脱コルセットへの批判、トランスジェンダリズムの構造との類似


「こんなことを書くとめんどくさいことになるだろうな」と思いながら、いっつもそういうめんどうくさいことを書くのは、自分の魂の自由のためだ。誰のためではない。

誰かのためでもないことを書くために、わたしはサーバを借りて、誰にもお金をもらわないで書いている。また、こんな風に発信せず、何も言わなければ、ひどいことを言われずにも済む。書くことで得られる外から与えられるメリットはない。書くことで得られるのは魂の自由だけだ。

そして、これは書いたらまずいだろう、ということがあれば、それこそが批判するべきことなんだと思う。今日は脱コルセットへの批判を書く。それは、わたしが「脱コルセットを批判するとめんどくさくなるな」と思わせる、それ自体が問題だと思うからだ。

「ほかの人のためにしていることなんですよ」と、誰かが何かをしているとき、その「ほかの人」に含まれるとどうしようもない嫌悪感がある。

脱コル系フェミニストのメッセージは、分裂している

脱コルセットを肯定する人は、「ほかの人がコルセットを脱ぐ自由があると示すために、社会抗議としてするんですよ。化粧やファッションへのコストを削減してほかのことに回せるメリットがあるし」という。それでいて、「やりたい人がやればいいとしか言っていない。押し付けてない」という。「でも、脱コルしていない人は、体制に加担していることを自覚してほしい」とも言う。別々の人が言っていて、それ自体に問題はない。でも、これらのメッセージはそれぞれ矛盾している。しかし、別々な人がいっていたり、言語的な階層、非言語的な階層とことなるメッセージだったりして、矛盾を指摘しにくいようになっている。個人の主張を批判するようには、できない。それは、脱コルセットにはっきりした論理がないからだ。定義や論理がはっきりしないものは、批判できない。

わたしはそれに嫌悪感がある。「ほかの人が楽になるためにしているんだ」って、人を支配する人が良く言うことだ。自覚をしろと突きつけるのは、自省を強いることになる。このやり方も、支配的だ。

「ほかの人にコルセットを脱いでもいいというメッセージを伝えるためにしている、おしつけるわけじゃない、けど、体制への加担していることを自覚してほしい」という分裂したメッセージをまじめに受け取っていくと、心がばらばらになる。

押し付けてないと言いながら、加担への自覚を求める、という行為が、どう作用するか。

脱コルの定義のあいまいさ

脱コルセットの問題なのは、言葉が、ゆるゆると境界線をあいまいにして、「そんなことは言っていない」と言ったり、「わかっていない」と言ったりする人があまりにも多いからだ。

わたしが脱コルと類似だと思う現象は、自然食品のようなものだ。意義は正しくても、実行できる人は少ない。お金持ちしかできない。そして、理念を知っても、できない人は罪悪感を持つ。

クィア理論との類似

脱コルセットはトランスジェンダリズムやクィア理論とも理屈の構造がよく似ている。

クィア理論やトランスジェンダリズムと、脱コルセットは、右手と左手の両極に見えるが、その形は鏡合わせだ。出てきた時期も似通っている。脱コルがでてきたのは、2018年の6月。トランスジェンダリズムによるジェンダーの撹乱、つまり女湯問題が出てきたのは、11月。そして、まず、「リベフェミ」と「ラディフェミ」が分断された。それから、脱コルによって、ラディカルフェミニストが二つに分断された。

前提がおかしければ、結論もおかしくなる。その途中の理屈がいかに整ってても。

脱コルセットという概念は、ぐにゃぐにゃしている。だから、批判できない構造をしている。

権利運動は、具体的な利益か、具体的な批判する相手がいるはずだ。だが、脱コルセットは「家父長制」「社会」というあいまいなものを相手にしているし、具体的な利益はない。「抑圧からの解放」や「化粧品やファッションへかけているコストの削減」が具体的だろうか?

