曖昧な自己愛と自分は自分

とても悲しいことがあって、気分は最悪だ。
人生にはいろいろな場面がある。

しかし、最悪なのは気分であって、いつもと変わりない。
ちょっと衝動買いをしたくらいだ。

わたしが楽しかったり、嬉しかったり、自分を良いなと思って書いたりすると、自分に対する「煽り」だと思ったり、「攻撃」だと思ったりすることがわかった。
わたしが「自分以外の人はすべて愚か」と書いたら、攻撃と思われても仕方がないけど、でも自分を「賢い」というのは、それは別に攻撃だと思っていない。
だから、わたしにとって、さしたる意味もなく書いていた。
いや、意味がなければ書くはずがない、と思う人もいると思うんだろうけど、わたしはそれで、安心して良い気分になるのである。
それがメリットである。

自分はこういう人だ、と輪郭を探っていく間には、いい面も見るし、悪い面も見る。
なにもかもなくしたときに「でも、賢いところもある」「人を見る目もある」「観察眼がある」と言われたのは嬉しかったので、素直に受け取り、自分のアイデンティティにした。
だから、わたしは人に対しても、そういう風に自己紹介する。
ネガティブなことを言う人がいるのも知っているけれど、自己紹介のときに「わたしはダメで良いところがひとつもありません」と言われても、困るのじゃないだろうか。言われた人も。

わたしは妬まれやすかったり、攻撃されたりしやすい人生を送って来たような気がする。
でも、自分を全然変えようとしようと思わない。
わたしは人になにもないところから意地悪をしたりもしないし、何もないところから悪口を言ったりもしないから、まあまあな人間だと思っている。
だから、攻撃される理由は、自分に対してオープンなところだろうと思っている。

でも、何があっても守ってくれるのは、最後には自分だ。
だから、自己肯定感や自尊心は常に高めておいておくにこしたことはない。
ぺしゃんこになっていたら、つけ込まれて、もっとひどい目に遭わされる。
弱いことはいじめられる理由になる。強いことも、抜きん出ていることも、いじめられる理由になる。
だったら、強い、自分で好きな感じでいた方が、良い。
わたしは、そう選んで、自分のことを褒めるし、良いところもあると言っている。

多数派はこう思っている、だから、あなたは間違っている、という言い方をする人は、弱い。
だって、自分の意思が、周りの人によって変わるのだから。
みんなが思っているから、こう、ってなっていたら、周りの人が変わるたびに、世界に対する考えが変わってしまうので、混乱するんじゃないのだろうか?
混乱が好きなのかもしれないけれど、わたしは周りの人の意見で自分の価値観が左右されることが不毛に感じるから、少数派でいることに、まったくためらいがない。

少数派でいることが、悪いことのように信じている人もいるんだな、と思った。

悪い言葉を見ると、心が悪い風に動く。
それで、やり返さないで丸まっているのはわたしのスタイルじゃない。
わたしは、基本的に自分は自分だと思っている。
その一方で、幸せになれるのだったら、周りの理解が少し得られればそれで十分だと思っている。
こういう風に、今日は悲しいことから、気持ちを離して、整理してみました。

人の要求していることを察して、それにあわせて生きていたら、生きる実感がなくなってしまう。
本当に要求されているのか、本当にそれは「みんな」が思っていることかも、曖昧だ。
曖昧なことに基準をあわせて、自分の言動を調節していたら、たいへんだろうな、と思う。
曖昧なことをわたしは言う。
曖昧なことはけっこう楽しい。
楽しいことが少しあると、幸せな感じがする。
わたしは誰のためにでもなく、自分のために生きている。
そういう自分が好きだ。誇らしい。
それがつかんだものだ。今までの人生で、いろいろなことがあったけれど、自分で、判断して、生きる、ってことができるようになったことが喜ばしい。

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