不安定に物語ること

いろいろなできごとがあって、ずいぶん参ってしまった。

それでも、わたしが語ろうとしつづけるのは、自分でも理由がわからない。まだ、言語化できない。

でも、他人から、「被害に遭ったら、ものを書いている場合じゃない」と言われるのは、単に「被害を語るな」という圧力に感じる。

わたしはことあげをしたいのだ。最初から、最後まで、今まで。ずっと。何が起きているのか、わたしの中で何が起きているのか。

誰も、当事者になってはいないのに、こうしたらよかった、ああしたらよかった、と後知恵で好きなことを言う。

でも、あなたは、そもそも頼まれなかったわけですよね?そういう立場にも信頼もなかったわけですよね。と返したくなる。

あとから、正解を探すことは誰にでもできる。でも、自分がその立場になると、なかなか、何が起きているのか、それがどんな陰謀を持っているのか、理解することは難しい。リアルタイムでは特に難しい。

わたしは間違っていた。でも、助けたかった。

間違いながら、生きている。

間違いを認めると、それみたことかと、間違いを認めたのだから、こいつは間違ったやつなのだから、何をしてもいい、と下げた頭を踏んでいく人が多いこともわかった。

不安定でも、コントロールできていないでも、言えばいい。言われたら傷つく。生身の人間だから。でも、口をふさぐことはできない。言わないでと頼むだけ。

その一方で、わたしの口をふさぐことは、同じく、誰にもできない。間違った判断をすることは、誰にでもある。ただ、ここまで派手に公にならないだけだ。

わたしは、もともと、自分の気持ちを書くためにブログをやっている。誰かに利用されたり、したりするためにはやっていない。腹が立てば怒るし、悲しかったら泣く。ほかの人と同じはずなのに、どうも、それはわかってもらえないことがある。

本当は、誰でも間違った判断をする。そのとき、認めて、責任を感じて、謝ることができるか、なかったことにして、自分に嘘をつくか、見なかったことにして日常を送るかの違いはあれども。

当事者にならないと、気持ちはわからない。当事者同士でも、人が違えば、気持ちがわからない。

だからこそ、不安定で恐ろしいと言われても、わたしは文章を書こう。

わたしに起きたことや、わたしの中で変わっていくことを物語っていきたい。

それがだれを傷つけても。ほかならぬ自分自身を傷つけても。

誰かのもとに届くなら。ふさがれていた口を開くきっかけになり得ればよいと願うから。

c71の著書

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