それはよく考えてみる必要がある。

ポルノ批判が主でないラディカルフェミニズムは存在できるのか

フェミニズムは、権利運動だ。そして、ラディカルフェミニズムは、第一義に、ポルノグラフィティへの抗議から始まった。それは、性別としての男女の区別を前提に主張している。

脱コル系ラディカルフェミニズムは、ポルノグラフィティ批判が主ではない。そういうフェミニズムを「ラディカル」と呼んでいいのか。

ポルノグラフィティ批判をしているラディカルフェミニストは、脱コルセットをしていない。それは脱コルセットが生まれたのが、2018年6月だからだ。それ以前から、ラディカルフェミニズムについて、考えている人は、第一義に、ポルノグラフィティ批判をするので、彼女たちには、脱コルは重要ではない。

けれど、脱コルを主張する人は、「脱コルをしていないのにラディフェミとはいえない」というようなことを言う。そして、彼女たちは、ポルノグラフィティ批判を一番に置かない。だったら、ラディフェミには二派に分けられたわけだ。

「ラディフェミ」の分断

そう、これは分断だ。もともとのラディカルフェミニズムについて考えていた人たちは、葛藤する。ポルノグラフィティ批判を優先したいのに、脱コルをしていない、脱コルを否定する、というだけで、「あなたはラディカルフェミニズムではない」と言われるから。

脱コル実践による葛藤

そして、葛藤は、支配を容易にする。

脱コルを批判すると、「そんなことはいっていない」と言われる。このしぐさは、トランスジェンダリズム推進派とよく似ている。

また、脱コルセットをすると、葛藤が生まれる。それは、「装飾」から脱却したときの後遺症なのではなくて、脱コルセット思想の持つ瑕疵なのだ。

脱コルセットは、女の記号をやめることで、抑圧から解放されるという。そして、それは自由を意味しないともいう。これは、矛盾している。抑圧から解放されれば、自由が得られるはずだ。

女の体があるから、女の記号が生まれたはずだ

なぜ、矛盾するかというと、女の記号は、女の体があるから、発生した。差別があるから、女の記号が生まれる。差別は、身体的な特徴により発生した。

逆ではない。女の記号を否定したら、差別はなくなるだろうか?

トランスジェンダリズムが「男女の区別があるから、差別があるのだ」「だから、男女の区別をなくせば、差別がなくなる」という理屈と同じだ。トランスジェンダリズムのこの理屈をおかしいと思う人は多いだろう。脱コルも同じ理屈を採用している。わたしは、脱コルを提唱している人と、トランスジェンダリズムを推奨している人は同じ人か、同じグループの人だと思っている。

「女の記号をやめる」ことで差別はなくならない。女の体は消えないから。差別の根拠になる女の体は存在し続けるから。そして、女の体がまとう布は、必ず、女の記号を発生させる。

差別をなくすためではなく抵抗としての脱コル?

わたしがこう書くと「差別がなくならなくても、抵抗としてしているのだ」という人が出るだろう。「競争の場から降りること自体に意味があるのだ」と。

だが、そもそも、抵抗として、競争から降りる行為として、有効だろうか?

抵抗として有効になるためには、「何に対して、こういうことをしたら抵抗になる」と定義して、そして、その相手や、その定義や抵抗が実際に有効かどうか、考えなくてはならない。

だが、脱コルセットは、「こういうこと」がそもそもあいまいだ。

脱コルセットは女の記号をやめることだというけれど

まず、女の記号とは何か。それは、文化や時代、場所によって変わる。ある程度、共有できるものもある。パンプスや、ヒール、脱毛、化粧、スカート、長い髪など。

だが、ちょっと考えてほしいのだが、ヒジャブ、ブルカ、ビキニ、タンクトップやショートパンツ、スカートはそれぞれ女の記号だ。見た目は逆だ。それなのにこれらが、女の記号になるのは、女が着ているからだ。

ハロウィンも、イースターも、節分も、温泉もそれぞれ奇妙な風習だ。クリスマスも、初詣も、宗教的だ。しかし、他文化からみて、奇妙で問題があっても、それを尊重する原則はあるべきだ。脱コルセットにも、トランスジェンダリズムにも、その点の問題がある。文化への介入は、慎重になるべきだ。

「ヒジャブ、ブルカ、そして、身体を露出した服」をやめられるような、共通した、普遍的な「正しい」脱コルセットができる服装は何だろう?わたしは、正解がないと思う。それらは文化や時代に依存しているからだ。そして、正解がないのは大問題だ。

「これを着たら、正解になる」というものがないので、実行できない。そして、理屈が正しそうに見えるのに、実行できないので、罪悪感が生まれる。罪悪感が生じると、生きるための活力が失われる。これは、正しいことではない。これという正解がないものを実践するときに、必ず葛藤が生まれる。化粧や服装によるコストが減っても、脱コルを考えるときの、精神的なコストは増える。

権力がないから差別される

服装コードへの決定権がないから、女性は抑圧される。逆ではない。抑圧されるのをやめれば、服装コードへの決定権が生まれるわけではない。そもそも、パワー(権力、地位、経済力)があれば、自分たちでいろいろなことが決められる。決められない状況が問題なのなら、権力をよこせというべきだ。脱コルセットは、「やめる」ことで、権力を取り戻せる抵抗運動だろうか?

