トランスジェンダー問題へのわたしの論点

わたしが一番嫌なのはアライだ。

というのは、わたしもされたことがあるからわかるけれど、彼らは、いつも正義のみこしに担げる弱者を探していて、その弱者の名前で、正義の制裁を他人に加える。そうすることで、自分は、正しいことをしている側だという承認欲求を満たせるのだろう。

庇護と支援は違っている。成人相手に「あなたを守ってやる」というのは、基本的には見下しと侮りが含まれている。支援は本人に対して、環境を整える、本人らしく生きられるようにするということだ。だから、支援を必要としている人がいても、その人がしたいことを必ずしも全部認める必要はない。その人が、自分のしたいことをしていても、その人に害のあることや、周りに害のあることならば、指摘するほうがいい。

けれど、庇護はそうじゃない。支配に近い。被庇護者がしたいことをなんでもさせたり、逆に被庇護者が嫌がっても、嫌だという気持ちを認めなかったりする。

被庇護者が「それは嫌だ」と言えば、庇護しているつもりの側は、手のひらを返して、敵認定する。

それが、また起き始めているので、わたしはとてもいたたまれない。トランスジェンダリズムは誰のためのものだろう?今は活動家とアライのためのものに見える。

トランスセクシャルは体の問題を抱えている

トランスセクシャルと、彼らを除くトランスジェンダーとは、異なっている。いわゆる「トランス女性」に限って話をすれば、男→女の変化に見えているけれど、理路が違う。表面上は、同じ性別の移行に見えても、本質的にはトランスセクシャルは「体の問題」をもち、トランスジェンダーは「文化の問題」をもつのだ。

今、俎上に上がっているのが、男から女、のパターンなので、そういう前提で話していく。

トランスセクシャルは、身体が男だからつらい。そこが出発点。だから、トランスセクシャルの方々は、「女性」と「自分の体」が違うことを認めているのだろうと思う。だから、苦しいのだろう。

その苦しみを和らげるためには、身体を変えるにしても、感覚の側を変えるにしても、医療の介入が必要だから、「障害」なのだ。障害に悪いイメージを持っている人もいるだろうけれど、「障害」は当人の障壁にはなるけれど、恥じるものでもない。

トランスジェンダリズムは、言葉を変えさえすれば、現実が消失するように考えている。すべてが社会的構築物だから、というのはそういう発想だ。でも、その虚構は、わたしたちの現実だ。女という名前の付いた「体」に違う名前がついても、わたしの体に紐づいている意味は消えない。

障害という名前がなくても、どちらにせよ、苦しみは苦しみだ。言葉を言い換えれば、苦しみが消えるわけではない。

それぞれの差異を認めずして、尊重はありえない。

女性と、男性は、身体も、経験も違う。

女性という「集団」の中でも、個人的に得た経験は違うけれど、その集団に加えられている差別は、社会から受けているものだから、共通点がある。そして、差別が加えられる根拠や目印は、女性の体の特徴にある。

そういう意味で、女性と男性は違う。

トランスセクシャルへの尊敬

わたしがシンパシーを感じるのは、トランスセクシャルたちが、「生きることを選んだ」人たちだという点だ。残酷なことを言えば、手術をしても、別の性別の体になれるわけではない。それは変わらない。男性器を取り去っても、男性器のない男性の体であることは変わらない(これを書くのにためらいはあるが、言葉を濁したくない)。その限界に苦しんでるのだとも書いてあった。

しかし、それをわかっていても、苦しみを和らげるために、それを選び、生きることを求めている。

それをとると、からだの意味が変わるので、文化的に女として溶け込むことができる。

男が男であるための象徴的に扱ってるものを取り去るのだから。

また、理解されようと努力している。

身体違和、というのは、身体への感覚をコントロールできないことではないかと、言っていた人がいて、それはよくわかる、と思った。

些細なことで例えれば、ウールのセーターがチクチクして、着ることができない、というのも、それは感覚をコントロールできないと言えるだろう。チクチクする人にとって、これはどうしようもない。

脱ぐしかない。

それと同じように、それをもっと強めていった感覚で、「身体」を脱ぎたいのではないか、と想像している。しかし、セーターは脱げるが、体は脱げない。替わりもない。

自分の例で話せば、わたしは自分の体調と、気分の上下や、衝動をコントロールすることができない。だから、医療の介入を必要とする。それは、生きることをわたしが選んでいるからだ。もちろん、投薬によるコントロールを、不自然だという人はいるけれど、どうせ生きることが不自然なのだから、割り切っている。わたしは、自分の体も、自分のものではないような、浮遊した感覚がある。それは、どうしようもないことだから、受け入れている。それが受け入れられる範囲のことで、コントロールできるからだ。

それで、わからないなりに、トランスセクシャルの人を、そうしてまで生きたいと願っている人をリスペクトする。

だから、女性として生きたいと願うなら、女性として受け入れる。それは、支援で言えば、環境の整備に当たると思う。

(とはいえ、彼女たちは、わたしに知られないようにしているだろうけれど)

