フェミニズムという言葉を知らないまま闘っていた

わたしが生まれたのは、80年代だった。
機会均等法が制定され、女性たちが力づき、三十歳での定年が撤廃され、結婚してもしなくても、男と同じように就職ができるようになったころだ。
そして、女たちは、女性の活躍、社会進出を胸に生き始めた。
そんなころ、わたしは生まれた。
日本中が好景気に沸き立ち、いい面も悪い面もあった。公害はひどかった。長時間働くことで、欧米に勝って行ったので、非常に不評を得ていた。お金のめぐりが良いと、人間には余裕が生まれる。だから、文化面では、下種な部分、高貴な部分が入り混じっていた。

祖母の世代は、戦争によって男たちがいなくなったから、それまで男しか働くことができない世界に働きに出て、やればできるという感触を得た。そして、戦争が終わってから、家に引っ込められた(とはいっても、家事以外の仕事も担わされていた。賃金の出る仕事以外全部を女性たちはしていた。農作業含めて)。だから、戦後に、女性運動が盛んになった。

女たちは最初から社会で活躍しており、ずっと働いていたのだが、どんどん見えない存在になっていった。
わたしの母は、勉強をすることと、働くことと、良い妻良い母になることを求められ、引き裂かれた世代だ。

田嶋陽子さんがテレビに出ていた。ひどい悪口を言われていて、あんな女になるなと外で言われた。
母は、わたしに「手に職をつけて一人で生きていけるように」といい、田嶋陽子さんのエッセイの本を買ってきた。

ひどい家庭環境だった。

わたしには、情報が、テレビか、新聞か、図書館の本しかなかった。
小学生の時には、名簿が男から呼ばれることがおかしいと教師に訴えた。片付けをするのが女なのもおかしいと。
高校生になったとき、元男子校だったから、歴代の生徒会長が男性だったのが、初めて、女性の生徒会長が生まれた。
わたしの学年は、男女比が、均等になった。
(今は女性のほうが少し多いのだという)
女の成績が、男子と同じくらいか、少ししか上ではないとだと、男子のために、一つランクの低い高校を受けさせられる時代だった。だから、進学校に入るためには、とびぬけて、成績がよくないと、入試自体を受けられなかった。

ネットはあった。わたしは、将来の投資、これからの世の中にはパソコンが必要だと母が認識していたため、パソコンを買ってもらうことができた。
高価だった。
フロッピーデスクを何枚も入れて、OSをセットアップした。
電話回線を使って、テレホーダイが出るまでは、ひやひやしながら接続した。

ネットではチャットが盛んだったが、わたしは、そもそも「フェミニズム」という言葉をまだ知らなかった。
ウーマンリブ、女性運動、そういう言葉でしか知らなかった。

高校の時の図書館には、女性問題を扱った本があった。
地域の図書館にもあった。そこで、代理母の問題や、戸籍制度、国籍の問題、相続の問題を知った。
民法は古い法律だ。当時、若い学者が、もっと男女平等な法律を提案したのだが、つぶされてしまったそうだ。
だから、わたしが大学生になった当時も、夫婦別姓や、非嫡出子差別、介護をした嫁に相続権がない問題を扱って闘っていたのは、当時の学者だった。
今ある問題は、戦争に負けてからずっと議論されている問題だと知った。
新しい問題じゃなかった。

わたしは紆余曲折を経て、東京の私大に入学した。
わたしの母は、法律に関係した名前である。祖母が、法律を勉強してほしいと願ってつけた名前だそうだ。でも、彼女は、法律を勉強しなかった。それで、わたしは、法学部を選んだ。

当時、大学の情報を得るのには、パンフレットを請求するほかなかった。
どこにフェミニズム研究者がいるか、わからなかった。調べることが難しかった。そもそも、わたしはフェミニズムという言葉をまだそのころ知らなかったから、アクセスのしようがなかった。

入学した大学には、もちろん、女性問題を研究する研究者がいた。
でも、法学部で、学部生を教える先生はいなかった。
だから、わたしは、図書館で、田嶋先生の本を読んだ。上野千鶴子先生が有名だと知ってからは、上野千鶴子先生の著書や論文を読んだ。参考文献や注釈に書いてある本を探して読んだ。
ゼミは家族法を取ったので、家族問題に関する判例をあさっては読んだ。
詳しい人が周りにいなかったから、自分なりに考えて、どういう本があるのか、調べて、芋づる式に探すしかなかった。
ジェンダーという言葉も、クィアという言葉も、性的指向、性的自認という言葉もその時に初めて知った。
ジェンダーロール、役割、家父長制、天皇制が差別構造を維持していること、差別は、構造の問題だということ、権力問題だということ、パラダイムシフト、そういう言葉を一つ一つ調べながら読んだ。調べるといっても、辞書に載っているわけじゃないので、言葉一つ調べるのにも一苦労だった。
女性運動でどんな人がいてどんな議論があったのかも、できるだけ追ったが、きっと空白はある。

