加齢の変化の美しさ

若いころ、わたしは、野山の美しさはわかっても、年取った人の美しさに鈍かったような気がする。

老犬を介護して、くさくてよれよれでも、今日も生きてくれたとうれしかった日々、祖父を介護して、ポータブルトイレの臭さを紛らわせるために線香に火をつけた日々、そういうことが、積み重なって、少しずつ、見えてきたものがあると思う。

わたしは、よく昔のことを、自動的に思い出す。思い出そうと思うから思い出すんじゃなくて、ふと、日常に映像が紛れ込む。
それによって、苦しかったりうれしかったりする。
祖母と一緒にまんじゅうを作ったときのことを思い出すとうれしい、原家族のことを思い出すと苦しい。

わたしは、比喩ではなくて、傷だらけだ。年も取ったし、太った。
ちょっと前まで、常に自分を醜いと思う心と戦っていた。
今も、たいていは戦っているのだけど、ふと、いや、でも、傷だらけで、シミだらけで、太っていて、年も取ったけど、美しいのでは?と思うことがある。

以前は太っている人を見ると、太っているなあ、とただ思っていたけれど、人を知ると、この人の笑顔は素晴らしいな、とか、動き方がきれいだな、とか、そういうほうに目が行くようになった。

若くてきれいな子供をたくさん見る職業だからか、若くてきれいな子供は素晴らしい、でも、それをずっと維持するために生きるのはばかばかしい、まるでロリコンだ、という風に思うようになった。
年を取れば、傷もつくし、肌も衰えるし、体も変わる。
でも、それが美しくなくて、醜いのかというとそうじゃないと思う。
化粧も髪も完ぺきにしている美しさもある、でも、完ぺきじゃなくてもほどほどに自分を慈しんでいる美しさもある。

美しいと感じるものの幅が増えて、種類が増えた。
そういう目で、自分を改めてみると、そう、悪くはない、むしろ、よい部分もあるんじゃないか……、と精神的に余裕があるときは思える。
具合が悪い時は思えない。そういうバロメーターみたいに思う。

そろそろ、赤ちゃんに会いたいから、早く出ておいで、と声をかけると、動いて返事をしてくれるかのようだけど、まだまだ、出てきてくれないようだ。
もう少しおなかにいたいという強い意志を感じる。

c71の著書

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