女性の体が「装飾的」だと男性が決めた。だから、何をまとっても「女性的」と思われる。「装飾的」なことをやめても、「決定権」は手に入らない。

理念が正しくても、実践できない思想の問題

自然食品に関する思想がある。それは、環境への負荷をなくし、安全で健康な食べ物を食べるという理念がある。

だが、これは、結果としてお金持ちしかできない。自然食品は少量しか生産できないので、値段が高く、少量を流通網を使って、遠方まで運ばなくてはならないからだ。これには、流通による環境負荷がかかるからこの時点で矛盾している。

また、自然食品に関する思想に共感しても、お金のない人は、実行できない。罪悪感と焦りだけが生まれる。理屈が正しくても、矛盾があり、また権力がないと、実行できないことは、人を葛藤させる。

女の記号を、最も要求させられるのは、貧しい人だ。資格をもっている、高い社会的地位を持っている人たちは、女の記号をそもそも身に着ける必要が少ない。だから、選ぶことができる。

たとえば、弁護士や、医師は、女の記号を身に着けるべきか、選ぶことができるだろう。

しかし、時給千円以下の接客業や、販売業、小売に携わる女性は、選択することができない。

いわゆる水商売をしている人もそうだろう。

体制へ加担していることの自覚を求めることも問題

脱コルセットは、「体制に加担していることの自覚」を求める。これは、「脱コルセットは正しくても、自分はできない」という葛藤と、「脱コルセット実践者に感謝をするべき」という二つの気持ちを産む。本当はしなくてはならないことができず、できている人に感謝しなくてはいけない、と葛藤すると、自尊心が減る。

結果として、脱コルを知ると、人は不安定になる。

脱コルセットが、自分が工夫して楽な服装を目指すことにとどまるのではなく、「脱いでもいいというメッセージを他人に与え、社会抗議をする」ことである以上、その発信自体に葛藤を生む危険があるなら、それは慎重になるべきだ。脱いでもいいというメッセージを与えられ、そして、それができる人は楽になるが、できない人は、余計苦しむ。「あなたの代わりにしてあげている」というメッセージ自体が、人の自尊心を奪う。

パワーの象徴としてのニュートラルな服装

ジョブスは、どんな場所でも、タートルネックのセーターとジーンズで過ごした。どんな場所、時間でも。これは、権力の象徴だ。彼のように、権力を持たなければ、誰であっても、TPOにあった服装をするしかない。ある意味で、彼のような服装は、「脱コル」の正解と言えるだろう。彼は、男だが、「人として標準」的な服装だから、女性がしたら「脱コル」になる。それこそ、化粧やおしゃれに割くコストを削減して、ほかのことに回すことを選んだ人の服装だから。

だから、ジョブス的な服装は、男女どちらであっても、「ニュートラル」な服装と言えるだろう。しかし、それを選択できるのは、権力を持つ人だけだ。そして、女性は、男性に比べて、権力を持たないので、彼のような服装を選択できない。

彼のような服を着ることはできる。しかし、失うものがある。失うものがある以上、「選択できる」とはいえない。また、ジョブス的な服装は「アメリカ的な文脈」での正解だから、他文化では応用できない。

ニュートラルな服装の文化的文脈上での限界

また、ジョブス的な服装を仮に正解として、それは、アメリカ中心的な価値観であることからは逃れられない。

だから、個別に考えていくしかないが、個別に考えていった結果、たとえば「スカートを穿くことがわたしの脱コル」というのは、許されないそうだ。それは、脱コルセットが、女の記号を排するものだからのようだ。でも、それならば「その正解」を決める人が存在すると、暗示されもする。しかし、その暗示された「正解を決める」権力がある人は、表に出てこない。

これは、ダブルバインドだ。パワー(地位や経済力)がなければ実行不可能なのに、できなければ、体制強化へ加担していると自覚を求められるので、罪悪感と不安に引き裂かれる。

