変えられないからそのままで良し

自分がだめだとか、いやなところがあるとか、弱いとか、卑屈だとか、それを直したいと思うと、もう一つ深い沼にはまる。
そうじゃなくて、だめでもいい、いやなところがあってもいい、弱くてもいい、卑屈でもいいと思えば、問題が一つ解決する。

理解する気のない人に理解されようとすることは苦痛だ。人に好かれたいと思うと弱みが一つできる。
そうじゃなくて、だったらいっそだからどうした、と思ったほうがいい。

わたしは強い人間じゃない。欠点もたくさんある。コンプレックスもある。

わたしは他人に興味を持ちたくない。そういうスタンスを作りたい。わたしを好きな人に、わたしを理解してもらったり、わたしがそうした人たちを好きになることで十分だと思う。
わたしを好きじゃない人に理解されたいと思ったり、わたしを好きじゃない人こそ真実を知っているはずだと思って、近づくことは、リンチされに寄っていくのと同じことだ。

わたしを悪く言う人たちはわたしのことを良く知らない。よく知らないまま、わたしをたたく。
ちっとも建設的じゃないし、そんなことで、彼らのストレスが発散されるとも思えないから、その動機が分からなかった。

でも、動機なんてわからなくていいんじゃないか?お互いにお互いを屑だと思って見下げているのだから、近づかなければ何も起きない。

わたしは彼らを屑だと思う。なぜならば建設的じゃないからだ。ブログを書く勇気もないからだ。まとまった文章を書かないで、つるんで、人と悪口を言い合うのはすさんだことだ。わたしはその一員じゃなくてよかったと思う。

ダメなところがある。
わたしはダメなところがたくさんある。それは自分でも知っている。だけど、それで仕方がない。わたしは変わることができるが、外部が期待した速度ではないから、人の期待に応えることはできないだろう。

わたしは他人に興味を持つことを辞めたい。そうしたら、期待することもなくなるし、プライバシーを詮索することもなくなるから。
わたしはプライバシーを詮索されることが嫌いだし、詮索する人間は下品だから下種だと思う。嫌いだ。

わたしは嫌いな人間にならないように生きていきたい。

今のままで十分だと思うこととよりよくなっていくことは両立する。自分をダメだと責める時間と体力があるならば、より良い世界を見ていたい。

c71の著書

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