正しくてもしないという選択

最近、睡眠時間や、外出時間をメモしたり、体重、食べたものをメモしたり、困ったことを書いたノートを作ってる。
困ったことノートは、困ったことをノートに書いて、解決策が思いついたときに、答えを書くノート。
そうして、知恵を集結させていくのだ。

こういうやりかたも、前から知っていた。
正しいことを言う人が言うからだ。
でも、今回したのは、わたしが信頼しているお医者さんが、わたしのタイミングを見て話してくれたからする気になった。正しいことでも、伝えてくれる人の人柄や、タイミングでできるようになることもある。

ダイエットも、食べ過ぎないようにすることも、健康診断も、歯医者に行くこともしないといけないとわかってる。
でも、わたしのタイミングでは出来なかった。
反発心がわいたり、いわれたこと自体に混乱したり、出来ないと言って絶望してしまったり。

最近、たとえば困っていることは、昼間眠いことだ。薬を飲んでいるから仕方がない。
でも、ちょっと前は、困っていなかった。
仕事をしていなかったから、死にたくなったり、悲しくなったりすることを防ぐことの方が大事で、眠くなっても、眠れば良く、制約がなかったから、そうしていた。
でも、今は眠いと仕事に差し支えるから困る。

年齢や、場面や、気分で困ってしまうことは異なる。
そして、そういうとき、外から正しいことを言われるといやな気持ちになる。
わたしの問題はわたしの問題だ。
やり方を教わってから、実際にするまでに何年もかかった。

正しいことはいわないでほしいから、正しいことを言う人からは遠ざかって来た。
本当にその選択は正しかったと思う。

いわれたときには、正しいことを言う人には見えない問題をたくさん抱えていて、それだけで精一杯だった。
優先順位も自分なりにあって、そのことを話し合うほどの間柄じゃなかったから、なぜそれをしないのかも、話したくなかった。
そういう、人の気持ちをわからない人の言うことを聞かなくて、わたしは本当にえらかった。
正しいことを言う人の言うことを聞かない自分のことが好きだ。
正しいことを一方的に言う人は、わたしの境界を侵している。
それ自体が正しくないことだ。

わたしが困っていることを話したときに、やり方を教えてくれる人が好きだ。
正しい人はそうじゃないから、嫌いだ。

c71の著書

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正しくてもしないという選択」への1件のフィードバック

  1. 間違える権利、みたいなことをどこかの本で読んだことがあります。
    「子どもは間違える権利があるからまわりはそれをうるさく言ってはならない」のような。
    子どもについての記述でしたが人間全般にも言っていいことだと思い、私が人の言うことを聞かず間違ったことをしてもこのことばが勇気をくれています。
    まあ、そうは言っても周りはとやかく言いますが・・・
    そこはもう、相手の判断することなので誠実に説明してあとは自分にはどうすることもできないことですよね。相手には時間が必要な気がします。

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