中学生のこと

中学生が
「てヘペロ」と実際に言ったので、「おー」と言った。
「現実に言うんだなー」と言うと「言いますよー」と言った。
「ちょっとね、友達とね、言います」と言うので「そうなんだね」と相づちを打った。
中学生の肌は張りがあって、つるつるしている。
「わたし、自分のはだがいやなんですよう」と言うので、「ぶっとばそうか」と答えた。
「えー、でも、先生はかわいいし、綺麗だし、うらやましい」と言う。「手が綺麗だし、顔もきれいだし、服も綺麗だし、いいなあ」
「しみ一つないつるつるの肌じゃんか。とっかえたいよ。若いよ」と言いながら、自分がすごく年寄りになったような気がした。
でも、悪い気もしなかった。

中学生を見ていると、人生が決まっているようでいて、まだ、全然決まっていなくて、根性を入れて何かをすればいくらでも可能性が開けそうに見える。
でも、わたしよりも年上の人から見ると、わたしのことも同じように見えるんだろうな、と、俯瞰する視点が手に入る。
中学生たちは、普通に親のことが好きで、尊敬していて、期待に応えようと、好きでもない勉強をしている。
親御さんは、子どもの人生のために、自分が代わりになれないことを歯がゆく思っている。
そういう構図が見える。


今日は調子がとても悪い

今日は精神の状態が悪くて、叫びだしそうになった。

春休みなので、生徒さんと毎日会う。だから、お互いちょっと嫌になってしまったり、毎日八時間くらい働くので疲れてしまったということもある。

わたしは人間的に馬鹿で愚かで、もともとが0なので、0に何を掛けても0になるように、何を努力しても無駄なのだと思った。

お金を稼ぐことが一番良いことで、それができていないわたしはくずだと思った。

父は、「毎日仕事を嫌だと思っている人もいる。そうじゃなく、感謝され、頼られ、楽しいと思っている仕事に就けているのだから、それだけで良いじゃないか。お金は、信頼されていくと、後からついてくるものだ」と言った。
「あのとき、あの道を選べば良かったと思うのは調子が悪いからだよ。この道を通ってきたから、得たものがたくさんあるじゃないか」
「お金がなくてもすてきな人というのはいるじゃないか」とも言われた。
「大きな会社に入っていても、人に恨まれる仕事をしている人もいっぱいいる。お金を稼いでも、ストレスを発散するためにすべて使ってしまう人もいる。そういうことよりも、人に感謝される仕事をして、毎日今日も何事もなかったということに幸せを感じる方がよほど幸せじゃないか」とも言われた。
「リストラをする仕事だってあるし、リストラは必要でも、人に恨まれるし、本人もきつい。仕事を持ち帰ることもできないから、残業ばかりになる。そういう仕事だってあるんだよ」

生徒さんには「先生はお金持ちそうに見えます。良い服を着ているから」と言ってもらった。そのあと生徒さんは楽しそうに踊っていた。
嫌々来ている生徒さんでも、だんだん、楽しそうになってくると、こちらもやりやすくなる。
そういう、良い面を見られるようになるといいと思った。


あきらめることは捨てること

今日は心が少しだけ落ち着いている。

わたしは、総合職でバリバリ働くのは無理だったんだなー、と諦めたほうが幸せになれる。

自分にあった仕事をしながら、ぼちぼち貧乏をしながら暮らしていくのもそんなに悪くない人生かもしれない。

わたしは、精神病にならなくてすんだ人生に未練がある。
それは、わたしに与えられていたはずだと思ってしまう。

でも現実にそれはない。
できることとやりたいことの区別をつけないといけない。
やりたいことよりも、できることをやっていたほうが幸せを感じることができる。

(これしかできないから、といえるひとのなんと幸福なことか)

現実に合わせて生きていく他ない。


精神病患者ができるようになったこと

朝起きられるようになった。
寝る前にものを食べるのを止められるようになった。
映画館の暗闇にフラッシュバックを起こすことがなくなった。
人と会って長時間話していても、しゃべっていられるようになった。
夜眠れるようになった。
暗いところが大丈夫になった。
ぼんやりして、体の感覚がない、という状態がなくなった。
親離れし始めた。
希望を持ち始めた。


仕事が面白い

仕事が面白い。

心配なこともスリルになって面白い。責任があるのが面白い。ゲームみたいな感じがする。お金ももらえる。
命令されることもないし、怒られることもない。
どうしたらいいのかを考えるのが面白い。

