なぜ男が女になりたがるのか

なぜ、男に近ければ近いほど、トランス女性は女性ですと呼びかけるのかという謎

なぜ、男が、男の体のまま、女の領域に入りたがるのか不思議だった。

それは、trans genderの言葉の意味通り。transが「越境」という意味である通りだった。

男には、男の領域がある。女には入れない(例:土俵。山。神社)。男には女の領域に入れないという建前がある。

女が土俵に入ろうとすると、物理的に排除される。男が、女の領域に入ろうとすると、物理的には排除されないが、公の力によって排除される。

そして、それを許せない男がいる。

女嫌いが強いと、女にもジブたちの領域があること自体が許せず、憎しみの対象になる

ドクター差別が示すように、男が入れない領域を女が持つこと自体を許せない男がいる。彼は、自分を女だと言って、女性専用スペースに入る。ミソジニー(女嫌い)が強いと、女が安全に過ごす場所があること自体が、認められないのだろう。

弱った女は支配しやすい

女にはいつも傷ついて、弱っていてほしいという欲望が男にはある。それは、大昔、泣きゲーというジャンルで、アビューズされた女性ヒロインが量産されたことからもわかる。傷ついて弱っていると、支配が容易である。そのため、女が健康で、安全に過ごし、安心して、自己肯定感を育むことを阻止する。自己肯定感が育まれた女は支配が容易ではない。

男は、そうした女を憎む。「強い女」と呼んで、健康な女をいじめつくす。自分たちを弱者男性と呼ぶ。そして、同情を誘って、被支配層が、正常な判断をできないように感情に訴えかけてコントロールする。これは、カップル間のモラハラの手口でもある。

男は、女の領域まで完全に支配したい

男には入れない領域があると、その場所では、女を支配下に置けていないことになる。

また、支配下に置いていない間、女が健康に過ごすこと(それ自体が反乱)を防ぐために、男は、トランスという切符で、女性の領域に越境することが必要だ。

越境とは完全な支配

初めから、trans、つまり越境することを彼らは主張していた。そのままの意味だった。わたしがなぜ、そのままの意味を理解できなかったかというと、同情心に訴えかけられ、幻惑されていたからだ。ごまかしがあった。

トランス女性は女性です、という言葉は、男が男の体のまま、女性の専用スペースに入るという意味を持つ。女が、非男のっ領域すべてを投げ入れられているのだから、GIDが去勢されることで、社会的に女として認められるのは道理がある。not man is woman だから。

元に戻れないほど、治療が進んでいる人ほど、女性の立場に立つのが不思議だった。not man is womanだ。彼らは男の体ではなくなってから、女性として生きている。

なぜ、GIDがくたばれGIDと言われるのか

GIDが「くたばれGID」とまで言われるのは、トランスジェンダーを主張する人たちにとって、彼女たちが都合の悪い存在だからだ。彼女たちは、その身体でもって、去勢されなくては女にはなれないという前例を作ったので、女の領域への切符だけがほしい人たちには、都合が悪い。

ときどき女になりたいという欲望は、女のセーフスペースを破壊したいという欲望だ。彼らは、女のセーフスペースの存在が許せない。去勢されている限り、男は、女を侵略できないという意味付けを男たちはしているから、侵略を目的にしている限り、ペニスが付いたまま女のスペースに入らなくては、侵略が達成されない。それでは意味がない。だから、男は、「トランス女性は女性です」と言わなくてはならない。

ときどき女になりたいという欲望

「トランス女性は女性です」の意味は、女の領域への侵略の宣言だ。男が、ペニスを暴力とセットに意味づけているのだから、ペニス付きで女になる。つまり、男にいつでも戻れるように可塑性を保った状態で、女になれば、完ぺきな女の支配ができる。

内心は誰にも点検できないことを逆手にとって、女への憎しみを達成するために、男のまま、女の領域に行き、男の体の存在自体で、その場所を破壊する。

越境による支配

二項対立を破壊し、社会的構築物である性別の意味をなくす、ことの意味しているのは、女の文化の破壊だ。たしかに、そうすれば、差別をやめろとは女も言わなくなる。完全に支配されてしまうのだから、見た目上、差別や暴力や加害はなくなる。

トランスジェンダー自体が、女を完膚なきまでの支配下に置くことを意味している。トランスは越境や超越という意味だ。男の体のままで、女性専用スペースに入る切符だ。そのために、女たちが「安全のために女湯や女子トイレに入らないでほしい」と訴えたのに、「権利の侵害」「差別」と退けていたのは、筋が通っている。

男は安全なままだ。男が女の領域に入っても、何の危険もない。また、トランス女性だけでなく、リベラルや左翼の男性が、もろ手を挙げて賛成をして、それに異を唱える女性に過剰な攻撃をしていたことにも納得できる。

攻撃は、支配したいという欲望がそのまま表れていた。支配したければしたいほど、攻撃的だし、攻撃的な人間だから、支配したがる。表裏一体だ。

議論すれば、これらの欺瞞に気が付かれるから、「議論自体を差別だからやめろ」とののしっていたのだ。

男性は、女性を支配するために、トランス女性を使った。男は何一つ痛手を負わず、女性を支配する。

彼らは、侵略すること、すべての場所を支配することを権利だととらえている。それが叶わないことを差別だと思っている。女をどこまでも見下しているから、女が健康で安心して過ごしていること自体が許せないのだ。トランスは越境だった。確かにそうだった。最初からずっとそうだった。トランジェンダリズムとは、越境を通して、女性の最後の場所を奪い去る運動だ。

性別は生贄。女の定義が壊されても、わたしの体が残っていく。

男で、「男とは何か」で悩んでいる人はいるけど、「自分が男かどうか」で悩んでいる人あまり見ない。考えてないんだと思う。

その点、わたしは自分の性別を女と呼ぶのがどんどん難しくなってきた。

それは、ペニス付きの女を認めろと迫られているからである。

ペニス付きの女を認めるということは、女という言葉から表面をはぎ取って、生贄という本質をむき出しにする行為である。男は、女の境界を壊すことで、生贄をより生贄らしく扱うことができる。生贄から最後のプライドをはぎ取って、自分たちがより扱いやすくする。

学問的な、情緒的な正しさという砂糖衣をかぶせて。

また、それは、男が「こいつは女だ」と言及することで、自分の男らしさを確認しやすくする。男の定義もあやふやにぼやけているから、彼らが男でい続けるためには、「こいつは女だ」と示している必要がある。常に。

ペニス付きの女も女性だと認めろとは誰も言っていないというかもしれない。でも、トランス女性は女性です、ということは、トランスジェンダーが、gid以外の概念を含むのだから、ペニス付きの女性を認めろということと等しい。

「事情があってオペができないトランス女性のことも考えてください、彼らにも更衣室やトイレや公衆浴場を安全に使う権利があるんですよ」というのは現実的にはペニス付きの女を認めて受け入れて怖がったり警戒したりせずに、なおかつ、何か起きたときの被害はどうしようもないから被害者が何とかして病院に行くなりカウンセリング受けるなりして誰にも言わずに何とかしてくださいね、加害を受けたと知ってショックを受ける人もいるんですよ、みたいな話なのである。

わたしの頭の中で話が混線して一体化するとこういう話になる。異論は認める。

そんなの、もう、人間じゃなくて、生贄じゃんと思ったんでした。性別が女とかいうから、人間だと勘違いをする。地位としての性別は、生贄だ。

男も、たまには女になってみたい、欲望されたいと思うから、ときどき女装をする。女の記号を身に着ければ、女らしくなって、女として欲望されると思っている。欲望されるのは、きっとものすごく気持ちがいいんだと、妄想で、嫉妬して、女を憎む人たちがいる。

男のまま、女の姿を模して、女になることで、欲望し、欲望されるに何かになれると思うから、女の定義を変えようとする。女にもペニスがあります、という宣言は、自分が、男のまま、女にもなりたいという欲望の表現だ。

それなら、もう、実態に即して、「女」というものはなかったということにしてほしい。彼らが言うような、二項対立があるから駄目なので、二項対立をなくす、そうすると差別がなくなるというような、あんぽんたんな議論から降りたい。彼らというのは、学問的な言語空間を作り、自らその王になった人たちのことだ。

そして、わたしは、女というものはもともといなくて、それは、男に存在する虚飾にまみれた妄想であるのだとわかった。彼らは、女のイメージを自由自在に操る。その意に沿わないものを女と認めない。

その妄想の生贄になる人たちがいる。生贄たちは暴力行為を行わない。男は暴力でしか変わらない。女はどういうわけか男に対して暴力を振るわない。結果として、女の地位は、生贄のままだ。

わたしたちを「女」と呼ぶことで、「男」の地位にいる人たちは、「女」に暴力を振ることで「男らしさ」を強める。

暴力的加害を起こすのは、二十代から四十代の男たちだ。つまり、勃起能力のある男たち。

わたしは、かつて女と呼ばれていた、今はその名もぼやけて、自分の性別が分からなくなった人たちの解放運動をしたい。その人たちは、ペニスがないゆえに、衣食住のすべての世話をし、学ぶことを許されず、労働を正当に評価されず、仕事に就けず、育児だけでなく介護を無償でやらされ、オナニーの道具としてもてあそばれるのだ。そして、食事ができているのだからお前たちは幸せだろう。住むところまであるんだからイージーモードだと言われる。

二項対立は否定されていいものだと思うが、その一方で二項対立が学問的に否定されたかと言って、この体に紐づけられた意味と染みついた経験は残る。

二項対立は否定されたので明日からアップデートして、いろいろ忘れて仕切り直してくださいと言われても無駄だ。だいたい、わたしが自分を女だと思っていなくても、「あいつら」は、女だと思ってるんだから。それは、わたしが自分で規定してきた自分の体に紐づけた言葉の意味を奪われても、わたしにからだが残っているからだ。わたしたちは、からだを使って生きているから、からだに意味を持たせる他者がいる限り、その意味からは逃れられない仕組みだ。

それが女である。

Twitterでの議論が重なっていくうちに、女という言葉を使うとどんどんあやふやになるうち、「ちんこあり湯」「ちんこなし湯」と言い換えればいいんじゃないかという説も出てきた。

わたしが少し調べただけでも、ペニスがあるだけで、性犯罪だけでなく、暴力を伴った犯罪の危険は跳ね上がる。跳ね上がるというと十分じゃないな。暴力的な加害は、9割以上が男が起こす。

この犯罪傾向が示す事実と、社会が男によって支配されていることと無関係ではない。

あなたはヒグマだらけの折に閉じ込められて「どのヒグマがあなたを食べるかわかりませんが、平等に接してください」と言われてその通りにできるだろうか。

信頼関係を築いたヒグマとだけ仲良くするが、いつ裏切られるかもわからず、裏切られたときに非難されるのが自分だという世界で、自己防衛的にならずに暮らせるだろうか。

ペニスに暴力の意味付けをするのは男である。
男が加害の主体だから当たり前だ。被害を受けるというのは客体だということだ。客体である女に意味をつけることは許されていない。男は、女性に去勢された男という意味をつける。去勢された男は、生粋の男に対して、暴力を振るわない。反抗もしない。

男が、「男でなくなった」と嘆くのは、勃起能力が失われたときだ。そのとき、彼らはアイデンティティクライシスに陥り、自分を見つめなおすことを放棄して、バイアグラを飲み、虚無を紛らわす。

実際、性犯罪を起こすのは20代から四十代がほとんどらしいので、要するに勃起するやつらが加害する。勃起しなくなると男であっても、加害しなくなる。あきらめるんだろう。加害の舞台から退場する。

アメリカの性犯罪の割合を調べた この記事

を参考にして計算したところ、殺人についてはまだ検証していないが、性犯罪については、mtf(gidだと仮定して)は女性よりも犯罪傾向が高いが、生粋の男性よりは性犯罪を起こす割合がかなり低い、という結果が出た。女装の男の犯罪率は、生粋の男に比較的近い。
女性が、「ペニスつきの男」を恐れるのには理由があるのだ。

だから、冒頭にも書いたように「ちんこの湯」「ちんこなしの湯」というのは、理にかなっている。それがフェミニズムにとって後退だと言われようが何だろうが、わたしたちにはセーフスペースが必要なのだ。それが必要ではない、甘えだと考える人には、説明してもわからないだろう。その人にとっては、意識しなくても、常に世の中がセーフスペースだから。

男は、自分自身の性の定義で悩んだことはないのだろうか。勃起機能を失って、男じゃなくなったと嘆く以外に。

わたしはとても悩んでいる。女とはペニスがついていないほう、という風に考えてきたけど、射精でき、女をはらませることのできる「女」の存在を認めろと迫られているからだ。

なぜ、男たちは、自分が男だと確信を持っていられるのだろうか。

ペニスがついていても、女として自分が認識される。ペニス付きの女がいるということは、ペニスがついていても、女か男か確信が持てなくなるはずだ。男たちは、そうした世界は怖くないんだろうか。ペニス付きの女は、例外だと思っているから?