文化の越境には、尊敬を必要とする

トランスセクシャルを除く、トランスジェンダーの人たちは、その名前の通り、「性的役割」つまり、文化の越境を望む人たちだと思っている。その人たちを、からかったり、笑ったりは許されないことだし、例えば就労の場で不利になることは、どうしたって是正されなくてはいけない。

ただ、女性たちには、女性たちの歴史と文化があり、そこへの尊重がなければ、到底受け入れることができない。

まず、女性が懸念や恐怖を表明すると、差別者、虐殺者、terf、トラウマがあるなら外出するな、トランスして男になればいい、病院に行けと言ってののしられる。しかし、これは、女性の歴史や文化を尊重すればあってはならないことだ。それにわたしたちは、「男」を名乗っても、女の待遇や境遇から抜けることができない。女の押し付けられた境遇を、 そういう境遇にない人たちが、 表面的に真似られることは苦痛だ。

まず、差別的言動というならば、誰が、誰に、何をしたら、差別になるのか、はっきりさせないといけない。そうでなければ、女性として生きるときに生じる、あらゆる心配事を、話すことができなくなり、委縮してしまうからだ。

例えば、女装男性(女性風の服装をする、男性だと自分を認識している人)に対して、「男」と言えばいいのか、「女」だといえばいいのか、それもまだはっきりしていない(言及しないことが礼儀だけど)。

それがはっきりしなければ、差別的言動を避けることができないし、差別者と言われることは誰もが避けたいことだから、いきなり「差別者」と言われると、女性たちの心配は、語られなくなる。

感情に基づく理屈への尊重を

わたしは、感情を伴わない理論はありえないと思っている。しかし、感情や経験に基づく「話」は軽んじられている。今でいえば、研究者、学者、活動家、左翼男性、たちに。それは、男性的な価値観だ。昔から、論理/感情とされてきたし、それに対応するのは、男/女だ。

理路の恣意性を自覚せよ

だいたいの人が、理屈を考えるとき、無意識にゴール、自分にとって好ましいと思える結論を設定し、それに向かって、論理を形成していく。それをコントロールするには、そのことを認識していないといけない。だけど、女性をterfと呼ぶ人たちは、感情を伴う女性の理屈を、軽く扱う。何を求めているのか、理解していなければ、その願望をコントロールして、真実にたどり着くことができない。

たとえば一見主観の入る余地の無さそうな「測定」にすら、主観は入る。こうなってほしいという願望が、何かを「はかる」「観測する」結果に、影響する。それと同じようなことが、思想や理論にも起きているはずだ。

それをコントロールするためには、願望を自覚するしかない。

トランスセクシャルの人たちが求めているのは、医療の介入のように思う。身体に対する認識をコントロールできないことに困っているから、身体か、認識をコントロールするにしても、それは、医療の領域だからなのだと思う。

だから、「脱病理化」と言っている人たちは、体の違和感の問題ではなく「文化の移行」を求めているのだろう。病理として扱わないのなら、移行できるのは文化(性役割、性表現)しか残っていないからだ。

ここからがわたしの本題である。

論点

  • 女性の定義
  • 女性の領域
  • それらを変えたときの現実への影響

わたしは、素人だけれど、現実を生きる生活者だから、形而上の定義が変わり、現実に波及し、生活が変わっていく可能性があることに、口を出す権利がある。

女性の定義が変われば、統計が正確に取れなくなる。そうすると、どんな風に女性が虐げられているか、把握できなくなってしまう。例えば、性犯罪者は、ほとんどが男だけれど、トランス女性が女性になれば、その数字も変わってしまう。女性の社会進出もどんな風な変化があるか、測れなくなる。トランス女性が女性になれば、わざわざ女性を雇い入れなくても、数字の上では、女性が多くなる。

わたしが弱者だと思っているのは、まず子供、病人、障害者、お年寄りである。人を弱者だと考えるのは侮りではない。

弱者を尊重するためには、彼らの弱さを受け入れなくてはならない。

例えばわたしは、ある側面では恵まれているが、ある側面では支援を必要とする。属性と属性を足し合わせても、わたしにはならない。ある側面で弱者だとしても、ある側面ではそうではないかもしれない。

弱い人たちは、意思表示をすることができなかったり、意思表示が受け入れられなかったりする。身体的にも、精神的にも、弱ければ、助けが必要だ。

労働者として、利用者として、誰が女性かはっきりさせないといけない領域は、「女湯」「トイレ」以外にもある。

集団で生活をする施設などがそうだ。

例えば、それこそツイッターで話が出たことだけれど、重度の障害のある子供が、施設に入るとき、その世話をする人は、女性であってほしいと願う親を、誰が差別者だといえるだろう。実際に、意思表示のできない状態の女性が、悲惨な事件の犠牲者になったことはいくらでもある。だから、「女性」が誰を指すのか、はっきりさせないといけない。切実な問題だ。

