法律は平等でもなければ公平でもない

女性専用車両に嫌がらせをする男性たちに関して、いろいろな議論がある。
その中で「女性は不服があれば裁判を起こすべき」「警察は暴力装置だから、法律に沿わないことをさせると権限が拡大してしまう、そちらのほうが危険だ」という意見に関していくつか書いておく。

裁判を起こさないなら、権利に胡坐をかくものだ、不断の努力を怠っているというものまで読んで、わたしは憤激した。
降りろコールをすることだって、戦いだ。それ自体が、「不断の努力」の一つだ。男性の嫌がらせについて、意思表示をすること自体が、権利を行使しているということだ。

法律にのっとって、「男性が嫌がらせのために女性専用車両に乗ること」は肯定し、女性たちがその嫌がらせにブーイングすることは、ダメで、女性は盗撮されようが罵倒されようが、「裁判を起こす」やり方のみで、反撃しろと言っているのも同じだ。
警察に頼ることも、警察の権力を増長させるからダメだが、司法ならば良い、というのは、どういう使い分けなのか。
危険を感じたとき、警察に、パトロールを頼むことは誰でもする。していいことだ。

それを電車でしただけじゃないのか。それをも、否定するなら、武器を持ち歩いて、自力救済するしか道がない。
実際に危害を与えられても、やりかえすことも、言い返すことも、警察を呼ぶこともできないなら、けがをしてから裁判するしかないと言っているのと同義だ。
それでは遅い。

そもそも、女性専用車両は、性暴力を撲滅させたい女性たちの運動に対してのガス抜きだった。
当時私は中学生だったが、ひどく落胆した。
「日本は本当に男尊女卑なんだな。女性の安全を守るために動くよりも、文句を言う人間を隔離する方法をとったわけだ」と思った。
痴漢は性暴力であり、犯罪だ、だから、それをなくせ、という運動があったのだ。その目的は果たされなかった。
女性は、公共機関で、移動する自由を奪われている。
痴漢に遭う、ということは、安全に移動する自由を、つまり人権を侵害されている状態だ。
それを、鉄道会社も、社会も、許容し続けているので、痴漢は、大手を振るって「女性がいるからしかたがない」ものとして存在し続けている。

その一方、性暴力被害に遭うことを避け、また、PTSDと戦いつつも、働いたり、学業をする自由を獲得するために、女性専用車両を必要とする人も確実にいる。
その場所を奪われたら、女性たちに、「安全に移動する」自由はなくなる。
男性は、いくつもある車両の中の一つに乗れないだけだが、女性にとっては、女性専用車両がなければ、「公共交通機関そのものに乗れなくなる」のだ。女性は移動できなくなる。移動できなければ、学業を修めることも、仕事に就くこともできなくなる。

そもそも、女性の六割は、非正規雇用である。それは、政府が、たくみに、女性たちを労働の周縁に、追いやった結果だ。それも、法律にのっとった結果である。それが、社会の構造による差別だ。
電車に乗れないということは、女性たちが経済的に自由であること、生きることそのものが奪われるということだ。

裁判を起こせばいいという人がいる。
しかし、裁判は、貯金があり、仕事を休め、住所を知られてもかまわない人だけが行えるものだ。
女性の多くは非正規雇用なので、裁判を起こせば、仕事を失うか、収入が減るかする。

だから、裁判を起こせない。住所を知られて、あとで報復に出られることも十分考えられる。
(実際、裁判後に住所を知られて脅迫状を受け取ったことがある)

また、民事裁判を起こして、勝ったとしても、相手に貯金がなければ、何の金銭的賠償も受けられない。
ないものはない。強制労働させることはできないから、裁判に勝っても、泣き寝入りする結果は変わらない。
失うもののない人間は、それを悪用して、やりたい放題する。
刑事事件にならない、ぎりぎりの嫌がらせは無数にある。

それについて、「裁判を起こせばいい」という人間は必要なく、むしろ邪魔で有害であり、「差別や嫌がらせ、人権侵害は許さない」と表明する人間だけが必要だ。

刑事訴訟は、そもそも、検察が起こすもので、結果的に相手が有罪になっても、被害者には何一つメリットはない。
(刑事訴訟を起こした時、裁判制度の中では、被害者は当事者じゃない)

そもそも、法律は、健康な日本人男性に有利なようにできている。
社会は、法律にのっとって動いている。
あらゆる行動は、法律の基礎に支えられている。
社会に差別がある、ということは、法律の中に差別があるということだ。
立法の意思決定の場に、女性を含むマイノリティは非常に少ない。
裕福な日本人男性によって、法律が作られ、運用されている。
だから、法律が、日本人男性にのみ有利なのは当たり前だ。
法律は法律自体が平等なのではなくて、「規定が誰でも知ることができる」という意味で平等なだけ。
あとは国を縛ることができて、法律以外で、人に罪をきせることができないだけ。
それでも籠池さんみたいなことが起きる。
入管や籠池さんのことみても、法律が平等なのだといえるのか。

法律が、公平で平等だという考えはナイーブすぎる。
沖縄差別も、アイヌ差別も、部落差別も、わざわざ立法までして、合法的になされている。
沖縄の基地問題をひとつとっても、明らかだ。
女性に不利な法律だっていくらでもある。
冤罪は、弱者を犯人に仕立て上げることで出来上がっている例がほとんどだ。
字が読めない、気が弱い、貧困、支援が得られない人、そういう人を狙う。

差別は、社会構造だ。
法律や司法は社会の基礎だ。法律の中に差別がある。
それら自体が、差別を作り上げる一つの要素だというのに、裁判さえ起こせば、法律にのっとれば、正義がなされるはずだと思うのは、無知だ。

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法律は平等でもなければ公平でもない」への5件のフィードバック

  1. このように解説されるまで、法律は平等で公平だと思い込んでいた。その通り、平等でも公平でもない。
    法律に則る以外の闘いは必要だ。
    気づきを得られた。ありがとう。

shushu1972 へ返信する コメントをキャンセル

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