「正解」は明示されないのに、「正解」を定める存在は暗示され、かつ、個別に考えるしかない。これは、抑圧だ。

あさま山荘事件では、こいつは「女らしい」から体制への加担をしている、と「総括(自己批判)」され、女性が殺された。そして、殺されないために、女性は、各自、女性らしさを封印していったが、なにが女性らしいか決めるのは、「権力のある女性」だったので、正解がつねに揺らいでおり、殺されることから絶対に免れる服装やしぐさはなかった。

男が犠牲を払わずに済む「抵抗運動」

脱コルセットは、男に変化することを求めない。これは、男にとって、都合がいい。女性が、変わる。それが「美しさの競技場」から降りることであって、社会への抵抗、批判であっても、男は変わらないで済む。

脱コルセットは本当に男化ではないのか

また、脱コルセットは「男化」ではない、というのは、どういうことか、きちんと考えてみよう。

トランスジェンダリズムの問題で、わたしは「女」の定義についてかなり考えた。それは、女が生殖可能な身体をもつ性別であるがゆえに、差別されてきたこと、また、女はnot男として、定義されていることの二つで定義されるのだと結論を出した。これは、ラディカルフェミニズムの考えを踏まえた結論だ。

女が、not 男であり、脱コルが、「not女」(女性性の拒否)なら、それは男だ。not 男=女、not 女=男、だから。ラディカルフェミニズムは、女と男の二つの性別を前提に、構造を考えてきたものだ。だから、その構造に準拠して考えれば、not女=男が成り立つはずだが、ラディカルフェミニズムであるはずの脱コルは、女の記号の排除を男化だと言われたとき、それを否定する。男化ではないと。

わたしは、やりもしないで脱コルを批判することをまずいと思って、一か月以上、髪を切り、化粧をせず、スカートとパンプスを履くのをやめて過ごした。そして、わかった。

今のわたしには、それをやめられる環境があるということ。環境があるからやめられたということ。今、十代から二十代の女性には、わたしがそのころ過ごしていた時よりも、強い抑圧があるから、それを和らげるために、脱コルは必要なのはよくわかったが、その一方で、脱コルをすればするほど、社会的適応を犠牲にするしかないという実感を得た。

社会的適応としての服装コード

わたしは、発達障碍者として、感覚過敏や社会不適応があり、TPOに沿った服装そのものが理解できず、それゆえにできなかった。それによって、社会になじめないという苦しみを長く持っていた。そのなじめなさには、もちろん、就労機会の損失も伴っていた。

それを、社会的適応をした服装を学んで、直した時、その苦しみは中和された。しかし、脱コル実践によって、その苦しみは、戻ってきた。

裸を含む、あらゆる服装は、社会との接点であり、その接点にどう対峙しているのかを示す。布一枚羽織っているだけでも、その人が、どういう人間なのか、社会的記号を伴って、人にメッセージを送る。服装が自己表現だといわれるのはそういう側面がある。たとえ男でも、高級なスーツを着ていたら、社会的地位がある人だと思われる。身だしなみは雄弁に、その人のありようを物語る。

靴、眼鏡、爪の長さ、そういうものすべてから、人は、その人がどういう人なのか、読み取っていく。また、読み取られていく。どのように読み取られたいかも、逆にある程度コントロールできる。

女が服を着るということ

女の体の上に、社会的号を身に着けて、どういう人間なのか示す。社会的記号の身に着け方で、ある程度、どんな人間なのか、読み取られ方をコントロールできるが、土台にある女の体やそれへの読み取られ方はコントロールできない。

脱コルセットは、それも承知の上で、できることをしていくのだ、という。けれど、それまで培ってきた社会的適応を捨てると、人は葛藤する。それは、個人が楽な服装を工夫する以上のことを、脱コルセットは求めるのだから必然だ。だが、脱コルセットはその葛藤を、「装飾」に求める。ここで「ずらし」が発生している。

脱コルは、6Bも提唱している。6Bとは非恋愛、非セックス、非結婚、非出産、非協力、非消費だそうだ。

脱コルセットも、6Bも検索してもなかなかでてこない。それ自体にも問題があると感じる。

いくつかの軸から、これについて考えることができる。

対:政府、資本主義、社会適応、個人レベルの感情の変化などの軸について考えるべきだろう。

再生産の拒否は、資本主義にまきとられる

政府にとって、また、資本主義にとって、6Bは不都合ではない。だから、これは抵抗にならない。女性が、6Bを実践すると、政府は中絶、出産について考えなくてよくなる。考え、実行すべきことが減るのは、都合が良いといえるだろう。