怖くないのだとしたら、それはただ、「考えていない」からである。彼らは当たり前に男だ。今までもそうだったし、これからもそうだ。そう感じているから、彼らは思考しない。その一方で、男の定義が空虚なので、自分の性別をはっきりさせる行為の一環として、自分と異質なものをはじき出して、女の領域に加える。

彼らが男になる、と言ったとき、それは「性行為をした」というときである。勃起と男であることを結び付けている。だから、男であることにも悩まないし、女がペニスの欠如に悩んでいると滑稽な妄想から離れない。もし、性行為をしたことがなければ、自分が男になれないのは女のせいだと恨む。一貫している。

女が、男の否定であることをやめるとき、男は自分を定義できるのか。ペニス付きの人間を男だと呼べるのか。

今、ペニス付きの人間を女だと言わせるのだから、ペニスがついているのだから男だとは言えなくなっている。

ペニスつきの人間が、男とは限らないという問いを、自分に突きつけることができないなら、わたしが突きつけよう。

「ペニス付きの人間をあなたは女と認めろと、女に迫ってきたのだから、あなたもまた、ペニスがついているからと言って男とは限らない」と。

女の記号と脱コルセット

以前、脱コルセットについて、否定的に書いたことがあった。ミソジニーの仕組みという記事だ。

わたしは変化にはまず懐疑的になる。受け入れるのに時間がかかる。ただ、否定的とはいえ脱コルセットについて、書いたのは、なんとなく大事なことらしいと思ったからだ。引っかかる部分があった。

わたしは、自分が、脱コルセット実践者よりもはるかに年上だということを意識していなかったから、自分の言動が、彼女たちに抑圧に働くと思っていなかった。謝罪したい。

わたしが彼女たちの抑圧に気が付かなかった理由

世代の差が、彼女たちが言う装飾についての感覚の理解を難しくした。

わたしが子供のとき、大人の女性で化粧をしている人は少なかった。服装にこだわっている人も少なかった。子供もおさがりやジャージなどを適当に着ていた。高校生になっても、みんなスニーカー、ジーンズ、Tシャツを着ていて、秋服と春服の区別もしておらず、中途半端な時期にはカーディガンを羽織って済ませていた。高校生くらいの時だったか、ヤマンバメイクが流行ったが、それはテレビで見るくらいだった。脱毛もしている人は周りにいなかったし、就職活動の時に、本格的にメイクをしたのが最初だった。抑圧の方向は「華美にならないようにすること」に向いていた。自分の美醜にこだわるのは、良くないことと言われていた。

あさま山荘事件で、女性らしく振舞ったから殺された人がいたのはトラウマになったし、生まれてから冷戦や、イラク・イラン戦争、ポルポトの虐殺などの報道で知る限りは、女性が丸刈りにされ、女らしくしても殺されず、おしゃれができるのは平和のあかしだと感じた。

だから、わたしは、今の若い人たちが、美醜についてどれだけ抑圧されているのか察知できていなかった。自由におしゃれできて素晴らしいとばかり思っていた。おしゃれをしても安全で大丈夫なのだと錯覚していた。彼女たちは、中学生、高校生くらいからヒールのある靴を履いて、化粧をして、髪をつやつやにして整える。脱毛も一般的らしい。もちろん、あさま山荘的なトラウマもないようだ。装飾をすることで、大丈夫ではなくなっているなんて知らなかった。自分たちの健康を害していることも知らなかった。それはわたしの怠慢だった。

脱コルセットが開放的に感じられる気持ちから遠かった。

自分が女らしかったかどうか

わたしは今まで自分の体毛をそったことが四十回くらいしかなく、化粧も週一回で、しごとも化粧しないで行く。

それで、彼女たちが切実に脱コルセットを求めていることが分からなかった。

とはいえ、それは、わたしが女の記号で自縄自縛になっていない理由にもならなかった。たぶんわたしは女らしい。

やってみないで否定するのはよくないと考えて、どうやれば脱コルセットになるのか、教えを乞うて、自分でもやってみた。髪も切った。

それで、わかった。

脱コルセットをしても、女であることは変わらない

わたしが女だということは、どうしても変わらないことだった。

わたしがどれだけ女性の記号を外そうとしても、生まれてこの方、女性として扱われた記憶は、心身に染み込んでいて、どうにも外せないということ。また、わたしはどこまでいっても女に見えるだろうということ。わたしは女に見えるだろう。そして、女として扱われるだろう。

日本において、女として扱われるということは、生贄として扱われるのと同義だ。わたしが脱コルセットをしても、それはかわらない。ただ、自分を自分で差別するのをやめることができる。

自分の中のミソジニーが言動を裁いて自分を傷つける

わたしは、自分に自信がないのは、自分の中にあるミソジニーが、女性である自分を攻撃しているせいだとわかってきていた。そして、自分から女の記号を身に着けることは、そのミソジニーを強化もしていた。自信がないからいろいろなものを買って、自分を補強するのだが、ベースの自信がないので、買ったところで何も変わらなかった、だから自分はバカなのだと、また自信を喪失する。バカだからいらないものを買うんだと思った。自分で買ったものを、確かに愛しているのだけれど。かわいらしい品々をこんなに愛している。

女の文化を尊重することと、脱コルセットは両立する。それは、他人に対して、侵略的にふるまわないということでもある。自分の決めたことを、自分で実行していて、誰かに認めてもらおうと思わなければ、そもそも話す必要もない。誰かを否定することもない。不当な扱いをされない限りは、誰かに、「こういう風に扱ってほしい」ということもない。

そして、男はそうしたことで悩まない。

男はあくまでも人間でいられる

彼らは、生贄ではなく人間なので、美しくなくても生きられる。優しくなくても生きられる。悩まなくても生きられる。自分が、男足りえるのかと悩んでも、男とは、いったい何によって規定されているのかでは悩まない。

女らしさはわたしを切り刻んでいく。どれだけ捨てようとしても影のように足元から消えない。女らしくあるということは、一段低くあるということだ。優しく、丁寧で、親切。思いやり。それは、自分の欲求をひとまず置いておくことだ。

男は、まず、自分を満たしてから、他人に優しくする。残り物は食べない。残り物や冷めた料理が好きだとかたくさん食べなくても平気だと思われない。

何度、男に「自分を優先してから、他人の世話をすればいい」と賢しらに言われただろう。それで済まされる性と、済まされない性。

それで最初に戻る。

男が男でいるためには、確認するための犠牲がいる

男は、教える。わたしに。お前が女だと。そして、お前が女だから、自分は男なのだ。そういう風に確認している。わたしを犠牲にすることで、彼らは考えず悩まずいられる。

盗撮の話をすれば、「そういうのがあるらしいね」と言われる。説明すれば、彼にもそういう言葉が残酷かわかるし、その残酷さに苦しみもするけれど、彼には言わなければわからない。それは、男だから。

彼だって、性的に怖い思いをした経験はあるけれど、彼には女の、つまりわたしの恐怖はわからない。他人だから。

女にはわかる。わたしの恐怖がわかる。男にはわからない。わたしの恐怖がわからない。恐怖が分からないのだから予防の重要性も気にしない。

その差がどうして生まれるのか。男は考えない。恐怖について考えないから、だからわからない。だから、恐怖を偏見と差別という言葉で塗り替えることができる。

見知らぬ彼をなぜわたしたちは男だと思うのだろうか

彼が男だと誰もが判断する。ペニスがあっても、なくても。

わたしのことを誰もが女だと判断する。わたしにペニスがあっても、なくても。

自分自身で、自分の性を、わたしが決めることができたとしても、わたしを「性別:生贄」として扱う周囲を変えることはできない。

生贄にされた者同士が集まる場所で、ようやく息をつける。安心して、とは決して言えない。でも、ずいぶん楽に息がつける。それは生きていくために絶対に必要なことだ。

だけど、これからはそうもいかないと、男たちは言うのだ。女も言う。性別は社会的構築物なので、その意味を壊していけば、差別は消えるという。

そして、わたしはこう言われた気になる。あなたの社会が十分に壊れていないから、あなたは差別するのだと。

そうではない、とわたしは思う。思うので、言う。

わたしが自分を規定する

男だって、男がなんなのかわかっていない。わかっていないけれど、男が女を規定する、その「規定する行動」をもって、自分を男とみなしている。女という生贄がいなければ、規定する相手もいないのだから、男は男でいられない。それが社会的構築物だろう。自分たちの行動のルーティンとそのルーティンを通した自己確認の循環を壊す気もなく、一方的に、わたしの社会を壊すのは、暴力に過ぎない。

男だから、安心して、境界を壊していけるのだ。その暴力が自分に向かないから、なにも不安にはならない。男は、自分に向いた暴力でしか変わらない。

ペニス付きの女はいない。

わたしが、生まれついてからずっと味わってきた、生贄としての毒を味わったことのない人にはわからない、いろいろな気持ちがある。何も言わずに済ませたい気持ちと、言わずにはおれない気持ちがある。

わたしの性別は、生贄だ。わたしはそれを意識しないようにしながら、なおかつ、それを飲み下して生きていた。わたしから女という呼び名をはぎ取った後にも、わたしの体が残る。わたしはそうして生きてきたし、これからも生きていくだろう。死なないように。

わたしの、女に生まれたが故の痛みは、わたしにしかわからないことだから、わたしはそれを愛している。苦しみながら、それがわたしだと思っている。痛みと、苦しみを慈しんでいる。それがわたしだと思っている。

公衆トイレ論文を使って主張している人たちへの批判

初めに断っておきますが、めっちゃ長い。それはわたしが怒っているからでもあります。真ん中まで読んで、この論文あてにならねーと思ってくれたら満足です。

https://www.buzzfeed.com/jp/mametaendo/transgender-matsuura

の記事について、根拠となる論文が載ってないから、検証不能だし、書き手として信用できない。あとから出してきてもその信用がた落ちだし、根拠があてにならないのだから、その結論も当てにならないという意味で、この記事に何ら価値がないのも変わらんけど、とツイッターで書いてたら

という引用リツイートが来て、「へええええ」と思いました。

別メディアで後出しで教えてきて意味あるのかな。あると思ったのかな。普通に不思議だけど。

で、われわれ(わたしと 公衆トイレ論文は信用ならない を書いた人)は買って読みました。

公衆トイレ論文は日本に適用できない

そして、この論文は、「女性専用スペースに誰もが入れるようになっても、性犯罪が増加しない」という主張を支えるには、不適格だと判断しました。

そして、驚愕の事実がわかったんですけど、遠藤まめたさん、この論文読んでないね。

ねえ、大丈夫なの?みなさん、この人の主張をうんうんうなずいてついて行ってるけど、この人のこと、少なくとも私は、信用できないよ。主張の最も重要な、根拠にしている参考文献を書かない、後出しで別メディアから放り出すように論文の名前を出すだけじゃなくて、読んでない。ほかにもこの論文を根拠にしている活動家見たけど大丈夫?読んでます?

読んでないとわたしたちが考える理由は、調査は法律の施行前後の比較なのに、彼は、法案がある都市とない都市で比較してると紹介してるよね。比較対象群がまちがってる。

これは、根幹なので間違えるのはおかしい。読んでたらうっかりでも間違えないよ。読んだけど間違えたんだとしても、こういう大事なことを間違えたまま、「犯罪は増えません。大丈夫です」って端振ってたわけですよね。支援者も、「そうなんだ」って鵜呑みにしてたんですよね。大丈夫ではないです。

この論文に突っ込みたいことはたくさんある

でね、この論文に突っ込みたいことはたくさんある。

差別禁止法・条例の内容は自治体によってまちまちなんですね.

つまり、比較するなら同じ法律で犯罪だってことになってないと、そもそも比較が成り立たない。

同じ法律で比較できてない

例えば、覗きが犯罪になるA自治体と、犯罪にならないB自治体では、同じ覗きが起きても、Aでは犯罪1になるけど、Bでは犯罪0になるのね。同じ事実があっても、片方は1で片方は0ですよ。でも、刑事事件での比較なので、この1の違いは大きい。サンプル数が小さいので、1の及ぼす影響は大きい。

皆さんご存知のように、ただでさえ、性犯罪は、検挙数も立件数も低い。ハードル高い。苦情数ベースでやるところ。

でも、この論文は、自治体に「犯罪数を教えてください」って手紙書いて、送ってきてもらったのを図にしたものなのです。それだけ。論文の体裁は整っているから、なんかすごいことしたみたいだけど、手紙書いて、データ送ってもらって、計算して比べた。という研究です。

そして、送ってくれた自治体もあるし、くれなかった自治体もある。比較している自治体も、裁くための法律が違うから、同じ行為でも、犯罪になるものとならないものがある。

自治体も大きい自治体じゃない。マサチューセッツの中の自治体の話だから、例えると、多摩の中で、立川と武蔵野と青海の公衆トイレの犯罪数をそれぞれ警察に問い合わせて、教えてもらった結果、法の施行前後で犯罪は増えませんでした、みたいなことです。人口規模がそんな感じ。で、それをだからほかの国でも適用できます、と言われて、納得がいくでしょうか。

多摩地域のトイレ事情を世界に適用できる????

(多摩に住んでいるひとごめんなさい)

環境の質的な差が考慮されていない

公衆トイレも、山の中にポツンとあるものと、町の中で人の目があるものと危険度がどう違うのか知りたくないですか。でも、そういうのが考慮されてないのですこの論文。

それぞれの固有の状況が質的に評価されていなくて、数だけ見て「そうなんだ」と思えますか?

それに、自治体によって、治安も同じではないですよね。多摩地域で例えると、小金井市と町田市の治安の差とか気になりませんか????

どっちが治安悪いとか。人口密度の差とか。この論文ではそうしたことが考慮されていません。一応条件が似ている自治体と書かれていますが、どんな風に似ているかわかりません。そして、マサチューセッツという狭い地域の中のことが、日本にそのまま持ってこれるのか、文化的歴史的背景が違いすぎます。

また、

法律の施行前後で犯罪数自体が変わる

という指摘があるように、法の施行前は、「男性が、女子トイレに立ち入ること」が犯罪でも、法の施行後は、犯罪じゃなくなるので、前後で「女子トイレへの男性の立ち入り」が起きても、犯罪数は、1から0に減ります。

自治体によって、集計の差が出ることも、論文の著者は認めています。集計の仕方が違ったり、法律が違ったりすれば当然です。

法律が周知されていなかった場合

そして苺畑さんが指摘したように、法律が周知されていなかった場合も考えておくべきでしょう。

法案が周知されていなかったら、法が施行された後も、今まで通り、表示通りに、男性は男性のトイレへ女性は女性のトイレに入っていたとします。そうしたら、問題は起きません。犯罪件数に変化があるわけがありません。

性犯罪の種類がひとまとめになっている

この論文の調査では、どのような犯罪がそれぞれどのくらい起きたのか、明確ではありません。性犯罪の刑事事件数です。ざっくりしてます。

アメリカでは覗きはあまりないかもしれません。後述しますが、覗きが問題になっていない理由が文化的背景からいくつかあります。また、日本では汚物をあさる、性器を見せる、音を聞く、覗く、などもよくあることですが、それらは、犯罪として計上されているでしょうか(一応そういう事件数を調べたと書いていますけど、アメリカ人にそういうhentaiがたくさんいるんだろうか。そういうので興奮する人とか)。通報しやすい環境でしょうか。検挙された後、ちゃんと起訴されているでしょうか。この差別防止法案が通るときには、かなり性急だったようです。強引に法案を通す地域で、取り合ってもらえると確信できるでしょうか?確信できなかったら、泣き寝入りするかもしれません。

アメリカにはhentaiはいるのか

そういうこともこの論文からはわかりません。アメリカにはそういうhentaiはいませんでした、という素敵な結果になるかもしれませんし、そうなると、やっぱり日本とは違いすぎて、使える根拠にはなりません。

日本の法律の場合

日本では、女子トイレの男性の立ち入りを、「建築物不法侵入罪」によって罪にしています。これは、管理者の意に添わぬ使い方をした時に使えるものです。だから、もし、日本で女子トイレにも性自認が女性な人はみんな入れよう、という風にした時には、罪に問えません。というのは、管理者の意に添わぬ、という部分が使えなくなるからです。

ほかにも、問題はあります。

2016年にマサチューセッツで、公共施設利用差別禁止の州法が成立しましたが、これはその時の調査ではありません。

それ以前の2014年にすでに性自認による公共施設利用の差別禁止法が制定されている自治体での調査です。どちらかというと、2016年の時の調査が知りたいですね。

報告されていない事件は含まれない

論文にもありますが、


一つは、データとして警察の犯罪記録を使っていることだ。この記録は信頼できるものの、報告されていない事件は含まれていない。性的暴行については30-35%しか報告がないという調査もある。

http://rokujo.org/2019/01/12/1589/

という部分を理解したうえで、犯罪報告数がもともと1とか0で、施行後もそれとあまり変わらない結果をみて「犯罪増えないんだな。よかったよかった」と思えるでしょうか。わたしは思えません。

だから、わたしは、この論文を根拠にして「性犯罪は増えない」とは絶対に言えません。日本に適用できません。

日本でも、管理者に対応してもらえばいいというけど、労働者としては不安しかない

TRA(trans rights activist)は「不審者がいたら、管理者を呼んで対処してもらえばいい」と言います。わたしは言われました。冷静に人を呼べないで恐怖に震えてたらトランスフォビアだって言われました。なんでや?