勉強すれば、フェミニズムのことはわかる。
今まで議論されていたことに、今の問題と重なることも多く、すでに結論が出ている。
だが、そもそも勉強することが難しい。

本にアクセスできる環境、体力、読み解く力、本を選ぶ力、そういうもろもろのものがないと、難しいのだ。
知りたいといっても、拒絶されることがある。
わたしは、ツイッターが始まったとき、「レズビアンアクティビスト」にコンタクトを取って、フェミニズムに興味がある、と伝えた。ちゃんと礼儀正しく、はじめまして、こういう問題に興味があります、と。でも、嘲笑された。真剣だったのに。
今は、どうして嘲笑されたのかわかる。その人は、知りたいと言いながら攻撃された経験がずっとあったのだろう。
もしくは、知りたいと言ってくる人間が、自分で努力しないで相手のコストを盗み取ることが多すぎたのだろう。

ただ、わたしは、その時ショックを受けた。
わたしは、勇気を出して、初めて、人にコンタクトを取り、話し合いたいと願っていたから。

わたしは、高校生の時からずっとホームページ、ブログと形は変えても、ずっと文章を書き続けている。
それは、世の中を変えたいと思っているからというよりも、孤独だった自分に向けて、自分の考えを整理するために書いていた。そして、孤独な誰かに届けばいいと願ってもいた。一人で勉強していたわたしのような人。
わからないことを知りたいと言ってくる人。

わたしは東京に出て勉強をすることができた。
今の若い人にはわからないかもしれないが、情報も学問も遊びも仕事も、そして人も、東京にしかなかったから、東京に出る意味があった。
わたしは、勉強をすることができない人の無念を背負って勉強していた。
うすうす、勉強ができる期間は東京で学生をしている短い期間だけだと知っていたから、必死だった。

わたしは、クソオスという言葉を使わない。それは、面倒だから。
そんなことで突っ込まれて、説明するよりは、ほかの言葉を使ったほうが楽だ。
そして、わたしにはその技術がある。
でも、その技術がない人もいる。

偏差値が50あっても、論説文になると、言葉を拾い上げて、そのイメージをつなげて、読んだという風に思う人がたくさんいる。
論理的な文章を読めない人が世の中の半分以上いるとわたしは思っている。

勉強をすればわかる、すでに終わっている議論がある。でも、本を読む状況にない人、能力がない人もいっぱいいる。

わたしは、結局凡人で、なにものにもなれなかった。

ただのわたし。でも、ただのわたしが、生きていた、勉強をしたということに意味があったと思う。今もあると思う。
わたしは、知りたかった。
この世のすべてを。

差別的なことをいうフェミニストもいる。
でも、そういう人を排除してはいけない。批判はもちろんするべきだ。
間違った人を排除していったら、昔のわたしは排除されて、勉強をやめていただろう。
そうしたら、間違ったまま、生きていた。

今だって、わたしは、間違っていることをきっとたくさんしている。間違っていることも認識できないでいるから。

だから、本物のフェミニスト、偽物のフェミニスト、と分けることはわたしはしないようにしたい。
それは、ある意味で、過去、未来、現在のわたしを、わたしから排除したくないという保身でもある。

思想のラベルが同じだからと言って、仲間だとも限らない。友達でもない。わたしは思想のラベルで仲良くしない。
人間観関係を優先して、言うべきことを差し控えることもしない。

トランス女性を、おっさんと揶揄したフェミニストがいた。
わたしは、それを差別発言だと思う。批判する。
気に食わないことを言う人がいても、性自認を否定することは許されない。

でも、やっぱり、その人がフェミニストであることも、わたしは否定できない。
いろんな人がいる。仲良くする必要もない。

わたしは、フェミニズムという言葉を知らなかったときから、フェミニストだ。
わたしは、フェミニズムの過去を背負いたい。
女性の無念を背負いたい。そして、次世代には背負わせたくない。だから、フェミニストと自認して、そういう風に言う。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください