女性差別に興味を持っても、男性にはメリットがない

はじめに

これは「女性差別」「女性への犯罪」に初めて気が付いて、第一走者と言ったり、女性に声をあげろと言ったり、女性差別の代弁者になろうとする男性に対して批判する文章です。

(厳密に言えば男性にとってもメリットはないわけではないけれど、知覚できるかというとまた別。また。女性差別が「女性にとってメリットがある」と考える人もいるので、メリットがあるなしで差別問題を論じるのはおかしいという話でもある)

差別には不利益があるからやめるべきだ、というのは不十分だ。

差別がある世の中は、うまく回っている。回っているように思う人がいる限り、「不利益があるからやめるべきだ」と言っても「自分には不利益がない」となる。

「誰にとっての不利益か」を考えると、主に、「女性差別の不利益は女性が被る」のだから。

差別は、人の尊厳や命を踏みにじる。だからだめなのだ。

利益を追求すると、「(他人の)命を犠牲にしても得られる利益」を得る人たちもいるので、無効化される。そういう人たちは差別に困っていない。差別を喜んでいる。だから、わたしたちは、彼らを追い詰めるべきだ。味方になってもらいたいと願うべきじゃない。差別によって不利益を得るのだ、ということを骨身にしみこませるべきだ。

だめだからだめ、いけないからいけない、という原則を持ってもいい。

本文

女性差別や、「女性問題」に興味を持つ男性に対して、どんな態度をとるべきか。

今、初めて、「女性は、男性に暴力を受け、性暴力を受け、賃金格差があり、社会的に不利益な扱いを受けている」ことに気付いた男性がいたとする。

その男性は「初めて知った!では僕が女性差別を解決する」と張り切る。

そうしたとき、彼らは、女性差別の上塗りをする。

女性の代わりに語り、女性に被害の経験を語るように言う。自分の男性としての影響力を使う。

これらはすべて女性差別だ。彼らはいいことをしていると思っている。自分のことをいい人間だと思っている。

男性は男性であるだけで、構造的に加害者だ。社会的な不利益を是正せず、女性差別を知らず、男性に対して、働きかけることも知らなかった。

女性に被害内容や、経験を語らせることは、暴力だ。それもわからない人たちがいる。

そういったとき、彼らを批判するかどうか、女性たちは迷う。

せっかく味方になってくれた人を、敵に回すようなことをしたくない。どうにか育てることができるのではないかと。

育てる!

女性たちは今までもずっと「人を育てて」きた。とうに成人した人間を、しかも何の関係もない人間を育てる義理はない。それは、女性に課せられてきた不利益そのものだ。人を育てずに済んでいたら、できてたあろう様々なことを想像してほしい。

男性は、家事をするだけ、育児をするだけでも注目されほめたたえられる。

だから、家事や育児をする男性たちは自分のことを「女性差別をしない、いい人間だ」と思っている。家事や育児をするだけで、どうして褒められるか考えもしない。男性だから、「本当は家事も育児もしないで済む男性でありながら」家事育児をしているから、注目されているという非対称に思いをはせることもない。

彼らがおろかなんだろうかと思うこともある。とてもよくある。どうしてこんなに簡単なことが見えないのかと。

はっきりしているのは、(あえていうと)「男性問題」を発見し、是正したところで、彼らにメリットはないということだ。メリットがないので、彼らはいつものように今までのように生きることを選ぶ。

では、女性差別を解決すると、男性にメリットがあることを伝えるのはどうか?

メリットによって女性差別をやめろという人たちは、そのメリットが消えたとき、女性差別をまたするだろう。

おだてて、ちやほやして、ほめたたえて「味方」になった人たちが、困難に直面したとき、どんな風に手の平を返すか、わたしたちはよく知っているはずだ。

わたしは、メリットの如何ではなく、「女性差別は不公正なことだからやめる」といえる人間を望んでいる。

それは「お気持ち」と揶揄されることなんだろう。

でも、わたしたちは、感情を軽んじられてきた。そして、感情は「女のもの」「おんな特有の弱点」とみなされてきた。「女は感情的で話が通じない」と言われてきた。どんなに冷静に論理的に話していても、「感情的」とレッテルをはられる。わたしの体が女の形をしているからだ。

男たちは、感情を軽んじ、それでいて、感情的にふるまうので、感情をコントロールすることができない。だから、メリットや利益に目がくらみ、不公正に立ち向かうことができない。それは、彼らが解決するべきことだ。

 

