苦しみという中身がなくなった後の空っぽを埋める

苦しみがある間は、現実を見なくていいから、ある意味で楽だ。

苦痛から逃れるためになにかに依存していると、それが問題になるから、現実を見なくていい。
でも、依存をやめると、現実が一気に押し寄せてくる。

仕事がない、孤独、家族がいない、そういうことと向き合わなくてはいけなくなる。
人間は弱いから、また新しい依存を探して、そのことで苦しむことによって、いろいろな現実から逃れることができる。
でも、それを繰り返していたら、豊かな人生はやってこない。

やっとの思いで依存をやめたあと、それからの地獄が長い。
自分で考えて、一つ一つクリアしていかないといけない。

わたしは、過食をしやすい。食べ過ぎて死ぬことはないから、比較的安全な依存だ。それでも太るからみじめにはなる。

過去のトラウマを見つめて、そこから離れようとすると、現実に対処しなくてはならなくなるから、安全な依存先を増やさないといけない。

いつまでも、過去に拘泥しているように見える人は、そうした苦しみから逃れたいのだと思う。

それは、生きる上で必要な場合もあるけれど、人生を狭めるので、勇気を出さなくてはいけない。その勇気は、継続が必要な勇気だ。

ずっと、あのことが悲しかった、つらかった、というのはもちろん当然のことなのだ。
でも、それをしていたらわたしの人生は終わってしまう。自分の人生を生きられない。

いなくなった人に対して、恨んでもしかたがない、というのは、別にえらいことでもなんでもなく、ただの生存戦略だ。
わたしは、恨んでも殺したくても、実際の世界では殺せないから、あきらめただけだ。

得になるかならないかで、自分の進路を決められるほど、わたしは強くないつもりだったけれど、自分の人生を生きたいという欲があるから、なんとか、バランスをとっている。

c71の著書

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