LGBT差別解消推進法案が通ると小さいお店もパート従業員は困る

「事業者が適切な対処をしなかったら、指導、公表される」としたら、そのとき、その事業者というのがたまたまいなくて、管理者としては、バイトやパートの人しかいなかったら、こんなに重い決断や判断をしないといけないのは、適切でしょうか?

自分が労働者という立場で、例えば、フィットネスクラブで、時給800円でバイトしているときに、更衣室に不審者が出たけど、本人は女性だと言っている、うまく対処しなければ裁判になるかもしれないし、でも、何もしなければ、女性の退会者が出るかもしれない、そういう状況になります。わたしは絶対無理ですね。上の人に電話をして聞ければいいですけど、そんな風にできない状況なんていくらでもありますから。

LGBT差別解消推進法案が通ったら、小さいお店や、古くからやっているお店みたいなので、こういうのがとっさにできなかったら、指導勧告公表となるようですが、普通に、労働者として、それに対応できるでしょうか。

アメリカのトイレの背景

アメリカのトイレの扉は、下に四十センチくらいの隙間があるあります。また、公衆トイレが撤去済みです。

それは、レイプが多発したため、公衆トイレ自体が犯罪の温床になるからです。扉の上下を短くして、どんな人が入っているか見て確認できるようにしてあります。もしくは、公衆トイレ自体、撤去されれています。公衆トイレがあるところは、そもそも治安が良いです。

それに、たいていの公衆トイレは、有料で、もしくはお店のトイレです。アメリカで公衆トイレと言ったら、大学のトイレ、スタバのトイレ、マクドナルドのトイレ、デパートのトイレ、駅のトイレなどを指すようです。

わたしが旅行に行った時には、警備員かお店の人が、誰が入っているか、問題が起きていないか、さりげなく注意している様子でした。誰も入れないように、鍵をかけてあって、使う人が商品を購入したら、鍵を手渡す形式のところも多かったです。

そういう文化のトイレと、日本とはだいぶ違うので、公衆トイレ論文を根拠に「犯罪は増えない」というのは無理じゃないかと思います。

アメリカではトイレは人権問題

日本のツイッターでしている議論って、アメリカでの後追いなんですよね。仕組まれている感じがすっごいんですけど、

こういう事例もあって、

かいつまんで言うと、ワシントンのスターバックスで、何も購入していない黒人男性二人が、トイレのキーを求め、スタバは応じなかった、という事件がありました。公衆トイレも、人種差別の文脈で語られます。

また、公衆トイレは、ホームレスの人権問題としての側面を持っていて、それはどうしてかというと、ホームレスの健康を保つためには、公衆トイレが必要だということです。アメリカでは先ほど説明したように、公衆トイレが撤去されているので、お店のトイレを使うしかありません。でも、使えなかったので、肝炎で14人亡くなったという事件もあって、人権問題としても扱われます。

日本と違うことは覚えておいてもいいかもしれません。

アメリカの公衆トイレは日本とだいぶ違います

そもそも、アメリカの店舗で、トイレのカギがロックされているのは、店舗のトイレが、売春や薬物使用の場となるからです。

ロサンゼルスの公衆トイレ、portland looは、ブルーライトで薬物が使用しにくくなっているうえ、周りから警察が監視できるデザインです。

日本とだいぶ違うでしょう。こういうデザインが必然性をもって設置される国と、日本とを比較できるでしょうか。

トルコでは、公衆トイレには必ず管理人がいて、チップを払ってはいるようになっていました。

国によって、トイレ事情はかなり異なるので、外国の事例をそのまま適用するのは難しいですね!

ロンドンでは、2017年に中立トイレを作るように提言された。それで、障害者や高齢者、幼児連れの家族も利用できるようになりました。

日本で、女子トイレにトランス女性を入れるか、入れないかで論争しているのと同じ問題が、各国でも起きているんです。

(日本のフェミはだからダメなんだという理不尽な非難はつらいですよね)

ほかの権利運動と比較すると

わたしは障害者運動とLGBTの運動を比較したいんですが、障害者運動は「困ってるからなんとかしろ。何とかしないなら破壊してやる。泣き落としもする。わたしたちの要求を通せば、結果的に全員に利益もあるかもしれないが、それはあくまで結果的な話だからとにかく整備しろ」というスタンスで、LGBTは「同情してほしい。こちらのいうとおりにしても、別に損はないんだから差別をするべきではない」みたいなスタンスな気がします。文化が違う。

これを偏見だと思われるかもしれませんが、十年くらい「アライ」になろうとしてなれなかったからそう思うんですよね。わたしは、後天的障害者当事者です、ちなみに。

障害者運動では、支援者も、支援者という当事者、傍観者も傍観者という当事者だという考え方があって、支援者もケアされるべきだし、障害者と支援者の立場は違うから求めることも違う、ということがある程度共通認識としてある気がします。家族会もあるし。お互い立ち入らない部分があるというか。支援者も自分の利益を追求していい雰囲気がある。

でも、「アライ」はゴールがないというか、学んでも「学び足りてない」みたいに突き放されて「なんでもイエスといいなりにならないと認められないんか?」という気持ちになりました。自分の利益を追求してはいけないみたいな。むしろ不利益になっても、「相手のほうがマイノリティなんだから」と自分の要求を引っ込めさせる文化がありますよね。アライが人間として尊重されている感じがしないんですけど。うなずきマシーンとしてしか認められてないじゃない?

それにしても、今のシス女性とトランス女性の関係。なんで男性は上からモノ言うのかまじでわからないですけど。一番むかつく。

結論

結論としては、この論文はあてにならないし、日本に当てはめるには文化が違いすぎるし、これを根拠に「性犯罪は増えません」って言っている人を信じたらいけません!ということです。

TRAとの権利の衝突(トランス女性のトイレ、女湯問題)

TRA(trans right activist)と女性が対立している。

この女性という表現が、問題だ。

  • 女性の定義の問題
  • 権利の衝突の問題

今回問題になっているのはこの二つだ。

女性の権利の問題

サイードがチョムスキーか、どっちかが言っていたことを表にするとこうなる。

結局のところ、性別を定義できるのが、「男」だけの特権だから、女は、「女とは何か」を思い悩む羽目になる。男は、女が自分たちで、「これが女だ」というと、「いやいや、ペニスもある女もいるんですよ」と言ってくるし、逆に「こいつは男だ」といって女を持ち上げて、連れ去ってしまうからだ。

上の図を利用して書いたのが下の図である。

性別の振り分け決定権が偏っている

男は、女が何者か知っている。それは、男が主体で女が客体だということに社会が規定しているからだ。社会通念上、男が主体で女は客体だ。だから、このばかばかしい図が現実に通用してしまう。女が、いかに、自分自身を知っていても、「知らないだろう」と言ってのけてしまう、そういう権力を、男は持っている。

そこが問題だ。女同士で、これは女だあれは女だといくら論争していても、最終的にひっくり返されるのは、この構図があるためだ。この「女同士」というのは、当然、セルフIDでの女性を含む。また、ひっくり返すのは、セルフIDがどちらであっても、結局男として生まれ扱われてきた人たちだ。

女と女の戦いを高みの見物して、ときどき、土星を投げかける男たちの醜悪さ。

権利の衝突の問題

断っておくけれど、わたしはすべての人間に権利があると理解している。だから、トランスジェンダーだから権利がないだとか、権利を得るための活動をやめろとかそういうことを言ってきてはいないし、思ってもいない。

ただ、わたしの権利と衝突するので、自分の権利の主張をしている。

自分の権利の主張は、ほかの人に代わってもらうことができないので、そうする。それは、わたしのニーズを、わたし以外が認識することができないからだ。

権利の衝突のことをコンフリクトと言ったり、conflictと言ったりする。

相反する権利が衝突するというのはどうしたってある。Aにとって利益であっても、Bにとって不利益だったりとか、たった一つのものを二人で奪い合ったりというときに起きる。それは、どちらが悪いとか良いとかではない。どちらも正しいが、両方が成り立たない場合がある。ただ、そういうものだってだけだ。

フェミニズムは死んだとか後退したとか言われて、もうゾンビ状態なのではないか、だったら不死なんじゃないかと冗談を言いたいくらいだけど、TRAの主張と、フェミニズムの主張は、コンフリクトをうむ。そして、生まれつきの女性(この言い方はものすごく忌々しい)は、コンフリクトの際には、優しく譲らされてきた。

トイレの問題

今、トイレと公衆浴場で、激論が交わされているが、どうしてそこが論点になるかというと、そこがお互いにどうしても譲れない点だからだ。

調べたところ、外国では、用を足すことは、権利問題になっていた。それを解決するために、日本と同じように論争が起きて、TRAが権利を勝ち取るという流れになっている。2017年では、ロンドンで、中立トイレを普及させるという声明が出た。アメリカでは、自認に沿ったトイレを使いたい、という流れになっている。けれど、それも、最初はかなり慎重な運用をしていて、個別に配慮をして、話し合いをし、お互いの了解を得る、という傾向がみられたようだ。

日本のTRAの主張の根拠に使われる(Gender Identity Nondiscrimination Laws in Public Accommodations: a Review of Evidence Regarding Safety and Privacy in Public Restrooms, Locker Rooms, and Changing Rooms)が日本でそのまま根拠として使えるかについては、いくつか欠点がある。

(この上記論文については、購入して、詳しく検討したブログをあとで示します。)

追記 ; <a href =”http://rokujo.org/2019/01/12/1589/”>
公衆トイレ論文は信用ならない</a> この記事です。お金出して論文を購入して、英訳して分析して検証したので読んでください。これが、遠藤まめたさんのバズフィードの記事の根拠になった論文が信用できない理由を書いたもので、これが信用できないということは、TRA側の主張、すなわち共有トイレにしても犯罪は増えないということが揺らぎます。

その一つとして、あげられるのはトイレの文化的、歴史的背景の違いだ。

アメリカでのトイレとの違いは大きい。アメリカでは、日本語でイメージする公衆トイレはレイプなどの犯罪が多発したため、撤去されており、残っている公衆トイレは、治安が非常に良い場所にあるそうだ。また、ショッピングモールや、駅、デパートのトイレもpublic toiletらしい。スターバックスのような、店員がカギを持っていて、逐一わたすようなタイプのトイレも、アメリカのトイレだという声明を出した(購入しなかった黒人男性にトイレを貸さなかったことがあったため)。このような環境のトイレと、日本のトイレと、そのまま比較して、日本のトイレにあてはめることはできない。

「安全に用を足したい」は健康のための権利である

この権利は、当然、女性にも、トランス女性にもある。ただ、女子トイレのルールを変えるにしても、変えないにしても、どちらの権利をもみたすのは無理だ。

ただ、女性が安全に用を足したい、ということと、mtf(この言葉が指す人も非常にあいまいになってしまっているけれど)が安全に用を足したい、ということは、そもそも衝突するのか、という問題はある。

外国の公衆トイレ事情やTRAが示した論文を今調べて、検討しているところだが、日本と安易に比較できるものではなかった。状況が違いすぎるのだ。

外野のつもりの男たち

女性が安全に用を足したい、女湯に入りたいという声を、男性たちは、「男には、差別をなくせと要求する癖に自分がいざ差別をなくせと要求されると、断るんだな」という風に揶揄している。

考えてみてほしい。「就労機会も賃金も不公正だから、平等にすべき」という主張と、「自分が安全に用を足したい」という主張が、同じレベルだろうか。

男性のほうが就労しやすく、賃金が高いのは、不公正のせいだが、安全に用を足したい、という欲求は不公正ではない。また、用が足せなければ健康を害す。就労は下駄を外されて困る男はいるだろうが。

アメリカでは公衆トイレは、ホームレスの権利であり、健康を守るためにどうしても必要だという文脈で語られる。肝炎で14人亡くなった年があり、その結果を受けて、議論が起こった。アメリカでの公衆トイレは、人種とホームレス、貧困、またレイプや麻薬、売春との組み合わせで語られることが多い。だから、アメリカの公衆トイレは、近くに警備員や、店員がいて、誰が入っているか、問題が起きないか、なんとなく把握しているような状況が多い。

また、自分たちが、安全なトイレを作れないことも原因の一つなのに、彼らは、トランス女性と女性の対立をあおっている。今こそ、モノ言う女を叩き潰す機会とばかりに。

衝突するように仕向けられているんじゃないかという気もする。

たとえば、今ツイッターでは「中立トイレ」を提案すること自体が、差別的だとののしられる。トランス女性を含めた、すべての女性が、女性用のトイレで用を足すことができるようにしなければ差別的ということになっている。

でも、それは、多くの人が言っているように不可能だ。

そして、日本で、TRAが主張するように、すべてのトランス女性が女子トイレを利用するようになったら、現実には、すべての女性が女子トイレを利用できるとはいえなくなるだろう。男の記号を身に着けた人を怖い人は、トイレに行けなくなってしまうからだ。また、厄介なことに、TRAは散々加害的なことを言って、女性を怖がらせた。

属性による性犯罪を起こす割合とその非対称性

性転換手術をしても変わらない男性の狂暴性 このサイトはかなり参考にさせていただきました。根拠が明確で勉強になります。
上記の根拠となる記事

ジェイミーはさらに、公衆トイレや更衣室及び試着室における事件に関して何年にも渡り何百という時間をついやしてネット検索をし、1000件に渡る事件を収集した。これらの事件で1000件中952件までが生物学的に男性による犯罪だった。

