グループセラピーに行ってきました

最近は、怒りと悲しみがテーマでした。
混乱と、リラックスの出来なさに困っていました。
執着してしまうことや、強迫観念も強かったです。
そのせいで、生活のリズムが狂い、したいことができなくなっていました。

これに行ってきました。

レイエッセンスと、クリスタルボウルの演奏です。

彼氏には、「山梨泊まりがけで行くから」「なにしに?」「セラピー」とだけ行ってでかけました。
帰って来てからいろいろ聞かれたのですが、言葉にしにくいので、「瞑想してきた」と伝えました。

なんでも言葉にできるかと言われると、難しく、言葉にできない体験をしたいから行って来ました。
怪しいとはもう思わなくて、でも、怪しいと思う人はいるだろうから、安心して話せないなーという感じです。でも、自分にとっては必要なことで、誰かに説明したり、わかってもらったりする必要もない、という気持ち。

説明すれば説明するほど、何をしたのか、から、遠ざかります。やったことは、クリスタルボールという、水晶の粉を生成して作った器を叩く演奏を聴いて、寝て、ぼんやりして、レイエッセンス、というわたしにもわかっていないなにかを光に投射して、その投射した光の中に座ってみたり、一滴か二滴飲んでみたりして、それから、瞑想して、「恥」について連想してみる、ということです。

眠くなって半分くらい寝てました。他の人も瞑想しながら寝てました。それで良い、というワークショップなので。

クリスタルボウルの演奏は、重低音がからだに響く感じで、マッサージされているみたいでした。ぼんやりして、なにも考えず寝ていました。今思うと、何も考えない、というのがすごいな、と思います。

テーマは「制限をはずす」ということと、「あなたはわたし」ということです。
わたしは、あなた、というのは、他の人の変化もひとごとじゃなく、きちんと観察して、見る、ということです。そして、自分の感じたことはわけあって、その変化自体が、全体の変化に結びつく、という意味だそうです。
制限を外す、というのは「弱さ」というものがあったとして、「弱さ」を克服するためにがんばる、ということじゃなく、「弱さ」があっても良いじゃないか、と思うのでもなく、「弱さ」ということについてそのまま受け入れるということです。弱さ、という形にしないでいる、みたいな。許さない自分を許す、というような。

わたしには絶対に許さない人がいて、その人を憎んでいますが、それの相手を許す、ということじゃなくて、憎んでいるわたしを、許す、ということです。

最初その話を聞いたときに、怒りが湧いて来て、むっとしました。
わたしの今日のテーマは、別人格の人を、統合するのか、共存するのか、突き放す、ということでした。
その直前に霊能者さんに、「霊は蹴っ飛ばした方が良い」「話し合った方が良い」「自分を信じた方が良い」「力は自分で、自分自身にパワーがあって、自分が自分の神様となって、自分自身のことを決める」「霊、というのは、よいものだろうが悪いものだろうが、それに従わせようとする力だから、自分の思うように動かそうとして、乗っ取られてしまって、じぶんのしたいことができなくなる」ということを言われてい明日。
だから、別人格のベシーをどうしようか考えていました。

そして、グループセラピーでは、「誰でも多重人格で、嬉しい自分と悲しい自分が共存するように、人格はたくさん存在する。それをひとつだと思いたがっているから、一人につき、一人の人格だとみんなが思い込んでいるだけで、本当は、みんなたくさんの人格を持っている。その場面、その場面に、あった人格を出している。みんな多重人格で入れ替わり立ち替わり、人格を入れ替えている。

野蛮で暴力的な自分がいたとしても、それを閉じ込めたい、と言う気持ちになったとする。でも、ありのまま認める。そうすることで、その暴力的な人格が表に出たとき、どうなってしまうのか、人を殺してしまうのかと、不安になるかもしれないけれど、実際にはそうはならない。
暴力的な人格には、パワフルな面があって、いろいろなことを切り開いてくれるという面がある。自分を信じて、任せてみることが大事。意外とうまくやってくれるもので、そうやって、人格に任せることで、なんだ、自分は、大丈夫なのか、と安心することを繰り返すことで、自信になる。自分を一生懸命コントロールして、人を殺さないように、暴力を振るわないように、がまんしているのをやめても、自分が暴力を振るわない、ということがわかると、それが自信になる。

暴力を振るうんじゃないか、と心配すること自体が、制限で、制限をはずして、その乱暴な人格に、その場面を対応することを任せる、ということ、ゆだねる、ということを今日は試してみよう」と言うことを言われました。

