三日間くらい、寝たきりだった。
こういう生活をしているのは「普通」じゃない、と思って落ち込む。
今日は、体操をして、散歩を少しできた。
鬱状態で、落ち込んでいて、自分がダメだとばかり思う。
ただ、短時間だけは働けている。それが希望だ。
病気は治らない。
でも、病名をつけられたら、安心する人が多い。
風邪でも四十肩でも、頭痛でも、病名をつけて「分類」して、「箱」に入れると、それだけで治ってなくても納得する人は多い。人間の体など、わかっていることは二割にも満たないと思うのに、症状があるのに、検査が異常なしだったら、その症状もなかったことにされてしまうことだってよくある。
人間はたくさんいて、一人一人違うから、同じことができるわけじゃない。同じリズムで、同じような時間働ける人ばかりじゃない。
でも、人間世界のピラミッドの頂上にいる人は、自分に合った箱を作って、その箱の中に納まるように、人に強いる。
その箱は、男女役割分担だったり、社会人はサービス残業するものだ、というものだったり、男はおんなよりもえらくなくてはいけない、ということだったり、家族の理想像だったりする。
それは、みんな人を息苦しくする。
でも、その箱に入らないと、人間失格だ、という烙印を押されることが怖くて、みんな箱に入ろうとする。
みんなはその箱に入らないといけないように思って、その箱が実在するかのように従う。
その箱からはみ出たら、自分を責めてはみ出ないようにしないといけないと相互監視する。
たとえば、どこかが痛くて病院に行っても、「病名」をつけられて、何も変化しなくても、みんな静かに家に帰る。
そして、納得する。しかし、痛みは去らない。
本当は一人一人違うから、箱からはみ出す。
箱は、ピラミッドの一番上の誰かが勝手に決めたことだから、はみ出るのは当たり前だ。
はみ出した部分が痛む。
それを直さないといけないと思い込む。
でも、本当は箱なんて、誰かが、わたしを管理するのに便利だからふりまいている幻想だから、箱の中に入る必要なんていない。
箱からはみ出るのが当たり前で、はみ出た部分が個性なのだ。
それが自分にとって受け入れがたいものでも、やはり個性なのだ。
わたしが体が丈夫じゃなくて、思うように働けないことも、わたしにとって不都合だけど、それも個性なのだ。
受け入れて、それに合わせるしかない。体に合わせるのだ。
もし、わたしが「世の中の箱」に自分の体を合わせることを選択したら死んでしまう。
わたしは幸福を追求するために生きているから、そんなことはできない。
わたしは、箱からはみ出る。だから、箱なんていらない。分類されたり、人に合わせるための箱の中に入らない。
それは異端だから、生きにくさはあるけれど、箱に納まる生きにくさや痛みよりもずっとましなのだ。