ギフテッドであろうとなかろうと生きにくい発達障害

あれから約1年、50円東大生と発達障害の数学少年が再会しました。
この記事のブコメに才能があることについて、嫉妬している発達障碍者の人がいた。
結構しんどい話やなーと思う。

わたし自身は、ギフテッドかどうか知らないけれど、小学三年生のころには、古典を読んでいた。清少納言や、紫式部。ひらがなで書いてあったから読めたのだ。下に注釈があったし。翻訳されたものならシェイクスピアや、海外の昔話、童話やその類似性を分析した本を読んでいた。
株や法律、保険金、そういったものの本も読んでいた。小学生の時には一日に一、二冊、休日には五冊から十冊読んでいた。
だから、国語は得意だった。国語が得意だとほかの科目もできる。特に社会は雑学を知っていればある程度できる。
高校受験の時には、答え方を覚えていないとできないから勉強は必要だった。

でも、わたしは二次障害で体を壊し、学校に行けなくなった。

適応できなかった。

目につく才能だったから、ほめられることも多かったけれど、謗られることも多く、仲間外れや、いじめも受けた。
何足靴を買い替えたかわからない。片方の靴を隠されて見つけられても、もう片方は燃やされていた。一緒に探すふりをした子が犯人だった。その子は、泣いて、もういいから帰る、といったわたしを、見つかるまで探そうよ、と言いながら、わたしの反応を見るために最後まで残っていた。

わたしは社会性がなく、うまくいかないことがあると、教室の中で机を放り投げて暴れたこともあった。筆箱をおもちゃにされて、投げた男の子をナイフをもって追いかけた。教師に、ナイフをもって追いかけたことを怒られた。ランドセルをぼこぼこに踏まれて、家に帰ったら物を大事にしないと怒られた。そういうことに、納得がいかなかった。

中学時代の時は体がしんどくてたまらなかった。勉強だけしていればいいと許してもらえれば楽だった。
満点でも許してもらえない親の元で、勉強をする時間を求められて、いつもドアを開けることを命令され、ランダムに見張られては怒鳴られる家庭で、落ち着いていられる時間もなかった。

学校でも家でも、居場所がなくて、いつも死ぬ場所を探していた。

多少優れた点があっても、社会とうまくいかなかったら、生きていくのはつらいことだ。
社会とうまくいっていても、やっぱりつらいものはつらいだろう。社会とうまくいっているから、かえってつらいこともあるだろう。

わたしの躁うつ病は二次障害なんじゃないかなと思っている。

働き始めてからもいろいろと困難はあった。働くということがあまりよくわからなくて躓くこともあった。
幸い、勉強が得意だということを生かして、塾の仕事につけたからよかったけれど、働きやすい業界かというと、そういうわけでもない。
今は、パートナーに養ってもらったり、生活の面で補ってもらっているから、ずいぶん楽になったとはいえ、彼もわたしと同じ発達障害だ。
彼もやはり、勉強が得意だったものの、成人後は、かなりの地獄を見ている。

わたしたちにあるものが才能と呼べるほどのものかはわからない。多少優れている点はある。そこを隠しても、謙遜だと思われることはなく、むしろ、悪いように取られるので、わたしは優れている点がある、ということにしている。どちらにしても、憎まれる。優れた点や変わった点があると、それをもっているだけで、憎まれる。隠すことはできない。隠しても、それはそれで憎まれる。

他人からどう見られるのかを多少想像することはできても、たとえば、嫉妬の概念のない私には、うらやましいところまでは理解できても、嫉妬ということの全容は理解できない。できないものに対策はできない。わたしにない感情は、わたしには理解できない。
そういうところで、衝突はよくある。

自分を隠せば隠すほど、もっと難しくなる。かといってむき出しのままでも難しい。どちらにしても難しい。正直でいることのほうが、単純だから対処しやすい、というだけで、自分を隠さないでいる。でも、やっぱり、いろいろな人がいるから、絶対の正解とは言えない。

正解を探してしまうのが、わたしの特徴でもあるけれど。

適応しようとして、適応障害になったこともあった。体が動かせなくなった。過呼吸もひどかった。

才能だけを見る。そうすると、きっと羨ましい。才能がない。そう思えば、自分には何にもないと感じる。
わたしは、自分の才能を、「なんの役にも立たない。お金にならない。社会では役に立たない。価値がない。そんなものは才能とは言えない」と言われたことがある。わたしはその人の言うことを聞いてしまい、時間を無駄にした。
才能があると目立つ。目立つとつぶされる。
才能がなくて、何もないと嘆くこともある。自分のできることに何の価値も感じられなくなると、自分にはどんな意味での才能もないのだと、思い、心細くなる。わたしは何もなさないで、何もせず、死ぬのかと思うと、さみしくなる。

何を才能と呼ぶのか、評価する人がいてこそ才能だと認識できるのだと思うけれど、もし、才能があったとしても、生きていくことは難しい。
才能がないとしても、生きていくのは難しい。
才能があるといわれてたけれど、期待ゆえに、ゴムを引っ張り続けると、ちぎれるように、ちぎれてしまったわたしも、やっぱりいる。
何もかももなくして、わたしには、才能どころか能力もない、価値もないと、泣いているわたしもいる。

どちらも楽じゃない。
両方のわたしがいる。

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