身の程を知る、弱さを知る、たくましくなる

身の程を知ることが教育のひとつだと書いた。c71.hatenablog.com
教育は序列を作るためにあるものじゃない。

今、序列を作るために機能しているとしても、基本的には、世界の広さを知ること、相対的に自分の位置を知ることが大事だ。
人によって能力差がある。
それをその人に知らせることはどうなのか、無気力にするのではないか、と言うような意見、大意としては、そうだと思うのだけれど、ある人が言っていたのを聞いて、わたしになりに考えた。

わたしには優れた部分があるから、劣った部分も受け入れやすいのかな?と言う風にも思ったのだけれど、女に産まれた時点で、日本では劣ったものだと育てられる。
だけれど、そのことや、自分自身の客観的な能力を知ったときに、わたしはあまり落胆しなかった。
苦手な部分は、そういう理由で苦手だったのか、と知ってから、じゃあ、ハードルの低いところからチャレンジしようと思えた。

能力が全体的に低い人も、能力の上限を知ることで、その人なりの処世術を考える余地がある。
それを曖昧にしておくことの方が勘違いできて幸せなのかもしれないけれど、そして、そういう考え方もあると思うのだけど、教育は能力の如何にかかわらず、「正しい考え方の筋道」を教えるものでもある。だから、能力が低くても、正しい応えにたどり着くメソッドを身につけられる公算は大きい。それは、教育にしか出来ないことだ。

教育は真実を突きつけもするし、その場所から歩き出すすべもくれる。

わたしの場合は、女だから、実際ある能力より低いと思わされて来た。
これは不幸だ。
わたしにとって不幸なことだった。
男性の場合は、実際ある能力より高く評価されて来たのだろう。
これも不幸なことだ。
曖昧にしていて、メリットがあるのは、社会的強者だと思う。
弱者が、自分の弱さを知ることのデメリットは少ないように思う。
自分の弱さを知ることで、どうにもならなさを知ることで、前に進めなくなることもあるけれど、そういうときはもともと、同じところをぐるぐるしているだけだと思う。

社会的構造によって、低い評価をされて来たことに気がついて、そのことと向き合う強さは教育がくれる。
そのこと自体を変えることはできないけれど、身の振り方は変えられる。
無理をしないで生きられる方法をもっと行政が増やせれば良いと思うけれど、優秀な人にも、このことを知ってもらえれば、徐々に世の中は変わると思う。

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