができない。
悪役に対しては、しゃべることができなくなるし、夫はゼルダの言葉を無視する。
絵描きは、元上司には無力で、要求を通すことができない。
イライザに対しては話すことができる。
この映画の登場人物は「自分より弱い人間」には話すことができるが、「自分より強い人間」には話すことができない。
イライザがもっとも弱いものとして描かれ、そして、声を奪われているのは、その原則にのっとっている。
そして、イライザが、自分より弱い存在である半魚人を手にした時、「言葉」を獲得する。

悪役は、悪役だから殺されるのではなく、少しずつマイノリティに転落することによって、死ぬ。
彼は少しずつ指を失っていき、それと同時に力を失い、完全に指を失ったと同時に死ぬ。元帥が彼を死ぬように仕向ける。
彼は、半魚人に殺されなくても、どちらにしても、元帥によって殺される。
それは「普通」から落ちてしまったからだ。
ミスをしない人間だけが普通だから、ミスをした悪役は普通ではない。普通じゃない人間は殺される。
元帥はそういった。物語もそれを支持している。物語を作ったのは監督なので、わたしは
「監督は普通じゃなくなった人間を殺す」のだなと思った。

イライザは死ぬことで、半魚人と結ばれる。
半魚人は、彼女を抱き上げることで、受け入れる。
異種婚は、死で終わる。死後に幸せになる。異形の者は、障害者を中心としたマイノリティのメタファーとして描かれてきた。
この作品も、そのコンテクストから自由にはいられない。
監督がこの結末を選んだということには、意味があるべきで、その意味は、異形の者は死んでからではないと幸せにならないという意味になる。
障害者であるイライザを受容するのは、異形の者である半魚人である。
異形の者である半魚人を受容するのは、障害者であるイライザである。
半魚人には、イライザを愛する動機がない。
でも、彼はイライザとセックスをする。密室での関係は対等ではない。特に、その密室を作り上げたものと、そこから出ることができないものとは。
わたしは、対等ではない状況のセックスが嫌だ。
物語が、半魚人やイライザに「異形の者」を愛するというミッションを要求する。
その物語を作ったのは、監督である。
監督が、「異形の者は異形の者が受容し」「その結末は死後での幸福」であると描いた。
だから、これは絶望の物語である。
わたしは、怒りを覚える。


痛みこそが人の尊厳である

信田さよ子先生の本を読んだ。
「さよなら、お母さん: 墓守娘が決断する時 単行本 – 2011/10/17信田 さよ子 」

地震の後に書かれた本である。
わたし自身は、三十歳になるのをきっかけに、両親と決別した。
わたしは、ずっと母親が嫌だと言語化していた。十年かかってやっと親を捨てる決心がついた。

プロローグに胸を揺さぶられた。
「人の痛みが人の尊厳だ」ということが目に飛び込んできた。
わたしの「痛み」はなんのためにあるのか。
その回答がこれだと思ったのだ。
わたしの痛みはわたしのもの。
それがわたしをわたしだと形作る一部である。

自分の痛みを見ないことにした時、人は差別をするのだと思う。
自分よりも不幸な人がいるから耐えられると思う時、そこには「優越感」がある。ひとよりもましだという考えが、自分を力づける人がいる。自分と誰かを比較して、より不幸な人がいると思ったとき、その人は、誰かを支援するかもしれない。ボランティアをするかもしれない。
「自分の鬱などたいしたことがない」と思って、外に出る人もいるかもしれない。
しかし、それは自分の痛みを見ないことにした結果である。
誰かと自分の痛みとを比較して、それよりも「自分がまし」だという思うことで、自分の痛みを消す。
そうして生まれるパワーには問題がある。誰かを踏みつけにしているからである。

「なぜワイドショーを見るのか」と問われて「自分より不幸な人がいるから」と答えた人がいる。
人の不幸を探して、それを喜ぶ人である。
それからもう一歩すると、「あの人が不幸でも自分とは関係がない。自分よりも不幸な人がいるから自分は幸せである。不幸な人がいてよかった」から、「不幸な人を作ろう」「不幸な人を作るために力を奪おう」になる。そのガス抜きの仕組みが差別である。

セラピーでガス抜きをするのも、今はやっている「自分の機嫌は自分でとる」という流れも、「ポジティブに考えよう」という流れも、「痛みを無視して、現状維持をはかろう」ということだと思っている。
それは、問題を軽視し、なかったことにすることと、紙一重だ。
生きるための知恵だということと、その方法がまずくはないかということとは両立する。
余談だが、よくある、子供に対して
「あなたはそう思うんだね」と受け止めるやり方も、暴力になることをわきまえなくてはならない。
わたしは、母に「嫌だ」と訴えるたびに
「そうなの、あなたはそう思うんだね」と流されてきた。まさに、母に嫌だと訴えているのに、「なかったこと」にされているような、無力感を味わったものだ。

不満があったら伝え、それを解消する。お互いの距離感がおかしかったら調節する。それをわたしは重んじるようになった。
いろいろなことが起きて、変化する中で「現状維持」をしようとすると、歪みが現れると思っているからだ。

わたしの母は「斎藤学」先生の本を持っていた。親子関係の問題について、精神科医の立場から書かれた本だ。わたしはその本を読んで、自分の親がおかしいことに確信を持った。
ところが、母や妹は、その本を読んで、わたしにつきつけ、「ほら、お姉ちゃんはここに書いてある人とそっくりだよ、やっぱりおねえちゃんはおかしい」と言った。
同じ本を読んでも、「自分が暴力を振るっているのか」「それとも振るわれているのかもしれない」と思わず、「自分には関係がないけれど、おかしい人がいるらしい、ああ、自分はおかしくないみたいだ、よかった」と確認するために読む人もいるんだなと今では思うが、当時は、不思議だった。
どうして、「AC」の本を読んでも自分の家族の問題に気付かないでいられるんだろうか?と。

むしろ、彼らは、自分の問題をないことにして、世間というものに同一化するために読んでいたんだと思う。

わたしの母は「良い母親」になろうと思っていたんだと思う。「ベストな母よりベターな母であれ」みたいな本もあったし、トリイ・ヘイデンの本もあった。ドナ・ウィリアムズだってあった。
でも、わたしの母は「わたしにとって」良い母じゃなかった。
母は、今でも、わたしにたいして「悪いこと」をしたと思っていないだろう。
母は、世間に対して「良い母親」であったから。
「誰にとって良いのか」を考えないことを選んだ。
(子育てについて学ぶことと、子供を虐待することは両立できる)

育児には、子供に対してパワーがある。ケアを与える役割を一番に引き受けることで、子供に対して、権力を振るう場面が多くなる。
女性は経済力を巧みに奪われているので、ケアを通して、パワーを獲得する。
(だから、育児には、父親や行政の介入が必要だ)

わたしの母は
「しかたがない」「しょうがない」「そうするしかなかった」と言った。
実際には、いろいろな選択肢があった。でも、その選択肢を最初からなかったことにできるのが、上記の言葉である。
選択肢をなかったことにすれば、「選択した責任」もなかったことにできる。

「しかたがない」「そうするしかなかった」の根拠は、世間にただよう常識である。
大きな挫折を経験したとき、それを、自分から「そうするしかなかった」といえば、責任から逃れられる。
考えなくてよくなる。
それが、世間と同一化するということである。
他人から「そうするしかなかったとおもうよ」ということと、自分から「そうするしかなかった」ということは全く違う。
前者は、責任を実感している人にかけられる言葉で、後者は責任逃れをするための言葉だ。

世間と一度同一化してしまえば、それから逃れることを、彼女ら、彼らは、絶対に避ける。
もしも、「世間」から「個人」に戻れば、あやふやにした「挫折」の時点に戻らなくてはならなくなるからだ。

「離婚したほうがいい」ような状況になった。そのとき「世間では離婚しないほうがいいと言っているから」離婚しなかった。
そして、二十年、三十年くらい来たとする。
そうした人が、今更「個人として」考えると、「あのとき、結婚は失敗した。その後の選択も間違っていた」ということを認めなくてはならない。そうすると、「失敗した二十年、三十年」がその人に現れる。
その人に、それを受け止めるのは無理だ。
それは、その人が二十年前に「自分で選択するのは無理だ」と挫折を目の前にしてあきらめ、ごまかすような人だからだ。

わたしは、世間と同一化した、おばけのような人たちに苦しめられ、犠牲になってきたんだなと思った。
そして、彼らがわたしのような「子供」に謝ることを期待するのはほとんど不可能なんだなと思った。

自分の人生を放棄する人が一人いると、その周りには、差別が生まれ、虐待が生まれ、DVが生まれる。
自分を生きない人が、人を支配して、自分の生を確かめる。


法律は平等でもなければ公平でもない

女性専用車両に嫌がらせをする男性たちに関して、いろいろな議論がある。
その中で「女性は不服があれば裁判を起こすべき」「警察は暴力装置だから、法律に沿わないことをさせると権限が拡大してしまう、そちらのほうが危険だ」という意見に関していくつか書いておく。

裁判を起こさないなら、権利に胡坐をかくものだ、不断の努力を怠っているというものまで読んで、わたしは憤激した。
降りろコールをすることだって、戦いだ。それ自体が、「不断の努力」の一つだ。男性の嫌がらせについて、意思表示をすること自体が、権利を行使しているということだ。