わたしはそれを聞きながら、「許さないことを許す」と言われたときの、燃えるような怒りを忘れて、次第に眠くなっていました。緊張が緩んできました。でも、その一方で、怒っていたい自分もありました。だから、その怒りを味わってみました。
その怒りは、恐れや保身、不安から来ているものだとだんだんわかってきました。
わたしは、怒るのをやめたら、自分がなくなって、死んでしまうのかもしれない、わたしは、怒ることで、生きる原動力にしているのかもしれない、だから、怒るのをやめたら、なぜ生きているのか忘れてしまい、生きることをやめてしまったり、なぜ生きているのかわからなくなってしまうのか、不安なのだ、恐れているのだ、と思い始めました。
怒ることをやめることへの恐れがありました。怒ることをやめたら、自分の境界を侵略されてしまうんじゃないかと。

そんなことをぼんやり考えている中で、制限について、さらに説明がありました。
「お金があったら、好きなことをする」と思ったとして、「お金があったら」の部分が制限です。
「好きなことをする」だけで十分なのに、「お金があったら」という制限を就けてしまう、これをとってみましょう、ということを言われました。

怒りを取り払うのが怖い自分がいました。怒りにしがみついているのか、という疑問がわきました。
リチャードバックの救世主の最初の朗読がありました。
水晶の川の底にしがみついている生き物が、そのしがみつかないと、けがをして死ぬ、という思い込みをやめたという話です。退屈で死にそうだから、手を離して、川のながれに身を委ねたら、川の水面の近くを流れて、けがもせず、川底を見下ろしていたら、下流の川底の生き物に、「救世主、わたしを助けて」と言われた。でも、自分は底にしがみついていることをやめた、同じ生き物だから、救世主ではない、と答えた、という話でした。

イリュージョン―悩める救世主の不思議な体験 (集英社文庫)

その間も、クリスタルボウルの演奏は続いていて、目のあたりに鈍痛がして、前頭葉の付近が暖まる感覚がありました。怒りがまだありましたが、演奏を聴いているうちに眠くなり、怒りがあっても良いからとにかく眠いと思いました。
そして、わたしのことをみた人が、わたしを見て「光が降り注いでいるように見えた。あなたは、二人でなく、一人だ」と言いました。
眠さを感じているうちに、「怒りがあっても眠くなるんだ」「怒りがあってもなくても眠くなると言うことはなくてもわたしは生きているんだ」と言う風に思いました。

からだの外側に感情があると考えると、感情にからだごと翻弄されてしまいます。それが、今までのわたしだとします。感情の嵐に巻き込まれて、自分が揺れてしまう。そして、それこそが、生きている感覚だと思ってしまう。
からだが器だと考えると、からだの中に感情があります。その感情が如何に強いものだとしても、からだが感情を入れる器なので、その外側に、感情は出て行きません。あくまで、感情は、自分の中だけのもので、そとに作用しないのです。そうすると、感情に、器は乱されません。感情が中にあるから。
そうすると、怒ったまま、感情がいくら嵐のようでも、それを傍観したまま、眠ることすらできるのだなあ、と思いました。

グラウンディングをしました。そうしたら、頭の中や、おなかにあった、かたい重いものが、すっと落ちていく感じがありました。
柵が自分を守っていると思って、一生懸命柵を大事にしていたけれど、柵がなければ、自由に移動でき、敵からも、自由な場所に逃げられる、自分をひとつの場所に縛り付けていたのは、自分を守ろうとする気持ちだ、ということの話がありました。

それから、「恥ずかしさ」「恥」に関するワークショップをしました。
恥は、自分に制限をかけるもの、恥自体が恐怖です。
でも、恥ずかしさに身を任せることをしてみようということになりました。

わたしは、周りに注意されることは、たいてい、常識がない、ということです。だから、それについて考えながら瞑想しました。
瞑想しながら寝ていました。障害者手帳をとらないように、わたしの障害を公のもので証明しないと、言い分そのままを信じてくれなかった親を恨む気持ちのことを忘れて良い気分で眠っていました。
親はわたしの障害者手帳を持っていることを、わたしに恥ずかしく思ってほしいと願っているのだと思いました。親は私のことを恥ずかしいと思っていないかもしれないけれど、わたしが恥ずかしがるべきだと考えているんじゃないかと思いました。

でも、眠っているうちに、恥ずかしいことかどうかどうでもよくなり、恥ずかしいを実感する、というテーマ自体を忘れて眠っていました。

セラピーが終わった後、「今は揺さぶりをかけただけなので、どうなるのか、今はわからなくても、このセラピーの前に怒ったことかもしれないし、今後変化することかもしれないので、どうなるか見てください」と言われました。

