Hobbit 傲慢なお姫様トーリン(王子)と乙女な魔法使いガンダルフ

Hobbitがあまりにもつぼに入ったので、二回観ました。

感想をオチもなくだらだら書きます。

二回目はストーリーがよくわかりました。
誰が誰だかわかりました。
人の顔と名前を覚えるのが苦手なのです。
キーリとフィーリはすぐ覚えたのですが(イケメンだから)。

一回目は、ただ「うう…すてきなおじさまがたくさんいらっしゃる…」と思っていたのですが、
しかも!戦ってる!マジかっこいいウヒョー。

「おうじたま!おうじたま!」という感じで観ていました。
馬鹿すぎる…

馬鹿ばんざい!
王子様ばんざい!

トーリンが無謀なために、何度も死地に陥る一行。
小さいせいでエルフに囲まれたとき本当に間抜けに見える一行。
頑張って威嚇しても小さい。うぅ。
プライド高いと間抜けさもひとしおですね。愛…愛が芽生えます。

誇り高い王女のように潔癖なトーリン。
そもそも旅の目的は、トーリンの「王国を取り戻す」という一新のために始まります。
はっきり言って、集めた仲間たちは「死んでくれ」と言われたのに等しい。
そこらへんのわがままさが、わたしのイメージの王子というより、「王女」という感じがします。

なんというホモソーシャル。でもいやじゃないわたしがいる!

ガンダルフが乙女だと思った理由は、
「なぜホビットを巻き込むのか」と聞かれて、
「彼がいると勇気がいるから」と答えたから。

癒し担当なのかい。

マスコットが必要な魔法使いって、日本の文脈から言うと魔法少女じゃない…。

殺伐とした男ばかりの中に一輪の癒し。

それまでも「なぜあいつを」と言われていたときも「わしが選んだのだから文句を言うな」と突っぱねていたのもなんとなく乙女っぽい。

乙女なガンダルフと、お姫様なトーリンと、素朴な娘ホビットを守る十一人のドワーフ

ガンダルフは、魔法は基本的に一種類しか使えないし、なんでも知ってる訳じゃないし、基本的は武闘派で、トロルの宝物も嬉しげに自分のものにする。すごく植民地主義っぽい。
この人たちの動力って、お金と名誉と故郷を守る気持ちと友情だから、すごーくすごーく今も時代からすると右翼!!!

でも、うっとりファンタジーに浸ってしまう。

人間は昔ファンタジー界の皆さんと交流し、お互いの世界を深めたのだ…と言ったのはミヒャエル・エンデだけど、ホビットに浸るとまさに損な気がする…


田房永子さんの「母がしんどい」とわたし

http://mudani.seesaa.net/ むだにびっくり

「母がしんどい」の内容は、ちょっと変わったお母さんと、その娘の話です。
なんでか苦しくて仕方がないけど、どうしてなのかわからない。
いや、わかる。
そんなお話です。

わたしは、田房さんと文学フリマで知り合いました。
わたしが彼女の同人誌を買ったら、わたしのも買ってもらえました。なんていい人なんだ。

わたしは彼女の大ファンで、同人誌も買いましたし、「母がしんどい」も買いました。

そのころわたしは、母のことが大好きでした。でも、母がしんどくて、ずっと死のうと思ってました。成人してからも、母の家から出て行けなかったのです。
もったいないことしたなあ。

母以外に原因を求めようとして、男性嫌いになったり、世の中が憎くなったり、本当の原因である母を原点にしてぐるぐる回っていた感じがありました。

わたしは、けがの功名で、犯罪にあったことで、母親と縁を切ることができました。
一生会わなくていいと思います。

夏頃に、「母がしんどい」を買って読んで、ともすれば、「帰ってあげた方が良いかも」と思った自分を戒めました。

わたしもブラジャーを買ってもらえなかった思い出があります。

「母がしんどい」が果たした役割は、わたしの中で大きいです。
わたしは、「えいこちゃん」と違って、一緒にいる間、「母がへんだ」ということに気づきませんでした。
「母がへんなんですよー」と反笑いして「ちょっと自慢」するような感じ。
周りからは当然変だと言われました。
それで、友達も減ったり、恋人が離れて行ったりしました。
だって、わたしといると思っていたのに、わたしは母親を背負っているのですから、気持ち悪いのは当然でしょう!

