痛みこそが人の尊厳である

信田さよ子先生の本を読んだ。
「さよなら、お母さん: 墓守娘が決断する時 単行本 – 2011/10/17信田 さよ子 」

地震の後に書かれた本である。
わたし自身は、三十歳になるのをきっかけに、両親と決別した。
わたしは、ずっと母親が嫌だと言語化していた。十年かかってやっと親を捨てる決心がついた。

プロローグに胸を揺さぶられた。
「人の痛みが人の尊厳だ」ということが目に飛び込んできた。
わたしの「痛み」はなんのためにあるのか。
その回答がこれだと思ったのだ。
わたしの痛みはわたしのもの。
それがわたしをわたしだと形作る一部である。

自分の痛みを見ないことにした時、人は差別をするのだと思う。
自分よりも不幸な人がいるから耐えられると思う時、そこには「優越感」がある。ひとよりもましだという考えが、自分を力づける人がいる。自分と誰かを比較して、より不幸な人がいると思ったとき、その人は、誰かを支援するかもしれない。ボランティアをするかもしれない。
「自分の鬱などたいしたことがない」と思って、外に出る人もいるかもしれない。
しかし、それは自分の痛みを見ないことにした結果である。
誰かと自分の痛みとを比較して、それよりも「自分がまし」だという思うことで、自分の痛みを消す。
そうして生まれるパワーには問題がある。誰かを踏みつけにしているからである。

「なぜワイドショーを見るのか」と問われて「自分より不幸な人がいるから」と答えた人がいる。
人の不幸を探して、それを喜ぶ人である。
それからもう一歩すると、「あの人が不幸でも自分とは関係がない。自分よりも不幸な人がいるから自分は幸せである。不幸な人がいてよかった」から、「不幸な人を作ろう」「不幸な人を作るために力を奪おう」になる。そのガス抜きの仕組みが差別である。

セラピーでガス抜きをするのも、今はやっている「自分の機嫌は自分でとる」という流れも、「ポジティブに考えよう」という流れも、「痛みを無視して、現状維持をはかろう」ということだと思っている。
それは、問題を軽視し、なかったことにすることと、紙一重だ。
生きるための知恵だということと、その方法がまずくはないかということとは両立する。
余談だが、よくある、子供に対して
「あなたはそう思うんだね」と受け止めるやり方も、暴力になることをわきまえなくてはならない。
わたしは、母に「嫌だ」と訴えるたびに
「そうなの、あなたはそう思うんだね」と流されてきた。まさに、母に嫌だと訴えているのに、「なかったこと」にされているような、無力感を味わったものだ。

不満があったら伝え、それを解消する。お互いの距離感がおかしかったら調節する。それをわたしは重んじるようになった。
いろいろなことが起きて、変化する中で「現状維持」をしようとすると、歪みが現れると思っているからだ。

わたしの母は「斎藤学」先生の本を持っていた。親子関係の問題について、精神科医の立場から書かれた本だ。わたしはその本を読んで、自分の親がおかしいことに確信を持った。
ところが、母や妹は、その本を読んで、わたしにつきつけ、「ほら、お姉ちゃんはここに書いてある人とそっくりだよ、やっぱりおねえちゃんはおかしい」と言った。
同じ本を読んでも、「自分が暴力を振るっているのか」「それとも振るわれているのかもしれない」と思わず、「自分には関係がないけれど、おかしい人がいるらしい、ああ、自分はおかしくないみたいだ、よかった」と確認するために読む人もいるんだなと今では思うが、当時は、不思議だった。
どうして、「AC」の本を読んでも自分の家族の問題に気付かないでいられるんだろうか?と。

むしろ、彼らは、自分の問題をないことにして、世間というものに同一化するために読んでいたんだと思う。

わたしの母は「良い母親」になろうと思っていたんだと思う。「ベストな母よりベターな母であれ」みたいな本もあったし、トリイ・ヘイデンの本もあった。ドナ・ウィリアムズだってあった。
でも、わたしの母は「わたしにとって」良い母じゃなかった。
母は、今でも、わたしにたいして「悪いこと」をしたと思っていないだろう。
母は、世間に対して「良い母親」であったから。
「誰にとって良いのか」を考えないことを選んだ。
(子育てについて学ぶことと、子供を虐待することは両立できる)

育児には、子供に対してパワーがある。ケアを与える役割を一番に引き受けることで、子供に対して、権力を振るう場面が多くなる。
女性は経済力を巧みに奪われているので、ケアを通して、パワーを獲得する。
(だから、育児には、父親や行政の介入が必要だ)

わたしの母は
「しかたがない」「しょうがない」「そうするしかなかった」と言った。
実際には、いろいろな選択肢があった。でも、その選択肢を最初からなかったことにできるのが、上記の言葉である。
選択肢をなかったことにすれば、「選択した責任」もなかったことにできる。

「しかたがない」「そうするしかなかった」の根拠は、世間にただよう常識である。
大きな挫折を経験したとき、それを、自分から「そうするしかなかった」といえば、責任から逃れられる。
考えなくてよくなる。
それが、世間と同一化するということである。
他人から「そうするしかなかったとおもうよ」ということと、自分から「そうするしかなかった」ということは全く違う。
前者は、責任を実感している人にかけられる言葉で、後者は責任逃れをするための言葉だ。

世間と一度同一化してしまえば、それから逃れることを、彼女ら、彼らは、絶対に避ける。
もしも、「世間」から「個人」に戻れば、あやふやにした「挫折」の時点に戻らなくてはならなくなるからだ。

「離婚したほうがいい」ような状況になった。そのとき「世間では離婚しないほうがいいと言っているから」離婚しなかった。
そして、二十年、三十年くらい来たとする。
そうした人が、今更「個人として」考えると、「あのとき、結婚は失敗した。その後の選択も間違っていた」ということを認めなくてはならない。そうすると、「失敗した二十年、三十年」がその人に現れる。
その人に、それを受け止めるのは無理だ。
それは、その人が二十年前に「自分で選択するのは無理だ」と挫折を目の前にしてあきらめ、ごまかすような人だからだ。

わたしは、世間と同一化した、おばけのような人たちに苦しめられ、犠牲になってきたんだなと思った。
そして、彼らがわたしのような「子供」に謝ることを期待するのはほとんど不可能なんだなと思った。

自分の人生を放棄する人が一人いると、その周りには、差別が生まれ、虐待が生まれ、DVが生まれる。
自分を生きない人が、人を支配して、自分の生を確かめる。

c71の著書

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痛みこそが人の尊厳である」への2件のフィードバック

  1. 「心の痛み」。私が大正・昭和の日本文学史の巨匠の本を読んでいて共感できなくなった理由もそうでした。当時の日本のアッパーミドルクラスの階級に生まれて、妻がいて女中がいて、或いは独身で下宿住まいで実家(父・兄)から仕送りをしてもらいながら、自分の繊細な心を持て余している方々のことを書いた文学ですが、彼らの周囲には、心の痛みを感じながら、それを口に出して言えず、それどころか、生きていくために、「それをなかったことにする」しかない人々がいて、「女って凄いな、こんなことされて平気なのか、化け物だ」とか言われていたのではないのでしょうかね。彼(女)はとことん人としての尊厳を踏みにじられていたのですね。

    1. そうですね。
      わたしもそう思います。
      男の内面は微に入り細に入り書いてあるのに、女の人は物か肉みたいにかかれますよね。

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