世界との約束が奪われたとき

暴力を受けると、世界との信頼関係が失われます。

どこを、何をよりどころにしていいのか、見失って、呆然としているうちに、世界との紐帯が切れて、地面との接点がなくなってしまいます。
何が正しいのかわからなくなって、一から構築し始めます。

美しいこと、いとおしいこと、優しいことが大事ではないと思うようになって、暴力やみじめさの中にこそ、真理があるように感じられてしまいます。
なぜ、暴力を振るわれたのか、振るう人がいるのか、理解したくなって、考え始めます。その分、世界の美しさや暖かさについて、感じる時間が少なくなります。本当は、考えなくても良いことなのに。あらゆることを考えます。自衛が足りなかったのか、自分が間違っていたのか、相手の暴力は、本当は自分のために振るわれたものじゃないのかと。

暴力をふるう相手を愛するようになります。そして、慣れ親しんだ環境として、暴力を選ぶようになります。そして自分の創造力を失うのです。

一から考え始めると、それまで自明のことして、「喜び」「楽しさ」「幸せさ」を選ぶように指向していたのに、それをしなくなります。暴力に触れることで、ほかの世界を知ってしまうのです。ほかの世界といっても、そこには広がりがありません。

選択することが恐ろしくなって、選択しないことで、悪い力に引きずられるようになります。選択しないという不自由さに気づきにくくなるのです。それは動きを遅くします。

植物が、日光を求めるように、わたしたちは、幸せや自分らしさを指向していくのが本当だと思います。それには理由がなくてよいはずです。
しかし、暴力は、そのことに理由を求めます。「どうして幸せになりたいんだ?」と。
その問いは、「どうして生きているの?」「死んだほうがいいんじゃないの?」に続いていきます。

生きるから生きるだったはずなのに、暴力はさまざまな問いを発生させます。暴力がなければ、違う真理や不思議を追及していけたはずの時間を奪っていきます。

暴力は世界との信頼に傷をつけて、切り裂きます。そうして、より良く生きることを妨げていきます。つらいことを選ばせるように、暴力はささやいてきます。そうすると、生きることが不自由になります。自分のしたいことや、楽しいことがわからなくなるように、暴力は仕向けてきます。

暴力は、人の動きを止めて、思考を奪います。暴力を受けると、世界の輪郭が歪んで、わからなくなるような感覚を得ます。今まで、当たり前だと思っていた風景が違って見えます。何もかもが自分の敵だったのだと真っ暗な気持ちで思い知らされます。いつでも、臨戦態勢になって、人と信頼関係を結ぶことが難しくなります。信じたら、裏切られるのが当たり前なのだから、誰も信じないと思えば、日常生活の些末なことも難しくなります。人と接することが怖くなります。

暴力は強い力です。安心できるものがないと、強い力に惹かれてしまいます。暴力は、安心を奪うので、暴力を振るわれた人は、強い力である暴力に懐きます。次第に暴力に親しんでいきます。そこから抜け出すことは大変です。

わたしたちは、暴力に対して、自衛することができません。暴力を管理し、罰することができたら、どんなにかいいかもしれませんが、今の社会では難しいようです。ただ、暴力から、距離をできるだけ置くように心がけることはできるのかもしれません。

世界との約束が奪われたとき、わたしは、選択をできなくなりました。
選択した結果、どうなるのかが全く予想できなくなるからです。
一から世界との信頼関係を構築するところから始めることになりました。何かを選ぶことが恐ろしかったのです。失敗したらどうしようと思いました。本当は失敗しても、どうってことはないのですが、世界との信頼が途切れているとき、失敗は、死よりも恐ろしい何かのように思われました。

美しいもの、優しいもの、いとおしいものに触れていくうちに、少しずつ回復して、長い時間をかけて、ようやく昼間の世界が、どれだけ美しいのか、暖かくて力を持っているのか、感じられるようになりました。

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