感情は素晴らしいものだ。

なにか、不公正をしそうになったとき、理屈よりも先に感情がシグナルを送ってくれる。それで、わたしたちは、悪人にならずに済む。素早く判断できる。感情は、生きることに価値を与え、なぜ生きるか、生きるとはどういうものか教えてくれる。感情的であることを恥じることはない。そのうえで、わたしたち女が論理的であることを主張することもできる。冷静である必要もなく。

 

 

男性たちは、不公正を許容している。それを恥ずかしいと思えない人間に味方になってもらってどうするというのだ。

差別とは不公正であり、殺人である。それが悪いと理解できない人間に、何を言うことができるだろうか。殺人にはメリットがない、殺人をしないことにはメリットがある、と、言って通じるのか考えれば、通じないと答えは出るだろう。

女性差別は男性問題である。それだけのことを理解できない「味方」を育てることを放棄しよう。彼らは味方にならない。味方になるとしたら、人間的に成長する必要があり、わたしたちに、それを支える理由は一つもない。メリットがあろうとなかろうと、しなくていいことをする、その弊害は大きい。彼らは、反差別の訴えをする、被害者に対して皿に甘えてつけあがる。わたしはそんなのは嫌だ。

 


「生きる」と「怒る」

生きているという「感じ」がするのはどういうときかというと、怒っているときだ。

怒るとパワーがわく。生きるためのパワーだ。

会社を辞めたときも、「パワハラに遭ったので病気になりました」というんじゃなくて、「パワハラだ、それは不法行為だ」と相手を責めるべきだと主治医に言われた。

回復が全然違う。

病気になったほうが悪いと付け込まれる余地を残すな、パワハラをした相手が悪い、その結果損失を受けたと主張するべきだと言われた。だから、後者の言い方をして、自分でそう言う認識をすべきだと。そう主張すると自分もそう納得する。自分が悪いのではないと。

病気になったからやめますだと、自分が悪いみたいに認識してしまうから、体に良くない。

 

怒っているときは自分の輪郭がクリアになっている。
それに依存しすぎると、怒っているばっかりの人になったり、怒るための出来事を探すようになったり、怒ることで人に認められたいと思うようになったりする。
でも、そうじゃなくて、生きるためのネガティブな感情を個人的に大事にするってこと。
というのは、今日いくつかの記事を読んだから。

 

怒るっていうのは、自分のセンサーが働いているってこと。それをなかったことにすると、自分を守れなくなる。

怒っていることを認識するって、それは、生きるために戦ってるってこと。


ゲリラ的人生

ゲリラ的人生は、くたびれはてこさんの過酷な人生が描かれている。

逃げるという言葉を書いていて、事実その通りなんだけど、わたしの言葉だとこれは「戦い」って言い方になる。

嫌なことがあって、ここにいたら生きていけない、という気持ちにふたをしないで、行動してるから。

わたしは、同じ年の時、こんなにも勇敢な人間じゃなかった。

機嫌よくいると、自分以外の人にとって都合がいい。でも、自分の都合が悪い。

昔、元カレに「いつも笑っていてくれ」と言われて、ぶちぎれたことがあった。あのとき、なんで怒っているのか、相手を納得させることはできなかったけれど、ちゃんと怒った幼い自分のことは勇敢だったと思う。

わたしは、「笑っていて」と言われて非道な暴力を受けたと思った。そういう感じで、今までわたしが我慢しているうえに成り立っている穏やかさは、なんていうか、彼にとってとても当たり前で彼は一切努力しないということを宣言しているんだなと思った。思ったというか実際そうだった。

わたしは、人の顔色をうかがうけれど、相手の要望通りに動けない人間だから、天然とか空気読めない子とか言われていた。

「なかったことにする力」の強い大人に囲まれて育って、事実としてあったことが「勘違いだ」と言われているうちに、自分がどんな現実を生きているのかわからなくなった。言葉が誰にも通じない感じがして、うまくしゃべれなくなった。うまくしゃべれないことをごまかすために機関銃みたいにしゃべって何もかもごまかしていたかった。それは、大人にとって都合がよかった。わたしは問題を抱えていたが、問題はないということにしたい人たちしかいなかった。

 

でも、問題はあった。成人してから、精神科に行くことができた。十六歳の時から精神科に行きたかった。

わたしは病むべくして病んだ、病むことが正常だ、と言えるような環境に育ち、そこから逃れるためにさらに十年かかった。

わたしは、信頼していた人に「こじらせている」「頭がおかしい」「怒ってばっかりいる」「めんどくさい人」と人に紹介されたことがある。その人から去る決断をするのにも三年かかった。信じられなかった。自分のことが。