その内訳は、大人の男性839件、少年70件、女装男25件、MTF7件、大人女性25件、FTM1件、少女12件。女性による犯罪は性犯罪は非常に稀であるが、犯罪の犠牲者は女性が大半を占める。

ジェイミーはこれらの調査結果から、女性が女性施設に男性が立ち入ることを恐れるのは正当な感情であり、女性たちが安全な場所を要求するのは全く当然のことだと語っている。

そして、人口比に対する性犯罪を起こす割合で言うと、生まれつきの男は、生まれつきの女よりも、性犯罪を起こす。女性が、女性に安心を覚えるのには根拠がある。

上記のURLの調査によると、USAのトランスジェンダーの割合は、GIDの場合、0.39%。

この調査では、女性の性犯罪率が、約6.6%なので、mtfの起こした性犯罪は、女性と比較して、1000×0.0039×0.066≒2.6以下くらいでなくては安心できないが、これは誤差と言える範囲だろう。

訂正:mtfが女性と同じくらいの頻度で性犯罪の起こすなら、性犯罪の発生は、1000件中、1000×0.0039×0.066≒0.26人でなくてはいけない。実際には、7人いるので、27倍になる。

これは、mtfが女性と比較するとはるかに高い確率で犯罪を起こすと言える。ちなみに男性は、女性よりも1287倍性犯罪を起こす。 訂正終わり


ただ、GIDの人口比が0.39%だから、mtfはこれより少ないはずだ。本来は、0.00039よりも少ない数でかけるべき。ただ、この7人は、身も心も男性が起こす性犯罪の比率から導き出した人数よりは少ない。というのは、男性が起こす性犯罪の比率通りで計算すると1000×0.0039×0.93≒36 だからだ。

結論としては、mtfが一緒に使う女子トイレは、生まれつきの女性だけよりは少し安心ではないが、男性も入るよりもずっと安心だということが言える。心配している人は少なかったかもしれないが、計算していてほっとした。

mtfがことさらに性犯罪を起こすわけではない。

人口比を考えなければ、女性の起こす性犯罪数と、女装+mtfの起こす性犯罪数は同じくらいだ。

しかし、人口比の問題があるので、犯罪数は、32/1000となる。ただ、今のトランスジェンダーの定義では、女装も含む。TRAの主張通りなら、女装の男性を含んだ割合で計算しないといけないが、どのくらいの割合か、調べることができなかった。

しかし、女装の男性は、女性よりも、性犯罪を起こしやすいというのは、わかる。なぜなら、女装の男性が女性と同数いるとは到底言えないからだ。だから、これは、女性の恐れが、識者の言う偏見ではないことを示す。

女性らしく見える人同士では、生まれつきの女性(いい加減言い方がどうにかならないものだろうか)同士よりは安心ではないが、男性が入ってくるよりも安全だということが分かった。

女子トイレを誰が使うか

では、女性らしく見える人だけ、女子トイレを使うことになったらどうか?

パス度を高めにくい状況の人もいる。例えば身長や骨格の問題、金銭面、健康面、あらゆる意味で、パス度が低いまま暮らす人がいるのも確かなので、そうした人の用を足す権利は守られない。その人たちは、危険だと言われる男子トイレに行ってもらうことになる。

(疑問として、男性たちは自分たちの使うトイレを安全にする気がないんだろうか)

女性らしく見える人が、女子トイレを使う状況なら、その人たちは、女子トイレを使える。けれど、そうすると、女性らしく見えない女性は、女子トイレを使うことができない。つまり、あらゆる女性が女子トイレを使うことは達成できない。

結局、議論の最初に戻るとmtfを含む、女性らしく見える人たちが女子トイレを使っている分には、今よりも悪くなることはあまりないが、男性たちに女子トイレに入る口実を与えると危険だという話の振出しに戻ってしまう。

TRAは、いざというときには、建物の管理者が判断すればいいというけれど、小規模な店舗で、もしくは大きな店舗であっても、パートタイムの労働者が、たまたま責任者をしている状況が多い日本で、適切な対応がなされると思うのだろうか。判断の丸投げだと思う。そして、適切な対応でなかったら、そのような店舗は、ネットでの評判を落とされたり、訴訟されるリスクを負う。それを防ぐためには、定義やルールを明確化するしかないと思う。

今、日本では、女子トイレへの侵入を不法侵入罪か迷惑防止条例でしか検挙できない。不法侵入罪は、建物の管理者の意にそぐわない使い方をされたときに発生する。これは、犯罪になるかどうかが、管理者の判断に任せられることを意味する。このとき、犯罪にすることのリスクが高いと判断した経営者がいても責められないし、また、そういったとき、女性の安全は守られない。

識者は、女性の恐れをトランスへの偏見というけれど

女性らしく見えない人も女子トイレを使うとなれば、男性は、性犯罪目的で、今よりもずっと侵入してくるだろうから(これを否定する論文としてTRAから示された論文は今読んで検討しているところです)。

結局のところ、どこかで切断するしかない。そういう決断を迫られると、衝突が起き、敵対することになる。わたしはそれを文化人や、TRAがあおっていると思う。

意味通りのことだけが起きる、わけがない

とある学者は、トイレは用を足すところだから、みんな用を足しに来る。だから、他人の性器を見ることもない。気持ちはわかるけれど、恐れは偏見だということを書いていた。

こういうのを見ると、生まれつきの体の属性によって、経験してきたことの差が出るなと思う。

それなら、学校では勉強をする場所だから暴行もアカハラも起きないし、会社は働くところだから、みんな働きに言っているので、セクハラもパワハラもいじめも起きない。みんなが意味を共有して、その意味を果たしにいっているからそうなるはずだ。

現実は、そうはなっていない。

わたしはトイレの個室に、男性が入ってきて、男性器を見せられたことがある。これは現実の話である。わたしは誰にも今まで一度も言わなかった。初めてこうやって人に伝える。もちろん、通報なんてしてない。苦情さえ言っていない。それは、男女兼用トイレで起きた。

わたしは、これを防ぎたい。今でさえ起きている。

異性の性器を見せることは、犯罪だ。子供は特に守らなくてはいけない。男性が、女性よりも、性犯罪を圧倒的に起こすのは明らかだ。起きてからでは遅いのだ。一度も起きては困る。特に、大人の都合の変更によって、誰の子供でも、被害に遭ったら、絶対にわたしは、世界を許せない。

定義をあいまいにしていくか、男の否定としての「女」しかない

社会学や哲学が、どれだけ女性の定義の意味をあいまいにぼかしていくことで、性別なんて社会的構築物に過ぎないと意味を作り上げていっても、サクリファイスとしての体は残る。体の意味も残る。この体の持つ意味は、誰かに対しての生贄ということだ。なぜならばわたしがジェンダーを手放しても、女としての価値を失ったとしても、死ぬまで暴行の危険から逃れられない。

女性という言葉が、学者や、活動家、文化人、識者に奪われて、意味が剥奪されたので、わたしは女だ、と安心して名乗ることができなくなった。

これは、学問が、女という言葉の意味を、あいまいさではぐらかすか、男の否定としてしか示さなかったことに帰結する。学者たちが作り上げてきた学問が、わたしの身体を表す言葉を奪い去ったので、わたしは彼らが授けようとする何かを拒絶するしかない。わたしはもう何者でもないので、学ぶこともできない。それに、わたしは、グロテスクであっても、自分の性別が「生贄」だということに納得してしまった。女という大きな集団に、男が自分とは違うものを投げ込んでいって、その中のコアに生贄という属性があるというイメージだ。

本来は、誰もが安全、自分は安全だという感覚をもって、生活できるべきだ。男でも、女でも、自分がどれに属そうと属すまいと、安全安心、健康にに暮らせるのが一番だ。

だから、本当は、今の現実に即して中立トイレ(ロンドンのように高齢者、幼児連れの親、障害者も入れる)の数を増やすくらいの落としどころになれば一番いいけれど、議論はそうならない。

わたしは心を痛めているけれど、どうにもならない。自分が属する集団の権利を主張していきたい。

生贄にされるわたしのこの体の名前を、わたしは失った。

ペニスを恐れるのは偏見だという。男の持つ筋力や自信、傲慢なしぐさを、恐れるのは偏見だという。

わたしの周りに満ちる、男から傷つけられた人々の怨嗟の声は、聞こえないのだろうか。
それならば、わたしは、意味の剥ぎ取られたこの体を、どう名付けようか。学問的な意味で、社会的構築物になってしまったわたしの肉体は、暴行され、トロフィーとして、男の力の証明として捧げられる。男からの暴行の相手に選ばれる意味が、この体に残る。この体の名前は失われた。生贄としての意味だけが残った。

女には何が女かわからないが男にはわかる

もはや、女には「女」とは何を指すのかわからなくなった。

自分が意識せず生れ落ちてからずっと女と名指されて、だから自分を女だと思っていたが、ついに、お前たちは女の定義をわかっていないと言われるのである。

そして、女とは何ぞと問えば、「女にもペニスはついています」と返ってくる。

ペニスがついていなかったから、受けてきた、あらゆる差別や暴力も、今や女が自意識過剰にジェンダーを抱え込んで、女が女らしくしているから暴力を受けるのだと言わんばかりだ。

女は女をやめることはできない。トランス男性は、語られることすらまれである。そして、彼らが男子トイレに入りたいということはない。それは、彼らが、男子トイレに入った後、自分の生まれつきの体が、男たちの暴力を誘ったのだと言われるからである。

この非対称さよ!

わたしは、ルワンダ大虐殺を起こし、水晶の夜を起こし、南京大虐殺を起こしたそうだし、トランス女性の死を冒とくしたばかりか、トランス女性を殺し、あまつさえ彼女の、そう「彼女の死」を卑怯と嘲笑ったそうである。

そうである、と伝聞なのは、それはわたしがしたことではないからだ。

昨日から、投げつけられたあまたの暴力的な言葉が耳から聞こえて脳に張り付いて、ほらお前が死ねばいいのだとささやいていた。そういう声が頭に鳴り響いていた。お前が死ねさえすれば、丸く収まり誰も争わず傷つかず平和な世界が訪れるお前が死なないで生きているから、だから、トランス女性は死ぬ、と。

わたしがしたのは注意喚起だけだ、読む人が読めばわかるのだからわたしの書き方が間違っていたのではない。ちゃんと読めていた人もいる。

自殺を、生きた人が持ち上げてその死がもたらした意味を利用していけば、次の自殺者が出る、希死念慮という、病を持っている人はそれから離れなければ、死後に労わられるとい優しい夢を求めて死んでしまうのをわたしは注意した。

それは、報道で守られるべきラインとして、揚げられていることだから、わたしは普通のことを言ったのだ。後追いしないように、させないように、死を使って、何かの主張を通すべきではないんだと。そうだ、主張を通そうとするのは、いつだって今生きている人間なのだ。死んだ人間には何も言うことができないのだから。

だから、わたしは注意をした。自殺をするなと。自殺を呼ぶような言動をするなと。

自分自身のために。

わたしが自分を殺さないために。

わたしは、全身が痛み、動けなくなった。涙が出て、頭痛がして、吐き気がして、食べられなくなった。久しぶりにあったヘルパーさんには、やつれたと心配された。ヘルパーさんが来てもわたしは起き上がれなかった。めまいがして、ふらふらして、トイレに行くのがやっとだった。布団はぐっしょりとして冷えてしまったので、湯たんぽを抱いて、なんとか生き延びようと、絶対に死ぬものかと思いながら、家族に「目を話したらわたしは死ぬかもしれない」と伝えた。

それはわたしが死なないための工夫である。死神がわたしを引っ張って、今にも連れていきそうだった。それは、甘い夢だった。わたしが死ねば、みんなが残念がって……、ああ悪いことをしたな、と思ってくれるだろうと。

でも、わたしはこうも思った「わたしの死は、茶化されて、嗤われて、おもちゃにされ、そして、三日で忘れられるだろう」とも。

そして、それをツイッターに書きもした。そうしたら、何が起きたかというと、それを茶化し嗤われたのだ。

わたしが、「死にたい」と思って、「でも三日で忘れられるのはばかばかしいから死を思いとどまろう」と思って書いたことは、トランス女性の死を冒とくしたものとして、わたしに対する攻撃を許すものとして、おもちゃにされてもてあそばれた。わたしがトランス女性を差別したのだと。だから、こいつには何を言ってもいいという、そういう許可証、証明書のように扱われた。

わたしが、今ある生にしがみつく努力でさえ、自分たちの主張を通すための道具として扱われた。

彼らは人(わたし)が死ぬのはどうでもいいんだろう。

わたしはそう思った、だけど、そう書けば、逆のように読み取られて「こいつは、人の死が、どうでもいいと書いた」と読むだろうと思った。彼らは、わたしが死んだら、一分はお通夜のようになって、そして、そのあと、その死はでたらめだ、フェイクだと言って、わたしの死を、不謹慎だと言って笑うだろう。

それがよくわかったので、わたしは死にはしないけれど。トランス女性は女性ですと言った人たちのどれだけが、トランス女性かつ貧しく、社会的、身体的、精神的に弱い人をどれだけ気遣っただろう?

