悪い表現に悪いということ

たとえば、小川榮太郎の書いたような文章を読んだ時(それは余命三年だろうがなんだろうが好きなものを当てはめてください)、人は傷つけられる。

文章は人を傷つける。

傷つけられた人の反応はさまざまだ。我慢する人、黙る人、傷つく自分が悪いと思う人、そして、「これは悪いものだ」という人。

「これは悪い」という人の意義は高い。我慢し、黙り、傷ついて孤立した人を助けることができる。傷ついた人を孤立させない、また、傷ついたという感情を肯定するメッセージを発している。

「批判」というものをネガティブに思う人がいるらしいが、批判は、無言で孤立している人をエンパワーメントする役割もある。また、世の中にこういうものは許さない人間がいる、ということを伝えることもできる。

ポルノグラフィティの話になると、ポルノグラフィティに関する表現の自由を守りたい人たちは、傷ついた人々にも「批判する自由」があることを忘れてしまう。それも表現の自由であるのに。

弾圧だ、という。

しかし、ヘイトスピーチが、表現の自由の範疇にないことを、市井の人々が勝ち取ったように、「ヘイト画像」(今作った造語)にも表現の自由の範疇にないことを、これから我々は勝ち取れるはずだと思う。

良い言説があり、悪い言説がある。批判は、それが好きかどうかは全く別に起きるものだ。

「表現の自由」をたてに「ヘイト画像」と呼べるようなポルノグラフィティに一切の批判を許さない人々は、「批判をする人はそれを嫌いだから批判する」のだと思っている。

しかし、批判は。半ば自動的に導かれるものだとわたしは感じていて、例えば、それが好きであっても、批判をしなくてはならない時、わたしは批判をする。それが論理的に導かれるものであるときもあり、直感的に導かれるものであるときもある。

良い言説、悪い言説があるように、良い画像、悪い画像がある。

良いエロティックなもの、悪いエロティックなものもあるだろう。

言論について、それが「悪いもの」があることは、社会的に共通に認識されているが、「イラスト」「グラビア」「広告」に関しては、「悪いものと良いものがある」と示しただけで、「弾圧だ」「表現の自由の侵害だ」「価値判断をすること自体がいけない」とすら言われてしまう。

しかし、意図して表現されているものすべて、それには、メッセージ性がある。

わたしたち人間は、言葉でなくても、それらのメッセージを読み取ることができる。

絵画、イラスト、写真、それらはすべて、誰かが意図して表現方法を練り、伝えたいこと(無意識か、自覚的であるかどうかは別として、作者の価値観を反映するのが表現である)があるために存在しているのだ。その伝えたいことが、なんなのかは作者にもわからないとしても、それを「見る」人がいれば、そこには、メッセージが生まれる。

わたしは、消滅するべき言説があると思う。ヘイトスピーチのようなもの。

それと同じように、消滅させるべき、「エロ表現」「ポルノグラフィティ」があると思う。それらは、「ヘイト画像」と呼んでいい。

社会構造が作り出す弱者をいたぶり、居心地が悪くなるようなメッセージを発しているもの。それらは、ヘイト画像と呼びたい。

「女をいたぶるとエロティックであり、興奮する。女は、何をされても決して痛がらず、最終的には喜ぶ」「女が身に着けている【下着】はエロティックなものだ」「制服はエロい」「女の胸と尻を観たらだれでも興奮する」というようなメッセージを発しているもの。そういうものは、ヘイトスピーチが許されないのと同じように、許されないという価値観を育てていくべきだ。

時代はよくなって、ヘイトスピーチを規制することに、社会的な合意ができてきた。ヘイトスピーチをヘイトスピーチと呼ぶことで、それを「言論に対する弾圧であり表現の自由の侵害だ」という人は、呆れられる。

それに引き換え、ポルノグラフィティ、中でも「被害者」がいないとされる「イラスト」に関して、「批判」するだけで、「表現の自由の侵害」と言われる現状は、イラストに関しても、社会の理解が浅いと思う。

イラストの持つメッセージ性が軽んじられているから、批判から逃れているのではないか。あるイラストを批判すること自体は、なんら、どの自由も侵害していない。それは自明なことだ。

人が生活しているとき、場面による文脈がある。

たとえば、朝、起きて、人と会えば「おはよう」という。それは、朝の場面という文脈が人と人の間に共有されているからだ。非言語的な文脈は、存在しているという一例である。

その、非言語的な文脈の中で、ふさわしくない登場の仕方をしているポルノグラフィティがあれば、それは、「登場する場面とイラストとのそぐわなさ」が発しているメッセージについても、批判するべきだ。

例えば、子供向けの売り場に、エロ技法で描かれたイラストの表紙があれば、そのメッセージは「男性は、常に自分が女や子供を性的に扱う権力を持つことを誇示できる」というものだ。これは、言論と同じように批判できるはずだ。

 

 

わたしたちは、文章を読むとき、自然と、その文脈を追って読む。

そのうえ、例えば、小説を読んだ時、その小説が書かれた時代背景についてすら考えることもできる。「夏目漱石が坊ちゃんを書いた時の時代背景」について。

漫画にもそれをできる。「手塚治虫の漫画で出てくる黒人表現は、今では差別的なものだと了解されているが、当時はそうではなかった。しかし、それでも、傑作である」というように。

わたしたちは、文脈を追って読む、という訓練をしてきており、また、生活においても、「生活の文脈」に沿って生活している。

それなのに、「イラスト」「写真」となると、その感覚を失ってしまう。

 

悪いポルノグラフィティは存在する。

そのとき、悪いポルノグラフィティを二つの観点から批判できる。

「場にそぐわない展示をしている」「ヘイト的なメッセージを含有している」

愛好者も、批判者も、ビジュアル的な表現の持つメッセージ性を軽んじてはいけない。

悪いものは悪い、そういう批判が、豊かな表現を育てるだろう。そして、女性や子供が安心して過ごせる、人格権を尊重する社会を作るだろう。

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