わたしはもしかして、こじらせていて、頭がおかしくて、怒ってばかりいる人間なのかな。それは直さないといけないんだろう。

そう思って、直そうとした。実際、「いつも怒っている人は不幸な人」と言う人はいるし、「現実が充実していたらネットで文章を書くはずがない」とい言う人がいる。でも、そうした人は、わたしに何の関係もない。責任も負うわけではない。無責任な人たちだ。

現実が充実していようがしていまいがわたしには書くべきことがあるし、怒っているときがあったからといって、不幸なわけじゃない。そして、不幸でもいい。不幸だからバカにされるということがあってはならない。不幸な状況を自分から選んだわけじゃないんだから。

 

 

わたしは、いつも戦え、と思っている。戦ってやると思っている。

それは、撤退を意味している場合もある。自分の気持ちが踏みにじられるような場所を選ばない、そういうところから逃げる、それは、自分の気持ちを守るための戦いなのだ。

人にはそれぞれの利害があって立場があるのだから、その人なりの正義がある。

ということは、わたしにだって、自分のための利己的な正義があっていいのだ。

自分を優先していい。

女の人は、自分を優先するな、あとまわしにしろ、と育てられ、大人になってからもそうしろと圧力をかけられる。

そんな圧力はないという人もいる。気のせいだと。証拠を出せと。

でも証拠を出しても結局「個人的なこと」「その人がたまたまそうなだけ」と否定される。

わたしは言う。言いたい。あるものはある。

自分が一番最初に何かを得ると、角が立つ。悪口を言われる。悪意を持って邪魔されるようになる。そういうことは実際ある。

名前一つとってもそうじゃないか?愛情があれば夫の姓にするのが普通だってみんな思っている。女の人は後回し。

 

人のために生きること、愛した男のために寄り添うこと、応援したい人がいるってこと、それが女の幸せだ。早く結婚して子供を産んで、自分の人生よりも他人の人生の幸せを祈れるようになってからが、本当の幸せを感じられることだと言われたことがある。

自分を優先するためには、それを受け入れるしかないのが現状だ。

でも、受け入れなくていい。そういう悪意も受け入れなくていい。喧嘩していい。

にこにこ笑っている裏で、殺している感情がある。それはわたしの一部だから、わたしはわたしを殺している。それはだから自殺なのだ。

わたしはわたしの感じ方を見逃さないで、そういう風に感じたことは蓋をしない。ふたをすれば、心から先に死んで体も死ぬ。死んでもいいのかもしれないけど、たぶん、わたしは生きるようになっている。

 

人はみんな無責任に、困っている人を支援することでいい気分になりたがっている。支援もめんどくさいからよさそうな言葉をかける。それは、とってもコストが低い。でも、いいことをしているような気がする。みんな悪者になりたくない。そして、いい人間だと思いたい。だから、困っている人を探して、なんかいい感じの言葉をかけたいと思っている。その言葉が、その人をおいつめる結果を産んでも、責任はとらない。自分で選んだんでしょと追い打ちをかける。

わたしは、悪者になってやる。そして、自分を殺さない。人のことも殺さない。

いい人のふりをしてにこにこして、自分の気持ちを殺すこともしないし、いい人になりたいからって無責任なことも言わない。


オンラインショップを作ってるという日記

今はワードプレスでオンラインショップを作ってる。
カートがあって、商品をいれて、クレジットカード決済ができたり、銀行振込口座のメールが行くようなやつ。
woocommerceというのを使っている。
クレジットカード決済は、いくつか使えるものが用意されている。手数料が3.6パーセントくらい。
それとは別にアマゾンペイというのがあって、それを使うとアマゾンのアカウントから決済できる。手数料が4パーセント。
アマゾンペイとwoocommereceとどう連携するのかはこれから調べるけど、決済に関しては、手数が少なければ少ないほど、そのまま進んでくれる可能性があるから。
store.jpもあるし、BASEもある。けど、なんかちょっといやだし。
サンプルページ
こういうのもつくってる。これは、まだ途中で、あるハンドメイド作家さんに協力してもらって、もっと実用的なものにする予定。
海外向けに特化したハンドメイド販売サイトがあるといいなと思って作ってる。
わたし自身は、ハンドメイド作って売るわけじゃないんだけど、日本のハンドメイド作家のレベルはすごく高いのに、値段があまりにも安いので、いっそほかの国の人に見てもらいたいと思ったから作った。
技術的にはたいしたことはしてないんだけど。
今後の課題は、関税について調べることかな。発送料金をどの程度にするかもちゃんと決めないといけない。
それと、法律。裁判にならないような注意書きの書き方を学ばないといけない。

したいことを忘れないように書いておこう。
ベシー占いのサイトは、長い間あきばれさんにお世話になっていたけど、自分のところでやっていきたい。
ベシー占い
SEO対策も多少はできるようになった。
旅行も行きたい。ミシンを買って洋裁を覚えたい。洋裁はおばあちゃんが仕事でやっていて、自分で小さな工場を立ち上げて、マクレガーとかあとは名前は忘れたけどブランドの下請けをやっていた。わたしは、おばあちゃんから、そういう魂みたいなものを受け継ぎたい。起業精神とかね。
彼女は、水飲み百姓をして、洋裁を覚えて、セーターを編んで、シイタケ栽培をやって、畑やって、いいタイミングで売って、洋裁工場して、山やって、って暮らしていた。それでも最後には弱って死んでしまった。
形見になるものを受け取れなかったから、せめて精神だけは受け継ぎたいな。
とはいっても、できることがすごく少ないんだけど。
どれもちょっとやっては中断してて、何もかも中途半端。
中途半端なのは、オンラインショップ、プログラミング、英語の勉強とか。すぐ疲れて動けなくなってしまうから悔しい。


アトピーと躁鬱とASDのスキンケア晒す

わたしはツイッターで自撮りをすぐあげるので知っている人は知っていると思うけどわたしはデブ&アトピーで肌がボロボロで、常々自分でもかわいそうだと思っている。

ので、今わたしが使っているスキンケアを書いておきます。

わたしは、ナッツアレルギーなので、スイートアーモンドオイルが入っていると死にます。そして、ちょっと高いハンドぐりーむに入っている率は高い。オーガニック化粧品にもよく入っている。おそろしい。

クレンジング、シャンプードレッサー、ボディーソープを兼ねた一本。
上からわしわし洗っていける。

これも好き。たまのはだ。


これはトリートメントも兼ねている。

保湿はこれで今のところはいい感じ。


濡れたまま塗るのがポイントで、そうすると、お風呂あがりにタオルで拭けるのでべたべたしない。パジャマが油でべたべたしてきた歴史が長すぎてもういやなんだよね。濡れたまま塗るので当然乾いた肌に塗るよりも塗りやすいししっとりする。

アクルのエッセンス。これだけで手入れがオッケー。肌も荒れないので好き。

でも高いので、

普段は同じアクルの「myu-rusエラムローション」500ミリというのを使ってます。これはそんなに高くないです。値段は忘れた。

乳液は定まっていないです。無印の使ったり、アルガンオイル塗って髪にも塗ったりします。

ファンデーションは、クリニーク使ったり、アナスイ使ったり適当ですが、一番楽なのは、

オンリーミネラルのプレストを使ってます。振って出す奴だとこぼすしめんどくさいから。下地いらなくて、せっけんで落とせるのがいい。
今はそういうのたくさんある。
ほかにもナチュラルグラッセ使ったりもします。エトヴォスとかママバターも使ってみたい。
ほかにもいいらしいものがたくさんあるので、試したい気持ち。
オンリーミネラルは白っぽいので、ちょっと暗めの色を選んだほうがいいです。


本当に欲しいものに限って買えない

ほしくないものはバンバン買うことができるのに、本当に欲しいものは買うことができない。
自分が本当に欲しいものが何か、自分でもわかっていない。

伴侶によると、お金を使い切らないといけないと思って、「がんばって」使っているように見える。
買わなくてはいけないものを検索して探しているみたいに見える。
伴侶は、わたしがほしいと言っていて、迷って、結局は買わなかったものが本当に欲しいものなんじゃないかと言った。

わたしは、エステに行く計画を立てていた。デパートでクリームを買うのを楽しみにしていた。tamanohadaのシャンプーを買いたかった。でも、どれも、買わなかった。
一か月か二か月、ずっと計画していたのに、お金が入ったら、それらを手に入れる前に、ほかのものに使ってしまった。
指摘されて、はっとして、それから奈落に落ちていくような気がした。真っ暗な中に閉じ込められたみたいな。
その真っ暗な世界はわたしが作ったものなのだ。
つまり、わたしは暗愚だってこと。

真っ暗な世界で、手探りで何がほしいか欲望を探す。これが手に入れば、きっと幸せになれる、これを今買わなかったら二度と手に入らない。そう思って、いつも焦る。焦って、頭が真っ白になって、何も考えられない。ただ、わかるのは「今買わなきゃいけない」ってこと。本当はそんなことないのに。

