生活の楽しみと反戦

近所でランチしようと思ったら、「メーデーなので休みます」という張り紙があった。

「平和集会を行います」という掲示が近所に張ってあった。

こういうのを見ると、ほっとする。

ネットやテレビに渦巻く「戦争への道」だけじゃないんだなと思ってほっとする。

近所のお茶屋さんで、煎茶やコーヒーを買うようになった。コーヒーはその日に煎ったものをその場で挽いてくれる。甘みがあって、よく香る。フルーツでできているのがよくわかる。

苦かったり、すっぱかったりするのがコーヒーだと思っていたけれど、そうじゃないんだな。

そして、近所の店で買うと、そのお金は、その人に入る。

どこかの誰かに入るわけじゃない。誰かの生活のためにお金が入る。そういうのはほっとする。

 

わたしはまだ働いている。社会参加をしたいからだ。

今働いている塾では、自習がいつでもできる。自習サポートもある。だから、ダブルインカムの家庭にとって、勉強のできる学童のような場所でもある。

愛情であれば、親であっても親じゃなくても、誰からでも受けられればそれでいいと思うわたしは、そういう光景を見るとホッとする。

共謀罪について、子供たちとよく話す。あれは治安維持時報だよ。

どうして勉強するのかについてもよく話す。あなたの考え方を広げるためだよ、自由を獲得するための手段だよと。

政治経済ではかなり突っ込んだ話もする。法律は、国家を縛るものだという話をする。だから、憲法は、国家を縛るもので、わたしたちの自由や安全を保障するものだよと。

わたしは、一人の子供を産む。

そうすると、世界に一人の人間が増える。

情緒不安定になったり、体調は悪くなったり、眠くて仕方なくなったりする。

話し相手が減るから孤独にもなる。

外に出て、運動することも難しい。

でも、わたしにできる反戦があると思いたい。

個人の生活を楽しむことも、政府に対する反抗である。政府は、本来なら、わたしたちの幸福の追求を妨げてはならないのに、今の政権はそうではない。

わたしは、デモに行くことも、ロビイングすることもできない。

ただ、ブログに書くことくらいしかできない。

わたしが知っている子供たちは、戦争を不安がっている。

実際に、割を食うのは彼らなのに、彼らには決定権も抵抗する手段もない。

だまされないでいる、とうそぶく人たちも、結局、騙されていることに気づいていないだけ、ということが大半だ。

わたしが社会運動をしていると公言すると「幸せならそんなことはしない」という風に、マウンティングをしてくる人がいる。

「迷惑だ」ともいわれる。

個人が幸せを追求すること、社会に対して、抗議することは両立する。

自分の努力が足りないから不幸なのだというのならば、社会的不正義を放置しているのが、誰なのかをはっきりわかっているかどうか、自問自答してはどうかと思うが、彼らにはそのような能力がないのか、したくないのか。

 

権力は見えないがある力で、それらが、後ろ盾しているから、差別が存在できる。

差別されている側が、それに対して抗議すると「幸せじゃないなんてかわいそう」「努力が足りない」と言われる。

それは、差別の一形態だ。

差別されている側に、不幸せだと決めつけ、不幸せならば努力が足りないといい、自分の社会的背景に目を背け続けることができる立場が、恵まれているとは思わない。自分さえよければ、という立場は、次世代のことを考えてはいない。

次世代のことを考えなかった、前の世代の人たちのせいで、原発の問題や、年金の問題、いろいろな問題が残っている。もちろん、彼らが残してくれた恩恵もある。

恩恵には感謝しつつ、批判していくこと、あらがっていくことがだいじなのではないか。

生きることは戦いだ。

わたしの精神科の主治医は、七十代後半で、彼が医学部に行った時には、三十台の先輩がいたそうだ。それは、結核や、戦争から帰ってきて、中断されていた、学業を取り戻すために戻ってきた人たちだ。

彼はそれを見ているから、わたしに急がなくていいという。そして、わたしがすることを応援してくれるという。

長野県松本の市長は、もともと信州大学の医学部の教授であった。胃がんになった後、その経験から、チェイノブイリに赴き、五年間、甲状腺手術を教えたそうだ。

彼は、今、放射線の広がりは、円状に広がるのではなく、風向きや、地形によって変わっていくということを言っている。

だから、円状にこの距離までは危険、でも、ここからは安全だという線引きをすることは、おかしいといっている。

そして、福島の子供たちを松本市に招待する、ということも始めている。

被ばくをしても、しばらく、放射線量が低いところにいると、体内から外に幾分か流れていくそうだ。そういうことも大事なのだそうだ。

子供を産むことは大切な社会参加である。

子供のために、よりよい世界を残したいと願うことも、社会参加である。

わたしには、社会に参加したいという根強い欲求がある。

生活を大切にし、幸福を追求すること。瞬発力はなくとも、長い間、考え行動することが、大切だと思う。

わたし一人の力では、なにもできない。そのことが、悔しくも思うが、しかたがない。

わたしにできることをしたい。

c71の著書

スポンサーリンク
広告

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください