女性や子供を消費物とする表現はもう嫌だ

女性や子供を消費物として扱う、というと、よくわからない人も多いかもしれません。

女性や子供の表象を利用して、そこから人格をはぎ取り、見た者が一方的な意味づけをする…ようなものを想定しています。

具体的には、

学生服姿の女性のスカートから伸びる足を切り取って撮ったもの。

女性の胸元だけを切り取って撮った写真やイラスト。

衣服を身に着けているはずなのに、布が股間に張り付くかのような表現をされたイラスト。

マイルドなものの例をあげましたが。

女性や子供が、主に男性の妄想に都合がよく描かれたものすべてが、わたしはもうつくづく嫌です。

もし、家庭の中で、ポルノグラフィティを子供に見せたら虐待です。

しかし、一歩外に出たら、それに類するものがあふれています。

わたしは、子供のころから、それを嫌だと思う気持ちにふたをしてきました。

「それがある理由」を一生懸命考えて、「仕方がないんだ」と飲み込もうとしました。

興味をもって、慣れようとしたこともあります。いったんは慣れたと思ったこともあります。

でも、今思えばそれは過剰適応でした。

今、書店に並ぶライトノベル(ラノベ)の表紙について、喧々囂々です。

ゾーニングをすべきだ、いや、それは隔離になる、隔離されて周縁においやるのか、ゾーニングするとしたらその基準を国にゆだねるのか、表現の自由はなんとしても守らなければならない。

表現の自由を持ち出すのならば、人格権を持ち出したいと思います。

わたしは素朴な「嫌だ」という感覚、感情を重要だと思っています。

例えば、損害賠償請求の際にも、「心の状況」「不快に思ったか否か」というのは、非常に大切な点になります。

人格権とは、基本的人権から導かれる権利です。憲法11条、憲法13条に基づきます。

憲法13条は、

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

としています。

これは、労働法上の感情型セクハラについての条文の根拠となります。

現在、残念ながら、特定人以外への差別的表現に対して、規制する条文はないので、わたしが「ああいう表現は嫌だ」と言ったとしても、法律上はどうすることもできません。

環境的セクハラというのは、労働厚生省によると

「環境型セクシュアルハラスメント」とは、職場において行われる女性労働者の意に反する性的な言動により女性労働者の就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じる等当該女性労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じることであって、その状況は多様であるが、典型的な例として、次のようなものがある。

(1)

 事務所内において事業主が女性労働者の腰、胸等に度々触ったため、当該女性労働者が苦痛に感じてその就業意欲が低下していること。

(2)

 同僚が取引先において女性労働者に係る性的な内容の情報を意図的かつ継続的に流布したため、当該女性労働者が苦痛に感じて仕事が手につかないこと。

(3)

 女性労働者が抗議をしているにもかかわらず、事務所内にヌードポスターを掲示しているため、当該女性労働者が苦痛に感じて業務に専念できないこと。

と定義されています。職場環境の問題と、生活空間や公共空間を並列に並べるのは乱暴かとも思いますが、援用できそうな気もするんですよね。

つまり、ヌードポスターを公に掲示することが、女性労働者の苦痛に感じるため、それをやめさせることができる、という理論を使えないかということです。

男性社会では、「気持ち」「感情」というのは、論拠として、バカにされる要素ですが、まさに、その「苦痛に感じ」ることが、要件になっています。

ヌードポスターを掲示することで、女性にどんなメッセージを送るか、というと、「女とは、記号的な、肉体に還元できる」「お前は女である」「お前はエロい肉である」「俺はこの空間を自分の好きなように支配する」「ゆえに、この空間にいるお前のことも支配できる」ということなんです。

女性や子供が性被害に遭ったとき、まず言われることは「そこにいたのが悪い」「自衛しなかったことが悪い」「気を持たせたのが悪い」ということです。

職場というのは「そこにいるしかなく」「自衛することもできない」場所です。気を持たせたのが悪いに至っては、相手の妄想をコントロールすることができないのですから、なおさら逃げられません(妄想型セクシュアルハラスメントというのもがります)。