お金を使い切らないといけないこともないのに、使い切らないと「盗られる」と思っている。
でも、盗った人間はもういない。
父親はわたしからいろいろなものを盗った。母親はわたしの人生を盗った。
母親はわたしの若さに嫉妬して、それでいて、自分の分身として認識しており、自分の代わりに栄達を望んだ。わたしはずっと自分をマリオネットみたいに感じていた。

買い物をすると、嘲笑され、怒鳴られ、返してきなさいと言われて、自分がほしいと思ったものはいつも間違っているのだと学んだ。
でも、奴らはもういない。残念ながらまだ生きているみたいだけど(こればっかりは早く死んでくれないと困る)。

わたしが人生に登場しないようにした人間(親や同級生)のせいでなのか?わたしは自分の欲望を正確にとらえられない。
あいつらのせいでなかったら、わたしは大バカ者なので、頭を砕いて死んでしまいたくなる。
帰宅してからずっと自分を破壊してしまいたい。自分の欲望を正しく理解することもできず、ほしいものも買えず、それなのに、散財するなんて、本当に馬鹿だ。
エステに行きたかったな。クリームもほしかったな。練香水もほしかった。でも、もうだめ。
はっきりいって、わたしみたいなできそこないが生きている意味が分からない。わたしなんていなくなったほうが、みんなのためになるだろう。わたしもわたしがいないほうがずっといい。いなくなりたい。消えたい。どうしようもない。出口が見えない。苦しい。

本当はそうじゃないと思うんだけど、そして、伴侶はそんなこと言っていないけど、
「わたしがいないほうが、ずっと彼のためになるんじゃないか」という疑念が頭の中に充満していて、ただ申し訳なくて、申し訳なさを表現するために消えるしかないと思ってしまう。


自己卑下と自己憐憫

わたしは、金遣いが荒い。
伴侶はほとんど自分のために何か買う人じゃないので、余計私の金遣いの荒さが際立つ。
わたしが買うもので、生活を豊かにするものや便利にするものもあるので、一概に買い物が悪いとは言えないのだけど。

伴侶は勤勉で、仕事はきちんとするし、穏やかで誰からも信頼される。勉強を常にしているから、どんどん老いていかれるような気がしてしまう。

一緒にいて、彼のメリットは何だろうと思ってしまう。
わたしは、昼間、起きられるときもあるが起きられない時もある。
働いてはいるけれど家族を食わせるほどは働けていなくて、家計の足し程度だ。
仕事のスキルも、あまり伸ばせていない。その点、伴侶は仕事をどんどんブラッシュアップしている。
彼が学びたいという気持ちは本当に純粋で美しくすら感じる。
わたしには、そういうものがないんじゃないかと思うと落ち込んでしまう。

彼が突然わたしを嫌になっていなくなるんじゃないか、と不意に思う。
それは、買い物をしたタイミングのことが多い。お金を使った後、彼の一挙一動におびえてしまう。
不機嫌になるんじゃないか、と不安になる。
彼は決して声を荒げたりはしないのに。機嫌が悪くなることもない。なのに、わたしは、怖くなる。

お金を使わなくなれば自己卑下がなくなるんだろうか。
金遣いの荒さは、去年に比べて、ずいぶんコントロールできてきた。完ぺきではない。でも、前よりはできている。これは事実だ。

わたしができることは事実を積み重ねることだけ。事実を積み重ねて、自分を信頼できるようになりたい。それを自信と呼びたい。


「ありがとう」という言葉の軽さ

さっき、赤ちゃんのミルクの時間になったけれど、めんどくさいなと思っていた。
そしたら伴侶がミルクを入れて赤ちゃんに授乳してくれた。
わたしは「ありがとう」と言った。

それで、思いついたのだけど、わたしは、やりたくないなと思っていて、やってくれたらいいのにな、と無意識に待っていて、そのめんどくささを、「ありがとう」で打ち消したならたいそう卑怯だなと思った。
普段、「今面倒だからお願いします」というか、もしくは、お互い何も考えずに自分で行動するかする。
でも、ありがとうという言葉を悪用して相手を操作したり、頼むというめんどくさいことからも逃れて、やるべきことをしないことを「ありがとう」で隠ぺいすることだってできるなと思った。

わたしは、「ありがとう」ということはとにかくいいことだ、という風に言われて育った。
でも、ありがとうには、二つ悪い点がある。
ありがとう、という言葉を適切に使わないと、立場を弱くして、自分を卑屈にする。
相手がして当たり前のことにありがとうと言っていると、相手が当たり前のことだと思わなくなる。

