ヒプノセラピー(催眠療法)体験

ヒプノセラピーと言うのは、催眠療法のことです。

今日はこれを受けにいきました。
以前のわたしなら受けなかったと思います。
疑わしいし、お金のむだだと思ったと思います。
非科学的なことだと思っていました。
でも、もっと楽に生きたいし、努力とかももういやだし、現実的じゃなくてもいいや、形のないものにお金かけても良いや、と思って参加しました。

事務がもしかしてできるようになって、苦手意識がなくなったら儲け物だし、過食が収まれば良いなと思いました。
でも、だめでもともとだから、別に良いや、と思って参加しました。話の種になれば良いや。

体験セミナーだったので、少し安い値段でしたが、それでも高かったです。
十時から四時半までで八千八百円でした。

それでも、実際に受けてみたら安いと思いました。

三回に分けたレッスンで、催眠を体験していく、というものです。
催眠に対する話、そして、催眠の繰り返しです。催眠にはいろんな種類があるそうです。今日は、催眠は自分でかけます。わたしが受けたのは退行催眠と言う種類のものです。

一回目は浅くかけて、二回目はもう少し、三回目は深くかけていきます。
催眠は「自分の今感じていることを感じ尽くす」ということが目的です。

今、肩が痛かったらそのことに集中する。
今、おなかが痛かったらそのことを痛いと感じる。悲しければ悲しいと感じる。
我慢しない、というレッスンでした。
我慢しないで、そのことをきちんと感じる、ということが、自分の解放につながり、それがリラックスだ、ということでした。

リラックスとは、だらんとした状態を指すのではなくて、緊張しているなら緊張している状態、を感じるということです。その覚悟や勇気や集中の状態が、自分の内部に向かったとき、リラックスと呼ぶのだそうです。

最初は自律訓練法をしました。
これは医学的に認められたリラックスを作る状態です。

わたしはこれをしながら、なぜリラックスしないのかと母に怒鳴られ、ぶたれた経験があるので、これをやる前から緊張し怖かったです。

しかし、「何も絶対に起きない」「おそれは過去から来る」「今は安全だけど、危険だと言う判断をしてしまう」「今、起きている事実だけを感じる」「判断はしない」ということを繰り返し講義で受けました。

判断があるから、事実を事実で受け止めることができない、価値判断をして、善悪を生み出してしまう。
価値判断をするから、問題が発生します。

たとえば、何かいやなことがあったとしたら、いやだな、と感じるだけなら、問題は発生しません。
いやだな、と思うことから、いやを解決しようとすると、いやな気持ちと戦ったり、家から出たくないという問題が発生します。いやだな、ときちんと感じて、自分の感じ方を解放すると、問題が発生しません。

問題を解決すれば、良くなる、と言う考え方は、結局のところ、問題を作り出しているのだ、と言われました。
そうではなく、事実を押さえつけるのではなく、事実を認める、ということを繰り返し言われました。

たとえば、世の中を強い、弱いで分ける人がいるとします。
その人は、五歳のときに地震を経験して、怖かったことがあったとします。
でも、そのお父さんが「怖いなんて言うのは男らしくない」と言っていたら?
「怖いと言ったら、愛されない」と思っていて、地震で怖かったと言う気持ちを、認められないまま大人になってしまうかもしれません。
未消化の気持ちが、地震を怖いと思ってはいけない、と必要以上に思いさせ続けます。
そうすると、地震を怖いと思う気持ちを押さえつける戦いが始まります。それは苦しみになります。パニック、という問題が生じます。怖い、と思うだけならばただの感情です。事実です。
でも、怖いと思ってはいけないと思うと、それは、物事を善悪に分けることになります。
そうした姿勢は、対人関係にも悪影響を及ぼします。

自分が弱い人間だと愛されないと思っていると、弱い人間をバカにするようになります。そうしたら、弱そうな人間をバカにするので、弱い人と思った人と心を開いて人間関係が築けません。
強いと思った人には、自分が弱いことがばれたら大変なことになると思い込んでいるので、こびへつらい、自分を誤摩化すことを続けないといけません。だから、ずっとしんどいです。

その人が、自分が愛されるために自己実現を図ろうとします。そうすると、その人はより強くなるように、自分を鍛えるでしょう。強くなることこそが、自己実現だと信じるでしょう。
彼は愛されたいと願います。愛されるために強くなろうとします。そして、強い人間と弱い人間を分けます。
たとえば空手を習って、ある大会で優勝するとします。そうすると、一時的に嬉しく思い、人が怖くなくなるかもしれません。でも、注目され、より強い人間と会って、戦っていかないといけません。
それを繰り返して、日本一、世界一になっていくかもしれません。でも、ずっと怖い気持ちは消えません。いつか、自分を倒す人が現れるかもしれないと、怯えないといけないのです。

