あらゆる場面で差別はいけない

トランス女性を、その身体的特徴がゆえに、また、性的対象がゆえに、彼女は女ではないという議論を見た。
不勉強もあるだろうし、文脈も把握していないが、どちらにしろ、それは最悪な行為だ。

トランス女性が、差別をしたり、悪いことをしたなら、批判するべきだろう。

しかし、戸籍を理由にするなら、それは、性に関して公権力が介入していることに無批判なことを、むしろわたしは批判したい。
身体的な理由だったり、性器をオペしていないという理由だったりするなら、その言説は暴力だ。
それは、本人にもどうしようもないことだし、オペをするかどうかは本人が選ぶことだ。
その結果を、わたしたちはどうこう言えない。
わたしたちは、体に危険や負担や痛みを持つことを強いる権利はもちろんないのだ。
もし、強いるようなことを言えば、それは相手の命を軽んじる暴力だ。

わたしが、女に生まれ女の体を持ち女という自意識を持つのは、運がよかったからで、努力をしたからじゃない。
なのに、トランスにそれを強いるのはおかしい。努力せよとなぜ言えるのか。

トランス女性やトランス男性が、性的規範を取り入れることに前向きだったり、ミソジニックだったりするのはみたことがある。
それはもちろん批判するべきだ。でも、それは彼らがトランスだからじゃない。
差別がいけないことだからだ。

たとえば、未手術のトランス女性が女湯に入ってきたら、わたしはびっくりしてしまうかもしれない。場合によっては恐怖を覚え、パニックになるかもしれない。
でも、それは、そのことで、また考えて解決していかないといけないことだ。みんなで話し合うことが大事だ。

トランスに生まれただけで、温泉に入ってはいけない、というのは変だからだ。
(かといって、ほかの人の気持ちをないがしろにしていいということでもない。同じ理由で、トランスの気持ちをないがしろにしていいというわけでもない)

今は、フェミニストと名乗るのは流行っていないようだ。
偽のフェミニストか、本物のフェミニストか、ああだこうだ言われることがいやだという理由も見た。
正しさを自分ばかり要求されるのが嫌だという理由も見た。

誰が何を名乗ろうと、自由だ。
でも、ミサンドリストを名乗ろうと、フェミニストを名乗ろうと、ツイレディを名乗ろうと、差別をしてもいいという理由にはならない。
どんな人でも差別をしてはいけない。
それが前提だ。

ミソジニストが差別をしても、野放しにされているように、見えるのは確かだ。
でも、彼らは、悪いことをしている。
彼らが悪いことをしているからと言って、ほかの人、ミソジニストに差別されている側の人間が、ほかの属性の人間を差別していい理由にはならない。

わたしは、自閉傾向を理由として、または、それを知らない人に(親に)、人の心がないといわれる。
でも、彼らは、それを言って、わたしを傷つけている。
わたしが、彼らの思うように従わないから、彼らは「人の心がない」という。
人の心はある。場合によっては、思いやることもできる、優しいこともできる。

自閉傾向があると、相手がカサンドラ症候群になるという人もいる。
そういう人もいるのだろうけれど、わたしたちは、つまり、ASDは学ぶことができる。
相手の言うことを聞いて、顔や声や動きを観察して、相手の気持ちを推し量ることはできるようになる。
わたしも、パートナーも、自閉傾向が強い発達障害だが、わたしたちはお互い思いやって生活できている。
笑う、泣く、怒る、全部、ある。相手が悲しんでいたら抱きしめる、話を聞く、温かい飲み物を入れる。
赤ちゃんが何を要求しているのか、観察して、泣く前に対処することもできる。
手をあげたら、おなかがすいているサイン、ぴ、ぴ、と言ったら、おむつ替えのサイン、えーい、といったら、うんちのサイン、などちゃんとわかる。
定型発達(おそらく)の人はそういうことには気づかなかったと言っていたから、定型発達の人だけが、気を遣えたり、空気を読めたり、人の感情が分かるわけではないようだ。

わたしの思うに、察するという能力は、「権力者の意をくみ、その通りに動ける」ことを意味していると思うので、わたしにとっては、それは定型発達の長所ではなく欠点だと思う。

話が反れたが、貧困、片親家庭、低学歴、障害、病気、体の特徴、国籍、人種、全部、差別の対象になる。そして、差別をしてはいけないということには変わりない。その前提を忘れた人は、悪い行動をとってしまう。悪い行動は批判される。

そんなシンプルな話なのに、女性差別と闘う人が、「窮屈だ」というのは滑稽にうつる。
それは、女性差別をしている人も、批判されて「窮屈だ」と思っているだろうし、セクマイ差別をしている人、最近ではとんねるずで笑っていた人たちも、窮屈な世の中だと言っていた。
差別をする側が窮屈になるように、わたしは動きたい。そして、窮屈だった人たちが、息をしやすいようにしたい。

わたしも、この前「頭のおかしい人」という言い方をした。妊婦にけりを入れる男について形容したのだが、反省して、倫理観の欠如した人に言い換えようと思う。そして、これもいつか、批判される日が来るかもしれない。
そうしたら、わたしは、少しずつバージョンアップしたい。

c71の著書

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