わたしは常識がないから、恥ずかしい、と思ったことを思い出しました。
みんながしっていることを知らないから。

「わたしが決めてわたしがする」
「何が恥ずかしいかの何を恥ずかしいかにするのか、わたしが決める」という気持ちを強くするスプレーを欠けてもらいました。
わたしは「みんなが知らないことを知っているけれど、人を恥ずかしいやつだなと思わないな」と思いました。
だから、「みんなが知っていることを知らなくても恥ずかしい、というわけじゃないな」と思いました。
それに、常識は、隣に行っただけでも、変わるものだ、とセラピストが言いました。状況や時代や会社の文化が変わっただけでも、常識は変わるから。

恥ずかしい気持ちを持たせる、というのは、根底にコントロールがあるのだと言う話がみんなから出ました。
「親はわたしに恥ずかしい気持ちを持てという意味で常識を持ち出す」「コントロールするため常識を持てという」のではないか、と思いました。(親自身がそう思っているかは別として、わたしはそうとらえると楽になるという意味です)
逆に、「常識を持ち出すと、結果的にコントロールになってしまう」ということなのかもしれません。
どちらにしても、それをそのまま受け取って努力するなり、抵抗するなり、出来ない理由を説明するなりするのは、苦しいことでした。

わたしは親の言う常識を知らなくても、グループセラピーで、「かわいくて」「素敵」「魅力的」と言われました。
「あなたはそう思っているのね」と相手の考えていることは変えないまま、そうなんだね、と思うことを提案されました。
常識、というのは、条件です。「こうすればもっと良い」という条件です。そして、わたしは言われることに対して、前もって用意しない、そして、条件に対して、行為をしない。それは、前もって用意するということは、条件を付けられたことに対して、自分でアクションをする、つまり、相手から制限をかけられたことで、実際に自分に対して制限をかけてしまうということです。相手の言葉を実行してしまうことを、しない、やめるということが大切です。

「抵抗する、説明する、もっと頑張る」というのは、相手を変えようとする、相手を満たそうとする作業という意味で同じ平面上にあります。違うように見えますが、相手をどうにかすることで、自分を楽にしたがっている、という点で共通しています。
でも、それは不可能なことに挑戦しています。
だから、疲れます。

親は、わたしに常にもっと頑張れと言います。それは、恥を持て、良くなれ、というメッセージです。
わたしは自分の障害が恥ずかしくないし、もう頑張っています。
ありのままのわたしでいることを言いたいです。わたしは、障害者手帳を持っていても、持っていなくても、生きることに難しさを抱えています。それは、恥ずかしいことでもなんでもなく、ただ、困っていることがあるから、助けてもらうことが必要なんだ、というだけのことです。

「かわいそう」と言われると、自分で、そのかわいそうな自分を実現してあげたくなります。自分からそうなります。健気に努力する自分を見せて、自分をかわいそうな存在にします。

わたしは、手帳を持つことに抵抗がありませんでした。
でも、なぜ、持とうかと思ったかというと、税金が安くなるくらいのメリットしかないのですが、目で見える形で、公のお墨付きをもらえば、親は納得するんじゃないかと思ったのです。
でも、わたしは、わたしの言い分だけで認められたかったのです。
ですので、わたしにはそれが怒りに変わりました。

「考え方を変えるのは、横にスライドするだけ、意味づけをするだけ」と言われました。
悪いことがあっても、ポジティブにとらえ直そう、ということは、同じ平面上で、位相がかわっただけのことだという話でした。
そうじゃなくて、「これでよし」と思うことが大切だ、ということでした。
セラピストの話では、今まで朝に起きるとまず「いやだな」と思ったそうです。「朝のいやな感じ」を「いやだな」と思っておいておこうとしていたそうです。でも、それだと、その感じを「いやだな」ととらえていたということに気づいたそうです。まず、いやだな、と言う風にとらえていた、それから、それに対処していた、という流れがあって、それ自体が制限なのではないかと思ったときに、ある日「これでよし」とおもったそうです。やだな、と思うことをやめて、それも含めて、これでよし、と思ったそうです。

コンディションが悪くても、「これで良い」と思うのは気持ち良さそうです。
やだな、でも、やだな、と思う自分を許そう、という流れは、確かに長いし無駄が多いです。
最初から「まあいっか」と思えればそれで良いというのは、確か似そうだなあと思いました。