しかし、その人が、自分で地震が恐かった、と改めて感じることができたら、地震が恐いと思う気持ちは間違っている、という思いと、でも、怖い、と思う気持ちと戦った結果、起きるパニックから、解き放たれます。そうしたら、その人は人が怖くなくなります。人を弱い、強いで分けることが必要なくなるからです。

怖い、と思っても、実際には大丈夫で、怖いという感情があっても人から愛されると思うことが、自己実現なのだと思えたとき、その人は、空手を人に教えるとか、そういうことを思いつくかもしれません。
そうしたとき、回り道だと思っていたことが、実は自分の役割だったと気づき、本当の自己実現、人のためになる自己実現ができて、人から必要とされるようになり、こびへつらわなくても、人とうまくやっていけるようになるのです。

わたしは一回目、自律訓練をしたとき、緊張し、頭痛がし、首や肩やうでが痛くなって、消えた感じになりました。右手がしびれ、左手が肩からなくなりました。手から汗が出ていました。

目が痛いと思いました。自律訓練とは、怖いものだと思っていたのですが、そう感じるなら、それで良いと最初に言われいました。自律神経に身を委ねる、自律神経は、勝手に心臓を動かすし、汗を出すし、呼吸もさせるから大丈夫だ、ということだと教わったので、痛くても怖くても、緊張しても、ありのままに、味わおう、失敗しても良い、と思っていました。
殴られるものだと思いました。
殴られませんでした。怖いことは何も起きず、大丈夫だと言う感覚がゆっくり広がっていきました。地面にめり込んだ感じがしました。

二回目の催眠では、もっと深くかかりました。

頭がゆらゆらと前のめりに下がっていきました。
下げよう、戦わないでおこう、椅子から落ちても良い、と思いました。

そうしたら、いろんな感情がわいてきました。
痛い、苦しい、息ができない、体が痛い、吐き気がし、体が消えてしまう感じになりました。
そうしたら、ふっと殺される、死んだ、と思う瞬間が来ました。

「死んでも良い」と思いました。「死んでも良いんだ」「大丈夫、わたしはここで死のう。死んでも恐ろしいことは起きない」と思いました。わたしは死にました。体が消えました。わたしはふっと浮いた感じになりました。概念的に死んだ感じがしました。

その次に右手が「人を殺したい」と言いました。右手が話しだしたのではなくて、わたしが思ったのですが、右手は人を殺そうとして震えました。
わたしはびっくりしました。「殺すのはまずい」と思いましたが、「いや、殺そう」と思い直しました。「殺しても良い」「大丈夫、殺そう」と思いました。わたしは人を殺しました。

そうしたら、ますます、体が希薄になって、今度こそ、わたしは死んだ、完全に死んだ、と思いました。

そして、一回目の自律訓練が終わりました。
その一連の気持ちは過去から来たのだ、と言われました。
確かにそうです。
その部屋は安全だったのです。

過去生で、殺されたことがあるんだろうと思います、と言われました。わたしはそれを受け入れました。
わたしは殺された、ということが、妄想だとしても、自分で、受け入れようと思いました。本当に生々しい感じだったのです。
催眠状態は異様な状態、というわけではなく、自分の体の痛みや、感情をそのまま、受け入れているだけで起きました。そこには暗示などはなかったです。
だから、それが妄想だとしても、どうした、わたしは殺された、死んだ、殺した、と思いました。
それでいい、何も起きない。この部屋は安全だから、大丈夫、と思いました。

わたしの中で、人に殺され、殺したとしても、何の不都合もないじゃないか、と思いました。

目がすっきりして、人の顔をまっすぐ見ることができました。人の顔をまっすぐ見るのは久しぶりでした。

恐れは幻で、悪を閉ざそうとするから、苦しいのだと言われました。なんとかしようと思わないことが愛、見ているだけが愛、自分の中で何が起きても、受け入れることが愛、誰も、危害を加えないことがわかれば、自分を許すことができる、と言われました。

過去の自分が、悪、として閉ざしたものが、出てくる。それは助けてほしい、許してほしい、と願っている自分なのだと言われました。
わたしは殺された自分を許したのだと思います。殺されるときの息のできない感じ、首を絞められた感じを許そうと思いました。

