荷物を捨てられたときのことを思い出してつらいです

今日は、自分の部屋の荷物を丸ごと捨てられたときのことを思い出したのでしんどいです。

そのときは、そう、くらいに済ませました。

あまりに弱っていて、人がひどいことをしてきても、自分の魂を売り渡してしまうような状況でした。

あのときの気持ちをうまく説明できません。

そのときは、とにかくぼんやりとしていて、うっすらと悲しい気持ちがあり、包丁を持っていないと落ち着かないという気持ちでしたが、はっきりと悲しい訳ではなかったのです。 今の方が悲しい。

あのとき、ひどいことを許していた自分のことがかわいそうです。


LOOPERと大奥とホビット

映画を観ました。

以下感想。
ネタばれあり。

LOOPERはグロかったです。
完。

感想がネガティブなものしか出てこない。
ディストピアものなんだけど、ループもののSFって、今は成熟しすぎているのかもしれないと思いました。
だからあんまり感心できないのかもしれない。
今の時代の未来感って、お金持ちがすでに実現していそうなものしか思いつけないのか。
そこを自嘲しているシーンもあって、自虐的な映画だと思いました。
とりあえず、過去の人物をどうにかしてしまえば未来が消えるってことが確かで、おとしまえをつけるために、過去の自分を殺す前にループを殺さなくてはいけないってわりに、拷問しても未来は変わらないと思ってる根拠はなに!!!と思ってしまって、あんまり。
でもところどころ、笑える要素が入っているのと、アクションシーンは面白かったです。
おじさんのアクションシーンが好きな方だと気づかされました。

未来を変えないようにするルールについて、今まで読んだ中で最も生真面目だと思ったのは、高畑京一郎タイムリープ。なんか、どこかでずるをしているような気がするんだけど、なかなかしっぽをつかませない。

大奥は菅野美穂が観たくて行きました。

菅野美穂の笑い方が好きです。いろいろな笑い方ができるんだなあと思いました。
基本的に原作に忠実です。
シリアスなシーンで爆笑をこらえている人が何人が、ご愛嬌と言うもの。わたしはのせられやすいので泣いていました。
泣くのと評価は別なんですけど。
菅野美穂ラブ、原作ラブ、な人であるわたしは満足でした。

ホビット!もう一回観たい。

おじさんとおじさんが泥まみれで走り回る映画でした。
完。すばらしい。それに尽きる。

わたしはPTSDの後遺症で、暗転するとフラッシュバックが起きることが多かったのですが、ホビット以降、フラッシュバックが起きなくなりました。
多分、映画館にいると楽しい、安全という条件付けに成功したのだと思います。

病気になってから娯楽と言う娯楽にアクセスできなくなったのですが、映画は受動的に楽しめるので良さそうです。

なぜアクセスできないかというといくつか理由は挙げられます。
集中力が欠如すること。
娯楽に対する関心が薄くなること。
未来に対して希望が持てないので、「今楽しいからといって何になるのだ」「楽しいことをしても意味がない」「楽しいことをする資格もない」「自分にはそんな価値はない」などごちゃごちゃ思うことがあげられます。

わたしが回復途中だと言うこともありますが、ホビットは、そういうのを吹き飛ばすくらい、本当に面白い映画でした。
ロードオブザリングを観たことがないのを後悔しました。
これは映画館でと思いました。なんにも邪魔されない空間で、集中力をとぎらせないで、よそ見せず観る空間で観たいなと。


病気になってしまったことを許せない

どうして病気になってしまったんだろうと思います。

病気になりさえしなければ、人生がうまく行ったのに。

もう、失敗してしまったので、これから先、生きる価値もないし、意味もない。

自分の人生のある時期における傷が許せない気持ちがあります。
これからうまくいくよ、と言われても、「でも今苦しい気持ちは消えないのだ」と思います。
過去の苦しみも消えません。どれだけこれから成功しても、それは消えないのです。
人生における傷がある以上、成功したとしても無意味、それに、成功するとは思えない。

