男性フェミニストは女性の声を代弁すべきではない

親切面をして「あなたのためにしてあげますよ」という申し出を断らないといけない場合があります。

差別はいつも優しい顔をしている

女性は発言力が弱いから、男性が代わって発言していけばいいという人もいます。以下のツイートの引用元がそういう考えです。

このツイートのダメなところは、ツイッターでのロボコップ太郎さんの言い方を借りると「メタ的に言えば単に男の意見」である点です。

フェミニズムは女性の権利のための戦いです。だから、男が意見を挟むべき相手は、男だけであるべきなのです。フェミニズムは、~すべき、というのは、大きなお世話であり、これを実行に移されるのは大迷惑です。それがなぜかというと、女性差別の一番悪い面、つまり、「女性の権利や視点、行動……つまり主体性を男性が奪っていく」ことがそのまま行動に移されていくからです。


男性フェミニストがすべきこと

女性の権利を侵害しない、女性の経験を奪わない、女性のためにしてやっている、教えてやるという態度を出さない、とにかく、女性を人間だと尊重することです。

「男のフェミニストですけど?」に対するわたしのツイートは以下です。

当事者としての主体性を奪っているから差別はダメなのです。上記の提案は、一見、「女性のためにしてあげる」ことだからよさそうですが、女性の、当事者の主体性を奪っているので、女性差別ということになります。

女性差別の本質

差別の一つの側面は、1人の人間の主体性を剥奪し、役割の中に閉じ込めることです。

だから、「男が代わりに言えば世の中が変わる」と信じている人は、「一人の人間の主体性を剥奪する」役割について放棄する気がありません。これも一つの支配の形です。

でも、こういう種類の差別は、親切で優しい人の顔をしているから厄介なんです。

男のフェミニストというものが存在するとしても、まず、そうありたいのならば、男性中心社会で起きている差別問題を、男性として、批判し壊すべきであって、女性に対してこうしろああしろ、こうしたほうが賢い、という風に指摘したり教えたりするべきじゃありません。もし、後者だったら、それは、男性中心社会をそのまま維持したいだけの人です。男性中心社会というもの自体が、女性を周縁に追いやり、女性から当事者性を奪い、女性が自分の言葉で、言挙げをしても、聞かなくて済むような機能を持つ、差別組織です。それを維持するなら差別加担者であり、差別実行者です。

こうした、「もっといい、効率的なやり方をするべきだと教えてくれる」ような種類の差別者に、腹が立つのは、いい人だという自認をもって、女性の自分自身から出た言葉を奪う点です。たぶん、女性に「教えている」とき、彼らはいい気分になっているんじゃないでしょうか。こっちは嫌な気持ちになっているのに。その非対称性が許せません。

女性に自信がない理由は体験の差があるから

わたしは、何を言うにも自信がありません。ためらいます。

自分の言うことが、絶対の正解ではない。正義でもない。正義のつもりで正解のつもりで言っても、あとから間違っていたことが分かるという経験をしているから、ためらいます。

でも、「彼ら=男性」は、ためらわないません。さっきの「男のフェミニストですけど?」と言った人にそれが顕著です。

それは、彼らが、生まれてきた体を理由に、いちいち揚げ足を取られる経験をしてこなかったからです。女性は、生涯、生まれてきてからこの方、「その言い方はないんじゃないの?」と言い続けられてきています。この経験の差は大きいのです(大きいのですが、男性たちはこの経験の差を意に介していませんし、理解しようとしません)。だから、女性は、自分の感じたことをいうのに自信を持てない。

でも、男性は、「そんな経験の差はない」という。いうし、ないと信じています。でも、今現在、まさに、口封じをしている最中に、女性から、口封じをしているという指摘があったとしても、彼らは現実をゆがめて、女性の口封じをしていない、と信じます。男らしさを維持するためになら、彼らは現実をゆがめることも、なかったことにすることも厭わないのです。「男はいつも正しい」という男らしさの殻に閉じこもって、自分は正しいし、現実はそうではなくても、彼らは理論的で現実的でなくてはならないからです。

上記の人は「腰を据えて現実的に考えましょうや」と言ったが、生まれてこの方腰を据えざるを得なかった属性の相手、つまり、女性として差別されてきた当事者に言うにはたいへん失礼な発言です。でも、彼は、このセリフをいうことができます。ためらわず。自分は「男のフェミニスト」だと名乗れば、わたしに言い返せるに足る内容だとも信じているわけです。

女性を侮っているから失礼なことが言える男性

これは、わたしのことを「腰を据えてなく」「現実的に考えてない」と思っているから言えることで、なおかつ、その侮りと見下しを垂れ流したまま、一緒に考えましょうやと誘ってきているのだから目も当てられないですね。この言い回しだと、わたしが「はい、一緒に考えましょう」という可能性があると信じているようにみえます。ネットをしていると、常にこの種の侮りに直面する。相手は侮っているつもりもないし、侮っていますよねと言ったところで、絶対に認めません。彼らには自信があるからです。それは男だからです。「男は自信を持たなくてはならない」と育てられ、また、間違ったことを言っても、指摘されずに生きてきたから、自信があるのです。彼らは男らしさを守るためなら、指摘されたという現実を捻じ曲げてなかったことにする能力もあります。

