わたしたちは人工的に「自然」を作り上げている

わたしが赤ちゃんを産み、育てる過程でわかったことは、人間のふるまいのうち、本能に起因するものは非常に少ない、ということです。

生まれたばかりの赤ちゃんは目も見えません。
なにもかもぼやけていて、境界がない。
わたしたちが物を見るときには、その輪郭線を抽出して、あたかもそこに「線」があるように認識してみます。
光を目が受け取って、処理するときに「明るいところと暗いところの差が激しいところ」に物体と物体の切れ目があるように予想できるようになるまでには、光をただ目で受けるための機関があるだけじゃなくて、脳が発達しないとだめなんです。

赤ちゃんは、自分の体をまだ知りません。わたしの子は、二か月たった今、ようやく、自分には手があるようだ、ということに気づいたところです。
生まれたばかりの赤ちゃんには、いくつか反射があります。手を握ると握り返してくれるとか、口に乳首を入れると吸い付くとか、そういう反射があります。
でも、今でさえ、自分から乳首を離したら、口の中から乳首が消える、という因果関係もわかりません。泣いて怒ります。自分から乳首を「うえっ」と出したくせに、ないと怒ります。自分がのけぞったり、手でつっぱると、乳首が口の中に入りようもない、ということもまだわからないのです。

これはとても興味深いことで、わたしたちが「当たり前」だと思っていることは、かなり分解して考えられた結果だということです。
吸い付いている乳首から口を離したら乳首がなくなる、というのは、「自然」ですが、それを理解するかどうかは「自然」じゃないわけです。乳首から口を離す、そうすると口の中から乳首がなくなる、泣く、これは因果関係を理解するという行為です。
これはもう思考の範囲だから、「人工」的なことであって、本能ではないのです。
「本能」と言われること、「生物学的に自然」と言われることはたいてい嘘です。
生物学的に自然と言っても、生物の種類によってその振る舞いは全く別です。本能として、生まれたときから持っている能力というのは、人間の場合、自発呼吸、眠る、口に何か入ったら吸う、足を曲げる、握り返す、泣く、くらいです。
指をしゃぶるという行為すら、時間をかけて、発見し、練習し、学習して、獲得することなんです。

唯一「自然に」行われることは、人間は、「発育することに前向き」だということくらいです。
成長していくことだけは、自然に進んでいきます。それが早かったり遅かったり、刺激を与えることで、よりスムーズに進むようにすることはありますが(つまり、この時点で人工的な部分が紛れ込んでいます)、発育していきたい、という欲求だけは、もともと備わっているようなのです。
ただ、それも、「学習」によって、進んでいくようです。

社会は頑張って異性愛者を育んでいる 同性愛は先天的か後天的かの議論を超えて
この記事が面白かったのですが、ようは「自然発生的に」「欲望するということ」はなにか、という問いだと思いました。
わたしが見る限り、自然発生的に欲望していることは、「成長する」「発育する」ということだけです。
発育した結果、「何かに欲望を持つ」ことになるわけだから、その何かが選ばれる過程は、わたしの「親」という立場からすると、「自然発生的」欲望じゃないです。
わたしが、例えば「異性愛」が普通だと教えたとしても、それに対する反応が、「それをそのまま受け入れる」としても、「自分はどうやら違うようだ」と思うことだとか、「自分も異性愛というやつらしい」と思うかどうかは、わたしは操作できないです。
ただ、「それが普通」ということは言えます。でも、それはすでに恣意的なわけです。つまり、人工的だということ。
そもそも「この人は女だ」「この人は男だ」と判断すること自体が、かなり雑です。
二つの分けるということは、ある特徴のある生物群を抽象化するという過程をどうしたって経ないといけないわけですが、それも「思考」なわけです。まず、五感で感じて、それを人だとか動物だとか生物だとかそういう風に認識して、それからさらに、その特徴を抽出して、今まで得てきた情報のデータベースに照らし合わせて「この人は女/男」だという答えを出すわけです。
でも、それを答え合わせするわけじゃないし、答え合わせしたところで「正解」かどうかもわからないわけです。

異性愛という概念が成り立つ前提には「女と男というものがあるらしい」「自分と同じ性別というものがあるらしい」ということが了承されていないといけないのですが、そもそも「同じ性別」というのが上記の記事でもあるように、すでに怪しいのです。
自分がこの人は女だ、と判断した人が、「女」であると確実に言えない。
外性器が女かもしれない、内性器が女かもしれない、染色体が女かもしれない、自意識が女かもしれない、どの段階で女かどうか判断するか?
わたしたちには、それが難しいから、記号的に「こういうふるまいをするから」「こういう体つきだから」「こういう衣服を着ているから」と文化的に判断します。誰が女か男かを決めること自体が、文化に依存します。日本だと外性器が女か男かで決めることが多いです。外性器が女だったら女らしい振る舞いをして女らしい服装をします。
だから、男性はおおむねスカートを穿かないし、女性は上半身裸で過ごさない。それをすると、「文化的な秩序」が壊れて、当たり前として了解している約束事がぐらぐらして、人は不安になるのでしょう。
毎回毎回、「当たり前」について疑ってかかるのは、大変疲れることです。

自分が女か男かもはっきりしない状況で、自分が好きだと思った相手が女か男かわからない状況だと、「異性愛」という概念が発生しようもありません。だから、「自然に」異性愛になるわけじゃないのかなと思います。

親として、子供を育てていて、本能的に育てられる部分はほとんどありません。
せいぜい、産んだ後母乳をやると、子宮が収縮しやすい、赤ちゃんを抱くと胸がきゅーんとする(たぶんホルモンが出る)くらいで、かわいがって育てるとか、抱くとか、乳をやるとか、そういうことは学習してできるようになったことばかりです。

わたしは生まれつき備わっていることって、体の機能的な部分と、「成長したい」という方向性くらいだと思いました。
自分の体は自分のものであり、自分が大切にしていい、自分がコントロールできるという感覚だって、当たり前に最初から備わっているわけじゃなくて、周囲と本人の協力によって、育てていくものです。

わたしは、小学三年生くらいまで、いつか、ちんちんが生えてくるんだと思っていました。
心配なようであり、楽しみなようで、いつかな、と思っていました。
生まれつきちんちんが生えている子と、それ以降の行いによってちんちんが生えてきて女の子から男の子になる人間がいるんだと信じていたんです。
でもわたしにちんちんが生えてくることもなく、わたしは、ヘテロセクシュアル、シスジェンダーの女性に育ちました。

生まれつき「こうだから」じゃあ認めてあげよう、というのはそういうことで、おかしいと思います。
最初から最後まで変わらない人のほうが珍しいと思います。
人は揺らぎながら成長して、疑問に思うことを確かめることで、「自分」というものを確立していきます。
それは赤ちゃんの時から、少なくとも、わたしが今この年になるまでは、そうだったみたいです。

本能的に行われることがそもそもわずかなので、欲望に至っては、ほとんどが、知識や情報によるもので、それに対する反応は様々だけれども、それが個性と呼ばれることじゃないかなと思います。

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