頑張っているか、優れているか

頑張っているか、優れているか、で、自分のことや他人のことを裁くときりがない。

頭が良い、ってどういうこと?早く考えられること?発想が豊かなこと?記憶力が良いこと?
わたしは疑問を思いつくことだと思っているけれど、他の人にとっては違うだろう。

頑張っているってどんなこと?努力すること?うまくいくための筋道を考えてその通りにすること?時間をかけること?それも人によって違うだろう。

文句を付けるな、頑張っている人が価値がある、優れた人に価値がある、というけれど、尺度は誰が決めたのだろう。
みんな?誰?

今、たまたま世の中にとって都合の良いものを優れたものと決めている。
場所によっても環境によっても年代によっても違う。
料理がうまい人は優れているし、愛情を持って人に接する人は優れているし、分析力が優れている人もいるだろう。でも、料理はうまいけれど掃除は下手とか、愛情はあるけれど、観察力がないからちぐはぐな対応しかできない人とか、分析力は優れているけれど、伝えるのが下手だから役に立たない、とかもよくある。

たとえば、わたしが文章を書いていることについてだけ絞っても、さまざまな意見が寄せられる。データがないとか、説得力がないとか、文句を付けているとか、前向きじゃないとか、関係性を向上させる気がないのだとか、わかってほしいならもっとするべきことがあるだろう、とか。

わたしの考えているところや求めていることは、それらの意見のどこにもないのだけど。
だからそういわれても対応しない。たまたま、理解できる人が読んで理解できたら得だろうな、と思うし、そうじゃない人にとっては、読むだけ時間のむだだったのだから、残念だったね、と思う。

(それに、わたしの言っていることなんてありふれているから、探せば必要な情報は探せると思うんだけど、わたしが全部用意するべきだ、と思う人もいるみたいね。あと、データを提示しても、データを読めない人多いんじゃないかなあ。技術としてね。そしたら、データ提示して、データの読み方の解説まで書かないといけなくなるし、そうすると、私の仕事が多くなりすぎる。
中学生教えているけど義務教育で資料の読み取りすることになっても、でもまだ難しいし、今の高校生以上の年齢の人はデータの読み取りの基本を義務教育高校ではきちんとやってない人の方が多いだろうから、ほんとに提示しても読めるんかなという疑問がある)

でも、わたしは自分の気が向くから書いているのであって、頑張ってもいない。どうして、わたしが文章を書いているのか、わからない人にはわからないだろう。そういう人にとっては、わたしの文章は有用ではない。そういう意味で、その人にとって、わたしの文章は優れていない。でも役に立つと感じる人に採っては優れていると感じるだろう。

文章を書く、というひとつの分野に限っても、そうなのだから、人間丸ごとを、優れているとか劣っているとか、考えるのは無駄だ。自分が優れているとも思っていない。いや、まあ、優れている部分もある。そう思ってる。たいていの人はそうじゃないかな。優れている部分と劣っている部分もあって、全体ではほどほどかな、と思ってるんじゃないかな。

ほんとのところは、わからない。誰と比べるのかもわからないし。

常識がないとか、理屈で話しすぎるから、感情がないとか言われたこともある。まあ、実際には、感情普通にあるんだけど、他の人に読み取りやすい感情の出し方じゃなかったりする。その一方で、場面によっては出しすぎているから、ひどく感情的な人だと思われることもある。
人によって評価が違う。だから、自分が劣っているのか、優れているのかわからない。わからないことを考えても無駄だ。基準が、ないから。

勤勉な人が優れている時代もあるし、勉強ができれば評価される時代もあるし、労働ができる人が優れている時代もある。

文句言わずに頑張れ、という人ももちろんいる。
でも、頑張っても報われないような属性を持っていて、その属性のせいで、どれだけ頑張っても評価されない、ってことになると困るし、生存を脅かされる場合もある。
そして、わたしはわたしの立場でしか、ものをいえないから、こういう風に言う。
そして、差別される側には見える差別は、差別する側には見えない。感知できない。
だから、こうして書くのだけど、そのこと自体を文句つけるな、という申し出の通りに振る舞えば、差別する側は永遠に、差別を感知できない。

差別、被差別構造は、世の中を回すために、便利だという側面がある。考えなくて済む仕組みだから。特権階級にとっては、良いことしかないし。特権階級、といっても、ぴんとこないだろうけど。特権を持っているというだけで、差別のことは考えなくて良い。そのことだけでも特権だから。今まで差別のことを考えずに済んだ人は、恵まれている。努力すれば、報われると思っていたり。

だけど、社会、というものが、人間という生物の多様性を保持することによって、さまざまな環境の変化に対応できるようにする、というものであって、社会というものを作ることによって、環境に適応して人間が今まで生存して来たことを思うと、差別、被差別構造、ってそこまでいつまでも大事にするのは、非合理的だなと思う。もちろん、非合理的なことが悪いわけでは決してないのだけど、差別される側にとっては、やはり悲しいことだし、損失だから、社会全体としては、あまり良いことではない。

社会は、ある状況下で弱いものだったとしても、他の状況下では強い場合もあって、その個体個体の生存はともかく、種を繋ぐ上で、多様性を保持することが、有効だったから発生したんだと思ってる。
たとえば、からだが弱いけど頭がいい、というのは、環境が荒々しいときには、役に立たない個体だけど、そうじゃないときには、便利に行きていけるだろう。
頭も悪いしからだも弱いけど、感情を読み取るのに優れている、という人もいるだろう。それも役に立つ場面があるだろう。勘が良いというか。(頭が良い悪い、という尺度もないのに、雑な話をして恐縮だけど)

そういうわけで、事前にどのような環境変化が起きるかわからないために、適応手段のひとつとして、社会を維持することをたまたま選んだ種が人間だとわたしは思ってる。そして、頑張ってなくて劣っていて優れていない人間も必要だということが社会の意味だと思う。
だから、文句を言わずに頑張れ、というのは、大事なことかもしれないが、あほらしくもある。頑張って報われる方向も社会が決めたことだから。そして、報われるかどうかも、社会が決めることだから。ルールも採点も、社会で権力を持っているひとが決めて、属性を見てその結果を変えるのだから、努力だけでわたっていけるほど、合理的に世の中出来てないなあと思う。そして、わたしは、考えることが好きで、文章を書いてる。
そういう役に立たない人間がいても良いと思うし、いても良い、というか、既にいるし、災害や事故や病気で死ぬとか、誰かがわたしを殺しにこない限り、やっぱり、存在する。ので、今日の文章も存在する。

c71の著書

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