田房さんと違うのは、逃げる努力をしていなかったことです。

わたしは「働くな」と言われたことがあります。
それで、その通りにしました。
なんて、馬鹿だったのでしょう。

働くようになってからも、母との密着は止まりませんでした。
なぜか、毎週末帰省し、いくら節約してもお金が貯まらないと不思議に思いました。
母は私の家に、三組もの布団を送りつけ「わたしが泊まるときはこの布団で」と言いました。
わたしは泣きました。

そんなこんなで、母と別れるためには、わたしは死ぬ方が楽だと思い詰めていました。

本当はそうじゃなかったのです。
わたしは犯罪にあって、緊急病院に入院し、その後母と縁を切ることができました。
仕事も辞めることになったけれど、縁が切れて本当に良かったです。
神様がいるとしたら、本当に感謝したいです。
二度と会いたくないです。

でも、その反面、弱ると、会いに行きそうな自分がいます。
そういうとき、ほかの人の体験を読むと気持ちがすーっと落ち着きます。
だから、母がしんどいは、本当にタイムリーでした。

田房さんと、これからもご縁がありますように!


遅刻しそうになった

アルバイトに遅刻しそうになってしまいました。

今日は一日ベッドでだらだらしていました。

明日はこんなことがないよう、きちんと暖房をつけて、暖かくして、起きていられるようにしていたいです。
やることがないと思って、ベッドからでないので、だめなのだと思います。


精神病患者の内的変化

精神病から抜け出すためには、内的変化も必要とされる。

目標に合わせて人生を変える日々から、人生に合わせて目標を変える日々に変わることが必要になる。

そういう、一見、後ろ向きな価値観の変容が必要になる。
もっとよい人生のためにがんばってきたけれど、とりあえず、今はそれができないというのが、精神病だ。
精神病の間でも、少しでも幸せを感じて過ごしたい。
アッパー気味の目標が達成できないのは、はっきりしている。だから、人生に合わせて幸せを変える方がいい。

高々と掲げた目標に耐えられないとき、くすむ我が身を振り替えるとき、わたしは不幸だ。

誤解を恐れずにいうと、精神病は薬だけではよくならない場合がある。精神的な変化が薬以上に効くことになる。

たとえば、朝起きられないことも、起きられないことを責めるのを止めるのは内的変化である。価値観の変動だ。健康なときと価値観を変えるということ。

これは薬では変えられない。

今の自分なりの幸せを発見するための視座を獲得することも、内的変化である。
精神病でも幸せを感じることができる。
それは、今の自分を不幸だと思わないこと。あるがままの自分にOKを出すこと。
そうすれば、幸せになることができる。
精神病患者でも、今すぐ幸せを感じることは、場合によっては可能だ。

わたしとは言えば、過去を振り返らないことが、私を幸せにするための内的変化である。
ただ、それが難しい。すぐ、恨みと憎しみでいっぱいになってしまう。


精神病患者が初めて朝起きられなくなった頃から、入院して自分を見つめ直すことになった話

わたしが初めて朝起きられなくなったのは、中学生のときだ。

突然、布団から体を起こすことができなくなったのである。
夜眠ることもできなくなり、突然、涙があふれるようになった。

その症状は、今でも続いている。

母親は、外聞や世間を気にする人だったので、精神科にかかることを「将来に傷がつくから」「就職のときに調べられて、後悔しても知らないよ」という言い方でだめだと言った。

実際には、そんなことはない。

今、入社する人間を興信所に頼むほど体力のある会社はそもそもないし、診療している事実が知られることがない。

知られても別にどうってことはない。

わたしの考えだと、早く精神科に行き、薬を出してもらい、薬を飲み、偏見から自由になり、精神療法やカウンセリングを受けて、自分が病気になった原因から逃げ出すことが回復になると思う。
鬱病患者は、その症状から、大きな決断をして、会社を辞めたり、離婚してしまったりしやすいそうだ。それは「気分を変えたいため」に行われることが多いそうだ。

ただ、病気が長引いたら、自分が病気になってしまった原因から離れることはした方がいい。
わたしの言っていることは、一般に鬱病患者に対するアナウンスと矛盾していることだと思う。
だけど、わたしのような一部の人にとっては、そこから逃げ出すという選択肢も、あった方がいい。

それが、あとで、失敗だったと思うこともあるだろうし、後悔することもあると思う。
特に、鬱病の人は、あとで、その失敗を長く後悔する種にしてしまいがちだから、わたしの言うことを丸ごと真に受けることには注意が必要だ。