そして、自分がありがとうで済ませる人間になることもある。
めんどくさいことを人にやらせて、ありがとう入っているから悪い人間じゃないんだよ、みたいに。

めんどくさいことを人にやらせて、ありがとうで全部帳消しにしてしまって、でも、どこか卑屈な気持ちになって、どんどん自分が嫌になってしまうような、ありがとうの使い方は気を付けようと思った。

ありがとう、ごめんなさい、の代わりに、助かった、でもいいし、次からはしません、こういう風に気を付けます、という風に言葉を惜しまず話したい。ありがとう、ごめんなさいは、言いさえすればいい、魔法の言葉みたいになって、いろいろな事情をショートカットしてしまって、自分の気持ちも相手の気持ちも見えなくする。端的に言って、心の動きに関して、言語化することがおっくうになって怠惰になってしまう。


責任逃れのための「自己責任」「他己責任」

自己責任という言葉は、責任逃れのための言葉である。
他人に対して、「自己責任で」というとき、「俺に責任はない」ということだけを言いたいのだ。
もっといえば「俺に迷惑をかけるな」という意味である。
もっとも卑怯な人は、他己責任だ。こんな言葉はないが、「自分に責任はない」ということだけ言いたい人がいる。
自分がしたことに対して、責任を取りたくない人は、ほかの誰かのせいにする。
何か問題が起きて、ほかの誰かのせいにするために、ほかの誰かに「自己責任だろう」ということは両立する。
自己責任だとうそぶく人の本質は、他己責任なのだ。

国が法律を作り、それに沿って社会が動く。だから、社会の動き方には、国が責任を負う。
そもそも、社会は、一人で生きることよりも集団で生きることを選んだ人類の工夫である。
弱いものが弱いままで生きられるようにするために社会が存在する。
社会が、個人を追い詰めるのは本末転倒なのだ。

自己責任だと教え込まれて、それを自分へも課すと、うまくいかない時に、原因を自分に求めるしかなくなる。
仕事がうまくいかないのも、貧しいのも、病気なのも、自分のせいだ、というわけだ。
仕事がうまくいくかどうかも、貧しさも、病気になるかどうかも、運の要素が大きい。
健康的な生活を心がけても、体調を崩しやすい人もいる。仕事の相性がいいかどうかは、運しだい。貧しさも、努力できるような家庭環境に生まれたか、ということが大きく影響する。お金を儲けられるような健康体、性別、国籍でないと難しい。
すべてに恵まれていても、大きな災害に見舞われたらすべて失うことを思えば、全部運だということを納得してもらえるだろうか。

義務と権利は表裏一体ではないのに、いつまでも表裏一体だと信じている人々がいる。
義務を果たさなければ権利を主張するな。
主張を垂れ流すな。
声高な人のせいで、まともに生きている人が迷惑する。
いつも怒っている意識の高い人は不幸なんだろうね、かわいそうに。
本当に日本人なのか。
日本が嫌なら国に帰れ。
そういうことを異口同音に繰り返す人々がいる。
バカみたいだ。

「女はまともに考えることができない、感情的だから」といまだにいう人がいる。
それがすでに論理的な発想じゃないから、言葉も通じないと思って、わたしはもう黙ってしまう。
時代は後退している。

上記のような言葉をいう人々は、でも、やっぱり追い詰められていると思う。これらの言葉を自分に向けないようにしているだろうけれど、書けば目に入るし、言えば耳に入る。人間は自分の言った言葉も聞く。だから、結局、それらの人々は、自分の言葉に追い詰められていくんだろう。

上記の言葉はすべて、「自分には責任がない。こちらに迷惑をかけるな」とだけ言っている。
それらの言葉をかけられた人には迷惑が掛かっている。でも、それは見えないらしい。


依存を超えて自分を生きる

山口達也と非生産(田房永子さん)

この記事を読んでいろいろと思うところがある。

わたしが真に困ったときに、贈られた言葉で「自分を生きてください」というのがあった。

「自分が生きる」が「自分を生きる」になったとき、自由になれますと言われて、心が強く動かされた。

わたしは、依存心の強い人間で、いろいろなものに依存してきた。人に依存したときは最悪だった。お互いに。

出産後、依存することが減った。過食傾向があったけれど、食べることにも依存しなくなった。

この記事を書くにあたって、「子供に依存してるのかな」とも思ったけど、それも違う。

ということを書こうと思う。

以前、田房永子さんの「キレるわたしをやめたい」について「この場面はキレていいと思う」という感想を書いた。それは今でも変わらないんだけど、産後「キレる」ということが増えた時期があったので、「このことを言っているのか」と思った。

たとえば、哺乳瓶を洗っていると、頭の後ろのほうで、パンっとなにかはじけるような感じがして、そのまんまキレてしまう。

怒鳴って、伴侶をたたき起こす。何やってるんだよ!と。

それで、いろいろ対策した。

振り返って、スローモーションで再生すると「頭の後ろのほうに白い塊がわく→それが破裂する」の間には、「なんでわたしばっかり」という気持が隠れていて、その気持ちが「今もそうだし昔もそう」ということを訴えていた。

生まれたときからの恨みがそこにあった。

生まれたときからの恨みを解決するのは難しいので、「わたしばっかり」と思ったら、とりあえず、それをするのをやめようと思った。

キレて家がぐっちゃぐちゃになるまで泣くより、わたしが育児をしないほうがましだという言い訳もあったけれど、それより、恨むくらいならやらないほうがわたしのためだと思ったから。

ましだからだとかなんとかとか、人や自分に言うための言い訳もやめたかった。

わたしがしたくないからわたしはしない。

そういうシンプルなことが大事だろう。

実際には、子供の世話をしたくないといっても、それを代わってくれる人がいないと実行できない。だから、伴侶に頼んだ。

それ以来あまりキレていない。

だから、そういうことなんだろう。本当はしたくないのにしなければならないからしている。だから、しなくてもいいように状況を整えて(そうすることで責任を果たして)、しない。

伴侶には負担をかけて申し訳ないと思うけれどキレたってどうせ負担はかけるから、彼が嫌になったらその時話すしかない。わたしはどうしたって、わたしでしかないから、恨んでキレるか、恨まないで生きるかしかない。

それでも暑い日にはキレることもあるので、キレそうになったら、薬を飲むようにしている。漢方薬も飲んでいる。効いていると思う。

依存をしているときは、単調な刺激をひたすら摂取して、脳を使わないように、刺激で満たして、時間をショートカットしている。幽体離脱と同じだ。今を生きていない。だから、そういうときは、生きている実感がないし、時がたつのがとても早い。それで、自分の人生がいつの間にかまた知らない間に失われてしまったと嘆いて、また恨む。自分の人生を親とか子供に盗られてしまって自分のしたいことができてないと言って恨む。依存しているときにはそれに夢中だから何も考えなくていい。考えているつもりだけど本当の意味では考えていない。

「考えるのをやめる」ことと「依存をやめる」ことは似ている。

考えることをやめるのは思考停止みたいだけど、思考することで生きるのをやめるという状況がある。それが依存。食べることを考えていて食べていてどう食べるかいかに食べるか、それしか考えていない時って、頭使っているようで使っていない。食べることで生きている感覚を取り戻し、そして、食べることで思考をマヒさせる。

だから、食べることについて考えることを止められてようやく生きるみたいな感じになる。

食べることばかり考えているときとか、あと何時間したら睡眠導入剤(以下睡眠薬)を飲めるかだけ考えているときは、生きてはいるけど人生を生きていない。「わたしを生きて」はいない。人生がつらい時、ひたすら睡眠薬を飲める時間を待っていた。睡眠薬を飲むとぼんやりするから。そのぼんやりを「思考が研ぎ澄まされている」ように錯覚しているときもあった。別に何でもいい。睡眠導入剤じゃなくても、過食でも、なんでもよかった。

 

自分が人生を生きなきゃ死ぬってことが本当に腑に落ち始めたのは、五年前が始まりだったと思う。それまでどうやっても無理だった。親を捨ててからようやくやめられた。それまでは「自分で好きなように人生を生きるのは親に悪い」と思ってできなかった。親と縁を切って親に対して理由を説明しなくなってからよくなった。理由を伝えて説得しないといけないと思っていたから、依存しないといけなかった。説明をしなくてはいけない立場は常に弱い。

わたしの親は「理由」をとにかく求める。納得しない。だから、いつも理由を考えて行動していた。そういうのは、わたしのためじゃなかった。親はわたしのためだと言っていた。でも、わたしのためにはなっていなかった。

 

自分が自分を生きないと人生はこのままなくなる。もうすでに30年なくなっていたのに!なくなってしまった!親を許せない。苦しい。憎い。殺してやりたい。

という思考と、

親を許せないが、過去のことを反芻していたらさらに現在が失われる。

という現実の間で五年間苦しかった。どちらも本当だった。

 

親を許せないという気持ちを紛らわせるためにライフステージを進めることが必要だった。友達を作って、居場所を作って、お金を稼いで、伴侶を得る。生活の基盤を確保する。根無し草にはもうこりごりだ。根無し草のままだと子供として扱われて親に入ってこられてしまう。