わたしの頭の中にはずっとあった、トランス女性や、そう、とくに、トランス男性のことが。

わたしたちは、ちゃんと、考えているだろうか?性別の定義が変わった世の中がどうなるのか。

わたしは、自分の女性性を拒否した時代がある。でも、男にはわたしが女だとちゃんとわかって、そして、わたしに暴行を加えた。

今、女たちは、自分の身体が、もたらす性別が、その性別を保証しないと言われて、じゃあ、自分の性別が何か必死で探している。

しかし、男にはたやすくわかるのである。誰が女で誰が男なのか。

それは、男が、決定する性別だからである。

女は、自分の性別を決定する力さえ、もはや奪われた。女とは、なにかを問うことさえ、差別的言動なのだと、そういわれるのだ。

女は、もう、女とは何かを問うことさえ許されず、男から与えられた「女」を粛々と受け入れることのみを、要求されており、そうでなければネットリンチの対象になる。

ついに、女は、押し付けられた性別を、自分の性別だと名乗ることさえ奪われた。

女が、自分の性別が、すでに頼りないものだと知って悩み苦しんでいる間にも、男たちは、「お前は女だ」「あなたは女だ」「しかし、これは正しい女ではない」と言って、与えたり奪ったりして、性別の定義を、もてあそんでいる。これがミソジニーでなくて、なんなのだろう。

わたしは、しばらくの間、性別を定義しているものを探した。哲学書や、社会学、そういったものを探して、しかし、女は、男の否定としての定義でしか、定義を与えられていなかった。

そうだ!そうなのだ。男は女を、女という言葉は、入れ物に過ぎない。定義なんてそもそもしていない。する必要がないのだ。自分たちと、違うものを、全部女という入れ物に押し込んでいるだけなのだ。

だから、女が女という呼称を、自発的に名乗ることを、男は許さない。

男が、女と呼ぶこと、それだけしか認めない。

女は、女を女と呼ぶことを許されていない。女には、「誰を女と呼んでいいのか」を許されてもいないし、悩むことも許されていない。

ああ!誰が許すとか許さないとか、最初に決めたんだろう。そうなのだ、その誰、を問うことも禁じられている。あえて言えば、見えない場所に引っ込んでいる男たちが、女が誰を女と呼んでいいかも、女という言葉も奪い去るのだ。

「誰がお前に、女を規定することを許した?」

だから、生得的女性、生まれつきの女性、女体持ち、そういう言葉を、すべて、差別だと口封じされる。これらは、女自らの名乗りや区別だから、それらは、そう、区別をするのは男の役割だから、男たちは、絶対に、女に、自分たちを区別することを許さない。女が誰を女とするか、それを探ることを許さない。

わたしに降り注ぐ、圧倒的な量の罵詈雑言、これは、精神疾患を持つ、希死念慮を持つ、性暴力サバイバーにはとうてい耐えられる量ではなかった。これらの人たち、男尊左翼たちの行為は、ネットモブというのだと知った。わたしは、他人を、基本的には罵らない。ネットモブ行為を、自分で認識する限りは(こういう但し書きも、誠実に書くが故に書いてきたが、これも茶化される対象である、不誠実ととられる)してこなかったけれど、彼ら彼女らは、ためらいもなくする。よく読むこともなく。

わたしが良く書けていないからかもしれないが、読めている人もいるのである、であるならば、読めていない人たちは、意味を理解しようとして読むのではなく、攻撃するための種を探そうとして読んでいるのだろう。それは、とてもむなしい。

女には、もう、女が何かわからない。女が、女の体を持っていたから、受けてきたあらゆる痛みは、もはや、女の被害妄想に還元され、解体され、わたしたちは、語るべき言葉としての、抵抗としての、「女」ということばをうばわれた。

ペニスを持つ女もいます、これの意味するところは、女が、ペニスを持たないがゆえに、受けてきた差別暴力を、無効化するのだ。もう、ペニスがないから受けてきた差別を語ることができなくなった。

こうかくと、「こいつはどうしてペニスにこんなにこだわるのだろう?」と言われることも予期できる。「女はどうして女湯と女子トイレにこだわるの?」と言われたように。

わたしは、ペニスなんてどうでもいい。だが、わたしは、ペニスがないから、女にされたのだ。これははっきりしている。最初に、生まれる前に、ペニスが見えなかった。だから、女という分類になった。ペニスがないことを気付いた男には、わたしにある穴が見え、そして、彼らはわたしを傷つける。彼らにとってペニスはどうでもよくない。わたしにはどうでもいい。だからこそ、暴力が生じる。

しかし、もう、わたしは、女という言葉を奪われてしまった。

女とは、ペニスがある場合もあり、ない場合もある。生まれつき男かもしれないし、けれど、生まれつきの女はいない、だから、女が「誰が女」を決めることは許されない。これが女嫌いでなくて何だろう?女に「女」という言葉を使わせないこと自体が。

女には、誰が女か、もう、わからない。これが現実だ。

しかし、今でさえ、男には、誰が女かわかるのである。誰が決めるのか。それは男である。決めることを許されないのか。はっきりしている。

それが彼らの力である。

弱い人の話をする

トランス女性は女性だ、という言い方をする場合、性別の定義が変わります。

そのときに、社会に対する影響は大きいでしょう。

わたしはこれから、性別の定義の変更による、影響を受けやすい人たちの話をします。

それらの人たちは、弱い人たちです。

老人、障害者、子供、病人、勉強ができない人、言葉がうまく使えない人、そうした人のことを考えています。

例えば、90歳の女性に、今から性別の定義が変更になったので、この人は男に見えるけど、心は女だから女ですよ、わからなかったら、あなたは無知で差別者なのですよ、と言えるかどうか。

これは極端だ、と思うかもしれません。でも、性別の定義を変えるというのは、こういうことなのです。

心的外傷は、気の持ちようではよくならない

今、ツイッターで、トランス女性についての議論が盛んです。

そこで、おきざりにされている弱い人たちの話をします。

もちろん、トランス女性で、かつ、これから話す障害や疾患、犯罪被害に該当する人もいるのはわかっていますが、論点を明確にするため、いったん置いておきます。追記

トランスかつ障害者の話は、これからする話に包括されていきますし、また、トランスかつ障害者の話は、別の語るべき人がいるはずです。わたしはわたしに語り得る話をするという意味で、どうでもいいとは思ってません。思ってないから、わざわざただし書きを書いたのです。てか、わたしは自分の話を書く。わたしはトランス当事者ではないので語り得ない。

PTSDについて

これは、日本語で言えば、心的外傷です。

ベトナム戦争から帰ってきた兵士たちの精神状態が悪く、その症状がかなり共通していたため、それからPTSDというものが認識され、治療が始まりました。

今は、犯罪被害者やDV被害者、性犯罪被害者にも同様の現象が起きると認識され、医療、社会制度の変化、向上により、死ぬしかなかった人たちが、生きていられるようになりました。被害に遭いながらも生き延びた人々をサバイバーと呼びます。

サバイバーは、記憶のトリガーになるものを見聞きすると、現実が、犯罪が起きた現場に戻ったようになります。

におい、音、触感、痛み、光、そういうものすべて、五感のすべてで事件当時を再現するのです。それは、思い出すということとは違う種類の経験です。トリガーによって、サバイバーたちは、つらい過去を再び経験しなおすのです。それは回復可能と言われていますが、事件が起きる前と同じ状況を目指すことは不可能なので、違う人生を生きることを目標としています。

PTSDは、脳に傷がついたと同じようなことです。記憶する場所に傷がつき、元には戻りません。脳はすべての支配をつかさどる部位ですから、ここが傷つくと、体調も悪化します。不眠、摂食障害、気分障害が同時に起きます。

サバイバーは、体調の悪化、環境の変化、自分自身の変化と戦います。環境がなぜ変化するかというと、犯罪被害者の人間関係は、急激に変化します。離れていく人、近づいてい来る人がいます。パニック障害の結果、学校や仕事を止めざるを得ず、人間関係から切り離されます。自分のいる世界は、安全だという感覚が失われます。それで、常に極度の緊張を続けながら暮らすので、疲労しやすくなります。

サバイバーの恐怖が分かりにくければ、「恐怖を持つということは、具合が悪いということ」だと理解してください。好き好んで恐怖を感じている人はいません。

PTSDは、体の不調を含むので、それほど間違いではないでしょう。

犯罪被害者が孤立する理由

まず、犯罪被害者は、自分から人との交流を断ちます。被害に遭った自分を、知られることを恐れるからです。サバイバーは自分を責めます。そして、自分を責めるがゆえに、今までの交友関係に別れを告げます。

また、犯罪被害者と関わるのは、誰にとっても負担です。だから、離れる人が出ます。これは責められるようなことではありません。近しい人が、犯罪に遭って、性格や人格が変わってしまったという事実は、誰にとっても、ショックで、つらいことです。自分の知っている人が変わってしまったことに耐えられる人ばかりではないからです。経済的にも負担です。支えるというのは、体力気力ともに消耗することです。例えば、毎夜三時に、混乱して泣き叫ぶ人を、抱き留め続けることが、誰でもできるわけではないのです。感謝されることなく、ののしられ続けることに耐えきれない周囲の人ももちろんいます。

「生まれてこなかったらよかった、死んだらよかった、今死にたい、もう死ぬしかないのだ、自分が死にさえすれば丸く収まるし、みんな喜ぶのだ、問題は解決する」と毎日言う人と暮らせる人ばかりじゃないのです(これはわたしが毎日言っているセリフです)。

孤立したサバイバーを搾取する人もいる

そして、孤立したサバイバーの近くには、支援すると言いながら、近づいてくる人もいます。これらの人は、搾取するために来た人たちです。悪意があるとは限りません。自分はいい人間だと思いたくて、近づく場合もあります。

たとえば、アクセサリーみたいに。大変な人を支えていることで、自分を満たす人たちがいます。そして、これらの人は、賞賛を得ることも望んでいます。

しかし、感謝が得られなかったり、頑張って支援しているのにほめられなかったり、相手が思い通りに動かなかったりする時に、これらの人々は、サバイバーを侮辱し、罵り、傷つけます。

今までしてやったことを返せ、だとか、恩知らず、だとかも言います。お前のせいでどれだけ苦労してきたのかわかるか、とも言います。

また、自尊感情が失われた人は、心のバリアーがなくなったのと同じ状況なので、サバイバーを肉体的、経済的に搾取しようと思う人も現れます。サバイバーが、何度も同じような被害に遭うのはこのためです。

文化人が、metooの告発を支援しても、サバイバーの不安は一顧だにしない、恐怖の扇動と切り捨てるのは、「告発」は先進的な文化人のアクセサリーになるが、サバイバーの混乱に満ちた日常」の支援は、文化人としてのメリットがなく、アクセサリーにならないということなのかもしれないと思います。

サバイバーが被害を繰り返す理由

性犯罪被害者が、何度も被害に遭うのを不思議に思う人はいますか。

それをサバイバーの危機管理が緩いからだ、とか、本当は合意だったくせに後から覆している詐欺師だと言っている人をわたしは何度も見てきました。

違うのです。一度、犯罪に遭うということは、判断力、体力の低下を招くということです。

常に緊張していることが、判断の低下を招いて、自分を傷つける人を信じたいと願うために、被害に何度も遭います。

加害者は、「一度ほかの加害を受けたのだからもう一度加害しても変わらないだろう」と思うのかもしれないし、「ほかの人よりも簡単に加害できる」と思うのかもしれません。

混乱の中やってきた「あなたを助けたい」と言ってくる人をはねのける力が残っていないのです。そうした「あなたを助けたい」と言ってくる人の中に、加害する人がいるのです。

精神障害について

わたしは、軽いASDと双極性障害を持ちます。PTSDやパニック障害もあります。そして、精神障害の等級で言えば二級です。

これらは、気の持ちようでは、治りません。昔は、座敷牢に閉じ込められて生涯を送ったり、殺されたり、自分から死んだりしていたカテゴリーの障害です。

わたしは、ツイッターで「変化に弱い」「パニックを起こす」「男の形に恐怖を抱く」と発言しました。

恐怖は差別ではない

しかし、そう発言した結果「恐怖が差別を正当化している」「ルワンダ大虐殺や、南京大虐殺はこうした人のせいで起きる」「恐怖が差別を扇動する」と言われました。

(ちなみにこういう「大虐殺」みたいな言葉は、脳に張り付いたようになって、何日たっても離れません。しだいに、自分のせいで、本当に大虐殺が起きたのだと思うようになってきました。「ひきこもってろ」とかも。こうしたことで、わたしは語ることが次第に難しくなりつつあります。このブログ記事が読みにくいのはそういうわけです)

知的障碍者や精神障碍者は、性暴力の犠牲となりやすいです。それは身を守る力が弱いからです。

男の記号を持つ人を警戒するということ

男を表す記号を持つ人に、恐怖心を抱くのは、身を守るために必要なことです。警戒するために、男の記号を認識することが最低限必要と言い換えてもいいかもしれません。

しかし、それが許されなくなったら、わたしは、どうやって、人を男だと認識し、警戒すればいいでしょう?

性犯罪を起こし、刑に服す人の98パーセントは男性です。つまり、男性を警戒するのは、今の世の中で生きる上で、必要なことです。接触する相手が、女性ばかりならば、少なくとも性犯罪に遭う機会はずっと減ります。

そして、わたしは、すでにサバイバーでもあり、PTSDという困難を抱えて生きているから、恐怖しないのは不可能です。

恐怖のあまり、硬直して、相手の言うことを言いなりになって聞いてしまうこともあります。

そうしたことに、誰も守ってくれなくなる変化について、危惧していたら、差別者と呼ばれています。

精神障碍者、知的障碍者は、すでにサバイバーも兼ねている場合があります。こうした人たちは、気持ちを言葉にすること自体が難しかったり、言葉にすること自体で加害状況を思い出して、パニックを起こし、自分自身を傷つけたり、死を意識したりします。わたしもそうです。そもそも、自分の感情を認識することも難しい時があります。

わたしは今でも、外出時に混乱がひどい時にはユニバーサルトイレを使います。

トランス当事者で、「フェミニストは女湯とトイレにばかり興味があるみたい」と言った人がいますが、普段、服を着て、一メートル以上距離が取れる場所ならば、人が、女性であっても、男性であっても、それは、なんとか対応して、適応しないといけないと思っています。わたし個人に限れば、できていないときもあります。でも、適応しないといけないと思っています。無理な時は家から出ません。ほぼ引きこもっています(すでに引きこもっているのに、ツイッターで、引きこもってろと言われましたけど)。

しかし、服を脱ぐような場所で、それ以上の負担が起きると、わたしはフリーズしてしまいます。

わたしは、言語性の優位なASDで、しかも軽度ですが、例えば、「依頼するときの態度や言い回し」を一つのパターンしかもっていません。「お礼を言う時の態度や言い回し」「謝罪」もそうです。一つを使いまわしています。一つしかありませんが、それを身に着けるのは、苦労しました。今でも、使いこなせているかわかりません。うまくいっているかどうかは、わかりません。その「わからない」という部分が障害だからです。

また、言うべきタイミングをきちんと理解できているとはいい難い状況です。

「お礼を言う」というたった一つのことでも、分解して考えてみます。

「何かをしてもらったらしい」ということを認識して、それを「お礼を言う」ことに考えを結びつけ、結果、「ありがとうございます」と言う、という複数の段階があります。それがわたしには難しいです。

予期していない状況が起きると、わたしには、うまく話したり、逃げたりということが難しいです。まだ、経験していない、新しいことが起きたら、それについてじっくり考えたり、試行錯誤することが必要ですし、それによってパニックが起きるかはまた別で、これらから起きる負担は、体調を悪化させて、わたしを食べられなくしたり、眠れなくしたり、起きられなくします。

実際の経験から危惧していること

精神科に入院しているとき、自閉傾向が強い女性がいました。その人は、入浴したいと思って、誰もいないことを予定して、脱衣所に入りました。ところが、わたしが入浴していたことに驚いて、脱衣所の戸をあけ放って出て行ってしまいました。その人もパニックを起こし、わたしもパニックを起こしました。そして、自分を傷つけかねなかったので、筋肉注射を打ってもらいました。