だけど、人生は失敗の連続だ。失敗はしないに越した方が良いが、決断した方が良い場合もある。
少なくとも、わたしはそうだった。
わたしはわたしの経験したことしか言えない。

わたしの場合は、病気になった二つの要因があった。
暴力的な事件に相次いであったことと、慢性的に、異常な家庭に育ってしまったことがあった。
それによって、脳に大きな負荷がかかった。思考も価値観も、正常さだとかバランスを欠く事態に陥った。
それは、生活習慣病のようなものなので、改めなくてはならなかった。

二つの要因を自覚することができたのは、精神療法のおかげだ。

わたしは、母に問題があることを、早い段階でわかっていた。
それでも逃げられなかった。
愚かだったと思う。そのころ、母は、若かったのだから、捨ててよかったのだ。

そういうことに、気づくために、入院できたのは良かった。
それは、糖尿病患者が、教育目的のために入院するのに似ていた。

入院は、わたしが今まで体験した生活の中で、最も、落ち着いた生活だった。
また、入院したいくらいだ。


朝起きられない精神病患者の生活にまつわるあれこれの経緯

今日は、めまいがひどくて起きられなかった。

多分温度がめまぐるしく変わるからである。

それと、二日前に精神科に行って相談した。

抑うつ状態にあると、朝は起きにくいようである。
だんだん回復するから、今は自分を責めなくていいと言われた。

これは多分、自分を責めても起きられるようにならないからなんだと思う。
本当に起きられるようになるかは、多分経験的にわかっていることだと思うから、わたしに本当に当てはまるかはわからない。

だけど、起きられるようになりますよ、と言うのが治療なのだと思う。

物忘れが最近ひどい。何かしている途中で、新しいことがあると忘れてしまうのである。
アルバイトはわたしの中で、最優先なので、あまり間違えることはないのだが、その他のことは、気が抜けるのか、よく間違える。
間違えると、情けなくなり、落ち込む。
退院してから、抗うつ剤が三倍になった。
そのせいか、先生に聞いてみた。
あまり、頭の中に引っかからなくなる薬を飲んでいるから、まあ、そういうことらしい。

確かに、落ち込んでも、それを長い間深く考えるのが難しくなった。
健康な人は、悩み事を長く考えなくて済む、という噂を聞いていたのだが、それがこういう状態なのか、と知って新鮮である。

わたしは、健康な精神状態というのを経験したことがない。

別の人生を送ったことがないので、当たり前である。
それと同じように、性暴力を受けなかった自分というのも、やっぱり考えられない。
(恨みつらみ、憎しみとは別の意味で考えられない。憎しみについてはいくらでも考えられる。憎しみと離れた自分をイメージできない、という意味)

だから、暗闇が怖かったり、朝起きられなかったりするのが、病気のせいなのか、それとも怠け者だからなのか、区別が付けられない。

ひどく疲れやすく、友達と会っても二時間くらいでぐったり疲れきってしまう。そういうことも、自分が怠け者だからか、病気だからかわからない。

だから、病院へは、自分の異常な家庭環境だとか、精神状況とは別の、新しい世界に出会いに行くことである。
第三の世界を作ることで、正常とは何か、学習していくことが大切だ。
それは、アルバイトをすることでもいいし、ボランティアでも、趣味でも何でもいい。

わたしは趣味がなかったので、こういう風にブログを書くことも、映画に行くことも、世界を広げるために、意識して進めている。
一ヶ月前には、自分を低く思う気持ちが強すぎて、「わたしは娯楽を享受することに値しない人間だ」と思い、趣味を作ることもできなかった。
わたしは、その気持ちを「自分が良くなることで、周りにかけている迷惑や心配を減らすことができるのだから、自分が娯楽に接することは必要なのだ」と言い聞かせて克服した。

PTSDの患者が、入院することはかなり難しいらしい。
それは、PTSDを受け入れられる病院が少ないからだ。
PTSDを診ることができる医師も少ないし、看護士も少ないらしい。それに、性暴力を受けた人に対する治療ができる人はもっと少ないらしいので、そうすると、性暴力とPTSDが複雑に絡み合った症状のわたしは、入院することができて幸運だった。


