文章を書くことはわたしにとって生きることと同じこと

頭が痛いです。

文学フリマ後、ブログにきてくださる人が五倍に増えました。
ツイッターで宣伝したせいもあるのだと思いますが、嬉しいことです。
しかし、興奮しすぎて、何度もアクセス数を見て、頭が痛くなってしまいました。

ツイッターは人が多いなと思います。
ツイッターとの付き合いは難しくて、何度か大失敗をしています。
今はあまりしていませんが、していたときは、なんであんなに時間を費やしていたんだろう、心の中が暇だったのだなと思います。

感想をたくさんいただいて、とても嬉しいです。
届けられるべき相手に届いたのだという気持ちです。

わたしが文学フリマに参加したりブログを書くことを自己顕示欲を満たすためだと言う友人もいるのですが、その面もないとは言えなくとも、どちらかというと、わたしが生きづらい中で発見したものを、人に渡したい、そして、一人ではないという連帯をほんのりと持ちたいと思っているからです。

わたしたちは、人付き合いが得意ではありません。
わたしは言葉を介して、人と交流を持ちます。それを好みます。

わたしは人嫌いではなく、むしろ好きです。

だけど、人と付き合うことはとても重労働です。
定型の人たちには、自動的に人の表情に注目できる機能があるらしいのですが、それがわたしには備わっていないからです。

わたしは自分の気持ちを、かなり正確に文章に表すことができます。
それは、「人の表情に自然に注目することができる」ことと同じような才能なのだと思います。

わたしは、おかげで生きづらいのですが、かわりに、生きづらさを文章で表現することができます。
そして、それを読んでもらうことに喜びを感じます。

読んでくれる人がいると役に立ったような気持ちになります。
役に立つと、社会の中に受け入れられた気持ちになります。
社会の中に受け入れられると、生きていてもいいと許されるような気持ちになります。

生きていくことに対するモチベーションを保つのがとても難しいので、それが自然とできるように、意識しなくても生きられるようになりたいのですが、今のところは文章を通して、生きているのだと思います。

中学生の頃から、文章を書き続けていました。
小学生のときも作文が好きでした。
誰に読ませるわけでなくても、言葉が、わたしの心を表すことは、わたしを落ち着かせました。

わたしの言葉は、誰にも通じないと知ったときのさみしさ。
わたしが楽しいと思うことは一般的には許されていないと知ったときのさみしさ。

わたしが使う言葉と、他の人の言葉が、必ずしも意味が同じではないと知った、あの日から、わたしは言葉を使うことをあきらめずにいました。

わたしは、自閉症スペクトラムであることを、カミングアウトしてよかったと思います。
わたしは、見知らぬ人に対して、インターネットに、自閉症スペクトラムだと書くことすら怖かったです。
けれど、わたしは、まず、インターネットにそのことを書きました。
そして、現実の友人たちにもそのことを言いました。

診断が出るまで、「あなたは気が狂っている」と何度も言われてきました。

だけど、私が選んで、「わたしは自閉症スペクトラムなの」と告白した人たちは、誰も、わたしを裁かず、「キチガイ」と呼びませんでした。

疎遠になったと感じた友だちもいます。
気にし過ぎだよ、と離れていった人もいます。わたしが精神の薬を飲むこと自体を怖がって、敬遠する人もいました。
けれど、わたしは満足しています。
たくさんの薬を飲んで、わたしは安定しています。

わたしは、わたしなりの安全な世界を、言葉によって攻撃されない世界を作りつつあるのだと思いました。

インターネットの雑多な海の中を、わたしは泳いでいます。

そこには、わたしの同類がさまよっているのだ、と想像します。

暗い海の中で光を求めているのに、上がどこにあるのか、下がどこにあるのかもわからずにさまよっている魂があるのだと思います。

わたしたちはエコーを使って、コミュニケーションをとり、自分のいる位置を、把握することができるはずです。わたしたちはお互いの影を探します。

自分の位置を把握することで、余裕が生まれるのだと思います。

そして、今いる場所が案外明るくてうつくしいと眺めることができるようになることを、わたしは望んでいます。


「ボクの彼女は発達障害」は、さみしい本だと思いました

この本を読みました。
かなり不愉快な気持ちになりました。そして、その気持ちを書くことに一ヶ月くらい迷いました。
だめな本というわけじゃないです。いい本なんだろうなと思います。

それに、わたしがこれを書いたら、作者の人が嫌な気持ちになるかもしれません。

でも、この本を読んで、悲しい気持ちになった発達障害の人もいるかもしれないと思って、やっぱり書くことにしました。細かい話なので、うまく書けるか自信がありません。
わたしに批判が向く可能性も大いにあると思います。わたしはそれに対処できるかとても不安です。
でも、書きます。

何が嫌いかを書きます。

この本の趣旨とは違う読み取り方をしているとは思うのですが、想定していた読者以外に届くほど、それだけこの本が良く売れた、評判になったと解釈してほしいです。この本の作者の人も読むかもしれないと思って書きます。

愛が解決する、という風なところが気になりました。
くらげさんが、発達障害の人を援助する原動力になる理由は、「あおさん」がかわいいからです。
それは良いことです。わたしたちは誰でも、ありとあらゆるものを使って、サバイブする必要があるからです。

でも、愛がなくても、援助はするべきです。(もちろん、くらげさんは、そういうつもりで書いているかもしれません。それが伝わらなかったという話です)

愛があってもなくても、知り合いでもそうでなくても、普通に、配慮し合える世の中であった方がいいです。

でも、わたしにはそうとは伝わりませんでした。わたしが健常者だったとして、なぜ、配慮しなくてはいけないのか、わかりませんでした。わたしが健常者だったら、説得されないだろうな、と思いました。配慮しないといけない理由がわからないと思うだろうなと思いました。

これは、二人の世界のお話です。その中で、工夫しているというお話です。

わたしにはわたしの工夫がもちろんあります。援助してくれる人もいます。それは友情だったり愛情だったり打算に起因していたりするものかもしれませんし、公的なものだったりします。

くらげさんは、あおさんを通して、発達障害者には、こんな特徴やあんな特徴があると気づいていき、それに対して工夫をしていきます。それと同時に愛を深めていきます。ところどころ、それに対して医師の解説が入ります。

わたしが嫌だなと思ったのは、あおさんが、弱く、守らなくてはならないもの、と描かれているように感じたからです。

それは、くらげさんが男性で、恋人で、だから、彼女を守るという日本人男性の一般的な規範に従っている価値観だと思いました。

わたしはそれが嫌でした。

わたしは性的規範が大嫌いです。

あおさんが、実際のところ、弱いのか強いのかはわからないし、強い弱いと一元的に決められるものではないと思います。強い部分もあるだろうし弱い部分もあるだろうと思います。

でも、わたしには、彼女が弱いところだけを強調して描かれているように見えました。
この本では、「あおさん」が「弱くて可愛い」障害者像に閉じ込められているように見えたのです。

本の趣旨が、惚気だったり、恋人同士の日常を描いているため、やむを得ないのかもしれません。
でも、題名に、発達障害、と書いてあるのです。

それでは、問題が出てしまいます。
障害者には、可愛い人も可愛くない人も弱い人も弱くない人もいろいろいます。
発達障害の症状はかわいくない症状も多いのです。
二人の中で「可愛い」「可愛くない」で回っていることでも、本になって公開されると、「可愛い障害者」だけに焦点が当たってしまいます。

恋人がこんなことで困っていた、それはたまたま発達障害の症状だった、だからこんな工夫をした…彼女を尊重するためにはこちらが合わせていく…。その過程を親しみやすく、まとめた本なのだと思います。

でも、わたしは悲しくなりました。
恋人ほど強い絆でなければ、だめなんですか。
そう、思いました。

もちろん、そんなことは書いてありません。
でも、わたしは、正直に言って、読んですぐそう思ったのです。

恋人ほど強い絆でなくても、配慮し合う世の中を目指して、発達障害のことを世の中に知ってもらうために出版された本だ、ということは理解できます。でも、それが伝わりにくい本だと思いました。

わたしは「あおさん」がどこにいるのか、わかりませんでした。
「苦しむあおさん」はいました。「苦しむあおさんを理解しようとして奮闘するくらげさん」もいました。「毒舌という個性をもつあおさん」もいました。

面白いから一緒にいるだけ、と書いてありました。

でも、わたしには「あおさん」がわからなかったです。あおさんがどこにいるのか、見えなかったです。「発達障害」があってのあおさん、しか見えなかったです。

モーツァルトとクジラ」を読んだときには、そうではありませんでした。わたしには、彼女と彼が見えました。人間として存在していました。「発達障害」よりも先に人間でした。ある人間が発達障害で苦しんでいて、そこから生き延びたことがわかりました。なによりも人間でした。人間としての苦しみ、その中でも発達障害故の苦しみがさらに人生を困難にしていることがわかりました。だから、人間である彼らが、個性の一部として発達障害を持っていることが飲み込め、そして、彼らの勇気に共鳴することができたのです。

愛は、解決しないのです。オアシスのように、ときどき傷をいやすだけです。
それが、わたしの実感です。

発達障害者が、すべて、才能を持つとは限りません。
あらゆる人間がそうであるように、美点と欠点を持ち合わせていて、平凡な発達障害者もいるし、才能に恵まれた発達障害者もいます。才能があってもなくても、どちらでもいいです。
それぞれはそれぞれの持っているカードで勝負して、今生きている時代をサバイブしなくてはいけません。

「あおさん」は、サバイブしているように、読めました。くらげさんも、その手助けをしているように読めました。

そして、それは、わたしにとって、排他的な戦いでした。
これは、たった「二人の」戦いなのです。わたしはそれを見せられたのです。

わたしと「くらげさんとあおさんのカップル」には、何の接点もなく、何の連帯もありません。共通項は、発達障害だということだけ。

わたしは、読んだあとに、さみしいと思いました。悲しいと思いました。
わたしには関係のない話だと思いました。題名の通り、この本の世界は二人の世界だからです。
でも、この本の題名には、発達障害と書いてあるのです。
発達障害に関係があると思って読んだのです。
けれど、この本はわたしには関係ありませんでした。場違いでした。場違いだと感じさせられました。

この本は、健常者の人を向いている、健常者の人を説得するための本だ、と思いました。
発達障害の人にはこんな事情があって、こんなかわいい子も、いるんだよ…。そう呼びかけているように感じました。

そういうメッセージを感じました。
そこが嫌だと思いました。

追記5/14:
発達障害の「可愛い」「可愛くない」の意味を外見だけでなく、症状について、含んで考えてほしいと思います。

助けてもらいやすい障害者と助けてもらいにくい障害者 – ある精神病患者の一日
踏んでいい当事者と踏まれない当事者 – ある精神病患者の一日
健常者の「おれは迷惑かけてないという謎の自信」はどこからくるんだろ – ある精神病患者の一日


自閉症スペクトラムの人が書いた本

自閉症スペクトラムの人が書いた本は少ないなーと思う。

どの本も、自閉症スペクトラムの人を、サポートする人のために書かれた本ばかりだ。自閉症スペクトラムの人を観察した人の本もたくさんある。

でも、自閉症スペクトラムの人が、自分で考えていることだとか、周りとの軋轢とか、そういうものが書かれているものが、もっと増えればいいと思う。

それは、大事件である必要はないけれど、でも小さいステップでつまづくことはたしかなのだから、その小さいステップを細かく見つめた本があってもいいなと思う。

そうすると、自分は一人じゃないな、と思えるし、自分の何が困っているのか見つめることで、対策や工夫を思いつくようになるからとても良いことだと思う。

わたしは、発達障害でも、人との関係で、致命的というほどではなくて、比較的困らなかったのは、言語能力や表現能力があって、自分の気持ちを比較的正確に伝えることができて、相手の人も、この人に対しては、きちんと口で言わないとわからない人なのだ、とわかってくれやすかったのだと思う。