女というペルソナは脱げない:「男性の否定」としての女という性は、主体的に生きることを許されていない

今トランス女性とフェミニストが議論している中で出た「シス女性はイージーモード」という言葉。この言葉は男からも言われる。女は選ばれる、女は働かなくてもいい、とまで言われる。

これは、端的に言っておかしい、女には選ぶことが許されておらず、女は常に働いてきた。そして、アンペイドワークを意識しないで暮らせる男たちは、「女は働かなくていいから」と言って、賃労働に就いた女の首を切り、「彼には養う妻子がいるから」といって、女の失職の説明をする。女にも、食べる必要も、家を持つ必要があるのに、男には、女が払うべき家賃も、食費も見えない。

シス女性は、ジェンダーにも身体違和もないと言われていることがどうしてもおかしいと思う。

「女」への違和感

シス女性が「自分が女性ということに違和感がない」存在だと定義するならばシス女性なんてものはいないと思う。

わたしは、以前、それに関して、書こうと思ったんだけど、うまく書けなかった。

また、キンドル本で書き直したいという気持ちがある。

わたしは、五歳くらいのころに「男にはちんちんがある」ということを知って、それから、いつかちんちんが生えてくるかもしれないと真剣に思っていた。生えてほしい、というのでもなくて「わたしにちんちんが生えたらきっとみんながびっくりするだろうな」というような気持ち。

七歳になっても「普通は生えないらしいけど、絶対なんてないから、わたしだけには生えてくるに違いない」と思ってそれを思うとにこにこしていた。

女は、ちんちんを切望するものだ、と言われると「そんなわけないじゃん」と憤慨する面もありつつ、それと両立しながら「ちんちん生えてくるならいつかな」と思っていた。

十二歳の時には、体毛が生えたり、胸が大きくなったり、身体のラインが代わったり、性器の外から見た感じも変わって、嫌な気持ちだった。おびえるような気持ちで、こんなの「わたし」じゃないと感じた。自分が自分じゃなくなっていって、最後には今の自分が消えちゃうんじゃないか、考えていることも忘れて、別人になるんじゃないかと思って、お風呂で泣いた。

それは、わたしだけじゃなくて、ほかの友達も「お風呂の中で泣いたらお湯で洗えるから便利なんだよね」という話をしたので、けっこう普通によくあることなんだと思う。

初潮がきたときには、今までの人生ががらがらと崩れ落ちるような音がした。人生が終わった。これから、六十歳まで生理があるとしたら、50×12、つまり、600回、痛みでのたうち回り、6000日以上、自分が自分じゃないような生活で、まったくハンデのない男と同じ成果をあげるなんて、不可能だと絶望した。

母を含め、周りは無理解で冷たかった。

子宮を取りたいと願った。生理痛が苦痛で自殺した女の子がいることを知って、自分もそうできたらと思った。

神様に、一生子供はいりませんからお願いだから子宮をなくしてくださいと祈った。

死ぬことを考えないわけがなかった。

トイレに行くのだって本当に嫌だった。トイレの中にいるのに、話しかけられるのも、誰かとトイレに行くことも、トイレにいることを知られるのも嫌だった。

それで「身体違和がない」と言われるのか。

シス女性はトイレで困らないことが特権だと言われるのか。

「女の役割」への違和感

女性ジェンダーも押し付けだと感じて、ずっと、反抗してきた。小学生の時には混合名簿にするべきだと先生に言った。男よりも後に名前が呼ばれるのが決まりだと言われるのは、屈辱だった。いつも、人間として二番手だと言われているも同然だった。後回しでいいということなのだと。

女の子は片づけで男の子は外に行きなさいと言われ、激怒してたら「差別じゃない区別、そのほうが早く片付けられるでしょうそれぞれの適性を尊重しているだけ」と学校教師に言われた。「区別なんてない、これは差別じゃないんですか」と言い返した。