ちなみに、「男性にやってもらおう、そのほうが効率的だから」というのを繰り返していくと、依頼した側はパワーを失います。女性を役割の中に押し込めて、自発性や、自主性が失われます。頼む、頼まれる、という関係は、対等じゃないのです。頼む側は弱いのです。

男尊女卑は、構造的に女性の主体性を奪う

男尊女卑が、女性の主体性を奪うということなので、「男の人に代弁してもらう」ことも、男尊女卑と同じ構造を持ちます。

家の中でさえ、「夫にやってもらおう」「これは、男の役割だよね」とやっていたら、発言権や、決定権を失うのは明白ですよね。たとえ話をするまでもなく。

残念ながら、役所に交渉に行くときや、労基に行くときに、女性だけで行くと、話を軽んじられて、訴えをうやむやにされることがあります。だから、テクニックとして、「男性を連れていく」ということは、勧められる現実があります。それは、生きるか死ぬかという状況下ですから、やむを得ないことです。

けれど、社会への女性の発言権が少ないから、男性が代わりに言う、というのはそれとは同じではありませんから、看過できません。社会への女性の発言権が少ないから、それを変えるように、女性の代弁者としてではなく、男性が、当事者として、行動する、との違いがわかるでしょうか。過程の瑕疵が通れば、それは、結果にも反映されます。間違った方法で進む道は、間違ったゴールにしか、たどり着けないのです。

すべての運動で、被差別者の主体性を奪う妖怪は存在する

フェミニズムに限らず、すべての運動で、被差別者の主体性を奪う行為者は存在します。そして、批判されます。批判されても、批判されたこと自体を理解せず、退かないのは、フェミニズムならではです。

男の人が言ってくれたほうが話が通るから、男の人に言ってもらおう、というのは、男性中心社会の追認であり、女性差別をなくす過程の瑕疵です。そこを温存して置いたら、表向き、いったん、改善するようなこと(女性の意見を取り入れましょうみたいな提言)があったとしても、それだと、女性からいう「不都合な提言」については黙殺されるでしょう。そして、フェミニストの言い分は、常に社会において、「不都合」なものなのです。

あなたが我慢したら丸く収まる

女性たちは「あなたが我慢したら丸く収まる」と言われて育ち死んできました。

我慢したら丸く収まるのは、「我慢したら丸く収まる」という発言者です。外野が楽に過ごせるから、当事者に黙れと持ち掛けているのです。当事者には損しかありません。しかし、当事者は、それを飲んできました。

というのは、「我慢したら」の部分を、社会は巧みに言い換えて「らしく」という言葉で覆ってきたのです。

フェミニストは、不都合な主張しかしない

今の社会は女たちの我慢の上に成り立っています。フェミニストは我慢をしない、役割の中に押し込めるな、という主張をするので、基本的に、社会にとって不都合です。この「社会」というのものには、女子供は入っておりません。

国会議員にも、会社の意思決定をする立場の人間にも、司法にも、警察にも、ありとあらゆる意思決定する場に、女はいません。いても数パーセントです。

女子供を無視することで成り立っている社会が間違っているというのが、フェミニストの主張なので、それは、不都合なのは当然です。

社会は女子供に我慢を強いることで成り立っている

社会が、女子供を無視するものとして出来上がっているので、女性がいくらいってもそれがなかったことになるのです。

社会自体に、そういう機能があるのです。

「あなたが我慢していれば丸く収まる」という言葉を、そのまま言われることはあまりありません。それは、あからさまにおかしいからです。

差別を隠ぺいするために言い換える

けれど、「我慢」の部分を「妻なんだから」「母親なんだから」「恋人なんだから」と言い換えます。

「妻なんだから夫を大事にするのが当たり前でしょう?愛していないの?」「夫は妻の力で輝くんだよ」「夫はしょせん妻の手のひらで遊ばさせれる」「男はいつまでもマザコン」「母親なのに自分のことばっかり言って、子供のことがかわいくないの?こんな親に育てられて子供がかわいそうだね」「恋人なんだから、すべてを捨てられるでしょ?捨てられないならその程度の愛だってことだよね」「女らしくしなさい。女なんだから。そんなんじゃ、誰からも嫌われるよ」「そんな風に自分自分ばっかり言ったら、最後は一人でさみしく死ぬよ」「あなたがそんなだと、子供がかわいそう。子供はお母さんの笑顔が一番なんだよ。だから、いつも笑ってて」「あなたの笑顔が好きだから、泣かないで笑ってて」「家族が大事でしょ。自分で選んだ人生なんだから、家族を大事にしないと」

