暴力に気づかないのは幸せで羨ましいことか

Twitterで、ちらりとみたツイートがあった。

どうして、暴力に気づかないで結婚するのか、気づかないならそれはそれで幸せで羨ましいと書かれていた。

わかる、理解できる、それは暴力だと教えるのはパターナリズムになりかねず、それも暴力になりかねないと。

確かに、支援を真剣にしていると、ぶちあたる壁として、「これが正しいこと」と押し付けた結果、コミュニティを破壊した例にはいとまがない。

しかし、支援とは、そもそもそのような危険性のなかでするもので、だからといって、支援や理解が必要ないということでは全くない。

児童虐待や、老人介護や、そういったことを一つとってもそうじゃないのか?

DVから逃げるときにも、支援は、必要だった。

それが、DVだといってもらうことから始まった。その後逃げるためにたくさんの人の手を借りた。そうして、生き延びた。

それが、上から目線の暴力だったなら、それはそれでいいのだ。わたしはそれでいい。わたしはそれで助かったのだから。

 

わたしは心と体と弱っているとき、つけこまれて、自尊心を破壊されて、逃げられなくなった。

適応するために言うことを鵜呑みにして、受け入れるしかなかった。

そうすることで、生き延びた。

わからないようにしていた。

それが生存のために必要だった。

それは幸せだったか?

羨ましいことか?

鈍さが幸せだというならそうだろう。

鈍くてもそのなかで苦しみがあった。言語化したら死ぬなかで違和感があった。

違和感は言葉にならず、逃げたら殺されると思っていた。だから、逃げられなかった。相手の気に入るように振る舞った。

それはわたしが鈍いからか?

それは暴力だと教えるのは暴力だったか?

わからない人は放っておく、その方が、上から目線の暴力じゃないのか。お前にはそれがふさわしいのだと言われるのに等しい。わたしが鈍かったと、誰にも言わせたくない。

 

 

わたしが愚かだったから、暴力につけこまれたのだとするのなら、理解が甘い。

愚かさはどんなときに生まれるのか。

それは弱っているとき、知識があっても判断力のないとき。それを作り出した相手が、わたしを監禁したのだから、わたしの愚かさは作られたものだ。

 

 

それが幸せだという人がいたなら、わたしに死ねというのと同じだ。

 

殺されかかっても、逃げたら殺されると信じている人に、それを教えることでさえも、暴力であり、パターナリズムであるというならずいぶんときれいな安全な場所にいたのだろう。

人の生の声を聞かず、助ける、支援ということに向き合わず、少し聞いただけのきれいな態度をとってなにもしないのなら、あなたはきれいな場所にいたいだけの汚い人だ。

 

 

命を救うというのは、自分自身の命についてさえ、難しい。

人が人を助けるとき、矛盾があり、混沌がある。

人をコントロールせずに、でも、助ける方法がある。

 

判断力が弱っている状態は、絶対に幸せじゃない。幸せじゃなかった。

羨ましいと言われる筋合いはない。

あなたは幸せなのか。幸せじゃないのか。

 

問いかけられたとき答えられるのか。

 

人を助けるときは自分も汚れる。

でも生きていることが尊いのだ。

 

傷だらけになりながら、生きる方法を学ぶことが無駄ではないと、わたしはずっと言いたい。

 

 

自分を傷つけながら、両立しながら、生きていくこと。

それを教え教えられ学び、いつか地獄は終わるということが、救いになる。

 

 

暴力に気づかないで、鈍くあることが、幸せで羨ましいと言われるのなら、そんなものはけして、許さない。


それ、たまたまだから。運が良くてよかったですね。
話をするのは大事かもしれないが、有害な言説を振りまくのはちっとも大事なことじゃない。
そういう人は勝手に近づいてくる。身構えることもできない。隙を作らないように努力することさえできない。
単純な質問とやらが、どれだけの人を踏みにじるかの想像が足りていない。
想像が完成しないのならば、黙っていろ。もしくは、真摯に学べ。学ぶ気がないのなら、放っておけ。

無知は人を殺す。
現実にだ。

この一言が、どれだけの人を殺していくのか、知りもしないのだろうが、わたしは許さない。

c71の著書

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