中学生の時は、スカートが標準服だったけれど、友達と相談してズボンで通った。そんな決まりは明記されてないですよねと。

女の子はこうだとか、女の子は後で伸び悩む、そういうのは嘘だと証明したかった。女の子はそんなに頑張って勉強しなくていい、かわいくないよ、と父に言われた。

女の子はおとなしくていいね、女の子は育てやすいでしょ、お手伝いするでしょ、と言われていたけど、わたしのことを育てにくいと母は言ったし、お手伝いをしようとしてもうまくいかなかった。

女という体を持っているから見下されたことなんていくらでもある。女という体を持っているから、ただ、それだけの理由で暴力にさらされ、殺されそうになったこともある。それでも、「あなたが悪い」と言われた。あなたが招いたことでしょうと。

それに悩み苦しみながら、十代、二十代を暮らして、「輝かしい青春」なんてない。女ならそういう気楽な青春があるのだと言われつくして、そうではない自分に劣等感を抱いたけれど、わたしを女という体に閉じ込めた人たちが悪いのだ。女という体に付随するルールに、閉じ込められている。

「女の文化」を許さない世界

今度は、「主体的装飾なんてないし、男を喜ばせるだけ」とも言われる。やめるべきだと。フェミニストからも。

世の中からは、手芸を趣味にすれば女らしい、料理を好きになれば、いいお母さんになれる、ネイルを楽しめば、「男はそういうのは好きじゃない、社会性がない。人と仲良くする気があるなら、そんなネイルなんてするはずがない」と言われる。

女が女として、押し付けられてきた文化を、今度は自分のものにして、自分たちの楽しみにしたとたん、奪い取られ剥ぎ取られるのだ。

お母さんという生き物になるために生きてきたわけじゃないのに

わたしは、お母さんになるために生まれてきたわけでもなく、人を安心させるために頑張ってきたわけじゃない。

しかし、誰かの妻、誰かの母になったとたん、過去がなかったことにされる、不可視化され、名前を失って、ただ、「お母さん」という役割を遂行するためだけに生きろと求められる。

「お母さん」という着ぐるみは、自分を生きる上で、とてもじゃまだ。動きにくい。心で「でも、それは必要なものだから仕方がない」とささやく。

今は、介護をしろと言われることもある。ケア要員として、自分の人生や自分のケアをないがしろにすることを求められる。

そして、ケアをすれば、それは、ブラックホールに吸い込まれて、「誰がしたか」はうやむやになる。

規範は内面化され、自分を縛る

男は、女に共感を求める。話をきいてもらい、相槌を打ってほしがる。それを拒否するとどうなるのか、恐怖の記憶とともに沁みついているから、愛想笑いをして、「すごいですね」という。もしそれを言わなければ、暴力の対象になるからだ。

そうして、攻撃の矛先をやり過ごそうとすれば、「気がある」と思い込まれる。そんなつもりはなかったと断れば、「気があると思わせやがって」と言って、今度は、また違う攻撃を受ける。

どうしたって生きにくいから仕方なく選ぶこと

権利を求めれば「庇護されたがってる」と嘲笑され、働こうとしたら、差別される。家の仕事をしたら、楽をしていると言われる。誰に食べさせてもらっているのかと、恐怖の支配をされる。

どれを選んでも地獄なのに、それは、女が自ら求めた、「楽な道」と言われる。この地獄を彼らは決して見ることはないので、地獄のつらさを侮るのだ。地獄の中身を知らないから「それくらいで値を上げる女はダメだ」と無知からより侮りを深める。知ろうともしないのに、責められると「教えてもらえなかったから。声をあげない女性が悪い。女性はもっと声をあげなくては」と男たちは言う。

どれほどの地獄でも、「女はイージーモードだ」と言われて、誰が承服できるだろうか。

一人一人の経験が違うから、「女はそうじゃない」という風に、わたしたちは反撃することができない。「女は」という理由で様々な差別や侮り、暴力にさらされてきても、それを語れば「主語が大きい、これだから女は」と言われる。「女の形」が理由で、教育からも、職業からも、経済からも排除されてきたのに、女を理由に、それらの差別を語ることが許されていない。