また、再生産をしない人間は、男と同様に扱えるので、労働者として都合がいい。そういう意味で、6Bは資本主義への加担になる。旧来のフェミニズムは女性の、中絶、出産の権利を求めてきた。しかし、脱コルセットや、6Bはそれらの権利運動を白紙に戻す。

生殖問題を個人問題化させる

あるフェミニストが、6Bを実践したら、その個人としてのフェミニストの関心から、出産や中絶への関心が薄れる。フェミニズムは、「自分の問題」を追求するものだからだ。出産や中絶の権利運動が空洞化する。それは、アンチフェミニズム的だ。

トランスジェンダリズムやクィア理論が、フェミニズムの顔をしながら、結果として、「女性の定義をあいまいにする(トランス女性は女性です。ペニス付きの女性もいます)」ように働いたのと同じだ。

再生産について、政府は熱心ではない。女性の権利を保証すれば、出生率は戻るという正解はすでに示されているのに、それを実行しないことからも、それは明らかだ。そして、6Bはそれに沿うのだ。

出産に関して、社会にはダブルバインドがある。産めというプレッシャーと、出産は迷惑だというプレッシャーがある。やりたい人がやればいいが、その先は自己責任だというプレッシャーもある。

産まないことが、資本主義社会に都合がいいという一面もある。

6Bや脱コル実践によって、社会問題がかえって個人化される

6Bも同じで、やりたい人がやればいい、という。でも、その先は自己責任で負うしかない。それは、脱コルも6Bも「個人で考えること」が前提で、「正解」がないから。産むことが家父長制の加担だというプレッシャーを与える一方で、産みたい人を否定するわけではない、という。それは、矛盾で、ダブルバインドだ。

ダブルバインドとは

ダブルバインドは「おいで」と言いながら「つきとばす」というようなことで、言語と非言語の別階層で違うメッセージを与えるので、矛盾に気が付きにくくするという概念だ。

6Bをして、社会に抵抗しよう、と言いながら、実践を「個人の自由」「自己責任」という。脱コルをしないなら、家父長制に加担していることを自覚して、そのうえで、おしゃれや「装飾」をしたらいい、ということ。これは、フェミニストでありたい人を葛藤をさせる。

仕組まれたフェミニズムの分断

脱コルセットと、トランスジェンダリズムが、ジェンダーロールをかく乱することで、差別をなくすという主張をしていることが相似の関係にあり、同時期に議論されており、トランスジェンダリズムが「リベフェミ」と「ラディフェミ」を分断し、脱コルが「ラディフェミ」を分断したことにより、これは、仕組まれた分断だと考える。

ラディカルフェミニズムが、ポルノ批判が第一義なのに、それをしてる人が脱コルをしていないなら「ラディフェミ」として失格だというメタメッセージを与えていること。

脱コルセットが二つの水準で実行不可能なこと。「正解」がないので実行できない。パワーがなければ、実行できない。女がnot 男として定義される以上、not 女ならば、男化するしかないのに、それを否定していること。また、男化を否定しながら、「男が人間の標準とされているので、女の記号を捨てることで、標準に近づける」ということ。社会の中の標準が、男ならば、その標準に近づくことは、男に近づくのと同義のはずだが、同義ではないということは矛盾している。しかし、「矛盾していない」「そんなことはいっていない」ということ。だから、そこにダブルバインドが生じる。

突如として、2018年に6月に、脱コル提唱者が現れた。脱コルは、フェミニストに、ダブルバインドを強いた。それは、脱コル提唱者が葛藤を利用して、支配したいからだとわたしは考えている。

自分の生活を工夫して、楽にする以上のことを脱コルセットが求めるならば、何が「女性の記号」に当たるのか、明確に議論するべきだ。女の記号が何を示すのか、定義が移動するのに、体制への加担への自覚は求めるのは、暴力だ。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