母親から回復するということ マザコン娘が逃げるまで

わたしの目下の目標は「母親から回復すること」だ。
母親の呪縛から逃げ出すために長い長い時間がかかり、青春時代がほぼ費やされてしまった。
コントロールされていた。

わたしが逃げるきっかけになったのは、性暴力を受けたことだ。
わたしが性暴力を受けたとき、母親は「どうぞご勝手に」と言った。
わたしはようやく寒気がして、逃げた。

ここでポイントなのは、どうぞご勝手にと言ったことではなくて、そのことで「わたしを突き放してから→わたしを慰め→わたしが号泣し→二人の絆が強くなる」まで長年築き上げたコンボが始まりそうだったことに、寒気がしたのだ。
わたしは生きるか死ぬかの境目だったが、母は一切わたしを助けようとしなかった。

わたしは失われた年月に対して、ひどい怒りを覚えた。
母はわたしを逃がさないためにあらゆることをしていたのだ。そのことを、長年気づかないようにしていた。わたしは自己評価が大変低く、母がしあわせになるためになら、いくらでも犠牲になろうと思っていた。
母は、わたしの自己評価を低めるために、洗練された手法、つまり殴る以外の方法をとった。
殴ることは幼児の頃に止まっていた。
わたしに話しかけるときは、常に、赤ちゃん言葉で、睡眠時間を管理し、友達と遊ばさないようにし、わたしが親密な関係を築きそうな人のことの悪口を吹き込み、それでもうまく行かないときはうまいタイミングで具合を悪くして、倒れ、それでもだめだったら、部屋に閉じこもって泣いたりした。
そうやって、わたしの情緒が常に不安定になるように振る舞った。
おぞましいのは、その口実が「あなたのためを思って」と言われていたことだった。
わたしは、例えば、子どもの頃、あしの骨を折ったとき病院に連れて行ってもらえなかった。
それは「あなたの自主性を重んじるため、将来、大人になったとき一人で病院に行けるようになるため」と後から言われた。
どんなけがをしても、どんな病気になっても、母親は病院に着いてくることは一切なかった。それは幼児の頃からそうで、幼児の頃には待合室までは送ってくれ、支払いもしてくれたが、医師と会うときは必ず一人で行かされた。
そして、その後、医師の言ったことを正確に反復しないと、金切り声でののしられた。
わたしは、逃げるまで、それが異常なことだと知らなかった。

母の口癖は、疲れた、つらい、だった。わたしはその台詞のたびに右往左往し、泣き、慰め、冗談を言った。
母は、わたしが成人した後も、赤ちゃん言葉でわたしに話しかけた。
母のわたしへの接し方には、幾分性的な色合いがあった。裸の写真を撮ろうとしてきたこともあった。
だから、性暴力にあったわたしのことを否認したのだろう。

逃げてから、わたしが直面したことは、母親を恨んでも何も変わらない現実がある、という事実である。
恨めば恨むほど、わたしの中で母親を生かすことになるのだ。
わたしは、わたしの意思で、逃げ出すことができたのに、逃げ出さなかったのだ、ということを指摘された。
わたしは、縛り付けられていた訳ではなかったのだから。
そのことを認めるのはとてもつらい。

恨めば恨むほど、一緒にいなくても、母に奪われる時間は増大するのである。
わたしができることは、ただ一つ、今後一切母に時間を取られないことだけだ。
わたしは一生母親に会いたくないし、会うことを考えるだけで震える。
わたしの気持ちはわたしにしかわからない。

それでも、いずれ、わたしは回復するだろう。
逃げることができたから。
一生逃げられない場合もあった。
だけど、わたしは一生会わないという決断ができた。
母親がかわいそうだと思い、戻ってしまいそうになることがある。それは、DV被害者にありがちなことだ。
わたしは大してかわいそうな境遇ではない母親のことを、心底かわいそうだと信じてきた、
だけど、本当は、かわいそうな人ではなかったことがわかった。
わたしが戻らないことで、かわいそうだと思う人がいるかもしれないと思うときがある。
わたしの中にもそういう気持ちがある。
だけど、その気持ちに負けないことが、「お母さんはお母さんの人生を勝手にやってよ」と思うことが、わたしの唯一の回復への道なのだと思う。

わたしは、わたしのかわいそうな今までの人生のために、二度と自分がかわいそうにならないために、一生母親に会わない。


過食気味の一日

今日は一週間ぶりに料理を作った。
きんぴらごぼうと、ほうれんそうの白和えとイワシを焼いたやつとお味噌汁を作った。

そのあと、ミルクパンとキムチを食べてしまった。
最近、少し躁気味で、食欲が出たり、活動時間が長かったりしている。

アルバイトに行ってきた。
今日も面白かった。
バイクに乗っていたら、雨に降られたので、春が近づいたなと思った。