「親を満たそうと思うのをやめる」ということを言われました。
どんなに頑張っても、親は満たされない。
どんなに頑張っても、親がわたしを「不憫」だと思っていることや「もっと良くしよう」「成長させよう」と思っていることは、変えられない。
抵抗しても、頑張っても、苦しい。
親が満たされることはない。それを変えることはできない。他人だから。

器の外のことだから。

親が不憫だと思っていることは、どうでも良いこと。
そのことについて、抵抗しない。
説明すること、証明すること、認めていること、頑張ることをあきらめる。
説明してわかってほしいと思うことも、言われた通りに頑張ることも、同じように苦しいから、もうやめてしまう。
頑張れない自分を認める。
「これでよし」と思ったら、甘く感じました。

いつも、「トイレに行きたくなったらどうしよう」「遅刻したらどうしよう」「眠れなかったらどうしよう」「眠ってしまったらどうしよう」と漠然と不安でした。今もそうです。
でも、トイレに行きたくなったら行けばいいし、遅刻しないようにすれば良いし、遅刻したら誤れば良いし、許してもらえなかったら、それだけのことです。仕事を首になったら、どうしようも、こうしようもなくて、次の仕事を探せば良いです。

「これでよし」と思うことは、自分の状況や相手の感情を俯瞰してみられるということだそうです。
相手の言っている「常識」という戦いの場があったとしたら、そこでは相撲をとらない。影響されない。
相手の言っていることを笑い飛ばすのも、一案だけど、免れることもできる。

セラピストのエピソードの披露がありました。
「ごめん」という言葉は「ご免」という意味で、恥や罪悪感を持たす言葉ではなくて、一度、リセットする言葉。
相手が、責めているように感じているとき、「ご免」とまず言うと、相手の気持ちがわかるようになって、「責めているのではなく、わかってほしい」から、くどくど言っていることがわかってきた、ということでした。すみません、は済みません、だから、ちょっと違う、とも言っていました。

そのあと、また、クリスタルボールの演奏があって、ぼんやり横になって眠っていました。
そうして、いたら、かすかなイメージがわいて来て、「別人格だと思っていたベシーは、わたし自身だ」「彼女は何のために生まれたのだろう」「愛のため」「わたしを愛するため」「他の人に愛を与えるため」生まれて来たんだな、と感じました。
そして、別の名前で生まれたのは、わたしが言い訳をするためだったんだなあ、と思いました。
彼女が別人格だとしても、わたしが主人格です。でも、わたしは、彼女がおせっかいなことをしても、良いことをしても、逆に失敗しても、わたしじゃなく、彼女がしたくてしたことだから、と思ってきました。そう思うことで、別人格のベシーがしたいことを、自由にして来たわけです。
でも、それは、わたし自身もしたかったことで、別人格、ということを、言い訳に使って来た面もあるなあと思いました。
だから、彼女がしたいことは、わたしのしたいことでもある、わたしの中にはたくさんの人格があって、そのなかの、特に主張が強いのが「ベシー」で、でも、それを統合しているのは、「わたし」だから、彼女がして来た素晴らしいこと全部を、わたしは自分の自身にして良いんだと思いました。
そこで、自分が、して来た素晴らしいことから逃れて、卑屈でいる必要もないし、その逆に、言葉にできない不思議なことを毛嫌いして来たわたしが、その逆の世界にコミットすることの言い訳に、「ベシー」を使わなくても良い、ということを思いました。

その両方をすることが、「ベシー」を尊重することでもあるし、自分自身を尊重することでもある、と思いました。

ドルフィンスイム&ワークショップin三宅島 | フェアリース・オブ・ムーン
次は、これにいってみるかどうか、迷っています。
いけるとしたら、八月なのですが、最小人数が、5人なので、もし、ブログを見ている人で、参加したい人がいたら、参加してくれたら、実現するかも……ということで、リンクを張っておきます。
今度は、清水安樹子さんのリーディングも受けてみたいと思っています。
高いけど……。

最近、わたしの占いも、出来ることが増えてきました。
悪いものを払うこと。
悪い気持ちを払うこと。
境界を強化すること。(精神的に侵略されている人の守りを強くする)
からだの痛いところを見る、そして、和らげる。
頭の中で、うるさい声や感情がある人は、それを静かにする。
未来のアドバイス
過去のアドバイス
過去の捉え方の変え方
人間関係、転職
気持ちのこもった「もの」の処分の仕方のアドバイス(気持ちのこもったものが影響して苦しくなっている人がたくさんいます)
考え方にアドバイス
お守り作り
夢を通して、四次元の世界で、クライアントさんの関係のなにかと戦う。c71.hatenadiary.jp

c71の著書

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