知らなければ知らないまま死ぬ

三年教えている生徒さんに、数学がずいぶん出来るようになったね、と伝えた。

数学はいろいろなところで、役に立つ。
例えば、ハードル競技のメニューを決めるとき、ハードルの何メートル前で飛べば良いのか、知りたいとする。

そうしたら、方程式の知識があれば、何メートルで飛べば良いのか求められる。
また、タンジェントがわかれば、角度も求められる。

数学は役に立たないと思っている人は、知らないまま死ぬ。
だって、実例を説明したくても、数学そのものを知らないから。
だから、説明できない。
数学を知っていたら、それを使って説明できるし、本人も、どの考え方を使うか、「選択」することができるけれど、知らなかったら、数学を使って求めようという発想がでない、という話をした。

さりげなく、認知療法を勧められてしている。
困ったときに困ったことをメモして、実際に困らなかったことや、こうすれば良いという対策ノートを作るようにした。

人といて、相手の機嫌が悪かったときに、顔色をうかがわないで普通にしている、とか。
体重を毎日記録したり、家計簿をつけたり、食べたものを記録したりしている。
前には、生きるか、死ぬか、ということで悩んでいたので、こういうアプローチは出来なかった。
自分のしていることを把握することが、怖くて出来なかった。

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根っこがあって、それから逃避するために、問題行動がある。
逃避行動がないと、問題から、心を守ることができないからだ。
根っこを見つめすぎると、心が壊れてしまうかもしれないから、急いでみないように、アプローチしたいと思う。
認知療法で、わかる困っていることは、逃避していることで困っていることだから、それをつぶしても、他の新しい逃避が生まれるだけだ。
だから、なるべく安全な逃避に逃げるように心がければ良い。
過食も、野菜を過食するとか、そういう風に変えられれば良い。

真のストレス源をなにか特定したら、逃避行動も収まるかもしれない。
だけど、真のストレス源を自分自身から、隠すことに意味があった時代があって、今はどちらかわからないから、少しずつやっていきたい。

ストレス源が、自分にとって、大事なものだった場合、取り除くのが大変だ。
だから、自分さえ病気でいさえすれば、丸く収まると思ってしまう。
だけど、それは間違っている。
自由な方が良い。

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