という風に言われると受け入れてしまう人がほとんどでしょう。「あなたが我慢していたら丸く収まる」と言われれば拒否できても、役割を盾に、あるべき姿を示されると、人は、正しくよい人間でありたいと願うものだから、拒否できなくなります。

でも、それで、苦しいというと、今度は、

相反する要求に引き裂かれて、口をふさがれてきた女性たち

「嫌なら言えばよかったのに。言わないでもわかってくれると思うなよ。甘えだよ。エスパーじゃないんだから」「事前に、気が付かない?」「どうして、結婚する前にわからなかったわけ?考えたらわかるでしょう」「予想してたらできたはず。予想できなかったとしたら、あなたに能力が欠けているか、甘かったんだよ」と言われます。これってようするに「お前はバカだ」の言い換えです。そして、女性はこういうことを言われ続けてきたので、苦しいと言えばこういう割れるなということが予測できます。

だから、女性たちは、自分たちの言葉を外に出さないのです。

たとえ、自分が言われないとしても「母がこういう風に言われた」となれば、いずれ自分も母親になれば言われるのだと当事者性をもって聞きます。

同じ状況下で、他人のことでも当事者性をもって受け入れてきたかの差

男性はそうじゃないでしょう。

だから、常にこういう言葉にさらされてきた女性と男性の経験はものすごく違います。

だから、男性は「女性はもっと声をあげないといけない」と、今まであげられてきた声を聴いてこなかった自分を棚にあげることができます。

そして、そのことに恥ずかしさを覚えず、ためらいもありません。

無知ゆえに自信満々な男性たち

彼らは、男として自信を持つように育てられたので、このように明らかに自分が間違っているときでさえ、自信満々なのです。

「女性は声をあげないから、自分は知ることができなかった。女性はもっと声をあげるべき」「女性が言っても世の中は変わらないから、現実的に考えたら、男性が代弁したほうが、スムーズに変化する」「男に発信してもらえば、世の中は動くのに、過程にこだわるなんて、結局は、手柄がほしいだけじゃないの?現実に女性が救われるよりも、自分が成し遂げることのほうが大事なんですね」「本当は世の中に変わってほしくないんじゃないの?自分の被害者ポジションのほうが居心地いいんじゃないですか」「自分をかわいそうぶって、不幸な人なんですね、かわいそう」

こういうのも全部、「うまいくいかないのは、あなた(フェミニスト)のやり方が悪いから」「こっち(男性)は、うまいやり方を知っているのにそれを拒否するのは、意地を張っていて、頭が悪い」みたいなことをいっているわけです。

こういうことがあると、結局「女の人は黙っているのが一番得。周りがいいようにしてくれるのを待つのが一番波風が立たない」というメタメッセージが発せられていることになります。

でも、黙っていると、主体性をはぎ取られていきます。

主体性をはぎ取られ、自信を持てないことを責められる女性

わたしたちは、このようなダブルバインドに引き裂かれているので、発言するときにも、自信を持つことができません。

右往左往しながら、ときにはいうことも反転しながら、手探りで、社会と対峙しているから、自信を持ちようがないのです。社会の一員でありながら、社会を否定するというのは困難な道です。

葛藤のない男性

男性にはこのようなダブルバインドや葛藤がありません。だから、自信を持てます。女性は、少なくともわたしは、発言するとき、上記のかっこがきの内容に似たことは瞬時におもいつきます。こういったら、こういう風に攻撃されるだろう、だからこれは言わないでおいてこういう言い回しにしよう、このことには知識が足りていないから、穴があるかもしれない。だったら、そこには触れないでおこう、という風に。

でも、男性は、知らないことにも、自信満々で、アドバイスすらします。上記のレイさんのように。男性の体を持つ以上、女性の経験をしたことがないはずなのに、女性の経験について、さも詳しいかのように語れるのは無知を恥じないからです。

言い切れることが多ければ、人の留飲を下げるので、読んでもらいやすくもなります。

でも、わたしは自信がありません。自問自答しながら語れば、歯切れは悪くなり、切れ味は劣ります。だから、確かに、やり方が悪くて、発信力が弱いというのも事実なんでしょう。でも、それには背景があるわけです。

やり方が悪くて発信力が弱いという人は、背景を知らないという自覚がない。言い切れる、自信のある人は、いろいろ考えなくて済んできたし、考える能力を育てる機会も少なかった人でしょう。

だから、わたしは、自信のないことに、自信を持ちたいと思います。

わたしたち女性が、この社会で生きることには、さまざまな絶望があります。

その絶望には、まだ名前がついていません。

優しい顔をして、絶望はやってきて、わたしたちの自主性を殺していきます。

(追記:この記事は、えすぺろさんのツイートの内容も参考にしています)

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