女性の領域を変えるというのは、あらゆる領域に波及する。

カフェで隣り合った人、会社の同僚というような関係性と、介護する、される、という関係性と、それぞれ考える必要がある。「女」ということばが指し示す領域を変えてから、何かあっては遅いのだ。あらかじめ考えなくてはいけない。どういう場面に遭遇するのか、なども。

いったん法律的に「女性」と定めた人を、そこから排除するのは、女性の中に序列を求める行為だからだ。

誰を受け入れるか、受け入れないか、は、個人にとって大切な領域だ。ある人が言っていたのだけれど、介護の世界でも、外国人の介護者を受け入れられる人と、言葉が分からないからちょっとごめんなさい、という人とがいるそうだ。でも、その人を差別者と言えるのか、という問題がある。

プライベートな領域に、公的なものが介入するとき、その内容を選べるということは大切なことで、心までは縛れない。弱っているときにどんな人に体の世話をされたいか、選べなくてはならない。性的羞恥心や、誰に体を観られたくないか、は尊厳の問題だ。裸を異性に見られる、ということは、相手によっては、重大な侵害だ。だから、誰が「女性」で「男性」か、が重要になる。

男性として育てられることで見えないもの

男性として子供時代を過ごした人たちは「女子高校」の多くに、カリキュラムに物理がないことを知らないだろう。化学がないことすらある。そうすると、受験科目で物理や化学が必要な大学を受験することができない。だから、理系に女性は少ない。中学生のときから、はじかれてるからだ。

ほかにも、女性が、子供時代に受けた様々な障壁を経験したり、知らなかったりすれば、女性差別を経験したとは言えないだろう。そういう現実を、尊重したうえで、女性の領域を変えようとしているのか、甚だ疑問だ。そして、それらを「認識の問題」とするなら、到底許容しがたい。

言葉を変えても現実(身体)は消えない

「女」というものが、社会的構築物だとしても、虚構だとしても、それは、現実に作用している。現実に作用しているものを言葉一つで変えることはできない。言葉の定義を変えることで、「女」を作り替えることは、文化の収奪である。

文化領域をトランスしたい、越境したい、というならば、女性の選択を尊重すべきだ。女性たちが、女性の役割とされているものを拒否すること、女性文化の抑圧をはねのけたいこと、性的客体とみられることを拒否したいと願ったとき、それを非難するのか、文化のトランスをやめるのか、どちらなんだろうと思う。

女性らしさはとても素晴らしいからやめないで、というのか、女性らしさというわかりやすいものがないなら、女性になる意味がないと思うのか。文化の越境をしたい、と言われたとき、される側のわたしは、こういうことを考える。女性、というものがなんなのか、わたしにはまだわからないから。「生贄」として、選ばれている性だと思っているけれど。

懸念していること

生きている人が、自分の主張を通すために、人が死ぬぞ、と容易に言うこと。

希死念慮を持つ人は、死ねばいいのか、と思ってしまう。

また、それらは、健全な話し合いを育てない。

terfと呼ばれている人たちは、よく言われるように、多くが性暴力サバイバーだ。けれど、彼女たちは、虐殺者、差別者、病院に行け、外出するな、から始まって、ひどいからかい、嘲笑の言葉を投げつけられている。

トランスジェンダー(トランスセクシャルからトランスヴェスタイトまで含む)が不安定な生を生きてることは否定しないけれど、「アライ」「活動家」の人たちは、安易に「terf」と呼ばないでほしい。

というのも、terfは侮蔑語なので、侮蔑語を投げかけた相手は人間扱いされたとは感じない。「議論がしたいなら相手を人として見たところから始めてくれ」という言葉を書く人が、同じ文章で「TERF側」という言葉を使う。これではうまくいかない。

もう一つの懸念は、「正義ならば人をいくら攻撃してもいい」と考えている人たち(具体的にはしばき隊、野間のような人たち、そして左翼男性)が、自分たちの庇護欲と、攻撃欲を満たし、正義の味方だという陶酔に酔うためにしていること。

彼らは、形勢が悪くなったら、いくらでも嘘をついて、歴史を修正して、自分たちは悪くないという顔をして、また新しい、「弱者」を求めて去っていく。「弱者」のためにならいくらでも何をしてもいいと考える人たちだから、みこしにのせるための「弱者」が必要なのだ。彼らは嘘をつき、歴史を書き換える。そして自他共に認めない。

彼ら自身が、あらゆる悪さをしているのに、結局、憎まれるのは、トランスセクシャル、トランスジェンダーの人たちだ。世間の人たちは、トランスジェンダーは、トランスセクシャルのイメージでとらえているから。

一応参考

このツリーに集められるだけの暴言を貼った。
実際にはもっとあった。
これについてはまた改めて書くが、このようなことをなかったことにできない。感情はあるからだ。

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