自閉症的生活【考えない練習】感想

考えない練習 著者・小池龍之介

 

【読後具合が悪くなったので勧めません。単に実家が強くてうまくいっただけなきがする】

この本を思ったのは、「自閉スペクトラム症みたいな考え方だな」ということ。

管理できるだけのものをもつ、計画を立てて行動する、決まったパターンの生活をする。人と群れたりつるんだりしないで、一人でいることを苦にせず、じぶんのしたいことをして、思っていないことを言わない。顔色を窺わない。感覚が鋭い。自分の感覚を大切にする。オンとオフをはっきりさせる。使わないモデムの電源は落とす。テレビはノイズになる。

これって、とっても自閉スペクトラム症的。伴侶は、足音を立てずに動く。ほとんど伴侶は実践している。

わたしは、コレクションをしがちなので、自閉スペクトラム症の人が全員これを実践できているということを言いたいんじゃなく、この考え方は、自閉スペクトラム症の持ち味を生かせるなと思った。

賛成できない部分もあって、子供に対する声掛けのところなんて、机上の空論だなと感じた。

でも、何かに気を取られて、上の空でいると、その上の空の分人生がなくなってしまう、というのは、最近実感していること。

過去の怒りに燃えている間は、今現在をきちんと実感しながら生きることができないし、何かを欲しがっている間は、食べているものの味もしない。

わたしは、頭の中のノイズに悩まされているので、どうしたらノイズを減らせるかというのは参考になった。脳が刺激を求めてしまうから、自分から苦痛をむさぼって、そしてそれが解消された状態を「楽」だと思い込んで、繰り返してしまうというところは、自分がそうしているという実感があるのでよくわかる。

何かを欲しいと思うことも、渇望することも、苦しい。こういう自分になりたいと思えば苦しい。それを開放すると楽な気がする。でも、手に入れてうれしいのは一瞬だから、また、ほしいものを探してしまう。

ただ、ちょっとわからなかったのは、怒っているということをどう扱うのかということ。

闘わないと、ずっといじめられる人にとってどう受け取ればいいんだろう?

たしかに、怒りの言葉を発しているうちに、どんどん自分が言葉に引きずられて興奮してしまうことはある。

でも、どうしてもつらい出来事や理不尽な出来事があるとき、怒るのは自然だ。そして、それは言わないと伝わらない。

相手が、それを聞いてどう思うかどうするかは、相手の問題だけど、怒りや、差別などをどう扱えばいいのか。

自分の中だけで解決すると、世の中は変化しない。それって、差別される人にとっては甘んじること、同化することに他ならないから。

折り合いをつけるためには、一度、怒りを感じて、それを今感じているんだなと認識して、それを表現したら、あとは受け取り相手に任せるという態度が必要なのかなと思った。

興奮してしまったり、刺激が強いものは避けたりするというのはいい考えだと思った。ネットは不愉快なものをわざわざ見るのに適したものだ。

そして、わたしは、結構そういうことをしてしまう。とくに、刺激がほしいようなとき。自傷みたいだなと前から思っていた。それは、脳が、刺激を欲しがっているからだ。その刺激は何だって良いのだ。

テレビのお笑いについて「相手を貶める」「自分を貶める」「混乱させる」の三つだと書いてあったのは、その通りだなと思った。お笑いを見ていると、自分の中の「当たり前」が破壊されるようで苦痛だ。

 

 

近頃、おいしいものを食べても、上の空だと、食べた感じがないから、ちゃんと集中して食べることが大事だなと思っていた。

テーマとして「集中してぼんやりすること」を主治医に宿題として出されていた。人は、集中してぼんやりすることが大事なのだ。

スマホを見ると、刺激が強い情報が多いので、自分がここにいないみたいな感じで、苦痛をマヒさせて、時間をスキップすることができる。でも、それだと、体がここにいるのに、心が体のある場所からなくなるから、自分の人生がすり減ってしまう。

だから、時間を短くする、手を動かしたり体を動かして、心と体が同じ場所にいることを心がけようと思った。

c71の著書

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