入浴などの、服を脱いだ時に、誰がいるか、という合意が今までの経緯からあって、ルールがあっても、それでも混乱は起きるときにはおきます。

それなのに、そのうえ、その合意が変わる、つまり、性別の定義が変更になったら、ASDの当事者にとって、すべての場面で、生存が難しくなるでしょう。病院という安全が確実だとわかっている場所でも、苦しい状況が起きたのだから。

わたしの会ったことのあるDV被害者は、骨を折られていたり、関節を壊されていたり、脳に影響があったり、極度に痩せていたり、内臓をダメにされたりしていました。

そうすると、普通に働くことは難しいので、みんな貧乏です。DV加害者が、会社に乗るこんでくることや、住所を調べて追ってくることもよくあります。

DVに遭ったことが、身内の恥だからといって、周囲の人に縁を切られる人もいます。迷惑をかけられないと言って孤立する人もいます。読み書きができない人、50歳になるまで、家にずっといて、親が死んで、兄弟がそれを負担に思い、DVに発展するということもあります。外国から日本に出稼ぎに来て、読み書きどころか、話すことが難しい人もいます。

社会の大勢を占めているのは、普通の人です。そして、こうした人を守る場所は少ないのです。

こうした人たちが、男の記号がない場所を求めることが、どうして責められることなのでしょうか?どうして、差別と言われるのでしょうか。排除と言われます。権利の衝突が起きているのだから話し合うということすら認められない。

仮に、女性を守るためのシェルターにトランス女性が利用者としていくとします。それは権利です。しかし、そこで、トランス女性を受け入れる余裕がある人ばかりではないことが、双方に対して、わたしは心配です。

また、トランス女性が、労働者として、シェルターのスタッフになることは可能か、可能ではないとしたら、どんな理由でか、など、心配なことはたくさんあります。

トランス女性は女性だ、と、それ以外の考え方は差別なのだ、という風に弱い人の考えを切り捨てると、病気や障害を持った人にとって、それが適応可能かどうか、トランス女性が労働者として働くときに、同性介助はどういう風に理解されるのか。たくさんの危惧があります。

わたしは、本当に、だんだん、言葉を使うことが難しくなってきました。それは、投げつけられる言葉の悪意が、脳に張り付いて、わたしがしたわけではない「悪いこと」が自分のせいだと思えるからです。だから、このブログ記事は、わかりにくいだろうと思います。でも、書かなければ、ないことになるので、書きました。

弱い人は、見えにくいかもしれませんが、存在している、ということに留意して、話を進めていただけたらと思います。

障害者の立場からのジョグジャカルタ原則への不安

昨日クィア活動家への批判:女子トイレ・女湯問題について

で書いたことの論旨は、

  • クィア活動家が、露悪的な言動をすることは、クィア理論の実践として理解できるが、その反面、女性の安全感覚を害するので批判する。
  • 介護、育児、看護の対象者は、議論から疎外されており、議論に参加することも、意思確認されることもないが、最もしわ寄せがくる存在である。変化自体が、生存や健康を害する集団が存在する。
  • 勉強をすることができない状況ではあるが、主張することをやめれば、(女性でありなおかつ障害当事者としての)存在自体なかったことになるので、主張を続ける。
  • また、勉強ができない状況の人はたくさんいるが、だからと言って、それらの人が語ることを差別だと言って黙らせることは間違っている。

ということなんですが、勉強することができないことを嘲笑してきたり、恐怖を差別の大義名分にする差別の扇動者と言われたり、本当は勉強ができるのにそれを隠して書いているから不誠実と言われたりしました。それでいて「無知だからわからないだろうけど」とも言われるんですよね。そのほかにも、反知性主義、弱者を憑依して利用しているなどと言われて、苦痛を覚えました。

反発は予想していたのですが、ちょっと予想以上でしたね。

女性差別ゆえに「知」から疎外され、「知」の不足ゆえに語ることを許されない

そもそも、女性は、女性差別の結果、教育から弾かれた存在です。女性たちは、女性差別があるから勉強から遠ざけられているのに、勉強不足のまま語れば、差別の扇動になるからやめろ、フェミニズムは後退したと男性や賢い人々が責めるのです。そうした男性は、とても多いのです。しかし、これは本末転倒です。

障害者であることと、議論への参加の困難さ

弱者の憑依と言われたことについてですが、なぜ、はっきり自分が障碍者だと書かなかったのかというと、いくつかの理由があります。

一番の理由は、自分の事情を語らなければ、議論に加われないのか、ということ自体に、問題があるからです。

また、わたしが、障害者の当事者であることを明記すると、立場を利用している、と言われるのはまだいいほうで、おそらく、精神疾患を理由として、わたしの主張を聴く価値もないと扱われたり、正当性を疑われたり(これらは実際に今までありましたがこれは言うまでもなく差別です)、また、「弱みを見せたのだからそこを攻撃されたいのだろう」と言わんばかりに攻撃されたりするので、昨日のエントリには、わかりやすく書きませんでした。

わたしは、障害者の当事者であることを隠しもしていませんが、それは、わたしの個人的な趣味です。隠したい人のほうが多いです。だから、トランス女性の権利を主張するために攻撃的な態度をとる人たち(男性に多い)には、相手がどんなバックグラウンドを持っているか、考えてみてほしいと思います。自分がどんな事情を持っているのかを語ることさえ、病状の悪化を招くような事情を持っている人がたくさんいます。そうした人たちが、トランス女性すべてが女湯に入れるようにすることを恐れています。

障害者であるということを明らかにして語ると、感情や考えを勝手に推し量られたり、思ってもいないことを代弁されたりする、ということが起きます。自分の意思とは違うことをされるのですが、するほうは親切のつもりなのが厄介です。
被保護下に置くような態度をとられがちですが、不愉快です。

そもそも、精神障碍者は、特に、精神的なダメージが、体の不調に直結するので、議論に加わること自体を避けるのが普通です。攻撃的な人が多い場所で議論することは、とても危険で、希死念慮を誘発もするからです。

危惧していること

わたしがなにを危惧しているのかというと、トランス女性を性自認だけで女性だと戸籍上でも認めることの意味は、女性ができることすべてができる権利なのだということです。言うまでもないし、当然のことをあらためていうおかしさも感じますが。

それは、下記のような形で影響します。

一例ですが、わたしの家に、ヘルパーとして、トランス女性が来たとします。倫理的には、普通に働いてもらうのが筋だということは、頭では理解できます。しかし、わたしにはそうできない理由があります。

それは、わたしにパニック障害があるからです。

パニック障害というのは、恐怖や不安をコントロールできない障害です。わたしは大きな物音がしたり、男性が立てる物音、声で具合が悪くなります。頭痛がしたり、過呼吸になったり、腹痛がしたり、現実感がなくなったり、いろいろな症状が出ます。

そこで、わたしは、ヘルパーを頼むときには動作がゆったりとして、話し方がゆっくりした女性を指定しています。

ヘルパーさんには、トイレ掃除を頼むこともありますし、衣類を畳んでもらったり、それこそ下着の整理を一緒にしてもらったりもします。

人には羞恥心があることを認めていただきたいのですが、これを男性にしてもらうのは無理です。

トランス女性が、社会的に女性なのは、理解していますが、わたしの心身の状況が、トランス女性を受け入れるか、それができるかは別の問題です。

トランス女性も、労働者としての側面をもちろん持ちますから、福祉の場面で、介護者として働くこともあるでしょう。そうしたとき、わたしは、どうすればいいのかわかりません。途方に暮れています。

男性の体に対する恐怖

わたしは、男性の体が怖いのです。男性の体には恐怖に関連する記憶があり、男性の体と、パニックは結びついています。SRSしてあったら大丈夫なのか、戸籍上女性だったら大丈夫なのか、自分のことながらわかりません。大丈夫ではなかったとき、それを拒否することはできるのでしょうか。

恐怖を語ること自体が差別の扇動だと言われましたが、それは間違っています。実際に、男性の体が武器として行使されている現実を、わたしたちは生きています。

わたし個人の話を抜きにしても、例えば、排せつの介助は同性介助が望ましいという風になっています。しかし、性自認が女性なら、完全に女性として扱うという状況の時に、現在と同様の意味での、同性介助は難しくなるでしょう。

わたしは、福祉をはじめとした諸問題について楽観しておらず、いったん流れができてしまったら、拒否することはできないだろうと思っています。今でさえ、議論すること自体を激しくとがめられる状況だからです。

福祉を受けるときには、ケアマネ、プランナー、ヘルパー、施設長、家族などが関わりますが、その中の一人でも、偏見はよくないと考えていたり、訴訟リスクを恐れていたりしたら、介護や看護される方の意見は通らないでしょう。それは、経験的にそう思いますし、法的にも、倫理的にも、拒否できる理由はないからです。

恐怖を語ることが憎悪の扇動になるのなら、パニック障害は、この障害自体が、悪であり、憎悪の扇動に当たるのでしょうね。

わたしは、パニック障害以外にも、いくつかの疾患を抱えており、近頃は、一日の長い時間をほぼ寝たきりのように過ごしています。今までは、ときどき行く公衆浴場が楽しみの中のウエイトを占めていましたが、心の整理がつくまで行けません。それも、今までトランス女性たちが味わっていたことなのだ、そして、トランス差別者に入る公衆浴場はないってことかもしれません。

意思の疎通をしながら議論するべき

とはいえ、今のまま、議論が続くと、それこそ、精神疾患を抱えた人や、精神障碍者、幼い人、年老いた人を議論から除いたうえ、これらの人々の意思を反映しないまま、いつのまにか、性別の定義が変わっていくでしょう。そうすることで、社会の在り方は変わりますが、女性蔑視や弱者に対する攻撃は温存されるので、結果的に、上記の集団に属する人々の安全感覚は失われます。実際に危険にさらされることもあるでしょう。

今、ようやっと社会や生活に適応している人たちが、そうした状況下で、心身の健康が悪化し、社会や生活に適応できなくなるのは予測できます。

昨日書いたブログを読んで、障害者の当事者が書いていると考えてみなかった人がいるのなら、それは、障害者が蚊帳の外に置かれている、意識の外に置かれているということの証明でもあります。

障害を持っていても、もちろん、意思はありますし、こうしたいという望みも持っていますし、もちろん人権もあります。人権の中には、安全に暮らすということも含まれているはずです。しかし、それが、一方的に奪われてしまうことを、わたしは危惧しています。

昨日からわたしを攻撃する人は、ほとんど男性、学者でした。トランス女性ですらなかったのです。何が語られて、何が語られていないか。語られていないこと、その空白を考えてみてほしいのです。権威のある者、恐怖を語りえない者たちが支配する言葉の世界で、それが何を示唆しているかというと、彼らにとって、人権というのは、成年の男性のためのものであるんだということです。建前ですら、障害者や、幼児の保護者、性暴力被害者を守るという態度が取れない人がいるとは驚きました。

いい人でありたい、という欲はとても人を振り回します。トランス女性の権利を推進したい人たちは、特にその欲望に弱いように思います。自分をいい人間だと思いたいあまりに、自分が差別者だと判定した人を、攻撃することで、自分が正しいことをしたと思いたい、その欲はわかる部分もありますが、そのむやみな攻撃の力の先が、何を引き起こすのか、考えてほしいと思います。弱い人間も社会の一員です。それらの人たちに、頭が悪いから駄目なんだ、理解しないこと自体が差別なんだと言っても、弱い人々が消えるわけではないことを理解していただきたいと思います。意思を確認しながら進んでいただきたいと思います。

追記:精神疾患を持ったり、性暴力被害者だったりするTの方もいるはずなのに、ともに考え、ともに歩みましょうという話にならないのは、とても悲しいことです。誰も正解をもっていないのだから、一緒に考えることができればいいと思うのに、憎悪が高まることは悲しいことです。

クィア活動家への批判:女子トイレ・女湯問題について

この問題は、トランス女性、ネイティブ女性の対立というよりも、クィア活動家と、生活者としての女性(トランス、ノントランス問わず)との対立だとわたしは考えている。

社会の約束事

社会は、信頼を前提に成り立っている。それは、暗黙の了解だったり、道徳としてだったり、意識されていないくらい内面化されたものだったりする。

例えば、お金に価値があるのは、お金に価値があるとみんなが信頼しているからだ。これは紙切れであり金属である、それだけのものだとみんなが思えば、お金で何かを買うことはできなくなる。

クィア活動家の発言意図への解釈

わたしの理解するところでは、クィア理論は、その「自明さ」を自明ではないと撹乱するものだ。ある定義があれば、その定義をずらす、信頼によって成り立っているものがあれば、そんなものはないと突きつけるものだ。

だから、少年ブレンダさんが「女湯でグヘへと思っているmtfはいる」「女湯でちんこつきのまま何事もなく談笑した人もいる」というような発言、尾崎日菜子さんの「ちんこまたにはさんで、女湯にちーっす」発言は「撹乱」を目的としているのだとしたら、クィア理論のオーソドックスな実践と言える。

ジェンダーだけでなく、セックスも作られたものだと示していくこと。欲望は権力に作られたものだということ。タブーを作ることで、その欲望が明確になるということ。それらを示すための言葉ではないだろうか。

しかし、当然ながら、このような「撹乱」は社会の約束事を壊すことを目的としている。また、クィア理論では、「何事も自明ではない」「すべてのことは社会的に構築されたフィクションである」ことを示すことを最優先にしているようだ。

生活者は勉強ができない

何が起きるかというと、「約束事を守って生きている」人たちの社会への信頼や、それから得ている安心が破壊される。

論文を書くような人たちは、この「トランス女性が女子トイレ、女湯に入る」問題で、抗議している女性たち(それはネイティブ女性、トランス女性両方)についてとても冷たい。

「勉強が足りていない」「フェミニズムが後退している」という風にいう。「冷静になるまで、黙っていたほうがいい」「今までフェミニズムの何を学んできたんだ」というような呆れに近い態度を示す人が多い。それは、クィア理論を肯定し、支持する立場なら、理解できる。

しかし、いわゆる「普通の人たち」には、クィア理論も、一部のアカデミシャンのこれらの言葉はとても冷たく響く。

まず、普通の人たち、つまり、学生でもなく、論文を書くような立場でもない人たちは、一日の中で勉強に割ける時間や、体力や、お金がないので、勉強をすることができない。

また、勉強したいと思っても、どの本から読めばいいのか、皆目見当がつかない。

ネットでフェミニストを名乗ったり、名乗らなくても女性の権利を求める人たちは、自分たちの境遇についておかしいと思い、声をあげている。

わたしは、それがとても尊い行為だと思っている。

彼女たち、彼らたちは、手探りで、自分が知っている言葉を組み合わせて、窮状を訴え、自分の被害体験を語り、精神的に追い詰められて、時には荒い言葉さえ使いながら、今よりも良い世の中を次世代に贈ろうとしている。