脱コルセットへの批判、トランスジェンダリズムの構造との類似」への4件のフィードバック

  1. 私はトランスジェンダリズムには賛同しておりませんが、服装コードを利用した脱コルには関心を持っていて、利用しています。

    私の場合は、元から短髪、パンツスタイルが多く、脱コル適応後も変化が大きくなかったことも関係しているのかもしれませんが、いわゆる女性性の記号としての「化粧」や「スカート」、「ハイヒール」を身に付けないことを「男化」と表現するのは、個人的には不思議に感じました。
    それら装飾を女性性の記号として商品化し、それらの記号を身に付けた「美人」たちを消費し楽しみたいのはどの層か、という視点からの活動である、と同時に、女性の肉体を持って誕生した人間は、それら装飾をやめたところで、男として扱われるわけではありません。
    女性性の記号性維持は、トランスジェンダリズムにとっては、ジェンダー規範に則ったジェンダー超越行為(男ならば短髪、パンツ/女ならば長髪、スカート等)を容易にしますが、そうした超越行為を無効にしよう、という意図があるかと思います。

    また資本主義への加担についてですが、
    >また、再生産をしない人間は、男と同様に扱えるので、労働者として都合がいい。そういう意味で、6Bは資本主義への加担になる。
    とのことですが、私は、再生産をする人間の方が、資本としては価値が高いと見なされるのでは、と思いました。
    新たな労働者、もしくは再生産見込み者を殖やすからです。

    1. 意見の相違というやつですね。
      ファッションとしてか、政治活動としているのかで評価はかわります。
      また、再生産にもし価値を認めていたら、資本主義的な報酬があるはずですが、ありませんので、これは資本主義の脆弱性ですね。

      1. そうですね、意見の相違だと思います。
        私のしている脱コルの理由は、一番には「私が楽だから」がありますが、「楽だから」スカートやハイヒール、長髪を選ぶ人も居るでしょうし、例えば抑圧的な母親に装飾を禁止されてきた女性にとってならば、「着飾ること」が革命になると思います。

        私の場合は、以前からやりたいと思っていた外見について、「脱コル」運動が感じていたことを言語化してくれたうえで、理由をくれた、という方が正しいのだと思います。
        「ただ自分がしたいから」という理由で、したい外見をしていなかった、という行動は、フェミニズムで見れば失格なのかもしれません。
        しかし、ファッションが社会的文脈、文化的文脈、政治的主張、資本主義から別にあることは少なくないと思いますし、脱コル登場以前の「強い女性像」は、いわゆる「着飾った女性」、つまりは、「化粧品や装飾品、脱毛等、資本主義に都合の良い『女性像』に従って、消費を好む女性」のように私は感じていました。
        そうした「女性像」をつくり、広告を打って、その「像」に類似しようと消費する女性が居ることで、嬉しいのは誰だったか、という点が脱コルのキモなのでは…と思いますが、提唱者ではないため、的を外しているかもしれません。

        いずれにしろ、根底にあるのは「性的オブジェクト」として扱われやすい装飾を身につけたくない、という点であるかと思いますが、一方で「そのために女性が変わらなければならないのは変だ」、という指摘も理解できます。
        先月、韓国から来た方と接した時、いわゆる「脱コル的な容姿」が関係しているのか、怪訝そうな表情を向けられたことがあります(気のせいかもしれませんが)し、女性の肉体ですることは全てが記号化の対象であって、人間の行動とはされないのかもしれないな、と感じています。
        筋の通った、分かりやすい、理想通りの脱コル者でないことをお許しください。

        また、再生産の資本主義的価値については、既婚者の税優遇、育児手当金等がそれに当たるかと思いました。異性結婚は見込労働者、見込再生産者を効率的に殖やすため、女性視点の支援が圧倒的に不足しているかもしれないとしても、国家としては支援しているかと思います。
        (しかしながら、いずれも事実婚については適応されていないのかもしれません。私は独身者、子居ないため、制度と肌感覚両方について詳細に知っているわけではないため、見当違いなことを書いていましたらすみません。)

        ご返信くださり、ありがとうございます。無理せずお過ごしください。

        1. 楽だからする。というのは全く正当な理由ですし、言語化、理由になったというのもよくわかります。
          若い世代への抑圧がひどいので、浸透したというのも理解していますよ。

          理想どおりである必要はないです。
          イデオロギーと生活をわけるのもありかもです。

          ただ、出産による減税は、年間で数千円でしょうか。
          子ども手当も、子供のために使うので得とは言えません。
          あなたが思われてるより、資本的な見返りはないのです。
          それで、資本主義の脆弱性と呼びました。 
          お気遣いありがとうございます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください