親に感謝する必要も許す必要もない

子供を出産してわかったのは、親に一切感謝しなくていいということだ。
わたしは、自分の子に、感謝してほしいと思わない。
何もかも当たり前に受け取ってほしいと思っている。

わたしが勝手に産みたくて産んだ。
育てたくて育てている。
喜んでほしい、笑ってほしい、声を聞かせてほしい、手を握ってほしい、そう思うからいろいろなことをする。
泣いてほしくない、鳴き声を聞いているのはしんどいから、あやす。
飲むところがかわいいから母乳やミルクをやる。
小さいままでいてほしいけれど、できることが一つずつ増えていくことがうれしいから、いろいろな刺激を与える。
今は、こぶしをしゃぶれるようになった。がらがらに振り向くようになった。
手をつないで歌を歌いながら動かすと、「きゃしゃー」と声をあげて笑う。
腹ばいにすることができるようになった。頭を持ち上げることができるようになった。全部うれしい。
外に連れ出すと、必死で回りを見る。のけぞってまでしてみる。
だから、散歩に連れ出したい。
毎日、一つでも幸せであり、喜ばしいことを感じられるようにと思う。
大学資金を貯めて、勉強をしてほしいと願うのは、勉強の面白さを味わってほしいから。

全部、わたしがしたいこと。
だから、感謝なんてしなくていい。してもらったらさみしいかもしれない。

わたしは、「親に会わせないなんてかわいそう」と言われた。
でも、彼らはわたしが会いたくなくなるようなことをした。
感謝しないといけないと思わされていた。
いうことを聞かされて、彼らが自慢できるような人間になって、自分の意思を踏みにじられ、身体的特徴を笑われ、そして「わたしたちはいい親だ」と言われてきた。
みじめな思い、つらい思い、裏切り、虐待、そういう目に遭って、彼らはそれを自覚してもおらず、なじっても決して反省せず、認めない、謝ることなんて遠い、そういう人たちに語る言葉はもうないのだ。

死にゆく人たちに関わるよりも、わたしは、自分が愛する存在、これから生きていく存在にエネルギーを向けたい。
親なんて早く死んでくれて結構だ。死んでくれ。もう悩まなくて済むから。

わたしは、父方の祖母にひどくなじられたので、二度と会わず、葬式にもいかなかった。
母方の祖母の葬式には呼ばれなかった。
親戚なんて、都合の良い時には労働力として頼ってくるが、こちらが困っても無視する。
あいつらは早く死んでほしい。
パートナーの親とだって、わたしは無関係だから付き合わない。彼の親であってわたしの親じゃない。知り合いでもない。

わたしが会いたい人、関わりたい人とだけ関わる。それでいい。

c71の著書

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