論文を書くような人たちには、繰り返された論争をまた繰り返しているばかりか、議論の蓄積を劣化させているように見えるのかもしれない。けれど、わたしも含めて、学術的な論争を過去にさかのぼって読み返す余力はないのだ。

クィア理論が脅かす、弱い人たちについて

わたしが心配しているのは、弱い人たちのことだ。

知的障碍者、認知症、精神疾患、精神障害者、これらの人たちは、慣習を学ぶことがとても難しい。けれど、パターンを繰り返すことで、なんとか慣習を身に着け、それに従って、最低限度、適応した生活を目指している。

具体的に言えば、上記の集団に属する人が、毎回同じ公衆浴場に小さいころから連れて行ってもらい、とうとう一人で行くことができるようになった人がいるとする。それは彼女や彼の習慣になった。そして、それが限られた生活の中での数少ない楽しみだとする。

しかし、クィア理論は、こうした「安心」に基づく習慣を破壊する。

いつもと違うことが起きた場合、上記の人たちは、ひどい混乱に陥る。精神的にも、生活も、「崩れて」しまうだろう。崩れる、という表現を知らない人には、病状が悪化するというとわかりやすいかもしれない。ショックから、起きれなくなったり、食べられなくなったり、自分の体や心を傷つける行為をしてしまったり、パニックに陥ったりして、毎日の生活が送れなくなる可能性があるのだ。わたしに関していえば、絶対にそうなると予測できる。

自明のものを問い直し、それが当然ではない、と突きつけることで、社会の認識を変えていく、という活動が呼び起こすのは、知や教養へのアクセスを閉ざされた人たちの生活の破壊である。

わたしを含め、普段、入浴しているとき、「男の形をしている人」や、「性的な目で見る人」がいないのは、習慣の前提になっている。それが覆されたとき、起きるのはパニックだ。

「ここには怖い思いをさせる人はいないからね」「男の人がこの場所に来ることはないよ」と長年教えられ、そうしてきた人たちに「恐怖を捨てて理解しろ」というのは無理である。能力的にできない人がいるのだ。理解を拒むとか、かたくなに無知でいたがるとかそういうことではなく、できない人がいる。

そうした人たちを、排除したまま、クィア理論の導くままに社会を構築することは正しくない。日本のような、性犯罪を防ぐことも、裁くことも、不十分な社会においては。

学びから排除されたがゆえに、フェミニズムからも排除される

わたしは、たとえ間違ったとしても、自分で考え、発言することが尊いのだと信じて生きてきた。

でも、勉強不足だ、それがフェミニズムを後退させると、知の最先端の人のセリフがなんと悲しく響くことか。

わたしは、障害のために、本を読む力が出ない時がある。

生活の中で、細切れの時間しかなくて、じっくりと考えることが難しくもある。体力がなくて、起きていることができない。頭にもやがかかったようになって、勉強ができない。感情が不安手になって何もできない時もある。お金がない時には、食料と家賃を払うことで汲々としていた。

でも、こうした状況は特別なものじゃない。

今、生きている人たちは、生活に直結するような勉強しかできない状況である。首都圏以外の女性は特に大学進学率が低い。大学に行けるとしても、資格を取れる、食べることに困らない仕事が確実にある学部を選ぶ人がとても多い。知から排除されているがゆえに、フェミニズムが必要なのに、勉強不足だから語るなと言われる。教育格差は明らかで、知へのアクセスが困難なのに、勉強不足で、ほかの人を差別する前に黙ったほうがいいと言われる。

ネイティブ女性が黙っていれば、丸く収まるのだ。丸く収めないために、わたしは語るのだ。

わたしが二十年前に、フェミニズムを学びたいと思ったとき、わたしはそのときまだフェミニズムという単語を知らなかった。

女性の権利運動、ウーマンリブ、という言葉を教科書で知っていたので、そこから始めた。上野千鶴子という名前は知っていたから、その本を読もうとしたが、単語が難しくて、意味が分からなかった。

そこで、「東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ」を見つけたときには本当にうれしかった。「フェ」といって、役人と話しあうくだりには共感した。わたしの周りには、フェミニズムを知っている人がいなかった。家に、田嶋陽子さんの本があったのは恵まれていたのだろう。

この本をどう使ったのかというと、参考文献をひたすら探して読んでいったのだ。もちろん、全部を読むことはできなかった。それでも、そこから勉強を広げていくことができた。

それから二十年たち、わたしはあのころから知識をアップデートできていない。だから、あのころからの二十年の議論の蓄積があったとしても、知らない。

けれど、今は二十年前よりも、状況は悪化している。だから、二十年前の知識でも、そう違和感なく、語ることができてしまうのだと思う。

フェミニズムは後退したか

どれだけ理論が進んでいっても、現実は後退しているから、ネットでフェミニズム的な発言をする人たちの、フロントラインが後退して見えるのは当然だ。これらの人たちが心配しているのは、自分のことだけではない。頭に浮かぶ、子供、病気の人、変化に弱い人、障害を持つ人たちの顔のために戦っているのだろう。

それが後退と呼べるだろうか?

二十年前、フェミニズムという言葉を知ることができなかったような人たちが、その言葉を手にすることができる今が、後退したと言えるだろうか。

弱い人を守るためのルール

弱い人たちを守るためには、ルールをある程度単純化して、わかりやすく、伝えやすくしておく必要がある。そして、そのルールは必要なだけ、反復しなくては、身体的に身につかない。

「ここには基本的に女性が来るけれど、心が女性で、身体は男性も来る。けれども、心も体も男性の人が来る場合もあるから、その時には逃げるんだよ」と説明して、理解するのがかなり難しいような弱い人がいる。そうした人は混乱するだろう。今まで教えられたことと違いすぎる上に、考えることが多いから。わたしも、現実にそういうことがあったら、混乱するし、病状が悪化するだろう。

社会の、自明であることを破壊する、定義をずらしていく、ということは、具体的にはこういうことなのだ。

こうした人に「勉強不足だから、トランスフォビアから逃れられないのだ。恐怖を克服するために学ぶべきだ」と言っても、意味がない。能力的にできなかったり、経済的、時間的、体力的にできない人がたくさんいるのだから。

もちろん、トランス女性、トランス男性にも、障害を持つ人、病気の人はいるだろうけれど。

クィア理論と、社会の信頼を自明のものとして、それを前提に行動せざるを得ない人とは、とても相性が悪い。

アカデミシャンの中には、こうしたことを考えていないのではないか、と疑わざるを得ない人がいる。

頑迷で、硬直し、偏見に満ちたように賢い人には見えるだろう「フェミニスト」の中には、こうした困難を抱えて発言している人が多くいると私は思っている。わたし自身もそうだから。

「クィア活動家」と「生活者」の対立

わたしは、女子トイレ、女湯に、トランス女性が入ることについての議論は、「クィア活動家」と「生活者としての女性」の対立だと理解している。

先に述べたように、クィア理論は、自明とされたことを破壊することで、クィアを成り立たせることを目的とした理論(もちろん、わたしが理解したところではという前提だ)なので、自明のなかに含まれる、信頼を基盤とした安心を破壊するものに、困難を抱えた人々が反発するのは当然だと思う。反発するだけでなく、激高し、感情的になるのは、信頼を基盤とした安心を壊されることで、自分や、守るべき弱い人が危険にさらされるからである。

女湯で、無防備になっても、性的にみる人がいない、男性がいない、というのは、建前である。しかし、その建前が、人の最低限の安心を担保している。その建前を実はないのだと示すことで、行き場がなくなるのは困難を抱えている人々である。

トランス女性が、困難を抱えてないとは言わない。だが、クィア活動家は、ネイティブ女性たちの個別の事情よりも、「自明のことを突き崩す」クィア理論を優先しているのだから、わたしはそれに抗うよりほかにはない。

「勉強不足」は脅しに響く

大学にいるような人たちに「勉強が足りていない」「勉強ができていない」と言われるのは、恐怖である。学校教育の中で、勉強ができない人と言われることが怖かった人は多いだろう。

それを思い出すのだ。

そのうえ、勉強が足りていないのだから、深刻な差別を引き起こす前に黙ったほうがいい、と権威のある人に言われるも非常に恐ろしいことである。

しかし、黙ったところで、トイレや公衆浴場、ネイティブ女性のみが入れる施設に対して、それ以外が入れる法案が、他国で性急に成立したのは事実である。日本でそれが起きないとはいえない。

恐怖はコントロールできない

日本で性急に法律ができるわけじゃないから恐怖を引き離してほしい、と言った弁護士がいる。性急に法案ができるかどうかは、コントロールできないことだ。コントロールできないことに恐怖を抱くのは当然だ。恐怖をコントロールしてほしいといわれたところで、コントロールするかどうか、またそれが可能かどうかは、わたしの問題なので、その部分に口を出されることも不愉快だ。

わたし自身は、男性があまりに恐ろしくて、入院した際にも、個室から出られなかったことがある。その時から七年たったけれども、一人で外出することはほとんどない。怖いからだ。怖くないほうが自分にだって都合がいい。でも、それができないから、不便でも、ほぼ家に引きこもっている。そのせいで、就労機会を逃してもいる。わたしは恐怖をコントロールできない。

また、その恐怖には根拠がある。男性から、女性への暴力は多い。暴力からも、その恐怖、後遺症、セカンドレイプから守られもしない。

勉強をたくさんしてきたり。フェミニズムを専門に学んできたり、論文を書くような人たちは、確かに理論に詳しいのだろう。でも、わたしたちにも経験してきたことがあり、困りごとがあり、守るべき人がいる。理論的に、フェミニズムが後退したと言われても、現実に抗するために、後退したと言われることを甘受する。それは現実に対応しているだけだから。

勉強することで、悩んでいたことがすっきりして、見通しが良くなることは、みんなわかっている。わかっていてもできないのだ。

不十分なまま語り、進む

トランス女性たちも、困難を抱えているのだろう。

でも、ネイティブ女性たちも困難を抱えている。

二つの困難が、どちらの犠牲もなく、解決するならどんなにいいだろうか。それに反対する人は少ないだろう。

わたしは、トランス女性の困難を本当の意味で理解することはできない。自分ではないから。そして、自分の困難を、真の意味で理解されることもないとわかっている。それでも、語らなくてはならない。誰も代弁できない。そして、代弁すべきでもないから。

だから、勉強不足だから、人を差別する前に黙ったほうがいい、ということを絶対に拒否する。自分の意思で必要だと思った時以外には。

クィア活動家から示されたことを飲み込むと、ネイティブ女性や知的、精神障害を持つ人、病気の人が犠牲になる。

反知性主義に陥っている、と言われたとしても、わたしは、生活を守りたいのだ。安心して、安全に暮らせること、就労や就学機会の損失をなくすことを求めて、今まで発言してきた。

自分の思うことを語るために生きている。

正解かどうか、賢い人の顔色を窺って、忖度して語るのはまっぴらだ。それはずっとしてきたことだ。それでわたしは生きる活力を失ったのだ。

フェミニストたちは、第一波から、ずっと論争を繰り返し、反目し、論争を繰り返し、同じようなことを繰り返してきた。それは今に始まったことではない。愚かだ、と言われても来た。

生活者が、自分の思うことを表現するのに恥じることはない。いつだって勉強は足りない。十分に勉強してからでは人生が終わってしまう。

障害者にも、またほかの困難を抱えた人々にも、フェミニズムは必要だから、わたしは勉強不足のまま語る。

わたしの知的水準がフェミニズムのアカデミシャンの求める水準に達することはないだろう。

けれど、誰もわたしの代弁はできないから、不十分に、不十分のまま、語らなくてはならない。

わたしが完全になることは決してないから。

ミソジニーの仕組み

完璧な○○は差別

近頃、「女」というのはどう定義されているかずっと考えていたのだけど、「純女」という言葉をみて、「純女」って何だろうなと思った。

生まれてこの方ずっと女、ってことだと思うのだけど。

完璧な日本人、完璧なドイツ人、完璧な男、というのを考えてみると、それらは、すべて完璧じゃないものを排除している言葉だなと気づいた。帝国主義的っぽい。

自分たちが「完璧な○○の集団だよな」と確認し合って団結し合うためには、「あいつらとは違う」と、いかに違うか言い合って、「違うあいつら」との扱いを変えるのが一番いい。

これが完璧な〇〇が差別だという理由だ。

男社会(ホモソーシャル)の仕組み

男の社会というものは、「あいつは女みたいなやつだ」「あいつは男の中の男だ」「本物の男だ」と言いながら、常に確認し合っている。わたしには、すごくいちゃついているように見える。

でも、彼らは、自分たちがお互いに欲望していないってことにしたい。男に欲望されたら、自分が「女」ってことになってしまうからだ。彼らは、求める者(主体)が男で、求められる者(客体)が女だと思っている。

もし、男から求められて、貫かれてしまったら、「お前は男の中の男だ」と言い合える男社会の一員でなくなるから、主体でいることに必死だ。客体として扱われれることを防ぐために、アリバイとして「女」ってものが必要だ。女を所有することで、自分は男の社会を脅かさないし、男からの欲望も必要ないということが示せる。だから、男社会は「女」を発明したのだと思う。

男社会にいながら、女が「女」を主体的に定義することは不可能だ

わたしは、二週間くらいずっと考えているけれど、「女」というものがなんなのかはっきり定義できない。not男としての、男の否定としての女しか思いつかない。生まれたとき、性器の形状でどちらかに割り振られて、そういう風に扱われたから、今「女」になったという感じ。

主体的に「女」だとはとても言えなくて、「しかたがない」といって、現状追認しているうちにどんどん女になっていった。

今、脱コルセットが、若い世代のフェミニストで話題になっているけど、もう、年を取りすぎていてとってもじゃないけど、無理。理屈上は、正しいと思わないといけないな、と思うけれど、いろいろな経験が彼女らにうなずくことを邪魔する。

若かったらできたと思う。若いころモヒカンにしたことがあった。でも、女の形をして生きていたら、どんな姿でも女として認識され、どのような暴力も防げない。そういう経験をして、無力を学習してしまった。そういう染みついた汚れみたいなものが、若い人たちの新しい運動を応援できなくして、思考や行動が硬直化していくのが自分でもわかる。