目が楽になった、というのは象徴的なことで、ものごとをちゃんと見ることができるようになった、ということだという解釈ができると言われました。

恐れが何者かでなければならないと思わせて、自分じゃない「何か」のまねをさせる、そうすると、ぼろが出て叩かれる、だからよりまねをするけれども、それは破綻してしまう。自分が、自分であることを認めないと、苦しい戦いは終わらない、と言われました。パターンを繰り返してしまうと。

正しいものを作ると、間違ったものができてしまいます。
判断は過去からやってきます。
過去の経験が自分を縛ります。でも、過去は幻なのです。過去は、今の私にとって、現実ではありません。過去は過去です。
今は今、それを認めるのが、退行催眠だと言われました。

二回目のセッションはそういう感じでした。

善悪を分けるフィルターをはずすときには、恐ろしい、得体の知れない感覚がしました。
自分はどうなってしまうんだろう、と思いました。

善悪をなくしてしまったら、わたしは自分を律しなくなり、何か、恐ろしいことをしでかしてしまうのではないかと思いました。
その緊張が高まりました。
高まりましたが、わたしはありのままその緊張を眺めていました。

自分の善悪を分ける価値観をコントロールしようと思いました。
コントロールしたいんだな、と思いました。
でも、コントロールしても良いし、しなくても良いよ、と自分に言いました。
そうしたら、わたしはコントロールしない、という選択を自然にしました。

何も起きませんでした。
わたしはそのまま、善悪から自由になりましたが、人を殺したり、暴れたりしませんでした。
暴れても殺してもいいのだ、と思いました。
大丈夫でした。何も起きず、わたしは安心しました。

わたしはいつも、誰かに殺される、殺してしまう、という恐れを抱いていたのでした。
そこから、わたしは自由になりました。

リラックスとは痛みを我慢することじゃないです。
痛みを感じる、ということです。
我慢することは緊張です。
リラックスが、ある、だとすると、緊張はする、ということです。リラックスが存在だとしたら、緊張は行為です。
リラックスは行為をやめることです。緊張は行為から何かになろうとすることです。
痛みをあるがままに感じて、我慢しない、痛みを恐れず、受け入れる、ということを言われました。

わたしは、催眠中に、母を見ました。いろいろ、わたしにいやなことをした人たちを見ました。その人たちがやってくるのを感じました。わたしはそのまま、その人たちがわたしに何をしてもいい、と思いました。そうしたら、その人たちは何もせずに消えました。その人たちは過去です。過去の自分が持っていた記憶で、現実にはいない人でした。わたしは安全で、何も恐れる必要はないのだと経験しました。歯の食いしばりが楽になりました。あご奥が痛かったのだ、と思いました。

人生とは何を達成したかよりも、何を感じたかの方が大事だと言われました。

心地悪いことがあれば、それは良いきっかけになります、と言われました。トラウマが、その人にどんな役割を与えたのか教える役割を果たします、と言われました。

三回目のセッションでは横たわりました。

わたしは手足を切り落とされ、惨殺されました。目をつぶされ首を絞められ、おなかを二カ所刺され、あごを砕かれました。それから、水中に捨てられました。
母がわたしを殺しました。

父がわたしを探していました。

わたしは水に沈められていたので、父はわたしを発見できませんでした。
わたしは息がつまり、悲しみで胸がいっぱいになりました。息ができなくて死ぬ、苦しいと思いました。体中が痛かったです。

かわいがっていた犬が現れて、わたしを見つけてくれました。

三回目のセッションでは、自分の人生のすべてを知っている存在(ハイヤーセルフ)に出会う、というストーリーがありました。その物語を聞きながら、セッションするのです。

わたしはその物語の中で、足がなかったので、歩けませんでした。歩けない、と言う悲しみでまた胸が詰まりました。犬が付き添ってくれました。

美しい野原をわたしは歩みました。足がないので、歩けなくて、悲しい、と思いましたが、空中を滑っていました。
こんな醜い姿で恥ずかしい、と泣きました。そうしたら、犬が心配そうに見上げました。
犬は、手足がないわたしでも、血まみれのわたしでも、愛してくれていました。
その愛が伝わってきました。
わたしは、愛に泣きました。
何もかも失ったわたしを犬は愛してくれていました。醜く、誰もが恐れる姿になったわたしを犬は恐れませんでした。心配してくれていました。