いやな仕事をするときは、気をそらすことばかり考えていた。
今は、結果が出るのが面白い。思った通りにいくことが思った通りにいかないことも面白い。人間関係も面白い。

働くことは刺激があって、頭を使うから面白い。
わたしは、もし、結婚して、主婦になったら、毎日やることがわからなくて、病気になってしまうと思う。
家族とだけ会話することになったら、昔のつらい思い出だけがリフレインされる生活になってしまう。

仕事に救われるという話は、漫画でしか読んだことがなかった。

仕事をしていると、檻の中に閉じ込められて、同じことを繰り返して、そこから逃げられないという気持ちにもなる。
気持ちになるし、その狭い檻の中でもっと良いやり方を考えることは、頭の中がどんどん自由になって、広がっていくような感じもする。


わたしは長い間心の中が止まっていた

わたしは、長い間お母さんのことばかり考えていた。
わたしは何もできず、お母さんのことを幸せにできなかった。

わたしはいつも昔のことを考えていた。
あのとき、ああすればよかったのかもしれないと思っていた。
そして、病気になった。

心の中が止まってた。暇だったのかもしれない。
暇すぎると悪い方に考えがいく。

仕事が忙しすぎると、体がきつくて、なんのために働いているのかわからなくなる。
仕事がちょうどいいと、仕事が面白くなる。でも、ちょうどいいバランスのときは稼げるお金が少ない。

わたしは体が弱くて、世の中のことに疎くて、お金を稼げるコースからドロップアウトしてしまった。
それでいて、いわゆる女の勝ち組の人生からもドロップアウトした。

お母さんがかわいそうだと思って生きていた。

今は、わたしのことがかわいそうだなあと思う。

なるべく大事にしてあげたい。
お金と時間をかけて、自分が気分よく生きられるように最善のことをしたい。


母は一人の小さな女の子のまま

母のことを考えると、わけがわからなくなる。

わかっているのは、母といると、具合が悪くなってしまうということ。
わたしが、憎しみの固まりになってしまうということ。

彼女が、そんなに悪い人ではないという気もするし、わたしのうまくいかなかった人生の責任を彼女に追わせているだけだという気もする。

でも、それなら、なおさらのこと、彼女に関わる必要はないという答えが出る。
彼女に責任を取るよう迫らないようにしたいならば、彼女に会わないのが一番の選択なのだ。
そして、わたしは、わたしの人生を歩きたいと決めている。
そんな決意が、健康な人からはばかばかしいようにみえることは知ってはいても。

母に対して一番思うことは、彼女がかわいそうだということだ。罪悪感で胸が締め付けられるようだ。

罪悪感を打ち消すために、憎しみを駆り立てている一面もある。
そして、それは正しい。

わたしは、罪悪感を人質に取られ、長い間、彼女から逃げることができなかった。
彼女は孤独で、寂しく、人を憎み、コンプレックスの固まりだった。
彼女は、世間と向き合うほど成熟してはいなかった。心の中はいつまでも娘のような人で、庇護者がいないと生きられない。人目を気にして、さばさばしたキャラクターを作り上げていた。

わたしが母からようやく逃げられたことは、わたしの人生で起こった、最も輝かしいことだ。
その選択はことほがれるべきで、無条件で正しい。
わたしは彼女といることで病気になったのだから。

母は、彼女の人生で持って、かわいそうから脱却しなければならない。
彼女は、自分のことを、かわいそうがるところから始めるべきだ。わたしは彼女の代わりに彼女をかわいそうがってきた。
わたしは彼女の面倒を、(もう見ることができない=この言い方は正しくないが、そうとしか言いようがない)彼女に任せた。
わたしは彼女の娘であることを止めた。


幸せを感じることができない、のを止めたい

客観的に見れば、わたしは、幸せを感じてもいいと思う。

いろいろあったけれど、病気は快方に向かっているし、仕事も順調にいっている。そりゃあ、言い出せばきりがないし、お金ももっと稼ぎたい。だけど、自分の時間を持てるという意味で悪くない仕事だ。

わたしは、容姿を「お人形さんのよう」と言われることが多かった。
わたしは、文字通りに受け取っていて「人形のように表情が硬い」のかと思っていた。

賛辞を賛辞として受け取ることができなかった。詳しく言うと、賛辞を賛辞として認識していなかった。
(こういう感覚なのは、自閉症スペクトラムが強いせいなのかとも思う。気がついてみると、ずれている。なんでもかんでも自閉症スペクトラムのせいにするのは馬鹿の一つ覚えのようだが)
そういうのは、もったいないから、これから止めようと思う。
このようなずれのようなものが、幸せを感じるセンサーにも起きているような気がする。

