子育てはさみしいの連続

母乳を卒業してしまった。
あの暖かさや、縋り付いてくる感じや、ぼんやりした顔、満足しながら眠っていつの間にか口を開けたまま眠っているのをもう見られないんだなと思うと、胸がざわざわしてしまう。
この子はこの子が必要なことをすでに知っていて、わたしはそれを手助けするだけなんだな。
あっという間に終わってしまうというのは本当で、毎日かみしめるように過ごさないと、どんどん感情があふれてこぼれてしまって二度と会えない。
せつなくてつらくてさみしくていとおしいから離れがたいけれど、巣立てるように、一人で生きていかれるように、最後には私たちを必要としないようにするのが目標だから、育児はさみしい。
それは孤独だからじゃなくて、わが子がいとおしくていとおしくて仕方がないから、成長の一つ一つがきらきらと輝いている、だから、その輝きをみてしまうと、でも、もうそれができなかったころには戻ってくれないから、昨日のあの子にも、生まれたてのあの子にも、過去のあの子にはもう会えない。
あんなに愛したのの、過去のあの子はもういない。
現在のこの子はいて未来のこの子にも会える、それは知っているけれど、あの子には会えない。
笑顔がどんどんうまくなる、声を出して笑ってくれる、あやせばずっと笑ってくれる、泣くこともあまりなくて、必要なことを教えてくれるからそれをしているだけ。
こんなにかわいいのに、見つめているだけで疲れてしまって、わたしは倒れこんでしまう。ときどきつらくなる。
そういうときには人を呼ぶ。密室育児が毒だと思うから、みっともなくても、助けてもらったり疲れたら疲れたからという。
お客さんにも手伝ってもらう。どんどん招待して、どんどん開いた家庭にしたいと思っている。

わたしにはわからないおもちゃの使い方も、赤ちゃんのほうがすでに知っていた、という言い方をされている方がいて本当にそうだと思った。
わたしたちも、子供たちも、同じように賢く愚かで未熟なのだ。
そして、お互いに愛しい。
対等ではなく、でも、尊重し合える。

どうしよう、とてもさみしい。あの子はいるのに、あの昨日までの子はいないんだな。

c71の著書

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