わからないといえることに価値がある

わからないこと、不思議なことに気が付く観点をもつ人は賢い。

一つ一つ考えているから「わからない」と言える。
近所の鍼灸師さんも「わからないけど」と言いながら鍼を打つ。
だから、親近感を覚えていろいろな話をした。

表面に現れている「困っていること」の根源は何か探りながらそこのつぼを押すと、問題が解決する、というのは鍼灸も教えることも同じだ。

その場所を探すのは一人一人の技量による。
勉強していてもわからないことは多い。

病気だって、人体だってわかっていることは二割にも満たない。
お医者さんは頭痛を直せない。
鎮痛剤を出すだけだ。
調べても「異常はないですね」という。
でも、それは、まだ以上を観測できるような技術がないだけで、本当は何かあるのだ。
でも、それに目をつぶって、「今の医療ではわかる」という前提を省いて「異常がない」という。
現実には「頭痛」や「めまい」の異常はある。解決もしていない。でも「異常がない」とだけお医者さんは言う。
異常を発見できても、解決法がない場合のほうが多い。
それでも、納得する人は多い。

病名をつけても、病気は治らない。
箱に入れるのと同じだ。
でも、それで納得する人は多い。
医療は発達してわからないことはほとんどないと信じている人すらいる。
でも、病名をつける、ということは、ラベルを付けて「箱」に入れるのと同じだ。
「これはめまいですね」と言って「我慢する」ことや「精神安定剤」を出したりする。
治せてはいない。

病名をつけることや、問題に名前を付けることで、「解決」したと信じたがる人は多い。
でも、それはまだ「わかっていない」ことなのだ。

わかったような気持になることを抑えて、その欲望を振り払って「わかっていないこと」に向き合わないと、何も進まない。
試行錯誤しながら、探していくことの前提には「わからないこと」をわかっている必要がある。

エネルギーという概念があるけれど、「エネルギー」が何かはまだわかっていない。
熱量だという人もいる。
でも、位置エネルギーには熱はない。熱に代わる場合もあるだけだ。
だから、熱に変えて計算する。

定理も公理も、「どうしてだろう」「どうしてこうなるんだろう」「どういう意味があるんだろう」「どうやって導き出されたのだろう」「証明はどうやるのだろう」と思うときりがない。

円周角と中心角の関係だって、そうなるのは知っていても、どうしてそうなるのか、わたしにもわからない。

運動エネルギーを計算するときのFの出し方も、Wの出し方も考えてみたらわからなかった。
積分から出すことはわかったし、今は理由がわかるけれど。

覚えればいいという人もいるけど「なぜ」がとにかく大事だ。
疑問を持つことが大事だ。
疑問を持たないと、前に進めない。

塾の講師も、溶き方を教える人が多い。でも、本質を分かっていないから、通り一遍のマニュアルからそれた質問には答えられない人のほうが多い。
質問に対して適切な答えを出せないのに、威張るから、生徒は自分の疑問が間違ったと思って委縮してしまう。

解法をいくら教えても、解けるようになるのは、その問題だけだ。
暗記が必要な場合もあるけれど、たいていには理由があるから、その本質を分かったうえで、教える側は、暗鬼をするかしないか、選別するべきだと思う。

子供の好奇心を甘く見てはいけない。好奇心一つで、勉強を好きになるかどうか決まる。
好きになればするし、嫌いならしない。

わたしは勉強が好きだ。だから、勉強の面白さを知ってほしい。そうすると世界が豊かになる。
豊かになれば、死なないで済む。つらいときに。

わからない、と素直に思う勇気があれば、どんな壁でも乗り越えられると信じている。

わからない、から、わかるになる過程で得たものが一生の武器になる。
そう信じて教えている。

c71の著書

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