社会的な構造が、精神病を作る

妊娠がつらくて、カンガルーになりたい。好きな時に出し入れができて、ホルモンバランスも長期には狂わないから、すごくいいと思うんだよね。

今日はケア会議が無事に終わり、変わらず継続になることが決定した。ほっとした。
今のヘルパーさんも、事業所も、ケアマネさんも、とても相性がいいから、しばらく引っ越せないなと思うくらい。
わたしが住んでいるところは、福祉や教育に対して手厚い。だから、人口減はあるものの、非常に緩やかで、子供も、三人以上持っている人も多いし、男性も、子供を抱きながら買い物をしている姿をよく見る。
定時である五時に帰っている人が普通で、残業がひどい会社はとても目立つ。だから、子育てはとてもしやすいみたいだ。
わたしは、妊娠してから、産婦人科に払った金額は、数千円程度で、ほとんど補助で済んでいる。
保育園も、非常に安いので、小学校に上がるまでは、あまりお金がかからない。
共稼ぎが多いので、ゼロ歳児から預けることが普通だから、周りにあれこれ言われることもない。

子供というのは、大人にとっての異文化だ。
そういうものを受け入れて、大事にすること。
そうじゃないと、世界は破滅する。

ところで、この前診察で精神科医と話したのだけど、精神病を精神病とするのは、社会的な要因なんじゃないかという仮説を立てている。

例えば、病気になるきっかけは、だいたい、人生で大きなことがあって、それが良いことでも悪いことでも、大きなストレスを抱えるためだと思う。
もしくは、発達障害のように、ほかの人と、抱えている文化が違う場合、コンフリクトが起きる場合。
うまくいっていないことに限らず、何か起きたことが、精神疾患のきっかけになったり、もともと持っている性質の違いが、大きく問題として浮上してきた場合に「病名」が付くと思う。

最近はやりの、発達障碍者が、普通の世の中に適応するためのノウハウを書いたブログがあるけれど、わたしはそれが具合の悪さや健康に問てよくないものだと思っている。
療育もそうで、センターの中ではうまくいっているように見えても、もっと条件が複雑な外に行ったとき、うまくいかなくなることとか。
それって、結局、昔、聴覚障碍者に、発話を強いたことと同じじゃないかという危惧がある。

例えば、嫁姑の問題は、文化の違う他人が同じ場所で生活するとき、その人の持っている価値観や文化が衝突するために起きるのだと思うのだけど、そのときに、「相手が悪い」「相手を変える」となったり、「自分が悪い」「自分が変わるしかない」となったりしたときに、弱い立場のほう、つまり、お嫁さんが病気になる。
違いは違いとして、別にどちらかに優劣があるわけじゃないのに、「どちらかが悪い」となると「悪い」「間違っている」側が、病気になる。
違うんだ、ってだけなら病気にならないし、そのときに、怒ったり、逃げたりしたら病気にならない。
問題を自分の内面に落とした時に、つまり内面化したときに、病気になる。
問題を病気にすることで処理する。そういう力が働くと病気になる。

発達障害もそうで、世の中のほとんどの人が発達障害だったら、わたしたちは「障害」を持っているとは言えなくなる。
多数派や力のある側と、違ったときに「合わせる」という選択肢を選ぶと、病気になる。
そういう仕組みなんじゃないかと思う。

だから、適応しないといけない、向こう側に擬態しなくてはいけない、という行動や思考を持つと、それは、自分に無理を強いることになるから、最初は、その入り口に到達することはできても、自分とは違うものを演じているわけだから、長続きはしない。
病気になってしまう。
適応するためのノウハウというのは、そういう危険を増やすことになる。

生活をしやすくするための工夫は、単に、自分が過ごしやすくするためのものだから、上記のノウハウと違うと思ってる。

普通の人たちに紛れ込むために頑張るよりも、自分を受け入れてくれる場所だとか、自分の向いていることを探すだとか、そういったことに、労力を使ったほうが、長い目で見たときに、ずっと楽になる。
それは、発達障害や、精神疾患のある人に限らず、一見健康な人でも、同じことだと思う。

それに、発達障害であったり、精神疾患であったりする人の、メインストリームではない人の視点というのは、世の中を変える上でとても有用なものだから、最初からいらないものと考えて、捨てるのはもったいないと思う。

それこそ、病気であることの知見だとか、異なった視点って、世の中を豊かにする素晴らしいものだと思ってる。
それが、本人の自己肯定感を上げることにつながると思うし、自己肯定感が上がると、免疫もよくなるから、体も楽になるよねというのがわたしの立場だ。

障害を治そうとすると、マイナスをゼロに近づけるだけで、一生が終わってしまう。
それって、つまらないことだし、たいへんだし、なによりもつらい。治らないんだから。
治ればいいけど。
治らないから。

それよりは、楽に生きられるための工夫を積み重ねるとか、自分なりの居場所を作るだとか、そういったことに注力したほうがいいと思ってる。
そういうことが、結果的に、じわじわ世の中を生きやすくするんじゃないかな。世の中を変えるほうが、いくらか可能性がある。
治らないものを治そうとするのは、むだだ。

体や精神の持つ文化が違うのだから、お互いの理解と、すり合わせは大事だけど、どちらかが一方的に適応することを考えすぎるのはよくない。

それって、死ぬってことと同じように思う。

極端から極端に走るのはよくない。
変われる部分と変われない部分があるのだから、その範囲で、お互い融通し合うのが良いと思う。
完ぺきな人間なんていないんだから。お互い欠点があるんだから。

c71の著書

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