「女であるわたしはそれに反対する」という言い方でしか語ることができない何か。

女が何か定義されていないのに、誰が女かを決める人間がいる

今まで、女というものは、生物学的特徴に基づいた人々だった。男ではないものとして扱われてきた。

でも、トランス女性は女性です、という言葉ができてから、今はまた女の定義が変わってしまった。でも、新しい意味での女というものが何か、まだ定義もされていないのだ。

しかし、女が女だと決める人間はいる。それは、男を基準として決められる。非男は、女なのだ。

女が何かもわからないのに、一度女だと位置づけられたら、「女として」すべきことは、常に求められる。

そこで、「女とは何か」をこちらで、つまり女の体を持つ私たちが定義しなおそうとすると、それすら邪魔される。自分たちが「女」という概念を、自分たちのものとして、育むこと、慈しむこと、尊重すること、消化することは、徹底的に邪魔される。それが、社会を揺るがすものみたいに、恐れられているみたいに。

「自立した人間」が社会の基礎の概念として定義されたとき、わたしたち女という体を持った人間は、そこには入らない。その、定義外の人間として、さらに自分たちを定義することから、疎外されている。人間だと認めていないものが、人間世界の定義を提示できるのか。

できないから、わたしは女として扱われるのに、自分のために女を定義することもできない。

女が、女のまま女を生きること

女が自分の違和感を提示することは忌み嫌われる。

そして、「女が何かわからない」から、女の体に違和感を持っているとか、女として押し付けられるこもごもをはねのけたいとか、言っても、それは、定義外に吸収されていき、「人間」たちには届かないのだ。

その女というペルソナは、わたしの心に張り付いて、分けることもできない。

この絶望を、「女はイージーモード」という言葉の陰に吸い込まれて、わたしは女というペルソナを脱ぐことはできない。

自分らしく生きたいと願っても、自分がどこまで自分でどこまでがペルソナなのかも一体化してしまってもうわからないのだ。

女でありながら、女をやめ、自分が女として生きた歴史を愛しながら、自分の人生を歩むことができる日は来るのだろうか。

いや、来る。絶対に来る。わたしたちが、女として、誇らかに、誰にも傷つかずに、加害を許さずに、本当に笑って暮らせる日が必ず来る。一人一人が、今も戦っているのだから。今までも、これからも、人間として、血を流しながら、戦っているのだから。

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女というペルソナは脱げない:「男性の否定」としての女という性は、主体的に生きることを許されていない」への2件のフィードバック

  1. こんにちは。女を辞めたいと思って、太ってもダサくなっても「綺麗になりなさい。」と善意で言ってくる年配女性がいてつらいです。その「誰が綺麗かレース」から下りたかったのに。
    男に何も求めないからほっといて欲しい。女が一人で生きて行く道が日本になさすぎて。。
    女はイージーという言葉が廃れて欲しいです。
    人をイージーと決めつけて、努力も能力も見ていないのは男性側。女じゃなくて一人一人違う人間なのに。
    女に相手にされないと言っている男性が自分と同じように男に相手にされない女性が見えていない。
    イージーという人はドラえもんでいうジャイ子の立場にあった女子が見えていないのだなって思います。

    私達の代で終わらせたいです。

    1. こんにちは
      いろいろつらいですね。
      ジャイ子は才能があふれていて素晴らしい人間として描かれているのに、扱いがひどいですよね。ああいう扱いがおもしろいとおもっていた時代は今も続いていますね(ドラえもん自体はどうかわかりませんが)。
      ジャイ子的立ち位置にみたら、のび太は願い下げだと思うし、ジャイアンだって、ジャイ子をあんなに大事にしているのに。
      女はイージーだという理由が納得できないですね。
      そうそう、年配女性は良かれと思って言ってくるから、こっちも無下にできないのが困りますね。かわすのにも精神力を使いますし。
      わたしは風邪をひいていて、返信が遅くなってしまいました。
      今日はクリスマスイブですね。
      メリークリスマス。
      どうぞ、暖かくお過ごしください。

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