わたしは、地下へ続く扉を開けて、地下道を歩きました。黄金の光が降り注ぎます。
白い部屋にたどり着きました。左手に鏡、右手にキャビネットが見えます。キャビネットには三つの引き出しがあります。わたしはそれを開けたいと思いましたが、我慢しました。
部屋の飾り付けをしました。死んでいるので、これは、棺だ、だから、白い花で飾ろうと思いました。
床がむき出しだったので、暖かいように見えるように白い絨毯を敷きました。犬が喜びました。

犬とともに、部屋を出ました。そうしたら、夜空が見える場所に行きました。
わたしが死んだときに、最後に見たのは美しい星空でした。
ここは同じ景色なのだ、と思いました。

そこには黄金に光る存在がいました。ハイヤーセルフなのだな、と思いました。
ハイヤーセルフを見ました。その人がわたしと一体になりました。欠けていたからだがすべて修復され、美しい姿になりました。

母はどうして、わたしを殺したのか、聞きました。若さ、とハイヤーセルフが言いました。嫉妬だと。
わたしは、わかった、と思いました。
他にも何でも聞いていいと、先生が言うので、「犬とはまた会えるだろうか」と聞きました。「会える」とハイヤーセルフは言いました。犬はもう死んでいます。「どういう形で会えるか」と聞くと、子どもが見えました。わたしは納得しました。
「おかあさんと会った方が良いか」と聞きました。「良い」とハイヤーセルフが言いました。良いとは何か、ともう一度聞くと「会わなくて良い」と答えました。「本当に会わなくていいのか」と言うと「今回の人生では、殺されず、生き延びるのが目的だから、和解は必要ない」とハイヤーセルフは言いました。安心しました。
事務はやれるか、と聞くと事務もできるから、心配ないと言われました。そうか、と思いました。
子どもを今の恋人と育てている映像が浮かびました。これがやり残したことだ、と思いました。
この人生では若くして死んでしまい、しかも、性的にも暴行されて死んだから、わたしは、今度は子どもを生んで育てたいのだ、と感じました。それがわかって嬉しいと思いました。
できるのだ、可能だ、と感じました。

ハイヤーセルフと白い部屋に戻りました。キャビネットを開けると白い鍵が視界に飛び込んできました。
これだけか、と思うと、ピンクと紫色のダイアモンドカットの宝石も出てきました。
宝石は胸に飛び込んでいって、心臓の中に入りました。体が美しく甦り、痛いところが治る、とハイヤーセルフは言いました。宝石は暖かく、きらめいていて、美しかったです。

白い鍵は、透明な宝石で飾られていて、不思議な素材でできていました。

その鍵は、秘密を開け閉めできる、とハイヤーセルフは言いました。鍵だから、人によって話すことを調整できる、そのために使いなさい、とハイヤーセルフは言いました。母親にはその鍵で扉を閉ざしなさい、そして、自分を守りなさい、とハイヤーセルフが言いました。

そして、十数えて、セッションが終わり、わたしは死から生へ戻りました。

目が覚めると、そこは現実でした。
でも、わたしは、先生に自分の経験を話すときに号泣してしまいました。

痛かったね、よく観たね、という言葉もしみ込まないほど泣きました。

泣き終わると、恥ずかしいなあ、という気持ちがわいて、間違ってしまったものを観たかも、と思い、そう言いました。
そうすると、先生は、間違いとか間違いじゃないとかはないです、と言いました。

そして、良く休んでくださいね、と言われて、帰りました。

帰ってからはとても疲れて、目が開けられないほどになり、ぐっすり寝ました。
起きたら、体が楽でした。

この経験を怪しいと思うひともいると思います。
でも、この旅を経験して良かったと思います。

死ぬということはたいしたことじゃない、と思いました。
わたしは人を殺すのではないか、という恐れがなくなりました。

あれが、現実でも現実でなくても、妄想でも良いのです。
現実は、わたしが横たわっていて、その間に感じたことがあった、でもそれは全部幻だった、何も起きなかったということです。

それがわかってよかったです。
頭の中で起きることは、何も恐ろしくはないのです。

それが、現実です。

今までの方が、過去から起きた、判断に生きていて、起きていないことに怯えていたので、そちらの方が妄想だと思います。
現実とヴィジョンが逆転しました。
ヴィジョンが本当にあったことかはわからないが、わたしはセッション中に、そのヴィジョンを体験した、という感じが大事です。
その感じは誰かに証明する必要がないものです。わたしひとりが納得していれば良いものです。

わたしは現実に帰ってきました。

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