法律にのっとって、「男性が嫌がらせのために女性専用車両に乗ること」は肯定し、女性たちがその嫌がらせにブーイングすることは、ダメで、女性は盗撮されようが罵倒されようが、「裁判を起こす」やり方のみで、反撃しろと言っているのも同じだ。
警察に頼ることも、警察の権力を増長させるからダメだが、司法ならば良い、というのは、どういう使い分けなのか。
危険を感じたとき、警察に、パトロールを頼むことは誰でもする。していいことだ。

それを電車でしただけじゃないのか。それをも、否定するなら、武器を持ち歩いて、自力救済するしか道がない。
実際に危害を与えられても、やりかえすことも、言い返すことも、警察を呼ぶこともできないなら、けがをしてから裁判するしかないと言っているのと同義だ。
それでは遅い。

そもそも、女性専用車両は、性暴力を撲滅させたい女性たちの運動に対してのガス抜きだった。
当時私は中学生だったが、ひどく落胆した。
「日本は本当に男尊女卑なんだな。女性の安全を守るために動くよりも、文句を言う人間を隔離する方法をとったわけだ」と思った。
痴漢は性暴力であり、犯罪だ、だから、それをなくせ、という運動があったのだ。その目的は果たされなかった。
女性は、公共機関で、移動する自由を奪われている。
痴漢に遭う、ということは、安全に移動する自由を、つまり人権を侵害されている状態だ。
それを、鉄道会社も、社会も、許容し続けているので、痴漢は、大手を振るって「女性がいるからしかたがない」ものとして存在し続けている。

その一方、性暴力被害に遭うことを避け、また、PTSDと戦いつつも、働いたり、学業をする自由を獲得するために、女性専用車両を必要とする人も確実にいる。
その場所を奪われたら、女性たちに、「安全に移動する」自由はなくなる。
男性は、いくつもある車両の中の一つに乗れないだけだが、女性にとっては、女性専用車両がなければ、「公共交通機関そのものに乗れなくなる」のだ。女性は移動できなくなる。移動できなければ、学業を修めることも、仕事に就くこともできなくなる。

そもそも、女性の六割は、非正規雇用である。それは、政府が、たくみに、女性たちを労働の周縁に、追いやった結果だ。それも、法律にのっとった結果である。それが、社会の構造による差別だ。
電車に乗れないということは、女性たちが経済的に自由であること、生きることそのものが奪われるということだ。

裁判を起こせばいいという人がいる。
しかし、裁判は、貯金があり、仕事を休め、住所を知られてもかまわない人だけが行えるものだ。
女性の多くは非正規雇用なので、裁判を起こせば、仕事を失うか、収入が減るかする。

だから、裁判を起こせない。住所を知られて、あとで報復に出られることも十分考えられる。
(実際、裁判後に住所を知られて脅迫状を受け取ったことがある)

また、民事裁判を起こして、勝ったとしても、相手に貯金がなければ、何の金銭的賠償も受けられない。
ないものはない。強制労働させることはできないから、裁判に勝っても、泣き寝入りする結果は変わらない。
失うもののない人間は、それを悪用して、やりたい放題する。
刑事事件にならない、ぎりぎりの嫌がらせは無数にある。

それについて、「裁判を起こせばいい」という人間は必要なく、むしろ邪魔で有害であり、「差別や嫌がらせ、人権侵害は許さない」と表明する人間だけが必要だ。

刑事訴訟は、そもそも、検察が起こすもので、結果的に相手が有罪になっても、被害者には何一つメリットはない。
(刑事訴訟を起こした時、裁判制度の中では、被害者は当事者じゃない)

そもそも、法律は、健康な日本人男性に有利なようにできている。
社会は、法律にのっとって動いている。
あらゆる行動は、法律の基礎に支えられている。
社会に差別がある、ということは、法律の中に差別があるということだ。
立法の意思決定の場に、女性を含むマイノリティは非常に少ない。
裕福な日本人男性によって、法律が作られ、運用されている。
だから、法律が、日本人男性にのみ有利なのは当たり前だ。
法律は法律自体が平等なのではなくて、「規定が誰でも知ることができる」という意味で平等なだけ。
あとは国を縛ることができて、法律以外で、人に罪をきせることができないだけ。
それでも籠池さんみたいなことが起きる。
入管や籠池さんのことみても、法律が平等なのだといえるのか。

法律が、公平で平等だという考えはナイーブすぎる。
沖縄差別も、アイヌ差別も、部落差別も、わざわざ立法までして、合法的になされている。
沖縄の基地問題をひとつとっても、明らかだ。
女性に不利な法律だっていくらでもある。
冤罪は、弱者を犯人に仕立て上げることで出来上がっている例がほとんどだ。
字が読めない、気が弱い、貧困、支援が得られない人、そういう人を狙う。

差別は、社会構造だ。
法律や司法は社会の基礎だ。法律の中に差別がある。
それら自体が、差別を作り上げる一つの要素だというのに、裁判さえ起こせば、法律にのっとれば、正義がなされるはずだと思うのは、無知だ。