妊婦の既成概念を殺す気概でやっていきたい

昨日ヘルパーさんに
「妊娠したならこれはやめたら?」
「子供のために九割は自分のことをあきらめられないなら生むのはやめたほうがいいかもね」
と言われて落ち込んだ。
もう、そんなことを言われるなら妊娠辞めようかなと思った。
今、つわりがひどい。一日少なくとも三回は吐く。突然吐くのもあきらめた。寝込んでいるしかできない時期も、Aちゃんのマッサージや鍼灸院の胸の真中へのお灸で少し和らいだ。
したいことをしないでいても、しても、どうせ気持ち悪いのだから、どうせ安静にしていても戻すから、戻すことを前提にやりたいことをしようと思った。

とにかく、だるくて、胃が痛くて、下腹部痛もあり、腰も痛く、体の関節がばらばらになりそうな痛みや、足のむくみやつりそうになること、においがすべてダメだったり、味覚が変わって何もおいしいとは感じられなくなってしまったり、胸が張って痛いだとか体の変化が目まぐるしすぎて、しんどいとしか言えない。

なにがしんどいかというと、体の不調が二十四時間あるのに、期間が長く、出産が終わるまでつわりが続く場合もあると知っているから、先が見えないことがつらい。
しんどさから休憩できないことがつらい。
それなのに「今しかゆっくりできない。子供を産んだらずっと忙しい」と言われるから、心が折れてしまった。
心が折れてもつわりは容赦なく続く。

人によっては「つわりが一番つらかった。出産は一瞬だ」「子育てはほかの人に頼めるから休めるよ」と言ってくれる人もいる。
わたしは、痛いことやつらいことを我慢したくない。
我慢したい人は我慢すれないい。つわりは我慢するという選択肢がないのだから、せめて、ほかのことだけは楽をしたい。

妊娠に関して、「つらい思いをしないと母性が育たない」というとんちきな迷信がある。それを言ったら父性はどうなるんだ、と思う。
「旦那さんとよく話し合って」とも言われたけれど、パートナーの六帖さんとは、これ以上なく話し合っているし、家事も全部やってもらっている。
子供が生まれても、自分にできることは全部やる、夜泣きも対応する、と言ってくれている。

つわり、二週間すでにつらいのに。

今胎児の大きさは六週間相当らしいので、二週間前からつわりなので、安定期までは、あと六種間ほどある。
このつらさが、少なくとも六週間、長ければ十か月続くと思うと、絶望しそうだ。

よく眠れない。食べても食べなくても気持ち悪い。
心臓が動いているのを見ると応援したくなるほどかわいいと思った。
かわいさを感じない人もいるらしい。そしたらもっとつらいだろう。

かわいさを感じられるのはラッキーなことで、きついことが耐えやすくなる。
とはいっても、耐えやすくなるだけで、きついことがなくなるわけではない。

妊娠は、こんなにつらいのに、国や他人は簡単に女に向かって「女なら妊娠しろ」「女が産まないから少子化だ」「女が産めば少子化は解決する」だの言われる。そういう言葉を殺していきたい。
こんなつらいものを背負わせるなら、いろいろ整備しろよ馬鹿か、と思う。
好きで妊娠しているわけだけど、それえも死にそうだ。毎日死にそうだ。
好きで妊娠したわけじゃないケースもたくさんある。それでも、生むことに決めたら、責任は、全部女にかぶせられる。
少なくとも体の不調は女が負担するしかない。

妊娠していると、反射神経が鈍って、ひどいことを言われても「経験者の言うことだから」と受け入れてしまいやすい。
言い返せない。そのまま受け止めてしまう。
それで余計追い詰められる。

食中毒と二日酔いが同時に来たような苦しみが、エンドレスで来ているうえに暴言を吐かれる。

もちろん、優しい人もたくさんいる。ただ、経産婦だから親切とは限らない。経験が邪魔して、「自分は乗り越えた」という気持ちからか、思いやりをかえって失っている人もいる。

かえって、出産経験のない人のほうが、親切ということもある。
「自分にはわからないけど、きっとつらいんだよね」と言ってもらえると嬉しい。

夫婦関係はいつか、マンネリ化するから子供がいたほうがいいんだよ、という人も、そんなの人によるのだから、放っておけ、と思う。
かすがいにするために生むんじゃない。

わたしは好奇心で生む。人がどんな理由で生みたがっても放っておいてほしい。
母性があろうとなかろうと、産みたいと思えば産めばいい。殺さないように育てられれば上々だ。
妊娠する前にどんなにすばらしいことを考えていても、考えていなくても、命は勝手に来て、勝手に去っていく。
志は無関係だ。

何も思い通りにいかない。資格があれば授かるか、授かるかなんて、言えない。
相応しい人のところに赤ちゃんが来るというたわごとも信じない。妊娠した人が妊娠するんだ。ちんこをまんこに突っ込んだら子供ができる。

どういう理由で身ごもろうが、関係なく、つわりは来る。

わたしは無痛分娩にする。無痛分娩にしても痛みはある。でも、回復が早くなる。使えるものは使う。でも、迷信では痛みを乗り越えなくては、よい母になれないという。

わたしはよい母になるつもりなんてない。
わたしはわたしのまま、出産するつもりだ。何も我慢なんてしない。我慢を避けていても、我慢せざるを得ない場面は勝手にやってくる。つわりもそうだ。

我慢を避けていても、勝手にやってくるんだから、わざわざ選ばなくてもいい。

妊娠しようがしまいが、わたしはわたしだ。妊娠したら突然、穏やかに優しくなんてなるわけがない。
そんなのは外部の都合の良い妄想だから。わたしが会わせる必要があるとも思えない。

子供のため、と唱え続けて、子供のためにやりたいことを抑えていたら、二十年後、子供の後を追いかけるしかない人間になりはしないか。子供のためにすべて放り出してしまうのは怖い。自分が空っぽになってしまう。

お母さんだから、の波に飲み込まれたら死ぬ。

お母さん、という言葉の中に、放り込まれて無個性化したくない。
人は、ときどき「お母さんとはこういうもの」というのっぺらぼうの何かのように、女の人を扱っていく。そういう場面を昔から見てきた。
でも、一人一人違う。

妊娠したとたんに、「お母さん」という何か、偶像的なものになるかというと、それは違う。産んだとしてもかわらないだろう。

子供をかわいく思えればそれは一番いいけれど、かわいく思えないなら、それはそれでやっていくしかないと思っている。
死なないように育てられたら、わたしとしては満足だ。それ以上のことができたらそれにこしたことはないけれど。

妊婦なら、お母さんなら、穏やかだ、というのはその人の勝手に思っている妄想に過ぎないので、わたしはわたしでやっていく。

気に入らないものは「殺す」と思いながらやっていく。

仕事をやめないのは、一人で生きていけるように、保険をつけたいからだ。

一人で生きられるように、できることはやっていきたい。暴力から身を守るためには、自分の経済力が必要だ。

苦手なものや嫌いなものを一切避けていくことで、活路が生まれる。

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