幸せじゃなければ劣っているの?

この前、ある記事に、「属性を代表して喧嘩し続けると幸せになれない」という内容のものがあった。
たしかに、その通りだけれど、なんとなく、言いたいことができたから書こうと思う。

人の代わりに、怒るのは違うと思う。でも、自分が何か不利益を被ったときに、怒ることは大切だ。
それは、自分の自己肯定感をはぐくみ、守る効果がある。
我慢して、周りに合わせて、波風を立てないことを優先しているうちに、なぜ、生きているのか、わからなくなってしまう。

わたしは、「女」という属性、「障碍者」という属性で、嫌な思いをしたら「わたし」として怒る。
差別をしても、とがめられない社会の仕組みがあれば、社会に対しても怒る。

怒るわたしを「幸せじゃない」「認知が歪んでいる」「自分の中の問題に向き合わないなんてかわいそう」「いつか気付いてほしい」というような揶揄、そういうものを投げかけてくる人がいる。

マナーや、ルール、常識、人といさかいを起こさないこと、それを優先する人がいることはわかる。

でも、規範が間違っていたら?

わたしは、慣習よりも、正しさ、自分の居心地の良さを選び、それのために戦う。

戦えること、怒れること、それは、自分の感情を大事にすることだ。自分の感情を粗末にすること、理不尽を見なかったことにする欺瞞は、わたしを幸せにしない。

怒っている間は、生きている感じがする。
もちろん、度が過ぎれば健康を害す。
けれど、我慢していたら、自分が悪いと思ったこと自体が、精神疾患を悪化させる。
自分が悪いと責めることが、自分を病気にしてしまう。
権力勾配があって、自分が、下位にあれば、なおさらだ。
それを内面化という。

内面化するよりも、怒っていたほうが、問題が外側にある、ということを認識できる分、ずっとましだ。

だから、幸せじゃないなんてかわいそう、怒っていたら、幸せになれない、なんて言葉に、耳を傾ける必要なんて、全然ないのだ。

怒りたいときに、怒り、そうじゃない時には、そうじゃない。
自分で選べる自由を確保するための戦いは、決して、幸せを遠ざけるものじゃない。

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