そういう気持ちで頭がぐるぐるします。
うまくいっている友達のことを思うと、うらやましいし、苦しい。
どうして、わたしだけ、と思います。

そのことで先生を責めたことがあります。

先生は、いつかよくなると言ったけれど、全然変わらない、先生は医者という、世間的にアドバンテージの高い職業に就いて、無責任なことを言っている。
わたしはフリーターだし、これからうまくいく見込みもない。

わたしの話を聞いてくれる人に対して、なんとまあ、ひどいことを言ったのだ、と思いますが、本心です。

先生は、
「根拠はないけれど、あなたは将来乗り越えてうまくいくような気がしている。そうしたら、今の体験をたくさんの人に伝えることができる。一生うまくいって、病気もしない人なんていない。全員病気をする。うまく行っているような人だって、結局僕のところにくる。それで、どうして生きているのかわからないです、という。
僕だって、自分のために生きたことなんてない。やりたいことをやって生きられた時間なんてそんなにはない。先生先生と言われても、一日のほとんどをここに座って他人のために時間を使っている。人生は一度だというのに、他の人がつらいですという話を聞いて二十年も三十年もたった。
そのことを考えるとつらいときもある。
死にたいですと言ってくる人を助けることもある。
そのとき、僕は救急病とかERみたいに、人の命を救ったことになるけれど、精神科医なんて、当たり前だとしか、誰も思わないし、患者さんからも感謝はされない。
c71さんは年を取ったと言って嘆くけれど、僕の方がずっと年を取っている。ひげも髪も白くなった。
病気になったことを、なりたくなかったというより、病気の体験を人に伝えることがあなたの使命だよ。それで、あなたと同じ苦しみをしている人を救えるかもしれない。そうしたら、病気に価値があったことになる。病気になりたくなかったといくら言っても、なっていることを消せないんだから」
とおっしゃいました。

そう、わたしは病気になったことを未だに許せない。
わたしが弱かったから、馬鹿だったから、間抜けだったから病気になったのであって、うまくやれば、こんな病気にはならなかったのだと思っています。
だから、病気になったことを馬鹿であることの証明のように思っています。

それが、わたしの病気以外の苦しみの元です。

わたしは、病気になってしまったことを、こんなにも長い年月が経っていても、まだ許せていないのです。


一片の傷も受け入れられない

一片の傷も受け入れられないわたしがいる。

どういうことかというと、壊してしまったものを許せない気持ちがある。

さっき、キャベツの芯をまな板のないところで切り落とそうとして、刃を欠いてしまった。
すごいショックで、このまま捨ててしまおうかと思い、捨て方がわからないとパニックになりかけた。
なんと脆い自我だろう。

ずぼらなのに、完璧主義だから、生きることが息苦しくなる。

わたしは自分が少し太っているような気がするし、顔にも傷が少し残っている。そういうことを毎日鏡でじっくりと確かめては落ち込んでいる。

少しの傷を許せないのだ。

包丁は研げばいいし、傷は化粧をすればいい。体形は服でおしゃれをすればすてきになる。

そんな風に自然に思えるようになるまではブログを書こうと思います。


フラッシュバックについて

今まさにフラッシュバックが起きているので、フラッシュバックについて書きます。

フラッシュバックが起きるリマインダーはいろいろで避けることができるものとそうでないものがあります。
例えば、知りたいこと、自分から読みたくて、勇気を得られるような文章を読んでもフラッシュバックは起きます。これは前もってはわからないです。

たとえば、サバイバーをエンパワメントする文章を読んでフラッシュバックが起きました。けれど、これは文章が悪いわけでも、私が悪いわけでもないです。

ただ、起きちゃったなーという感じです。
避けられるものは避けた方がいいです。

フラッシュバックが起きても平気そうと言われることもあります。
平気ではないです。社会となんとか折り合いをつけようとしているだけです。

なんといっても、からだの負担が大きいです。瞳孔は開く、心拍数は上がる、汗はかく、追い詰められた獣が逃げ道がないと悟ったときのストレスがかかります。

頭の中はタイムスリップし、犯罪当初、虐待当初に戻ります。戦いたい。逃げたい。でも、逃げられない。これはたいへんな混乱です。

それがフラッシュバックの症状です。


午前四時のフラッシュバック

逆立ちしたキリンさんのblogの記事を読んでいたら、フラッシュバックが起きた。起きたので眠れず、blogを書く。

記事の内容はよくわかる。女性がどんな風な回復をたどるか。わたしにはわかる気がする。
たとえば、夜働くこと。それは、夜眠れないから。不眠と不安と苛立ちの夜。

眠れないことは、単に眠れないのではなくて、その間孤独にフラッシュバックと付き合わないとならないことがつらいとか。たぶんそういうこと。だから、夜働く。

自分に起きた不条理を納得したい、管理したい。管理することで、感情をコントロールしたい。それがセックスワーカーとして働くことと結び付くのだろう。
とてもよくわかる。そういう納得をした。

最後の勇気を出すなというところは、とても心が暖まった。

わたしも、犯罪被害を受けている。被害を受けていると、自分が生きていることに、価値が見いだせないようになる。なぜ行きながらえてしまったのか。こんな姿で恥ずかしい。普通ではなくなってしまった。他の人と同じようにできない。元気な頃のわたしとは違う。友達も離れてしまった。できることが少なく、人に迷惑をかけてばかりいるので、それがつらい。

けがと違って、はい!治ったとはならない。行きつ戻りつする。

とてもひどい目にあったのだから、生きているだけで精一杯という、視点は無くさないようにと思った。
回復を焦ると、そういうことを見失うので、ときどき文章で教えてもらえると、正気を保つのに役立ちます。


頭痛と満月

満月の頃には頭痛がする。
月が近づくと重たい、押しつぶされるような気がする。

それとは全く関係なしに、月は煌煌と輝くので、まぶしいような憎たらしいような気持ちに思う。

一ヶ月前には、はっきり憎たらしかった。
美しいものが、生きていることを楽しんでいるように見えるものが、何もかも憎かった。

一ヶ月たつと、月が美しいと思うようになった。
生まれたときに、貧乏かお金持ちの家かに生まれるように、精神的に豊かな家に生まれるのか、そうではないかが決まるらしい。

わたしは間抜けにも、自分が幸せだと思い込もうとしていたので、そのことを発見することが十年か二十年ほど遅れて、逃げ出すのが遅かった。
かわいそうでしょう、を押し付けられたことへの怒りは強い。
ずっと家にいてほしいという呪い。

もう二度と戻らない。家には。二度と会わない。
月を見ると、忘れていた人と目が合うような気がして恐ろしい。


墓穴と不安定

アルバイト中に、突然卑屈スイッチが入ってしまった。

「ごめんなさい」
「でも…」
「だから…」
「こんな風になってしまって」
止まらなかった。
「気にしなくていいですよ」
気を使わせてしまった。

どうしよう?
それからどんどん不安定になってしまった。
仕事なのに、お金をもらっているのに。そうするとさらに不安定になってしまい、「これじゃあ、相手に甘えている」と思えば思うほど、焦ってしまった。

もっと適当に、肩の力を抜いて、失敗を許せるようになればいいんだ。
アルバイトの内容も、力を抜けば抜くほど良い仕事だ。
がんばればがんばるほど裏目に出るのだ。

緊張すればするほど、提供するものの質が下がる。
ぼんやりしているくらいでいいのに。
お客さんに質が良いものを提供しようとして、まなじりをけっして、豹変したと言わせてしまった。
ああ、こんな日もある。
こんなところに来たくもないと言われないように、もっとゆるくかまえなくては…。
ゆるくかまえるって難しい。

だから、今のわたしには、正社員を目指すよりも、今のアルバイトを続ける方がいいんだと思う。


体罰と中学生

わたしは中学生と関わり合いがある。

わたしは、中学生の前では、学校の先生の悪口を言わない。
それは、先生に対する尊敬の気持ちが、わたしの中にあるからだ。
少しの人数を教えるのもたいへんなのに、大勢の人数を、時間内で、同じレベルになることを心がけて教えるのは、とてもたいへんだろうと思うからだ。

たとえば、歴史を教えるのでも、生まれたときから電子メールが当たり前だった人たちなので、昔の話をするのも一苦労だ。
使者を説明するのにも、「手紙を運ぶのにも人を送らないといけなかったんだよ」と話しても「あ!メールですか」と返ってくる。
例えば理科だと、オール電化で火を使ったことがない子だと、火を扱うことが怖くて、マッチに火をつけても怖くて放り投げてしまう(危ない)。ほとんど火を見たことがないのだ。

中学生というのは子どもだ。
体も細っこいし、いかにも成長の過程にあるという感じだ。
頭の働きは素早くて、わたしの古くなった脳みそよりもずっと回転が速い。
世の中のことをうんと考えているし、これから先の人生のことも考えている子が多い。
大人より大人っぽい。でも、子どもだ。
わたしはまじめなところが子どもだなあと思うし、そこがかわいいので、いつまでもそういう風にいてほしいと思う。

斜に構えていてもどこか純真だ。

それでも、そういう子たちを、殴る大人がいる。
血が出たり、けがをしたりしている。
そういう話はほとんど表に出ない。タブーだ。
ショックを受けるのは殴られた子だけじゃない。
その子の友達も、家族も、友達の家族もだ。
体罰というのは、単なる暴力だ。それを言い換えただけだ。
そんなひどいことを、勉強を教える人がするのだ。
勉強というのは、本来、人生の希望となるべきものなのに。
希望自体を奪うのだ。

話を聞く分には、中学生は、けっこういろんなことがわかっている。
しかるにしても、怖い先生でも、きちんとした先生のことは、心の底でどこか信頼しているし、尊敬しているような口ぶりで話す。それが、先生にも伝わっていてほしいなと思う。
殴る先生のことは、あまり尊敬していない。
体罰の基準がないのだから、暴力を振るうとき、それは先生の良心にしか基準がない。
ということは、その先生が、調子が悪いときや、いらいらしているとき、良心の基準が変わってしまうのだと思う。
それは、罪刑法定主義に照らし合わせても、間違った考え方だ。
仮に学校の中で、刑罰として体罰が存在するのなら、あらかじめ、生徒が、その運用に対して、知らなければ、暴力をさけるすべがない。そして、それは不可能だ。
校則で体罰の基準を決めるとしても、そこに生徒の意志を含めることは難しいだろう。
それは、教育するために、学校があることを考えると、民主主義を教える場であることも含めて、ふさわしくない。

それとは別に。
もちろん、わたしが話を聞いたのは、ほんの数人で、データが、ソースが、と言われたら、すぐに消し飛んでしまうような伝聞でしかないのだけど。
あの細っこい、成長過程の小さな子どもを殴るなんて、本当に許しがたいと思う。


リンゴとアルバイト

今日はアルバイトに行った。
なんでか、十二時まで布団から離れられなかった。
自分でもなんだかわからない。起きてみたら気持ち悪かったような気もする。
朝起きて、楽しいことが思いつかず、寒いので、暖かくしたいと思うと、布団から出られない。
これは明日の課題にしようと思う。
小さいところから直したい。

一応七時には起きたので、朝ご飯にはパンとリンゴを食べた。
パンは近所のパン屋さんで購入したもので、ふんわりと夢のような味がした。
リンゴも赤くて、とてもおいしかった。
最近、リンゴをむくのも軽々とできるようになった。お皿を洗うのも早くなった。
そういうことが嬉しい。

リンゴを食べると体に力が入ったような気がする。
アルバイトは疲れたけれど、楽しかった。
働くのが楽しいというのは、とてもいいことだと思う。
昔は、つまり病気になるまでは、働くことがピンときていなかった。

帰ってから、おやつを食べてしまう。
太ってきたので、明日は控えたいと思う。
白菜スープを作った。ホワイトペッパーをたっぷり入れたら冬の味になった。