パンを分け合う

おやつにレーズンロールを食べていたら、子がはいはいしながらやってきて、椅子に両手を載せて立ち上がって、わたしの顔をじっと見た。

だから、わたしはかじっていないほうをちぎって、子の口に入れた。

もう、同じものを分け合って食べることができる。

子育ては思ったよりも大変ではなかった。わたしは悲壮な決意をして子供を産んだ。

出産時も、母子ともに危ないということで、帝王切開になり、退院してからすぐ、産後一週間後に、伴侶の身内の不幸があって、ひとりで子の世話を三日しなくてはならなかった。

そのため、産後の肥立ちも悪く、産後鬱になりかかった。どちらの両親にも一度も子を会わせたこともない。会わせるつもりもない。

地域の人を含めた、たくさんの人の手助けがありつつ、伴侶と二人で家を回して、子の命をつないできた。

出産後には一時の猶予もなく、子供の生存を保たなければならない。

思いやりよりも、子が泣いたら、起きて、おむつを替えてミルクをやる、という手続きがとにかく大切だ。そのプロセスが失われたら、この、小さな、首や関節がぐらぐらした、いい匂いのする生き物が冷たくなってしまうという恐怖があった。

 

それでも、子育ては、自分の親との不毛なやり取りで消耗するよりも、ずっと楽だった。

親の子供として、三十年生きてきた、自由を制限されてもそのことに気付くこともできず、自分をたわめながら、暮らしてきた日々よりもずっと楽だった。

おかしいという違和感を、理解してしまうと、生活ができないから、お室止めているうちに、体が違和感を表現した。わたしは病気になった。

病気になって、自分の親はおかしい、と気づきながらも、わたしは同時に自分の親のいいところを見つけようとして、酔っぱらったように、不安定だった。家を出たのに、呼び寄せられるように、すぐに実家に帰ってしまう。実家にはもう暮らしていないのに、自分が「家」と呼ぶのは、「実家」だった。

わたしは、無様に見苦しくあがいて、そして、今の伴侶と出会って、子供をもうけた。

嫌なことを言ってくる人とは、試行錯誤しながら接点を減らした。誰が大切でだれが大切じゃないか、何が大切で何が大切じゃないか、見極めるのは難しい作業だった。

今朝は、公園に行った。朝露が芝生を濡らしていたので、石畳の上を歩いた。乾いた芝生に子を置いたら、草がチクチクするのを嫌がって、伴侶の膝に座った。

みんなで麦茶を飲んでから、ゲームセンターに行って、DRSとDDRをして遊んだ。子は、それを見たり、おもちゃをかじったり、飲み物に入っていた、氷をもてあそんだりしていた。

帰宅してから、わたしはレーズンロールを食べた。食べ終わってから、洗濯物を干していると、子がやってきて、膝の中に座った。

子は、頭蓋骨さえ柔らかくて、ミルクのような甘い匂いがして、すべすべしている。頭髪はふわふわしている。「だあだあ」なのか「あぶあぶ」なのか、よくわからないことを言っているので、一生懸命聞く。かわいくなって、抱きしめる。子が抱きしめてほしそうな瞬間もやっぱり抱きしめる。

子供時代、自発的に何かすることをどんどん封じられていたのに、それと同時に「お前は、自発的に何もしない」と言われて、責められた。ゲームセンターに行ったことはほとんどなく、最近、心の中で「そんなものは無駄だ」といいう声が聞こえるのを振り切って、遊びに行ったら、とても楽しかった。ダンスゲームをするときにも「いい年をしてみっともない。うまくできないかもしれないのに。失敗したらどうするんだ」と母の声が聞こえるような気がしたが、無視して踊ったら、とても楽しかった。

働くのは大変、子育ては大変、家事は大変、とずっと言われてきた。だから、感謝しなさいと。

でも、家を回すのは、たいへんでも、楽しい部分が多い。絞り出すように感謝をするよりも、縮こまっているよりもずっと楽だ。

パンを分け合う人がいる今日のこの瞬間の美しさを目に焼き付けておきたいのに、どうしてもそれができない。

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