ところで、職場でなくても、これは同じです。

すべての人はあらゆる場所に自由に行く権利を持っています。

ある場所に行くのが、仕方なくでも、自発的にであっても、その場所にいたから犯罪に遭っても仕方がない、ということはありません。

どの場所にいたとしても、「安全に過ごせる」というのは、基本的人権です。

しかし、女性や子供にとって、すべての場所が安全な場所ではありません。

書店、公衆トイレ、電車、駅、図書館、美術館、大通りの歩道、信号待ち、エスカレーター前、遊園地、学校、会社、カラオケ、などなど、あらゆる場所が性的被害に遭う可能性のある場所です。これらは、わたしが危険な目や被害に遭った場所です。これらをすべて避けて生活することはできません。もし、それをしろ、という人がいたら、その人は、女性や子供に、「幸福な人生」をあきらめるように勧めているのと同じです。それこそ人権侵害です。具体的には先ほど挙げた13条違反です。13条は、対私人に適用されます。

例えば、書店の全年齢向けの「ラノベ」の表紙が、女性や子供の表象を性的、もしくは「もののように消費物のように」描いたとしたら、それの発するメッセージはこうです。

「女性や子供は、このように扱われて当然の存在だ」ということです。

(ラノベ、というのは、そもそも子供が小説を読みたいと思ったときに、最初に手に取るジャンルの一つだとも思いますが)

公共空間にあるというのは、そういうメッセージ性があるということです。

わたしは、もっと悪いもの、つまり、イラストや漫画の形式で描かれた、女性や子供の体を破壊する表現もあることを知っています。

それらがわたしに投げかけたメッセージは、こうです。

「女性や子供の体を破壊することはとても興奮する、エロチックなことである。そのとき、女性や子供は痛みを感じない」

これは、端的に言って間違っています。

わたしは、ずいぶん、このような文脈やコードに取り込まれました。

ポルノ表現を見続けると、脳や思考に悪影響がある、という記事も読んだことがあります。女性蔑視を当然とする考え方にも結びつき、何が女性蔑視に当たるかを感じ取るためのセンサーも壊れてしまうんでしょう。

「女性蔑視なんてない、なぜなら俺は認識したことがないから」とうそぶくような人間がいます。

表現の自由は、批判する自由でもあります。

だから、わたしは、女性や子供を消費するような表現を嫌だと言います。そして、消え去ってほしいと思います。

それは、かつて子供だったわたしのためであり、今、子供時代を送る、新しい世代に同じ思いをして、傷つき歪まずに育ってほしいからです。

 

 

参考

セクシュアル・ハラスメント 法務省

c71の著書

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女性や子供を消費物とする表現はもう嫌だ」への3件のフィードバック

  1. こんにちは。はじめてコメントさせていただきます。

    c71さんは強く、勇気のある方ですね。
    私はもう悪いものを悪いと抗議する力がなくなってしまったので、c71さんのように現実を見ることができません。
    なので、このブログを読むといつもハッとさせられます。

    普段は「世の中地獄だから、(悪いことがあっても)そういうもんだ」と思ってしまうのですが、このブログを読んでいる時だけは、自分の頭を働かせられたらいいなぁと思っています。

    1. こんにちは
      はじめまして。
      コメントありがとうございます。反響があるとうれしくて、励みになります。
      たぶん、読んでいる人が思っているよりも、コメントや一言が励みになっているんでよね。
      >c71さんは強く、勇気のある方ですね。
      ほめられると照れ臭いですね。勇気なんて大したものじゃないです。
      実際、わたしも見て見ぬふりをすることもあります。自分に余裕がない時。
      でも、嫌なものを嫌だというと元気が出るので、自分のためにしています。
      結果として、人が良いと思ってくれたら万々歳です。
      世の中が地獄なのは同意です。ほんとにうんざりします。
      たぶん、どこかで「善」みたいなものを信じていて、それに近づきたいなと思っているんだと思います。
      よかったらまた読んでくださいね。

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