人が否定するものを一緒になって否定すると受ける

田嶋さんが怒るのも分かるけど、私は逃げ恥が面白かったです。
というエントリを読んで、これは違うなあと思ったので書きます。

まず、田嶋さんが、「フェミは怖い」というイメージを作った、という風に書いてあるように、わたしは読めたのだけど、それは違っていて、田嶋さんが、フェミだから、「怖い女」扱いされたんだと思っています。因果が逆。スケープごーどにされたんだと思う。

実際には田嶋さんは、地位も、名誉も、経済力も、趣味と楽しい人生を送っているから、人生の成功者と言って違いないと思う。
友達が「そんなんじゃ、田嶋陽子みたいになっちゃうよ」と言われたときに「田嶋先生みたいになれるものならなりたいですよ!」と返したそうだけれどその通りだと思う。

フェミはけなしていいもの、というコモンセンスがかつてあって、その渦中に飛び込んだのだから、田嶋さんが「ぶす」「怖い」「いつも怒っている人」という風にみられるようになったのよな。

でも、わたしが見ていた田嶋さんは、周りが敵だらけでも委縮せず、自分の主張をしていた。なかなかできることじゃない。みんな、そういうとき、にこにこして、なんとかその場を潜り抜けようとするものね。

田嶋さん、というみんなが否定しやすいものを一緒になって否定するのは楽だろう。みんなと同じ意見を持っていれば、人を安心させられる。ほかの人の意見を補強できる。

でも、わたしはそういうことをしたくないのだ。

田嶋さんは怖い門番かな。でも、他人の戦い方を、その人がそのときそれを選んだことを尊重せずに、あれこれいうのは、簡単だけど、わたしは是としない。
田嶋さんが、怒るヒステリックな女、と言われるリスクを覚悟して、表舞台に出たことを、過小評価はできないよ。
彼女が、ヒステリックな女として理解されるのは、彼女が人前で女の権利を語る女だったから。それだけの理由。
ヒステリーって、みんなが知っているように子宮からくる理不尽なキレ、のことだよ。女に特有の。
女が自分の権利を語るのはおんなに特有だから、男たちがそのことで不自由を感じていなかったのに、そんな風に言うから、マジョリティの人たちは「理不尽に切れている女がいる」って思ったんだと思う。

みんなが嫌いなものをみんなでたたけば、連帯感が生まれるよね。そうしたことに、彼女は利用されやすかった。
彼女を怖いと思った人は、怖いと思いたかったんだと思うよ。

そして、怖いからってなんだっつの。

優しく丁寧にわかるように説明しても、わかってもらえないよ。わたしの人生だけでもそう。
どんないい方でもわかる人はわかるし、わかりたがらない人はわかりたがらない。
怖い言い方しか選べない場合もある。
でも、それを、女性という、殴られている性の側が、がんばることなのかな?と思う。
理解を求めるなら、戦略的に、優しくあれ、という人はいるよね。
でも、それでうまくいくのか?
うまくいってないんじゃないかな。わたしの狭い観測範囲だけど。図に乗るだけだよ、相手が。

田嶋さんが押し付けられているイメージが問題であって、それを彼女に背負わせているのは誰なのってはなし。
怖い、ヒステリック、怒る、って誰が彼女に対してイメージを植え付けたの?彼女の話し方を編集した人たちじゃないの。

フェミニズムが楽しくないなら、楽しくしたらいいよ。田嶋さんの名前を挙げる必要もなく、自分でそうして動けばいい。

フェミでヒステリー、というイメージが先に合って、それを背負わされてきた先人がいる。
それに対してリスペクトできないなら、わたしはフェミなんか、どうだっていいよ。それが、これからのフェミだと仮定するならね。

優しくにこにこして、相手にいたくないように理解を迫るべきだ、というのは、男社会が、女に要請していることを踏襲しているだけだ。
それを女たちが改めて、フェミニストに要請しなおすなんて、どんな冗談だろう。

逃げるは恥だが役に立つ、だけど、結局あれは、性別による社会的不均衡を前提にした物語なんだよね。
みくりが就職できなかったのはおそらく、女性だったから。

男だったら多分就職できた。

平匡はさ、転職市場でも強者だよ。
お金がある。それは権力だ。

ほのぼのとした恋愛が描いてあったから、それはもちろん楽しめたけれど、危険ははらんでいる。だってね、外からお金を稼げている人の気分次第で、みくりは、犯されたり、出ていかざるを得ずに、職を失っていたよね。
個人契約だから、何の保証もない。

あの契約結婚はリスク高い。
もし、平匡が、ちょっと間違えたら、「妊娠出産をいくらで請け負ってくれる?」ということもありえただろう。普通の結婚もそうだよね。

セックスについての問題も出てくる。両思いだったから、直面しなかった問題だけどさ。

交渉を迫られるだけでも、いやでしょう、普通。平匡の善意一つで全部決まるというのは怖い物語だよ。

労働者として権利を守れる、守ってもらえる、というところが、雇用主の善意にかかっているのはリスキーだ。外部を排除しているからなおさらだ。

だから、田嶋さんは最終回しか見ていなかったとしても、これらのことは、ううん、それ以上のことは瞬時に考えたはずだから、全部見ないと批判すべきじゃない、というのは当たらないんじゃないかな。
本や映画なら、全編見ることはできると思うけど、ドラマって、見るの、すごく制約があって難しいよ。

田嶋さんが背負わされているものは、大きい。
今、フェミが活性化していなかった理由を彼女に求められることも多い。
でも、それは、新しい世代のフェミニストの課題であって、田嶋さんに帰結を求めることじゃない。
そんなの情けないよ。
矜持を持とう。わたしは世界を変えるつもりだ。

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