智恵子抄の智恵子にならない

読まれないブログに何の価値があろうか。

今までは書きたいことがあって、恐れず書いていた。

今は恐れることがたくさんある。面倒なことは嫌だ、メンタルの安定が大切だから、心が荒立つことは避けているうちに、だんだん、あれを書くのはやめておこう、これもやめておこう、失敗したらいやだ、誰かを傷つけるのは嫌だ、黙っているのが一番いい、そういう気持ちになった。

ネットをやっていて、どんどん人間関係ができて、そこの中で気を使っているうちに、埋もれて行ってしまう考えや気持ちがあった。生き埋めにして見殺しにした。

以前は、アクセスが集まって、面白いように読まれていて、書くのも楽しくて、反響があればうれしかった。全然有名なんかじゃなかったけど。それでよかった。誰かに読まれることがうれしかった。とても。

自分の中のブログの位置づけがどんどんぶれてしまって最初は身近なことを日記みたいに書いていたのだけど、自分で、「正しく公正でありたい」と思うようになって、人に影響を与えたいという欲も出てしまった。それはわたしには合わなかった。合わないのに、していた。意義があると信じていた。

 

朝起きてご飯を作って洗濯機を回して子供の世話をしているうちに気が付いたら一日が終わっている。

司法書士の勉強をしようと思っていたのに一日しかやっていない。

そういうのも、自分のことを嫌いだなと思う。やると言っていたのにやらない。

今日は、家の片づけと模様替えと衣替えをして、水回りの掃除をして、棚を一つ開けて、伴侶に渡してデスク周りを片付けやすくした。

今、洗濯を取り込んで布団をしいて子供を寝かしつけて、必要なものをネットで注文して、いらないものを捨てて、頭が痛かったら薬飲んで、皿を洗って、ごみをまとめたりしていると、頭がどんどん生活のことでいっぱいになって、広い視点で物事を見ることが難しい。

 

時間がないわけじゃないんだけど、疲れてしまって、勉強をする気力がわかなかったり、文章を書けなかったりする。

智恵子抄のことを思い出すのだけど、彼女は才能があってやりたいことがあったのに、家庭のことをしているうちに、自分の人生を、自分を生きることができなくなって狂ったとみなされ、そして、それを伴侶に詩集にされ、その詩集で伴侶の名はあがり、智恵子はかわいそうな人になった。わたしは智恵子抄を読んだ時に無性に腹が立って、腹が立って、そして高村光太郎の胸の悪くなるような自己憐憫と愛情が恐ろしかった。

 

わたしは智恵子抄の智恵子みたいではない。でも、オノヨーコにもなれないし、与謝野晶子にもなれない。かっこいい人間になれない。なりたいのに。素晴らしくもない。凡庸で、欠けている。劣っている。頭が悪く、できないことが多い。わたしは自分をそう思う。

 

有名になると、叩かれる。自己承認欲求の塊と言われるのがわたしは嫌いだった。自己承認欲求って何だろうと思った。そうしているうちに、意見の違う人がどんどん押し寄せてくるから叩かれるわけじゃなくてもとても疲れる。自己承認欲求を満たすのは悪いことじゃないのに、悪いことのように嘲笑されると、恥ずかしくなって、自分の大切なものなのに、ひっこめてしまった。大切なものじゃないみたいに。そして、大切なものを隠して、ないものみたいに振る舞おうとした。

だから、ブログとも距離を置こうと思っていた。ネットとも。

でも、やっぱり、「生きる」ってことには、「生活」も大事なんだけどなりたい自分でいる、ってことも含まれる。

言いたいことがある、そういう女はすごく嫌われる。

にこにこして柔らかくてふわふわしていて、いい匂いがしていて、大きな声を出さないで高い声でいて、物音を立てないで振る舞って、目立たない色合いの上質な服を着て、生活のことをてきぱきして、意見を言わないけれど、人を支えるような女は叩かれない。叩かれるととても痛くてつらいので、わたしは叩かれたくないと思った。

でも、柔らかくていい匂いがして人の意見を常に肯定してにこにこしていると、ひどい目に遭わされることには変わりがない。そういう女はよく盗まれる。

そういう女を支配することで支配欲や自己承認欲求を満たそうとする人間はたくさんいて、慰められるために、女の時間と感情と労力を盗みに来る。黙って盗んで、とがめられると怒鳴り散らす。盗んでいるつもりじゃないのに非難されたと言って。

それが嫌だから叩かれる女でいた。でも、叩かれると痛いからわたしは黙ることを学んだ。それがこの二年間の話。

 

わたしみたいなのが親でかわいそうだ、と言っている人はきっといるんじゃないか、そう思うと、子供のことを書くのも怖かった。

わたしには怖いものがたくさんある。わたしは、誰かに代弁されたくない。詩集の題材にもなりたくない。わたしは、自分の言葉で語りたい。それが、実際大したことじゃないのはわかっている。取るに足りないことだとわかっている。わたしの考えられる範囲なんて知れている。知識も知力も足りていない。

でも、その取るに足りなさ、軽さが恐ろしいのに、わたしは書きたい。取るに足りなくて、軽い、笑われるような、つまらないことなのに、大事なことを。

c71の著書

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