そういう危機感があった。こんなに明確に思ってはいなかった。明確に思っていたら、相手に悪いと思って、行動できなくなっていただろう。

幸い、みっともないことをなりふり構わずした結果、伴侶を得て、生活の基盤も落ち着き、子供も授かった。

子供を見ていると、子供は成長しようとする方向性を持って生まれていることが分かる。成長は親と距離を広げるということだ。成長すればするほどどんどん離れていく。胎児から新生児、新生児から首が座り、寝返りができ、腰が据わり、ハイハイをする。抱っこする時間がどんどん減る。向こうから来たいときに来る。ハイハイし始めてから、一人遊びの時間がどんどん増えた。子供が親と距離を取るのは自然なのだ。生まれたときから決まっていることだ。それが腑に落ちた。

わたしは、親と別の人間だったのに、侵入されていたから、バランスをとるために、依存をしたり、体や精神のバランスを崩した。親がいなくなれば、原因がなくなるので、元気になった。

依存は生き延びるための手段でもある。依存症や、病気になるから生き延びられるということもある。でも、その生き延びるための手段を捨てて、生き延びる以上の生き方をすることもできる。

 

 

わたしは、田房さんという作家に特別な思いを抱いている。

同世代の似た属性の作家さんだから。

そういう、関係あるような関係ないようなことを考えてこの記事を書いた。

 


【女装して一年間暮らしてみました】の裏切り【感想】

ふむふむと読むことができる部分があったけれど、最後に残ったのは落胆だ。

男が女装をするとき、そこには選択肢がある。

女にはない。女は嫌になったからと言ってやめられない。男が女装して女として暮らしても、止めることができる。

わたしたちは、スカートや下着を楽しむことができる一方、それを拘束着としても感じる。

ハイヒールは痛い。したくてするのと、したくないのに、義務や圧力からするのとは違う。目立つと、たたかれる。自分を表現する服装にたどり着くのは難しい。わたしにとって、女の格好をすることは、自由を獲得する行為でもあるが、その一方で、圧力によって装うからだ。

男の服装は、彼の言うようにシンプルだ。ズボンを履いてシャツを着て、ジャケットを着れば事足りる。

女はそうではない。爪が引っかかれば一瞬で破れるストッキングは一枚500円で、それを穿かないとマナー違反だと言われる。

はきたくてはく人もいるだろうが、そうじゃない人もいるのだ。

最後に、女性が変わるべきだと、メッセージを送って、女装をやめたくだりには、失望した。失望、がっかり、一年間してみて、その感想だったのかと。

男が女性に持つ妄想と、女が男に持つ妄想と、どちらがきついかと言えば、男の持つ妄想のほうだ。男は、女の体を扱う時、「女は痛みを感じない」という前提で触れることが多い、わたしはそういう経験をした。

たしかに、女が男を人間として見ないで、「理想」の型にはめることはある。

でも、男だって昼は処女、夜は娼婦みたいな妄想を持つ。どちらが有害か。

彼は、女が男に対する妄想をやめればいいというようなことを言った。そこから男は変わると。男は変わりたがらないからと。

それはとても卑怯だ。彼は、性暴力の被害に遭った。女の姿をしたら、どれだけ暴力にさらされているのかわかったはずなのに、「女に変わることを求めた」。

男は変わる気がないから、変えるとしたら女が変わるべきだと。

では、あなたは男ではないのか。男として、男を変えることができるはずではないのか。女が男を変えるよりも、ずっと楽なはずだ。なにしろ、彼は男の中でもエリートで、男に対する影響力があるから。

女には、男に対する影響力はない。

女装は、女にとって、楽しみである一方、苦しいものでもある。

それを彼はごまかした。

彼の中の女の部分を大切にして、彼が解放感を味わい、本当に生きる実感を得たのは素晴らしいことだと思う。

でも、たった一年間でなにがわかったんだろう。

上澄みだけ。

男が女を人間として扱わない経験を彼はした。男友達は失せ、暴力にあい、軽視された。

男が女を人間として扱わないのに、どうして、女が男を変えることができるんだろう?

こちらが何をいっても、人間がしゃべったと思ってももらえないのに。

生まれてからこのかた、女として扱われることが、どれだけつらいか、彼はたった一年で音をあげたことからもわかるだろう。

彼はそれをわかっているのに、女に変われと語った。欺瞞だ。

彼は、その経験を持って「男」にアプローチするべきだった。

女に語るのではなく。彼はきっと、女に語るほうが負担がなかったのだ。

女の姿をしている間、男に暴力を振るわれたから。それで、簡単なほうを選んだ。

わたしは、だから、読後、騙されたような気分になった。