女の記号を身にまとうこと

布一枚でも身にまとっていたら、それが社会に対してどんなスタンスをとっているか、表明することになる。服装というのは社会的なメッセージだ。

女らしく女の姿でいることが、社会からの要請の追認なのか、それとも自分は男ではない、男とは違うのだと示すアクションなのか、考えてもわからない。ただ、男のような恰好をすると、わたしが、社会から受けた要請を追認した結果育んできた「自分らしさ」みたいなものが傷ついてしまう。それで反発するんだと思っている。

それに今は、手芸も好きだし、家事も好きな部分がある。蓄積された技術に誇りも持っている。装飾品も好きだ。手仕事に対するリスペクトもある。なにより、肩を寄せ合って育ててきた女たちの世界を今更抜け出せない。これはわたしそのものだから。わたしが育ててきた女の文化は、わたし自身でもあるから。

女の記号を身に着けることで、男は性別を超える

女を示す記号はたくさんあって、それを身に着ければ、男でも「女」としてふるまえる。第三の性として、性別を越境できるのは男ばかりなのは、記号化した性別のしるしが、「女」にしかないからだ。男が性別を超えることができるのも、男の特権だ。

完璧な女かどうか決めるのは、女じゃなくて、男社会だから、どんなに若く美しく女の記号を兼ね備えた女でも「あいつはあり」「あいつはなし」「劣化した」「女としてあれはないでしょ」と言われる。自分で完璧な女だと思い込もうと努力しても、一歩外に出て、一つ判断されたら完璧ではなくなる。

自分を完璧な女とは思えない理由

自虐的に言えば、社会で想定された「女」というのは、「完璧な男」から排除され、否定された集団だから、自分たちで「これが女なのだ」と示せない。もともと、受動的に、「これは男じゃない」と言われた者たちを吸収した器のようなものだ。

女たちが、常に自信がなく、自己肯定感のなさに苦しみ、そのために、他人に付け入られて、利用されて、ぼろぼろになってきたのは、ミソジニーのせいだ。

女たちが自信を持てないのは、まず、お前は完璧じゃないと言われ続けたからだ。そして、自分は完璧ではないと判断する視線が、何をするよりも前に、事前に自分の内側に向いて、自らを傷つけてしまう。わたしは、心穏やかに鏡を見ることができない。自分に自信をもって、鏡を見られないのは、自分にミソジニーがあるからだ。それは、わたしが自分から進んで選んだことではない。度重なる攻撃によって、自信を持つことをあきらめたのだ。

自尊心や、自己肯定感、自信は、心のバリアーのようなものだから、それをあらかじめ奪われていたら、攻撃を防げないのは当たり前だ。

それによって、自己肯定や自尊心が失われたことで、他者の支配を容易にする。攻撃するものは、ミソジニー、つまり女嫌いをためらう理由がないから、いくらでも攻撃してくる。女はどんどん弱っていく。攻撃と、それによって始まった自分いじめ。そして、ミソジニーの輪が完成する。

主体性は獲得できるのか

日本において、そもそも主体性を獲得できるのか、疑問がある。

西洋では、タブーを破らないことで、良い人間を目指すことができるが、日本にはタブーがない。日本では、良いことをすれば良い人間だと評価されるけれど、それは、都合の良い人間と紙一重だ。「良いこと」が誰にとって良いことなのか、基準が変わるので、良い人だと思われたいから行動したことで、流されて、結果的に不正義を行うことだってある。実際、わたしが道を誤ったと後悔するのは、良い人だと思われたがっていた時ばかりだ。

女たちが、主体性に生きることを奪われているのは、決定権のなさや不合理な取り扱いから言って明らかだと思うけれど、男たちが、主体的に生きているのかというと、それもまた違うだろう。「風呂飯寝る」だけ言いながら、習慣で会社の往復をしている人間が主体的に自分が選択しながら生きているという実感を得ているとは思いにくい(もちろん彼がそうできる環境を整えている人間も主体的に生きてはいない)。民主党が悪いといまだに言っている男たちも、流されているだけに見える(政権が代わってからの年月のほうが長い)。

あいまいに、なんとなく、なんか、と言いながら右往左往しているのがわたしである。わたしは、主体的に選んでいると自信を持って言えることがない。

環境的に、それを選ぶしかないな、それがベストかなと思って選びながら袋小路に入り込んだ気分だ。生涯を共にする相手を選んだ時でさえ、恋愛だというのに、「しかたがない」とずっと言っていたし、今も言っている。本当に、しょうがない、どうしようもない。好きか嫌いかで言えば好きで楽しいけれど、それとは別にそう思う。結果として、主体的に選んだみたいに見えるだけだ。テトリスみたいに落ちてくる出来事に合わせて自分を嵌め込んでいったんだ。

ミソジニーとどう向き合うか

わたしは、はっきり言っておくけれど、自分の中にミソジニーがあるなんて、自虐的すぎて、自罰的すぎて、到底受け入れられなかった。しぶしぶ、そうとしか思えないから、しかたなく、そういうものだなとなんとか飲み込んだだけだ。

わたしは、

「わたしにはミソジニーがありますよ、だから、自分を茶化したり、ちょうどいいとかいったり、自信が持てなかったり、これくらい当たり前でたいしたことないなんて言うんですよ」と気付いた時ショックだった。

女性が往々にして自罰的なのは、ミソジニーが攻撃しているからだと、男性のミソジニーを批判しているわたしが言うか?と思った。

でも、社会が、あらゆるところに女性差別を前提にして構築されている以上、女性の中にもミソジニー(女嫌い)はあり、自分の女らしさに気付いたとき(それは化粧をするために鏡を見たときや、ガラスに映る姿をチェックしたとき、お茶を入れるとき)、表に出てきて、自分を攻撃するのだ。

わたしたちは、そうした毒みたいな違和を飲み下しながら生きてきた。これからもそうしていけばいい。男のミソジニーを否定して、なるべく楽しく生きていこう。

本当にわたしは、ミソジニーに対して戦うのも、戦えというのも、ミソジニーを自分に向けるのをやめて、自信を持とうと女性に呼びかけるのも、うんざりしている。

うんざりしているけれども、それでも言わなければならない。

「ミソジニーは社会の礎に刻まれており、それゆえ、被差別者の中にも、それはある」と。

でもこうも言いたい。

「だからなんだっていうんだ?」と。

参考文献


mtfに関する疑念

女はほんとにイージーモードなの?

mtfについてのことを書きます。。

というのは、ツイッターで、フェミニストとトランス女性が争っているので、だから、わたしがトランス女性たちに抱いている不信の理由をまず書きます。

トランス女性に不信を持った経緯

このブログは女性や、精神疾患で苦しんでいる人向けに書いています。それで、女性の中にトランス女性も含めるなら、ちゃんと知っていかないといけないなーと思って調べたり、考えていました。

そうしたら、「この表現はよくない」「この内容はよくない」みたいに、セクシャルマイノリティの人たちに言われて、「反差別なのに、人を踏んではいけないな。ちゃんと学んで、いい人になろう」と思って直してました。そうしたら、だんだん要求が増えて行って、自分の主張を代わりに言わせる道具にしているのではないか、という疑問と、セクシャルマイノリティのために発言していくと、引き換えに女性に我慢しろ、女性の安全と引き換えになっても女性にもマジョリティとしての特権があるのだから、譲るべきだと思い始めました。

「ただの女」を無視する自分のミソジニーに気付く

で、そこで「ただの女」の言うことは聞かないのに、「セクシャルマイノリティの言うことは聞くって、ミソジニーではないか?」という疑問を呈されて、一年ぐらい考えていたのですが、「そうだな」と納得する瞬間がありました。わたしは、いい人だと思われたくて、一番大事な、女性の権利に対して、鈍くなっていたな、と思いました。

また、自分の中にミソジニーがあり、それが、自分を攻撃しているので、自己嫌悪に陥り、それを解決するために、セクシャルマイノリティの権利を代わりに主張することで、代償行為をしていたなと思いました。また、ミソジニーのために、女性の訴えを軽く見る部分が、わたしにもあったなと。

この発見は非常に衝撃的でした。

トランス女性の言動の違和感

ほかにも、「高専に通っていたトランス女性」がマサキチトセさんがパーソナリティを務めるツイキャスに出た際、コメントに「女だからあなたたちにフランス語を教えても理解できないから意味がない」と授業をボイコットされた、という経験を話している方がいたのですが、そのとき、そのトランス女性は「自分も高専で、英語をあまり教われなかった」というエピソードを披露したのです。女性差別の文脈のコメントだったので、それを伝えるコメントをそのときにも書いたし、ツイキャス後、マサキチトセ氏に、DMで「あれは女性差別だ」と伝えました。でも、彼は「複合差別のこともあるし、不均衡さを考慮しなければならない」と言って、パーソナリティとしての責任を認識しないまま、我々は物別れしました。複合差別と言えば、わたし自身も障害を持っていますし、ほかの人もそうなので、「普段複合的差別について、執筆したり講演している人も、現実に自分がしているのだと指摘されてもそれを認識すらできないものだな」と思いました。同様に、トランス女性にもがっかりしました。「女性の教育格差というものを実感したことはなくても、一応女として生きているなら、それを知る努力は必要じゃないか。高専の男女比を経験して、それでも気が付かないのは、男として扱われ育った経験が大きいのでは?」という疑念が生まれました。

女性蔑視が元凶なのではないか

わたしは、自分が女の体を持っているだけで、犯罪に遭い、教育機会や、就労機会を失いました。今でも一人で外出するのは怖いので、ほとんど一人では出かけません。男性とすれ違うだけで冷や汗が出て震えるからです。

それは、構造的な問題があるせいで、起きた被害だとわたしは理解しています。

女性蔑視が発端で暴力が生まれるという意味で、女性蔑視を「非男蔑視」と理解すれば、トランス女性も同じような苦しみを持っているはずだから、お互い理解し合えればいいと思っていました。

しかし、女湯にちんぽがついていても入ってやる、犯してやると言ったmtfや、女性差別が嫌なら、トランスして男になれ、と言ったmtfがいたので、わたしたち女は、トランス女性からも攻撃対象なのか、と思いました。その人たちが一部でしかない、ということは何度も考えました。でも、わたしが「シス女性が身体違和のない人、何とかなっている人、という意味ならそうではない」ということや、疑問を呈しているツイートに「わかってない」というような(これよりもっと攻撃的な)引用リツイートばかりが付いたのは確かです。

トランス女性への差別は「非男蔑視」から来ているものだと思っています。でも、その前提を共有できるかというと、現状難しいなと思っています。

シス特権リストは仮想の女に基づいていた

「シス特権リスト」というのを見て、それがミソジニーにあふれていたので、トランス女性たちが、「女」というものを「完ぺきな女」を想定しているのなら、それは、存在しないし、その「完ぺきな女」というモデル自体が差別的な発想で、個人の経験を無視していると言わざるを得ません。

例えば女性の生理、出産に対しても特権だと書かれていました。女性であっても、身体的な苦痛や、身体的な違和感は、一生続きますし、体の問題は、どうしようもないことです。それは、トランス女性の人も一緒だと思っていました。生理や出産をあげつらうやり方は、ミソジニー男性の定番です。だから、「男性的な発想だ、女性観が男と変わらない」と思いました。でも、そうじゃなくて、少なくとも「優位性がある」と言われていたわけです。

トランス女性の苦しみと女性の苦しみがイコールだとは言いませんが、重なっている部分もあります。でも、その重なっている部分さえ、共感しあうことなく、共感されることもなく、安全に対する疑念でさえ、トランスフォビアと言われて口をふさがれているのが現状です。

トランス女性として生きたことはないので、わたしはその苦しみが分かりませんが、トランス女性だって、「シス女性」として生きたわけじゃないので、その苦しみをわかるはずもないのに、イージーモードだ、純女さんだと言われるとやはり腹が立ちます。

シスの既得特権があるとしたら、それは、女性のみならず、男性へもその射程範囲に入るはずですが、どうも、要求が女性に対してばかりに偏っている傾向があると感じます。もし、女にだけ我慢させれば解決すると無意識に考えていたら、それは、男性の発想ですし、女性蔑視です。

男として社会的位置づけられてきた経験が影響しているのではないか

トランス女性が、本当に女性当事者として自覚をもって、女としての経験を積み上げるか、女の問題について考えてきたならば、女として女の苦しみを分かち合えるはずなのに、女を攻撃する人ばかりに見えます。自分自身でも、自分が男の体を持つから苦しみが生じた、という出発した前提から考えているのに、そこをうやむやにしています。自認だけで、女性を名乗れるはずだと主張する人がいます。

個人的には、パス度を求めるのは、既存のジェンダーロールをなぞることにもなるし、それ相応の負担を求めることになるから、絶対にしろとは言えません。ただ、パス度が低ければ、その低さに従って、女性の領域から除外されるのはやむを得ないという立場です。それは、女性の安全を守るために必須だからです。

「女とは、身体的な特徴から分ける」という定義を揺るがして、「女を自認していれば女になる」ということを主張される人もいます。でも、そうしたら、女の体を持っているがゆえに起きた差別や暴力に対して抵抗する言葉を奪われます。だから、わたしは、それを絶対に認めないという立場で、その主張を批判します。

シス女性という言葉も、「性的自認」と「体の性」が一致しているくらいならなんとか飲み込めますが、「違和感がない」「何とかなっている」と言われたら、「違和感は物心ついてからあるし、今も、体の変化に耐えきれないで、心を病んでいる」と答えるしかなく、それならば、シス女性という幻想でひとくくりにされることを拒絶するしかありません。

世界を変えるか、自分を変えるか

わたしの経験の話をしますが、精神疾患では、世界を変えるか、自分を変えるか、で治療方針が変わります。たいていは、世界(自分の半径五メートルの環境から社会制度を含む)を変えつつ、自分も変えて折り合いをつける、ということをしています。

トランス行為は、疾患ではないと聞いています。が、それでも、世界を変えるか、自分を変えるかの選択で、やむを得ず、自分を変えて生き延びた人だと思っています。

だから、社会制度や性的役割分担を変えたがっている女性とは、折り合わないのだと思います。

わたしは絶対に「身体的に女性であるがゆえに起きている差別や暴力」に反対することから、逃れられず、逃れるつもりもないのです。

何かを主張すれば、嫌われることは避けられません。いい人でもいられません。いい人でいるというのは、ある種の毒です。

わたしは、それよりも、誰かにとって、嫌な人であることを受け入れて、そして、女性をエンパワーメントすること、女性が自由に生きられる未来のために書きます。だから、嫌われることを覚悟しています。

最終的にわたしは、自分を変えて適応するのではなく、世界を変えることを目指します。女性や子供の未来の苦しみを減らすために。