最近、若い、綺麗な顔の人を見るとお人形のようだと思う。それは、硬いという意味で思うのではなく、美しいという感想だ。だから、わたしも顔が整っていたのかもしれない。

でも、今はあまり言われない。だから、「それなら、ほめられたときに、ほめられたと思って、喜んでおけばよかったな」と思った。

わたしは、近頃「綺麗」「優しい」「可愛い」「笑顔が優しい」と言われることが多い。少し柔らかくなったのかもしれない。人形のようだとは言われなくなった。
以前のわたしなら、「お世辞だろう」と素通りしてしまったり、「容姿にこだわるのは良くないことだ」と嬉しい気持ちを押し殺してしまっただろうと思う。
うっかりすると、今でもそう思う。
だけど、いつまでも、こんな風にいってもらえるわけじゃないから、喜ばないといけない、と思った。

しかし、そこがくせ者で「喜ばなければいけない」と思う時点で、何か引っかかっている部分がある。それは、心の癖なのだと思う。
わたしは、自分のことを人と良く比べる。比べて、なんて、わたしはだめなのだろうと思う。
それこそ、人と比べて、良いところもたくさんあるし、人からそのことをほめられることもあるのに、そのことは棚に上げて、悪いところばかり気にしてしまう。

わたしは、幸せを感じる条件が整っている。病気になったのは残念なことだけれど、人生が病気に乗っ取られることを防ぐために、仕事に就けた。人間関係もある。アルバイトに近いとはいえ、仕事を任されてもいる。人からは感謝されるし、ほめられる。

わたしは、幸せを感じたい。
幸せにならなければならない、というところを抜けたい。
幸せを感じなければならない、と強迫観念を抱く心から抜け出したい。

抜け出すためには、無理矢理にでも、「ああ、わたしは、これを幸せと呼ぶのだ」と、自分に言い聞かせて、教えて、学ばせたい。
「ほら、けっこうつらい局面もあったけれど、それなりに頑張って、一つ一つ取り戻しつつあるよ」と。


オズ はじめての戦い 感想、ネタばれしてる

だめな大人のためのだめなファンタジー。
だめさを貫いて、勝利を勝ち取っただめなハンサム、オズ。良いところは、調子の良さ、口のうまさ。下品で女好き。
(現実にいたらうざいけど、かわいいと思ってしまう)

そして、あらぶるだめ女=魔女たち!
君たちはもうちょっと男を見る目を養った方がいい!わたしもだけど!でも、どうせだまされるのならば、ハンサムの方がなんぼかいいよね!あと、優しくてだめなハンサムにだまされる方が、不細工でひどい意地悪にだまされるよりはいいよね、と思ってしまうような、つらい女には共感できてしまう恐ろしい映画。ちっとも子ども向けじゃない。

わたしは、魔女化して緑色になってしまった魔女に近い。とても近い。
振られたら魔女くらいになるよね。

良い魔女はすべてをかっさらう。なんて恐ろしいのでしょう。良い魔女こそ、我らの敵。
えろくて、かわいくて、完璧なブロンドの顔をひっぺはがしたい。
悪役の方に感情移入してしまう構造になってる。

わたしは、俳優にも映画監督にもあまり興味はないにわかな映画観客なので、わーきれいな映像と音楽!だらだらしていないカット!お金かかってる!ハンサム出てるわーい、くらいにしか、反応しません。そういうわたしにとっては、面白かったです。


うまくいっていることを数える

仕事はうまくいっている。

高い評価を得ている。完全成果主義なので、すごく楽だ。職場の雰囲気も悪くないし、お客さんに信頼もされている。

生徒さんの成長も面白い。同じことを繰り返しているようで、少しずつ違うのは、季節の移り変わりと同じような気がする。
今日嬉しかったことは、成績のふるわない生徒さんが、抽象化された文章から文意をくみとり、それを式に変えることができるとわかったことだ。
それと、図形の移動などの、空間把握能力も高いことがわかった。

朝起きることができる。

憎しみと呪いで頭がいっぱいになっても、仕事中はそのことを考えずに済む。その上お金がもらえる。

お化粧もうまくなってきた。服装もきちんとすることができている。
ちゃんとうまくいっていることもある。